白龍亭年表補足/八犬士の退隠年

目次 >> 情報整理(時系列) >> 年表補足/八犬士の退隠年(2000年 12月〜/2012年 2月 一部省略)

 八犬士は結局どうなったのか?
 第百八十勝回下編大団円の記述を見る。八犬士らは六十歳を過ぎてから退隠。家督を二世八犬士に譲って富山に籠り、その二十年後に富山を訪れた二世達に教訓を残して忽然と消え去る。その超自然的な去り方を見て、二世たちは「さては大人達は仙術をや得給ひけん」と言う。仙界へと去ったのだ。

 それは何年に起きた出来事か?
 残念ながら八犬伝にその記述はない。だがヒントはいくつかある。

退隠を申し出たのは、里見実尭が四世国主となった時であること。
申し出た犬士が「年既に六十あまりて」と年齢を言っていること。
退隠二十年後に「内亂將に起らまくす」と里見家内乱を予言していること。
二世犬士は内乱以前に実尭に申し出て身の暇を賜り、他郷へ引っ越したこと。
里見家内乱とは、天文二年(1533)に義豊が実尭を討ち、翌年、実尭の子義尭が義豊を討ったことを指す。

 ヒント1の里見実尭の国主就任。
 史実はよく知らないが、八犬伝では前国主・里見義通の死に関して二つの説が書かれている。文亀二年(1502)に享年二十八で死んだとする説と、永正十七年(1520)に享年四十八で死んだとする説だ。(ちなみに義通は文明五年(1473)生まれと第百八回にある。となると後者は正しいが、前者の文亀二年では三十歳(数え年)のはず)
 犬士退隠についての記述の直前に「義成主世を去給ひて、嫡子義通も、亦賢良の君なれば、諸臣皆たのもしく思ひたりしに、不幸短命にて、その世久しからず」とある。これを読む限りでは、義通から実尭への代替わりは文亀二年しかないように思える。

 しかし、ヒント2の犬士年齢の問題がある。
 六十歳過ぎ、という記述だ。ちなみに犬士は皆同じ年齢ではない。

長禄三年(1459)生道節・現八・小文吾・荘助
寛正元年(1460)生信乃・大角
寛正六年(1465)生毛野
文明七年(1475)生親兵衛

 全員が六十歳(数え)以上になるのは、一番若い親兵衛が還暦を迎える天文三年(1534)。この年はすでに実尭は死んでしまっている。つまり「六十あまり云々」というのは犬士全員のことではない。
 ここで、義通から実尭への代替わりが永正十七年という説に従うと、道節等四名が六十二歳、信乃・大角が六十一歳となる。毛野・親兵衛以外は条件クリアである。
 ということで、八犬士がリタイアして二世に家督を譲ったのは、永正十七年(1520)で決まり!

 ……とはいかないのよ、残念ながら。(続きは年表の下から・年表中は旧漢字)


年號年 (西暦)里見君主事項犬士年齢備考
道節信乃毛野親兵衞
明應九年 (1500)義成痣と玉の文字消滅四十二歳四十一歳三十六歳二十六歳 
文龜元年 (1501)里見義成死去     
義通義通
二年 (1502)里見義通死去
(享年二十八・A)
四十四歳四十三歳三十八歳二十八歳里見義豐・七歳(A)
實堯
三年 (1503)      
永正元年 (1504)      
二年 (1505)      
三年 (1506)      
四年 (1507)      
五年 (1508)      
六年 (1509)      
七年 (1510)      
八年 (1511)      
九年 (1512)      
十年 (1513)      
十一年 (1514)      
十二年 (1515)      
十三年 (1516)      
十四年 (1517)      
十五年 (1518) 六十歳    
十六年 (1519)  六十歳   
十七年 (1520)里見義通死去
(享年四十八・B)
六十二歳六十一歳五十六歳四十六歳里見義豐・七歳(B)
實堯
大永元年 (1521)      
二年 (1522)      
三年 (1523)      
四年 (1524)   六十歳  
五年 (1525)實堯、三浦攻略。     
六年 (1526)實堯、鎌倉攻略。     
七年 (1527)      
享禄元年 (1528)      
二年 (1529)      
三年 (1530)      
四年 (1531)      
天文元年 (1532)      
二年 (1533)義豐、實堯を討つ。七十五歳七十四歳六十九歳五十九歳義豐
三十八歳(A)
二十歳(B)
義豐
三年 (1534)義堯、義豐を討つ。   六十歳 
義堯
四年 (1535)      
五年 (1536)     丶大・百歳
六年 (1537)      
七年 (1538) 八十歳    
八年 (1539)  八十歳   
九年 (1540)      


 問題は、ヒント3〜5の里見家内乱の予言の周辺。
 初代犬士がリタイアして富山に籠った後、二世犬士が父親達に会いに行くまでの間「二十歳許を歴ぬる程に」とあり、少なくとも二十年が経過していると書かれている。そこで毛野が里見家に内乱が起きると予言し、それに従って二世犬士は実尭に請うて里見家から去るのだ。
 上の年表を見れば一目瞭然なのだが、義通永正十七年死亡説(年表中のB説)に従うと、実尭の在位は十四年。永正十七年に犬士退隠とすると、二十年後は天文九年、二十年目としても天文八年。実尭が死んでから数年後になってしまう。

 実尭の在位が二十年以上あるためには、義通文亀二年死亡説(年表中のA説)しかなく、そうなると退隠時に六十歳に達している犬士はひとりもいなくなる。二十年云々と語っている誰かが嘘つきか、六十歳という犬士たちが嘘つきか?
 それとも、世の中は十四年しかたってないのに、二世犬士のまわりだけ二十年が経過したのか?
 一瞬「相対論的ウラシマ効果」が頭を過ったが、よく考えてみるとこれは「逆ウラシマ」だ。ありえん。やはり誰かが嘘つきなのだ。

 まぁ、馬琴の言う「二十年」が嘘で、犬士の退隠は永正十七年……という風に考えておくのが無難ではあるかもしれない。

* 余談。このページは、白龍亭における 20世紀最後のコンテンツ。その次、21世紀最初の更新で追加したのは「八犬伝の河川」になる。


□ 関連 → 南總里見八犬傳年表
目次 >> 情報整理(時系列) >> 年表補足/八犬士の退隠年
<< 前頁に戻る