白龍亭・闇の犬士・毛野

目次 >> 考察 >> 八犬伝の謎/闇の犬士・毛野(1998年 3月〜)

[ 八犬伝の謎 - 06 ]

 亭主の一番好きな犬士は、智の玉を持つ犬阪毛野である。
 しかし、白龍亭を開いて二年近く(準備期間を含めれば二年以上)も、亭内には毛野について考察したページがなかった。怠っていた、わけではない。毛野が分からなかったのだ。感覚的に好きではあっても、言葉にして毛野を語ろうとすると詰まってしまう。語りたくても語れなかった。だが、1998年に至って、ようやくにして僅かながら毛野を語れるだけの整理がついたので、このページを書くことができた。

● 特別な犬士
 毛野を語る前に、仁の玉を持つ犬士・犬江親兵衛を語る。
 意外かもしれないが、親兵衛から入らねば犬阪毛野にたどりつけないのである。論語の中で、仁者と智者は対で語られることが多い。馬琴がそれを意識しないで八犬伝を書いたとは思えない。何かあるに違いないと睨んでいたのだが、やはり予想通りであった。

 犬江親兵衛。
 儒教において最高の徳とされる「仁」の玉を持つだけあって、八犬士の中で特別な存在。伏姫神女に育てられ、命をも蘇生させる薬を持ち、完全無欠の人格と無敵の武芸、しかも人を殺さない。厭味なほど完璧な神童。

親兵衛
他の七犬士たち

 特別な一犬士と普通の七犬士。イメージ的に、上のピラミッドのような関係を見ていた。
 だが、ひとつだけひっかかることがあった。
 八犬伝後半、二度にわたる蟇田素藤征伐と京都物語。八面六臂の活躍をする親兵衛。八犬伝後半は犬江親兵衛物語と言い切っても過言ではない。……はずなのだが、八犬伝クライマックスの対関東管領戦ではあまりにも活躍が少なすぎる。しかも親兵衛が相手になる長尾景春は、扇谷定正や山内顕定、許我成氏といった他の諸将と別行動をとっている上に、他の諸将と違って里見軍と戦う必然性がない。主敵ではなく脇役相手なのだ。

 この戦いで主敵を相手にしているのは、軍師犬阪毛野。
 もしかして親兵衛だけではなく、毛野も他の犬士と違う何か特別な存在なのではなかろうか。そう考えて調べてみると、色々出てきたのだ。

● 親兵衛の対極にいる毛野
 八犬伝最大の悪女・舩虫の最期。
 犬士たちによって牛をけしかけられて角に刺されて死ぬという凄惨な殺戮シーン。だが、この場には犬江親兵衛と犬阪毛野の二人は参加していない。小谷野敦著「八犬伝綺想」によれば、この殺戮は無垢な犬士親兵衛を勧進するために汚れを掃き清める儀式であるといい、毛野がいないのは、毛野と舩虫が本質的に同一のものであるからだとする。川村二郎著「里見八犬伝」においても、毛野と舩虫の類似性が語られている。
 この論法からすると、毛野一人、汚れたままの犬士ということになる。毛野と舩虫に関して同一とみなしていいものかどうか、亭主の意見は今のところ特にはないのだが、毛野が汚れを帯びたままの犬士だという証拠は他にもある。

 犬塚信乃の甲斐物語。
 大鷲にさらわれた里見の浜路姫の物語でもあり、これは「かぐや姫」と同一のモチーフである(前述の小谷野敦著「八犬伝綺想」に詳細な分析がある)。浜路姫が甲斐を去る前に立ち寄る「指月院」とは、まさに「月を指す」道筋の出発点にあり、これがかぐや姫物語であることは明白である。
 問題はこの「指月院」だ。
 かぐや姫は天上から地上に生まれでて、天上界に帰る。里見の浜路姫は安房から甲斐に生まれでて、安房に帰る。つまり里見家の領地安房は天上界と等しいことになる。
 犬士たちは安房に至る以前、この指月院を経ている。
 ただし、ここでも犬江親兵衛と犬阪毛野だけが、このルートを経由しない。最初から天上界たる安房に育つ親兵衛はともかく、毛野はどうなるのか。毛野一人天上界に昇らないことになる。

● 両極犬士の典拠
 汚れを帯びず、最初から天上界に住む犬江親兵衛。
 汚れを清めず、天上界に昇らない犬阪毛野。
 いわば両極端である。他の六犬士は、この二人の間にあってどちらともつかない中途半端な存在ともいえる。

 八人のうち二人が女装犬士であることに関して、高田衛著「八犬伝の世界」で、女二:男六である八犬士の内数の典拠を探り当てている。これと同様、八つのうち二つが両極端の属性を持つもの、という典拠が存在するのではないか。この問いには明確な答が待っていた。

 八犬士の持つ玉の文字「仁義礼智忠信孝悌」は儒教の徳目である。
 儒教といえば四書五経。五経の頂点に立つ「易経」は陰陽の組合せによる「八卦」を中心に展開する書物である。八犬士と八卦について馬琴は何も触れないが、無関係だと考える方が不自然であろう。
 陰と陽を三つずつ組み合わせると、八つのパターンになる。これが「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」の八卦、あるいは自然現象に置き換えて「天・沢・火・雷・風・水・山・地」という。
 この八卦には二つの両極端が存在する。
 三つすべてが陽である「乾(天)」と、三つすべてが陰である「坤(地)」だ。

八犬士と八卦

 八犬伝前半の主人公信乃は、両極の犬士、親兵衛と毛野の属性をあわせもっていると思われる。天と地の間を人とするならば、天の犬士親兵衛、地の犬士毛野、人の犬士信乃、という三人が八犬伝の主人公といえるのかもしれない。なお、中間六犬士と六卦の対応は未考察。上図中の順番は無視されたし。道節は「雷」かな、とは思うが根拠はない。

 親兵衛と毛野という両極端な犬士は、まさに乾坤(天地)の両極に相当する。
 つまり、親兵衛だけが特別な犬士なのではなく、毛野もまた特別な犬士として八犬伝世界に存在しているのだ。そして、この二人は特別であるがゆえに、他六犬士と違って若いのである。

● 伏姫の加護のない毛野のリアリズム
 親兵衛は神々しい。すべてにおいて伏姫神女の加護がある。
 たとえば、結城古戦場での法要の後に悪僧徳用が丶大法師を襲撃するが、あわやというところで親兵衛が丶大を救う。この時、猛然と風が吹いて数在る敵を追い散らしてしまう。まさに神の加護である。

 一方、毛野はこの時、徳用らの襲撃にそなえて陣の手配りをしている。
 この手配りが完璧でないところに親兵衛の出番があるわけだが、しかし人間としてはこれ以上の手配りは無理だという限界の手配りではある。毛野は超自然的力を頼ることはしないのだ。
 なぜなら、毛野の人生において神の加護は皆無である。
 伏姫に見捨てられているのでは、と思えるほど超自然的な力を味方にしたことがない。たとえば小文吾などは目を患った時に霊玉の力で回復したというエピソードがあるが、毛野には霊玉の力に頼った話は全くない。

 人を殺さず戦争に勝つ親兵衛は神の加護ゆえであり、加護のない毛野は人を殺す。
 殺らねば殺られる。これが戦争のリアリズムである。後の対関東管領戦でも、里見軍の大将はみな「防禦使」という「里見領の専守防衛」を任務とする役割についているが、守るだけでは敵に勝てないのが戦争の現実。軍師たる毛野一人、敵地への侵攻を計画して実現している(予定外に敵地を奪うことになった大角とか、毛野の計画に乗っかって敵地を占領する道節とかも一応いるが)。

 結城の法要に戻るが、毛野は徳用に襲われた後、丶大と犬士たちの夕食の手配りまでしている。
 腹がへるというのも人間の現実である。リアリズムに生きる毛野が犬士の中にいなかったら、いったいどうなってしまうのかと心配したくなるぐらい他犬士は考えていない。

● 光と闇
 里見家がいくら「仁慈」を唱えても戦争が人殺しであることには違いない。
 仁慈という光の影に、やはり人を殺さねばならぬ闇がある。対関東管領戦の時、毛野はこの闇を一手に引き受けて軍師となる。
 闇の犬士たる毛野は非情である。殺生戒を持つ僧侶である丶大法師すら、その法力を利用したいがために戦争に巻き込む。こんなとんでもないことは他の犬士では不可能だ。さらに敵である関東管領を二重三重の罠をしかけて騙す。
 光の犬士たる親兵衛がこの戦争にほとんど参加しないのは、むしろ当然なのである。
 しかも参戦する場所が毛野のいる戦場とは一番離れた場所。親兵衛と毛野、光と闇。毛野が敵地に侵攻して占領軍となった頃、親兵衛は入れ代わるようにして洲崎にある里見軍本陣の防禦使になる。

 光の犬士親兵衛が伏姫神女との母子神だとすると、闇に生きる毛野に付いているのは八房の霊か? 後に城持ちになる犬士たちだが、毛野は八房の生まれ故郷「犬懸」の城主になっている。

● 異端
 いずれにせよ、親兵衛とは別の意味で異端の犬士である。
 他六犬士たちは中途半端とはいえ親兵衛と同一の「光」へのベクトルを持つ(もっとも道節あたりは片足だけ闇の世界につっこんでそうだが…)。そう考えると、ただ一人「闇」へのベクトルを持つ毛野の方がはるかに異端であり、孤独かもしれない。

 毛野の異端さを示す例がある。
 湯島天神での話だ。毛野は関東管領扇谷定正夫人蟹目上の飼っている猿が木に登って下りられなくなったのを救出する。
 問題は「猿」である。
 犬猿の仲とは仲の悪さを言うことだが、毛野が猿を助け得るということは、本質的には犬の属性を持っていないということではないのか。……この先はいささか無理のある論理展開になるので、八犬伝邪読「毛野は猫」で書くことにする。


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