卒論のぐあい
あいでんてぃてぃ・くらいしす。
あなたのアイデンティティって何ですか。
1997年年末現在,私は卒論を書いています。「馬鹿学(部)生」は「馬鹿学(部)生」なりに,こつこつと書いております。でもね,ただの卒論(学士論文)でも論文って名前が付く以上,なんでそれを研究するのかっていう理由が無くちゃ駄目,らしいんですよ。でね,恩師が「単なる”レポート”じゃ駄目だ」っておっしゃるんです。
「単なるレポートと,論文との違いは
過去の研究の要約にすぎないか,
なにか自分の新しい考えが盛り込まれているかの差異によります。」
せんせい、かっこいいです。で,我々にどーしろと?
とりあえず私は先行研究のすき間すき間に入り込み,
オリジナリティをでっち上げました。
なんて「ニッチ」な論文(笑)
その作業の意義は何ですか? 「口から出任せ」とはいえ,科学技術日本語は自分で言い出したテーマです。先生の研究分野とは微妙にずれて(<あたりまえ)いますので,最終的に決めるのは自分にかかってきます。何をやっているのか忘れたときは5秒くらいとまって考えればなんとかでてきます。(ただし何をどーすれば良いのかはでてきません)
「5秒?何をやってるかわすれる?」
そう。当初の目的を忘れるんです。
自分が何のためにこんな作業を繰り返しているのか,
単調な作業の繰り返しの中で判らなくなってしまうんです。過去の論文を読み込んでの要約作業,あるいは資料から対象語句の抽出作業。この上もなく,これ以上望むべくもなく,単純な作業の繰り返しです。楽しいかつらいかの判断はさておき,単純なことには間違いありません。
我々には時間がのこされていません。目的を見失った状態でも,とにかく作業は続けねばならず,概要と目的を書き記した紙を配布し発表せねばならないのです。で,論文の目的も根拠も見失った状態で,「自分の新しい考え」。大変困難な問題です。
では,あなたは何故それを書くのですか? 時と場合によっては
「指導教官は論文の意義と主旨を理解しているのに研究中の当人がそれを判ってない。」
というあるまじき事態も現出します。事実,私は「失われた記憶(目的)」を取り戻すために何度も「自分は何をしていたのか」の確認に行きました。指導教官は良い方なことはまちがいありません。
茶目っ気もあって学識も深いです。しかしそれは同時に彼の個性(雰囲気)に我々が呑まれる危険性をも意味しています。つまりですね,彼の独創的な着想や筋道だった考え(そして魅力的な話しぶり)を聞いていると「なんとなく判ったような気分」になれてしまう訳です。が,果たして本当に理解できているかどうかは,翌日になってから一人っきりでその論旨と根拠を思い出せ,かつ他人に説明できるかどうかを確認してみないことには判らないのです。
だから,下手をすると,自分が何を研究しているのか,何故,何のために,どうして研究しているのか分からない,「論文迷子」ができあがります。
脳味噌は足りなくても自我構造は丈夫な小動物。