白龍亭・石浜周辺地図(小文吾と舩虫)

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▼江戸・石浜周辺


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【小文吾と舩虫】
 犬田小文吾が悪女舩虫と出会い、石浜城に幽閉され、犬坂毛野の対牛楼の仇討につながる舞台。
 船虫の家は「阿佐谷」にあるとされるが、その場所についての記述は以下の二つ。

「鳥越山の根がたより三四町東北に赴き給へば阿佐谷なり」 (第五十二囘)
「阿佐谷は今の淺茅原なるべし」 (第八十二囘)
 淺茅原は石浜の近くだが、鳥越山は少し離れている。
 以前は、この矛盾を説明可能な答が見つからず、白龍亭地図でも二ヶ所を併記していた。

 鳥越山は、馬琴の時代にはすでに削り取られて平地となっており、跡地には鳥越神社がある。町の名は、元鳥越町。
 一方、元鳥越町の一部が収用されたため、代替地として町民が移転した先の新鳥越町がある。これは石浜や浅茅ヶ原に近いが、鳥越山があった場所ではない。

 20世紀の亭主は、馬琴の鳥越山=新鳥越町という可能性を考えたものの、自分の頭が固くて、現実には鳥越山の場所ではないという史実から外れる事ができなかった上に、石浜城との距離の記述が現実に即していないために、この説を排除していた。
 その結果、舩虫の家の場所が特定できずに、両論併記という形をとっていた。

 21世紀も 20年が経過した 2021年、改めて考えなおした。
 馬琴が「淺茅原」と断定している以上、やはり舩虫の家は浅茅ヶ原であろう事。また、泊めた旅人を殺して金品を奪う「浅茅ヶ原の鬼婆」伝説があり、これが舩虫と重なる事。ついでに言えば、舩虫と出会う直前の小文吾が猪を倒した高屋畷(高い畷)という地名に相応しい「日本堤」が浅茅ヶ原の近くにある事。……これらからして、現実に鳥越山があった元鳥越町を想定するのは間違いではないのか?

 馬琴の時代の地理感覚を知りたくて、古地図を見てみた。
 元鳥越町は、庶民から土地が収用されただけあって、武家屋敷だらけである。
 一方の新鳥越町は、五街道のひとつ日光街道に面した一等地。近くには遊郭の新吉原もある。
 となると、南総里見八犬伝の読者である江戸の人々にとって「鳥越」と聞いて思い浮かぶのは、明らかに後者、新鳥越町であろう。江戸時代にはすでに鳥越山はないのだから「元鳥越町の方は昔は山だった」という時代考証的知識を持つ江戸人がどれだけいたのか? そこそこいたとしても、馬琴のいうように、八犬伝は「稗史」であって「歴史」ではないのだから、江戸人にイメージしやすい表現の方が優先されるであろう。

 ……といった経緯から「馬琴の想定する鳥越山=新鳥越町」と断定することにして、地図もそれに合わせて両論併記をやめた。
 新鳥越説だと、石浜城との距離の記述より現実が近すぎるが、元鳥越説だとしても遠すぎる。どちらにしても正確ではないのだから、物語の流れにふさわしい新鳥越町に決定しても問題はなかろう、と判断した。


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