白龍亭・大角、心の闇

目次 >> 考察 >> 八犬伝邪読/大角、心の闇(2000年 夏〜)

[ 八犬伝邪読 - 13 ]

● 雛衣は死なず?
 妻・雛衣を見殺しにした……。
 犬村大角には常にこの事が影として付きまとう。このことが、以前あった白龍亭茶室のアンケートにおける犬士人気も最下位であったし、大角の人気の無さの決定的な理由ではないかとも思う。同時にこれは謎でもある。なぜ大角はそういう行動・態度に出たのか?

 いきなり結論から言えば「大角は雛衣が死ぬとは思っていなかった」可能性が高い。
 偽一角と舩虫から刀を渡されて「腹を裂いて胆をよこせ」と自害を迫られている雛衣を目前にして、雛衣の死を想像できない人はいない。通常ならそうだ。しかし大角は違った。
 雛衣自害は九月九日だが、前日の八日に大角(正確に言えばまだ角太郎。以下角太郎と記す)は次のように発言している。

「雛衣(中略)死んと欲するとも、瑞玉今なほ腹に在らば、水に入るとも溺るべからず、火に入るとも焼かるべからず」 (第六輯第六十一囘)
 つまり、飲み込んだ瑞玉が腹中にあるかぎり「雛衣は不死身」だと断言している。
 水に溺れず、火に焼かれないのなら、当然、刀にも刺されまい。角太郎はそう信じていたからこそ、雛衣自害を前にして平然としていられるのだ。
 しかし、実のところ角太郎の雛衣不死身説に根拠はない。
 八犬伝の読者はこの場面の前に散々霊玉の奇跡を見せられているから「腹中に玉があれば死なない」と言われれば納得してしまう。しかしよくよく読んでみれば、角太郎の身には「玉を浸した水を飲んだら自分の病気が治った」という奇跡しか起きていないのだ。しかも、その水は養父母の病には効かなかった。これだけの事実を背景に、どこをどう考えれば「腹中に玉があれば死なない」という結論が出せるのか。論理的には飛躍しすぎなのだ。
 つまり角太郎の雛衣不死身説は、角太郎にとって「信仰」なのである。
 なればこそ、角太郎は雛衣が死ぬ可能性を論理的に推測することが出来ない。死なないと信じ切っているから。

● 角太郎は崩壊せず…
 そんな角太郎だから、雛衣が予想外に死んでしまったことはショックだったはず。
 信仰の崩壊は人格の崩壊につながりかねない。人格崩壊から自己防衛するために信仰を固持して「死んだように見えるけど雛衣は生きている」などと常人には理解不能なことを言いだす可能性だってあったろう。しかし角太郎はそうはならずに現実を受け止められた。
 なぜか?

 雛衣不死身教の本体は瑞玉奇跡教である。信仰の対象は「奇跡の瑞玉」にこそある。
 予想外に雛衣は死んでしまったが、瑞玉は偽一角を倒してその正体を暴くという新たなる奇跡を起こした。つまり瑞玉奇跡教の信仰は崩壊していない。角太郎の人格も崩壊せずにすむわけである。

 雛衣の死は、ショックには違いないが、大ショックではなかったのだ。
 恋愛結婚ではないとはいえ、角太郎はなぜ妻・雛衣に対してそこまでクールなのか。白龍亭主の見るところ、それは「嫉妬」である。

● 角太郎を苦しめるもの
 八犬士は家庭的には不幸である。
 皆、若くして親を失う。毛野に至っては生まれた時にすでに父は死んでいた。
 だが、死んだ親に対しては「生きていれば愛してくれていた」と信じることができるだけ救いがある。そう信じられるからこそ、父を知らない毛野が父の仇を討てるのだ。肉体的には触れることが出来なくても心の絆は確かにある。
 子供にとって「親の死」以上に救いがないのは「親に愛されない」ことだろう。心の絆の断絶。
 まさに角太郎の環境がそれ。
 次男・牙二郎だけを愛し、長男・角太郎を虐待する父一角。勿論偽一角なんだけど、角太郎はそんなことは知らず実父だと信じている。

 そんな角太郎にとって、最大の嫉妬の対象は親一角の愛を一身に集める牙二郎である。
 だが、嫉妬の対象はそれだけではない。雛衣も対象になるのだ。
 幼くして犬村家に引き取られた角太郎は、そこで犬村儀清夫妻に愛される雛衣を見て育つ。犬村家は親戚とはいえ角太郎にとって所詮他所の家だ。親に見捨てられ他所の家で暮らさねばならぬ自分と両親の愛を目一杯受けて育つ娘。日々その境遇の差を目の当りにしなければならない角太郎。どう考えても心穏やかではいられまい。

 雛衣を失った時、角太郎は妻への嫉妬に苦しむこともまたなくなったのだ。
 仮に同じような境遇差の夫婦がいるとしても、差を目の当りにして育つことはまずありえず、夫婦間で嫉妬する苦しみもありえまい。仮にあったとしても長年夫婦として連れ添えば嫉妬を越えて失いがたい愛着も出てこよう。だが、雛衣と角太郎にはその時間すら与えられていない。

● 闇の奥
 前項で、角太郎は「雛衣は死なない」と信じていたと書いた。
 だが「雛衣は死ぬかもしれない」と多少なりとも思っていたとしたら……雛衣の死によって「実父の愛を取り戻せるのでは」と角太郎は内心期待したかもしれない。ぞっとするような推測だが、愛の飢餓は人をそこまで追い詰め得る。

● 大角が救われる時
 雛衣が死に、角太郎から大角になって、嫉妬する苦しみから解放されたのだろうか?
 犬士の仲間入りしてからの大角の行動を見れば解放されてないと思える。大角は最後まで現八以外の犬士とは二人だけの行動はしない。現八は大角の嫉妬心を刺激しない。なぜなら現八もまた実父糠助に捨てられた身だからだ。
 逆に小文吾のように親の愛に包まれて育った相手は大角の嫉妬心を刺激する。実際、小文吾と大角という組み合せで行動する場面はない。
 そんなわけで大角は現八以外、全員揃って行動するか単独行動しかしない。後の対関東管領戦の時も、犬士のなかで唯一単独行動をしている。

 そんな大角にも救いの時は訪れる。
 里見三之姫・鄙木を妻として家庭を持った時だ。鄙木は雛衣と名は似ているが、母・盧橘を早くに失って孤独のうちに育っている。もちろん父里見義成に愛されたとしても、大角はその境遇を目の当りにしたわけではない。
 だが、彼を最終的に救ったのは子供である。
 大角と鄙木の間には二男二女が生まれる。子としては得られなかった家庭の愛を、親として手に入れたのだ。そう言い切る根拠は何か? それは系図である。大角の次女の嫁先は、なんと小文吾の次男。大角の心に余裕が生まれなければ、こんな縁組はありえまい。


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