* 序夜 *



始まりなど、大抵は切っ掛けに過ぎず、後から『ああ、そうだった』と思うものである。
彫り師の天蓬も、例に漏れず、その類で自分の境遇を鑑みた。
しかし、後悔などは今更で、後には退けない…いや、退く事の出来ない場所へと駆り出されていた。

今、目の前の男の背中に、自分の目が吸い寄せられているのが、天蓬は判った。
目を逸らすという次元を超え、ごくりと喉がなった。


…ああ、腕が鳴る―――と。



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馬鹿な事をしました。
と、天蓬は座敷牢の中で、一人語ちた。

ここは、とある屋敷の奥にある座敷の一つで。
主は、賭場の貸し元の八戒で。
天蓬は客から、負債者という立場に堕ちて監禁されていた。

本当に、馬鹿な事をしました。
と、今度は自分の腕を上に持ち上げ、天蓬はしげしげと見つめてみた。

天蓬の仕事道具。自慢の腕。彫り師としての矜持を満足させる自分の腕。
それを丁半の担保にする等と、今だったら何て暴挙に出たのかと思えるが。
あの時は、頭に血が昇っていたのか。
それとも、担保になる程の腕と持ちかけられて、天狗になっていたのか。
どちらとも言える自分が、あまりにも腹立たしく、天蓬は溜息を付いた。

…長い時間を一人で、牢の中に放っておかれていたので。
自分の身に起きた事を考える時間だけは、天蓬にはいくらでもあった。

金は無い。もうすっからかん、で。
だから、金を借りたのだがそれも綺麗さっぱりと消えた。
負けがこんだ為に。
逆さに振ったって、何も無いのが一目瞭然なのを、捕らえられて。
この牢の中に、押し込まれた。八戒の手下達に、手際良く。

…あれから、どの位の時間が経っているのでしょうか。

それさえも、あやふやになりかけた時。
八戒が、顔を見せた。


「ご機嫌は如何ですか」
「最悪です」
「それは何よりです」
「はあ」

真っ直ぐと姿勢良く、にこやかに八戒は天蓬の前に立った。
天蓬は胡座を掻いた、手を縛られている姿勢から。
見上げる形で、八戒を疲れた表情で見た。

「お話があります」
「話ですか?」
「貴方に取っても、僕に取っても良いお話です」
「何ですか、それは」

期待の一つもしていない、乗り気のない口調で天蓬が返すと。
八戒はそれに構わず、手下へと目配せをした。
途端、重たく乱暴な音が聞こえてくる。

「…一体」
「もう少々、お待ち下さい」
「何なのですか」
「今、ご説明しますから、そう急かさないで下さい」

ごとん――と、大きな音と同時に、天蓬と八戒の視界に。
引き倒された男の身体が、見えた。
容赦なく叩き付けられた板の間の上、小さな呻きも聞こえた。
八戒がその男へと近付いた。
着物の後ろ衿を掴み、布地を引き下ろし、男の背中を顕わにする。
そして、天蓬の方へと振り返り。

「貴方の腕をここに存分に奮って下さい。
 そうすれば、貴方の借金は帳消しにして差し上げます」

そう、嫣然と微笑んだ口元を引き締め、八戒は天蓬に告げた。