白龍亭地図補足/八犬伝の河川

目次 >> 地図 >> 地図補足/八犬伝の河川(2001年正月〜2012年/2021年 10月 利根川今昔の情報を加えて再構成)

利根川今昔

 関東最大の大河・利根川は、時代によって流路を変えている。
 現在の利根川は、鬼怒川と合流して銚子方面へと流れているが、それは徳川幕府が背替え(流れを変えること・利根川の場合は東遷)した結果。それ以前の利根川は江戸湾(東京湾)に流れており、今の江戸川が利根の本流だった。
 はるか昔に遡ると、利根川の本流は今の中川あたりだったこともあるようだが、八犬伝では、江戸川=利根川という単純な理解でよい。

 荒川も、徳川時代に背替え(入間川と合流させた西遷)が行われている。
 馬琴の時代は背替え後、八犬伝の舞台となる時代は背替え前だ。ただ、背替えは上流域であり、江戸周辺の下流域は、背替えの前後で川の位置が変わるわけではない。とはいえ、八犬伝世界では中川が不在(後述)なので、その位置に大河があった背替え前の地理感覚ではない。また、江戸近辺の荒川下流域(隅田川)の周辺地理は完全に馬琴の時代を大川を前提にしたもの。

* 荒川の西遷は、入間川の水量を増やして舟が行き来できるようにする水運対策。利根川の東遷は、江戸湾に流入する水量を減らす洪水対策と、銚子と江戸を河川で繋ぐ水運対策でもある。
* ちなみに、八犬伝に登場する「暴河(あらかは)」は、荒川の事ではない。詳細後述。

* 上の地図にはないが、明治維新後にも東京周辺の背替えは続く。江戸川放水路(現江戸川本流)、中川放水路(現新中川)、荒川放水路(現荒川本流)の開削である。
* 特に荒川は大河で、人工河川だと知らない人も多いようだ。しかし、今の荒川は、馬琴の時代にはないし、八犬伝の舞台となった時代にもない。八犬伝を読む際には、今の荒川が存在しない世界をイメージする必要がある。荒川周辺に地理感がある人ほど、それは難しいかもしれない。
* 東京都荒川区は、隅田川に面しているが荒川に面してはいない。かつて隅田川が荒川の本流であり、今の荒川が放水路(バイパス)だった事の名残だ。

中川の不在

 江戸周辺の大河といえば、現在の隅田川と江戸川、及び東海道筋の多摩川である。
 もうひとつ、大河とはいえないが小川ほど小さくない川が隅田川と江戸川の間にある。中川だ。これは、古利根川と元荒川の下流。大昔は一番の大河だったこともある重要な流れ。
 ところが八犬伝には中川の存在は、片鱗さえ伺えない。

 八犬伝で中川周辺が舞台になるのは、対関東管領戦。
 犬川荘介と犬田小文吾が活躍する「行徳口の陸戦」と、犬塚信乃と犬飼現八、及び京都帰りの犬江親兵衛が活躍する「国府台の陸戦」の戦場。どちらも戦場のど真ん中に中川が流れている。しかし、長阪川のような小川を挟んだ戦闘すら描かれるのに、中川を渡河するシーンは全くない。八犬伝的には、そこに川はないという前提でなければ、ストーリーが成立しない。
 つまり、八犬伝に中川なし。


登場河川リスト

* 八犬伝に登場する河川のリストは、一種の資料であり、「資料は旧字・旧かな(=馬琴本来の用字)で表示」という白龍亭ルールを適用する。

[ 利根川水系 ]

犬村川
いぬむらかは。
下野国犬村。八犬伝中では利根川との関係は書かれてはいないが、庚申山麓を流れる川であるからには、利根川の支流・渡良瀬川の上流であることは確実。
雛衣が身を投げようとした川。

高崎川
たかさきかは。
利根川本流の上流、上野国高崎付近の名称。
現八が庚申山に向かう途中で越えたとの記述あり。

板東太郎・板東河
ばんどうたらう。
関東平野最大の大河・利根川のこと。八犬伝における板東太郎は現在の江戸川。
芳流閣で戦った信乃と現八が行徳まで流れ下った川。また、後に里見家と関東管領との戦いの舞台となる国府台城の目前を流れる川。

暴河・暴川
あらかは。
といっても現在東京を流れる荒川ではない。今の荒川は人間が掘った(明治に計画し、大正末に通水して、昭和初期に完成)放水路。それ以前の荒川は現在の隅田川。だが、ここでもない。徳川時代以前の元荒川の下流は中川だが、ここでもない。八犬伝中では板東太郎の別名として使っている。つまり現在の江戸川のこと。

箭斫河・矢斫河
やきりかは。
箭斫から国府台あたりの江戸川のこと。「矢切の渡し」が有名。国府台戦の個所に記述があるが、ここでは板東河・暴河・箭斫河と同じ川の名前をあれこれ使っている。知らないで読むと混乱するかも。

入江河
いりえがは。
下総行徳にある。行徳の街は江戸川沿いだが、「入江橋」という橋が登場する。今現在に至るまで、この辺の江戸川に橋はない。ゆえに、江戸川ではなく街中を流れる小川だと思われる。ちなみに小文吾の生家・古那屋はこの入江橋の橋詰にある。
小文吾の妹・沼藺が幼い頃、この川で見つけた光るものを口に入れてしまった。後に生んだ親兵衛の仁玉だったらしい。

長阪川
ながさかがは。
下総国葛飾郡。現在の葛飾柴又付近にあり、猴股河(さるまたがは)から水を引いた用水。猴股河がどこかは不明ながら、位置的に江戸川の枝川であると思われる
現八がただ一騎で山内軍と対峙した長阪橋(ながさかばし)が架かっている。三国志演義第四十一回〜四十二回の長坂橋(ちょうはんきょう)の逸話のパクリ。
(「八犬伝と三国演義」参照)

左右川
まてがは。
下総国結城付近。
悪僧徳用らに追われた丶大と七犬士が親兵衛と出会い八犬士が揃ったのが左右川橋の袂。その際に敵の銃で撃たれた政木大全・石亀屋次団太らが川に落ちて流された。

關宿から許我への枝流
左右川の下流か枝川だが、河川名なし。
向水五十三太らが流された政木大全・石亀屋次団太らを救出した。

[ 大川 ]
* 大川とは馬琴在世当時における隅田川(荒川)のこと。
江戸のど真ん中を流れる大河であり、江戸で書かれ、主として江戸の読者を想定した八犬伝では特に重要な川でもある。だが、八犬伝中に大川という名前は登場しない。場所によって色々な名で登場する。

戸田河
とだがは。
中山道の「戸田の渡し」があったあたり。
庚申塚で処刑寸前の額蔵を救出した信乃・現八・小文吾らが逃走して舟が見つからずに困った場所。結局、神宮河の矠平(姥雪与四郎)の助けで渡河。十条兄弟戦死の場所でもある。

神宮河
かにはがは。
岩槻道(日光御成街道)の渡しから下流のあたりか。
信乃が騙されて網乾左母二郎に名刀村雨を奪われた場所。後に行徳帰りの信乃・現八・小文吾が上陸して矠平から額蔵処刑について聞かされた場所でもある。

千住河
せんじゅがは。
日光道中(奥州道中)最初の宿場「千住」のあたり。江戸時代は橋がかかっていたが、八犬伝では橋はない。戸田河から千住河までが、武蔵国足立郡(川の北側)と豊島郡(川の南川)の境。
許我へ向かう信乃を栗橋まで見送った額蔵が帰りにここを越えた。ちなみに往路は墨田河を渡った。
現八・大角が賊と間違われて穂北の連中に捕らえられたのはこの川の北岸。
後の里見家と関東管領の戦いの際、五十子城を発した山内上杉軍と許我成氏軍がここから上陸。京都帰りの親兵衛が戦場に向かうため、突然現れ愛馬青海波で渡河したのもこの辺。

墨田河
すみたがは。
現在の川名「隅田川(すみだがわ)」と同じだが、八犬伝では川の全線を示す言葉ではない。東流していた川が大きく南に向きを変えてから石浜あたりまでを指すのみ。かつて「白鬚の渡し」があった。ここから海までは、武蔵国(川の西側)と下総国(川の東側)の境。
大塚から許我へ向かった信乃と見送りの額蔵がここで越えた。ちなみに額蔵の復路は千住河を渡った。
対牛楼の仇討ちの後、石浜城を脱した小文吾と毛野がここで千住河から下ってきた船に飛び乗ろうとする。毛野は成功し、小文吾は失敗して別の船に泳ぎ付いた。
甲州帰りの浜路姫と蜑崎照文らの一行がここで渡河して上総道を陸路、安房へ向かった。
穂北の世智介と蟻屋梨八がここの川沿いで扇谷家に捕まった。小さな事件だが、関東大戦の発端になる。

宮戸河
みやとかは。 浅草あたり。江戸時代は吾妻橋がかかっているが、八犬伝にそれらしきものは出てこない。
猫の紀二郎を殺した犬の与四郎をこの川を越えて牛嶋(本所あたりの旧名)に捨てた。しかし大塚まで戻ってきた。凄い犬である。

兩國河
りゃうごくがは。
両国付近。江戸時代は両国橋が架かっているが、八犬伝では架かっていない。
西岸(武蔵国側)は、安房を一時追放された親兵衛が上陸し、またすぐに安房に向かって出航した場所。
東岸(下総国側)は、里見家と関東管領の戦いの時、荘助・小文吾らと戦った、上杉・千葉連合軍がここから上陸、あるいは船橋を渡して渡河。

[ 其他の江戸周辺河川 ]

石神川・石神井の流れ
しゃくしかは・しゃくじゐのながれ。
石神井川だが、八犬伝中では石神川などと記述されている。豊島一族の所領内を東西に流れる小川。この川そのものが舞台になる話はないが、川沿いには重要地点が多い。上流には道節の生まれ育った煉馬城があり、下流には信乃がらみの滝野川弁才天がある。

簸川
ひかは。
本郷台と大塚もある豊島台の間を流れる千川の一部。簸川神社近くで「猫股橋」が架かっている。
猫の紀二郎が犬の与四郎にかみ殺されたのがここの川岸。

六郷の河・河崎浦近くの川
ろくごう。
八犬伝中には具体的な川の名はでてこないが、六郷の地名は登場する。現在の東京都と神奈川県の境である多摩川の河口近く。東海道がこの川を越えるあたりの地名が六郷。この辺は六郷川と呼ぶ。昔は、武蔵国の荏原郡(川の北側)と橘樹郡(川の南側)の境。
扇谷定正と山内顕定が和睦会見をしたのが六郷の川のほとり。後に毛野・道節軍に破れて敗走した定正が河崎で上陸してちょっとだけ上流の矢口で渡河しようとしたが、その手前で毛野配下の小湊堅宗に捕まってしまった。なお、江戸時代、東海道の一本西側の街道に「矢口の渡し」があった。

多摩河
たばがは。
上記と同じ多摩川(たまがわ)。なぜか読みが違う。
* 多摩川の名前が登場した事を記録したものの、どこに登場したかを記録し忘れた。

品革・高畷付近の小川
しながは・たかなはて。
品川(しながわ)・高輪(たかなわ)付近の小川としか記述はない。地理的にいえば目黒川(品川)と考えるのが妥当なのだが、八犬伝の挿絵にある川はもっと細い。地図でも探せないような細い川なのかもしれない。
毛野の鈴茂林の仇討ちに加勢した他犬士が、この川を挟んで河鯉孝嗣と対峙した。


[ 其他の関東甲信越 ]

白籏河
しらはしがは。
安房国長狹郡。このあたりで一番大きな川は鴨川なのだが、この川なのかは分からない。
里見義実主従が金碗八郎と出会った場所。

富山の谷川
伏姫と八房の暮らす洞穴と、下界を隔てる急流。蜑崎輝武が渡河しようとして流された。後にこの川越しに八房を銃殺しようとした金碗大輔は伏姫をも撃ってしまう。

千隈河
ちくまがは。
日本一長い信濃川のこと。現在でも長野県(信濃国)内では千曲川と呼んでいる。ただし八犬伝では越後国小千谷あたりでの話であり、その辺でも昔そう呼んでいたかは不明。
小千谷の石亀屋に滞在していた小文吾が、古志郡の牛の角突を見るために渡河した。

[ 関東甲信越以外 ]

株川
くひぜがは。
美濃国、赤阪と御影寺の間。つまり中山道の赤坂と美江寺の間。今の杭瀬川。
素藤が卒八を追い詰めて斬った場所。卒八は浅瀬を見つけられずに渡河できなかった。

賀茂河・加茂河
かもがは。
京都市中を流れる川。現実には上流が賀茂川であり下流が鴨川らしいが、八犬伝では場所に関係なく加茂河(賀茂河)と書かれている。
管領細河政元は、東山に逃げ込んだ虎から御所などを守るために、この河原に警備の兵を置いた。その他、川を渡す五条橋の上で姥雪与四郎と直塚紀二六が出会うなど、親兵衛の京都物語では色々な人が川の東西を行き来する。

白川・白河
しらかは。
質は八犬伝では「白川山(白河山)」という風に「山」の名前として登場する。現実にはそういう名前の山はなく、要するに白川の後ろの山々、つまり銀閣周辺の東山一帯の総称として使われている。
* 河川名としては登場しないので、ここに載せるのも迷ったが、一応触れておいた。

大堰川
おほゐがは。
京都の西を流れる桂川のある地点での別称(上流から保津川→大堰川→桂川となる)。香西二六郎(後の悪僧徳用)が関白の行列に狼藉を働いたのが、この川にかかる橋の上。


□ 関連 → 八犬傳地圖 Maniac
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