その8 丈山と井堰

     

徳川幕府の高官の石川丈山という方が、京都に隠棲の地を探していました。
「松ヶ崎の 狐坂のほとりに 山荘を造るらしい」
ということを知った時、松ヶ崎の村人は、
「こんな高官がここへ来ると 何かと煩わしいことがあるかもしれない。」
と思い、大急ぎで 墓石を運び、狐坂の横に 墓地を作ってしまいました。
丈山は、このために 他に土地を探し、一乗寺の山手に山荘を建てました。
これが 今の詩仙堂です。
その当時、一乗寺と松ヶ崎の間には、水のことで 度々あらそいがありました。
丈山が 住んだことで、一乗寺の村人は、
「一乗寺にも 井堰を作って欲しい」 と 申し出ました。
松ヶ崎のことを 快く思っていない 丈山のお声掛かりで
松ヶ崎の井堰のずっと上流に 一乗寺の井堰を作ることになりました。
この工事をした人の名を取って「太田の井堰」が出来ました。
この二つの井堰の間では、その後も 度々 水争いがありました。

井堰 高野川のに沿った村は、所々に 小さなダムのような井堰
を作って水を溜め、ここから村々へ 水を引いています。
写真の川の真ん中の線が井堰で 橋脚の横には
井堰で貯めた水を引き込むための 水門が見えます。
今でも 松ヶ崎の川は すべて この水門から取り入れています。)




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