白龍亭・芳流閣の謎

目次 >> 考察 >> 八犬伝の謎/芳流閣の謎(1997年 夏〜/2012年 3月 芳流閣関連別頁と統合再構築+改題)

[ 八犬伝の謎 - 05 ]

* この頁は、サイト縮小化以前の「信乃と芳流閣の謎(1997)」に、「芳流閣&対牛楼・日付のゆらぎ(1998)」から芳流閣部分のみ、「芳流閣の西暦換算(2001)」の一部を加えて、再構築したもの。

● 信乃と芳流閣
 重箱の角をつつくような、つまらんネタなんだが……。

 犬塚信乃と犬飼見八(まだ現八と名乗っていない)が戦う芳流閣。名場面中の名場面であり知らぬ者はいない。しかし、この場面の原作をよ〜く読むとおかしな部分があるのだ。

 許我公方足利成氏と対面した信乃は、執権横堀在村のために敵の間者と疑われて殺されかかるが、斬り逃げる。まず松の木を登ってなんらかの建物の屋根に登り、屋根から屋根を伝って芳流閣の屋根に到る。そう書いてある。芳流閣は遠見のための三層の楼閣とある。遠見という目的からして公方邸の中では最も高い建築物でなければ役には立たない。芳流閣などという特別な名前を与えられているところからしても、邸内では特に際立った建築物である。となると、木を伝って屋根に登った場所から芳流閣まで延々と三層の建物が連なっているとは考えられない。木を伝って登れるのは高くても芳流閣より一層低い二層の建築物でなければおかしい。

 となると、二層の屋根から三層の屋根までどうやって登ったのか?

 後から信乃を捕縛するために登ってくる見八は梯子を使う。誰にも邪魔されない見八でも梯子が必要な屋根に、成氏の家臣たちを斬りながら信乃はどうやって登れるのか?

芳流閣

 考えられる答は……。

(1)信乃は実は忍術もマスターしていた。そんなバカな、である。この答は説得力がない。

(2)芳流閣の三層目に梯子が置いてあり、これを持ち出して登り、その後この梯子を自ら外した。合理的な答のような気もするが「辛うじてよじ登り」と書いてある原作のニュアンスとはどうも違う。それに細かい馬琴のことである。梯子を使ったのなら使ったと書いたはずである。見八のところには梯子を使ったと書いてあるのに信乃の場合は書かないなどということは考えにくい。

(3)二層目の屋根が入母屋に作ってあり、簡単に三層の屋根まで登れる。天守閣的構造物のデザインとしてはありがちであり、自然な考え方ではある。しかし、これも「辛うじてよじ登り」という原作の記述を考えるとおかしい。それに、こういう構造の建物なら見八は梯子を使わなくても登れるはずだ。

(4)屋根の重さをささえる「方杖」に手をかけて力任せに登る。「辛うじてよじ登る」という表現にはこれが一番ぴったりである。ただし敵に囲まれてはこんなことはできない。二層目の屋根上で追ってきた成氏家臣はすべて倒したか突き落としたかして、誰もいなくなってから登ったと考えないとおかしい。信乃の強さにびびって誰もいなくなったからこそ見八の出番が出てきたわけでもあり、この答が一番正しいだろう。
 ただし芳流閣の屋根に方杖があるのかどうか原作挿絵は上からのアングルで描かれているので分からない。下から見上げた芳流閣は歌川国芳の錦絵にあるが、方杖らしきものは見えない。もっとも、原作挿絵以外のものは馬琴の意図とは関係なく描かれているので根拠には出来ない。


 ……登った方法がこれで解決したとしても、実はもうひとつ問題がある。それは信乃は「何故」屋根に登ったのか、だ。

 原作に「信乃は脱るゝ路を見んとて」とある。上から見下ろして脱出路を探そうというのである。よく考えるとこれは屋根に登る理由にはならない。芳流閣という建築物の目的が「遠見」である以上、最上層に登ればそれで目的は達せられる。屋根まで登る必要性は実はまるでないのである。

 まず「屋根上の決闘」ありき。
 だから何としても信乃を屋根まで登らせないといけない。ここをどう書くかが作者馬琴の苦心のしどころであったに違いない。リズミカルな文体で読者が矛盾に気付かぬうちに信乃は屋根に登ってしまう。これを名文というのであろう。それなのに、せっかくの苦心を無にするような「矛盾暴き」をしてしまうとは、亭主も嫌な野郎である。

 さすがの信乃もこの時ばかりは冷静ではなかった。そう考えておくことにしよう。

● 日付のゆらぎ - 1998年 7月〜
 芳流閣の戦いは文明十年六月二十一日である。
 それは以下の記述による。

「照る日烈しく堪がたき、ころは六月廿一日」 (第四輯第三十一囘)
 しかし、白龍亭内では 1998年7月26日まで、前日の六月二十日と記述していた。その原因は、第三輯第三十回にあった。

 第三十回の記述を要約すると……。

 六月十九日の朝、栗橋の駅を出て滸我に到着。
 城下で旅宿を定め、御所の案内に問うて執権横堀在村の屋敷を訪問し、在村と対面して訪問の趣を説明、旅館にて待てと言われる。
 翌朝(原作では「詰旦(あけのあさ)」とある)
 村雨が偽物と判り、執権に事情を説明する間もなく御所の対面となり、間諜に疑われて芳流閣へ。

 ……こうなる。

 これを素直に読むと、芳流閣の戦いは六月二十日だと思える。
 厳密には滸我到着が十九日と判るだけで、執権との対面がその日のうちに行われたかどうか明らかではないので、六月二十日とは断定できないのだが、どうも、この辺は馬琴の記憶違いではないかという疑惑を感じる。
 第三十回は第三輯、第三十一回は第四輯。輯が異なる。輯が異なれば刊行年も異なる。第三輯の刊行が文政二年(1819)、第四輯の刊行が翌文政三年(1820)だ。馬琴が記憶違いをおこしても不思議ではない。
* 事実、六月二十日と記した書物も刊行されていたりするし、亭主だけが間違っていたとは言い切れまい。第三十回の記述は六月二十日を示しているとみるのが、やはり自然であろう。

● 芳流閣の西暦換算 - 2001年 春〜
 旧暦と西暦の換算は難しい。
 はっきり言って、旧暦の大の月(三十日)と小の月(二十九日)の計算方法がさっぱり分からないし、閏月の計算もよく分からない。だから大雑把な換算はできても日を特定することが出来なかった。

 ところが、第三十五回に「今宵は庚申なり」という一文を見つけてしまった。古那屋の悲劇の日、つまり文明十年六月二十二日のことだ。

 庚申は干支のひとつである。そして干支は六十で一巡する。
 年の干支が一般的ではあるが日の干支もあり、それを印刷したカレンダーもある。それを見ると西暦2000年12月28日が庚申だ。ここから60日刻みで遡っていけば、古那屋の悲劇が起きた日の西暦の日付けが明らかにできるではないか。となると同じ月に起きた、芳流閣、円塚山などの有名な場面の西暦日も判明するわけだ。

 現在使われている西暦(グレゴリオ歴)のルール(閏年の入れ方)を元に遡った結果、古那屋の悲劇は 1478年 8月 7日と出た。芳流閣は前日だから、8月 6日だ。信乃と現八が戦った屋根の上はさぞ暑かったであろう。

 しかし、グレゴリオ歴は 1582年に生まれたもの。それ以前の西暦はユリウス歴だ。
 両者は 1582年の段階で 10日の差(要するにユリウス歴ではそれだけ誤差が生じてしまっていたわけだ)がある。西暦1500年は現在の西暦のルールに従えば平年だが、ユリウス歴では閏年だ。この1日の差があるため、1478年の段階では 9日の差があることになる。
 ということで、ユリウス暦でいえば、芳流閣は 7月 28日である。

 以上の西暦換算は、あくまで干支を利用したもので、月齢はまったく考慮していない。
 だが、旧暦は太陰太陽暦である。だから毎月一日は必ず新月であり、毎月十五日は満月なのだ。となると六月二十二日も、それなりの月が出ていないとおかしい。
 ということで、判明した西暦日をもとに、平均朔望月 29.53089日で割ってみると、その日は、新月から24日経過していると出た。旧暦二十二日とほぼ一致する。朔望月には揺らぎがあるので、これは誤差の範囲である。
 馬琴は、自分が生きた時代でもないのに、やけに正しいのであった。

 ↑
 本日の計算である。
 五百年以上の遠い過去だけあって、日数も凄い。信乃と見八があまりにも遠く感じてしまう。


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