白龍亭・珍兵器・駢馬三連車

目次 >> 考察 >> 八犬伝の謎/珍兵器・駢馬三連車(1998年 10月〜/2012年 3月 追記)

[ 八犬伝の謎 - 09 ]

 亭主は色気のないメカ好き野郎である。
 そんな人間が、八犬伝中最大のメカ(!?)である「駢馬三連車へいばさんれんしゃ」について放っておくわけにはいくまい。考察してみた。……といえばかっこいいが、ただ雑多に考えてみただけ。

● 駢馬三連車とは?
 南総里見八犬伝のクライマックス、里見家と関東諸将の戦い。その国府台口の戦いに於ける敵将・山内顕定が戦場に持ち込んだ戦闘用の馬車が、駢馬三連車である。それはどんなものなのか?

「車は高三四尺にて、俗に云大八車に似たるを、三輌相連ねてもて一車とす。そが上に勾欄あり。是に相乗れる武者一十二名、其六人は前に在り。六名は則後に立り。是中央は弓手にて、左右は則銃手なり。馬六疋をもてこれを行しむ。車の左右に兩個の御者あり。槍を挾み、鞭を執れる、人はさらなり、馬も皆、薄鐵の面ぬき馬鎧を、透間もあらず、身につらぬける、用心等閑ならざれば……」 (第九輯百六十五囘)

駢馬三連車三面図

 要するに「馬六頭に牽引させた横幅の広い大八車」なのだ。(上図参照)
 画家・溪齋英泉による原作の挿絵(岩波文庫第九巻・新版 p252/旧版 p212)では、前列が着座の銃手(鉄砲兵)、後列が立っている弓手となっている。しかし上記引用文を見ると、左右が銃手で中央が弓手とある。挿絵の配置は正面の敵に有効、本文記述の配置では側面の敵に有効であろう。その後に書かれている戦闘場面では正面の敵と戦っているので挿絵の方が正しいことになる。
 御者は車の左右、つまり牛車と同様に車外にいるようだが、戦闘時にこれで大丈夫なのだろうか。また左右の御者同士の意志疎通が可能なのだろうか。そんな疑問を感じさせる配置だが、山内軍はこの駢馬三連車を手足のごとく自在に動かしている。きちんとした命令伝達システムが確立していて、なおかつ事前にかなり訓練していなければここまではできまい。

● 駢馬三連車の運用
 駢馬三連車の特徴は、鉄砲と弓が武器だということだ。つまり近接戦闘用ではない。
 一応、槍持ちが二人いるが御者兼任であり、近接戦闘をメインとは考えていないのは明らかである。となると馬車の勢いをもって敵陣を蹂躪する、といった用途には向かない。ではどういう用途に向いているのか。鉄砲や弓といった飛道具隊が徒歩よりも速く移動できる、というのが最大の特長である。戦場を縦横に駆け回って神出鬼没に相手に対して攻撃をしかける。これが最も有効な用い方であろう。

 実際に顕定はどのようにこの兵器を運用したか?
 最初の戦闘は野戦。隙間のない射撃をしつつ馬の機動性を生かして里見方先鋒を包囲。もう少しで殲滅できるというところで、里見方の後続部隊に予期せぬ方向から接近されて直接攻撃を受けてしまう。ここで数台が転倒させられる。この転倒した馬車が路を塞いで他の馬車の邪魔になる。そのために身動きがとれなくなってしまった。この戦闘では、駢馬三連車の長所も生かしたが弱点も衝かれた。

 問題は次だ。
 里見方は文明の岡という高台に陣を張ってそこに籠もる。ちょっとした砦なので、一種の攻城戦になる。この時、駢馬三連車はどうしたか。英泉による原作挿絵(岩波文庫第九巻・新版 p278)を見ると、最前線に並べている。砲台のような使い方なのだ。しかしこれは馬車である。だから最前列には馬が並ぶことになる。なにやら馬を楯にしているようにも見える。奇妙な光景である。
 奇妙ではあるがメリットもある。敵(里見方)に対する威圧と、味方に対する安心感である。直前に行われた野戦で里見方を殲滅寸前まで追い込んだ駢馬三連車である。それが数百も並ぶ様は、心理戦の道具としては非常に有効だろう。
 しかし、直前の野戦で見せた弱点はここでも弱点となるのである。近接戦で見せた守備力の弱さだ。これを前面に並べておいたがために、結局のところ、里見方が放った火猪の攻撃の前に燃え尽きてしまった。
 山内顕定は、駢馬三連車の長所を生かすことはできたが、短所を衝かれるのを防ぐことはできなかった。用兵の難しい兵器である。

● 馬車を発想した背景
 山内顕定はなぜこんな新兵器を投入したのか?
 顕定の台詞を引用する。

「我かねてより製作したる必勝の戈具あり。正に今是をもて連ねて他を破るべし。我嘗て唐山古昔の軍旅を思ふに、周末戰國の時までも皆是車戰を宗とせり。こゝをもて軍と云、陣と云、其字車に從ふ者なり。然るを秦漢よりして後は敢亦戰車を用せず。但三國の時、諸葛亮孔明が、四輪車に乗りけるは、古風に則るに似たれども、用意戰車と同じからず……」
 中国の周の時代の末、戦国の頃に使っていた。
 そんな孔孟の時代のものを理想とするあたり、なにやら顕定は儒学者風である。儒教道徳の権化のような里見家が考えたのなら「さもありなん」と思えるのだが、仁義礼智のかけらも感じられない顕定がこういう発想をするのは何か不思議な感じがしてしまう。
 戦車は秦漢以後、使われなくなったという。
 それは直接馬に乗った方が有効だからである。秦漢以前は、単に馬に直接乗るためのノウハウがなかったからに過ぎない。馬車の方が騎馬よりも有効なのはよほど平坦な場所だけである。凸凹な路面では、振動で乗っている人間は耐えられないだろうし、移動速度も徒歩とさほど変わらなくなってしまう。荷駄隊向きではあっても戦闘用としては問題だらけだ。

 であるにもかかわらず顕定は戦闘馬車を有効と考える。
 続きを引用する。
「我大日本は、神代より軍陣に車を用ひず。是を知る者なしといへども、今も那法則を推考て、戰車を作りて敵に中らば、非如堅陣鐵壁なりとも、破れざることなかるべし」
 馬車の方が騎馬より強い……そういう強い確信が発言から感じられる。堅陣鉄壁なりとも必ず破れる、とまで言ってしまうのだ。顕定の古代中国かぶれは病膏肓に入るというか、里見家もびっくりである。
 もっとも、この駢馬三連車と対戦する犬塚信乃も「四万の兵は怖くないけど、駢馬三連車は恐るべし」みたいなことを言う。車数百乗×十二人の武者=数千人、多くても一万人である。四万の兵が怖くないのなら、これだって怖くないと思うのだが、信乃も古代中国かぶれかも。

 駢馬三連車は古代中国の馬車そのものではなく、やたらと横幅の広い構造になっている。どうみても使いにくくなったように思えるのだが、顕定にとっては「改良」なのだろうか。横幅を広げた発想がどこから来るものなのかは謎である。それとも古代中国にもこういう横幅の広い馬車があったのだろうか。作者馬琴はその典拠を示してはいないが、何かあるのかもしれない。

● 命中するのか?
 また顕定の台詞を引用する。

「我又意ふに、葛西・假名町・新驛の間には、或は左右に樹立繁く、或は左右に水田あり。路一條にして衡坦なり、と聞ぬ。是我が駢馬三連車を用るに、究竟の地方なるべし」
 今の東京都、足立・葛飾・江戸川区あたり。ここが最初の野戦の戦場なのだが、左右は水田で道路が一本、しかも平坦。この環境が駢馬三連車には最適だと言っている。この戦争は冬十二月なので水田に水はなく稲もない。確かに馬車は走れるだろう。
 でも、水田には畦がある。
 だから凸凹は皆無ではありえないのだ。こんなところを駆け抜けることを想像してみると、駢馬三連車の上は振り落とされるほど揺れるはずである。こんなもんに乗っていて、鉄砲も弓も相手に命中するのか? 数百台もあって里見方先鋒軍を完全包囲していながら、実のところ里見方にあまり犠牲者が出ていないのは、結局、命中精度が最悪だということであろう。

● 本当は誰を相手に使うつもりだったのか?
 今回は引用だらけで読みづらいかもしれないが、また顕定の台詞である。

「唐山にては今も昔も、馬に車を架て牽すれども、皇國は牛車のみにて、昔より馬を要せず。然れどもよく習すれば、我邦の馬なりとて、車を牽得ざるにあらず。譬ば北狄の狗兒は、よく雪舟を牽くが如し。習ひの性になるも多かり」
 日本には古来馬車はないが、よく調教すれば日本の馬だって車は引けるだろうと言っている。逆に言えば、馬車を作ったからといって馬をちゃんと躾けなければどうにもならない、ということである。
 おや?
 山内顕定が里見家との戦いに踏み切ったのは扇谷定正から「和睦してともに里見家を叩き潰そう」と誘われたからである。それは里見家との戦闘の一ヶ月にも満たない以前の話。たった一ヶ月では馬車を作る時間も、馬を躾ける時間もない。しかし実際は自由自在にあやつれるほど訓練されている。つまり駢馬三連車は、対里見戦のために作られたのではなく、誰か他の敵を想定して作られていたということになる。
「豫より、匠に課て戰車を造らせ、悄々地に士卒に教て調煉已に事成りし折、憶ず當陣に臨むに及べば、我鎌倉を出る折、齋藤高實に吩咐て、件の車數百乗を、筏に組せ海に浮めて、科革浦に在せしかば、今朝我舩に推續きて、漕せて當所に執たり」
 駢馬三連車の設計は、海上を運ぶ事を前提としている。
 顕定の本拠地鎌倉から船で運んで敵と戦う。相模湾を西へ運べば北条氏だが、伊豆は山国。平坦地がないので馬車は使えない。となると東へ運ぶしかない。安房も山国なので里見家との戦いも想定していたとは言いがたい。江戸湾から隅田川や利根川を運んで平地で戦うとすると、考えられる敵は、扇谷定正・滸我成氏・長尾景春しかいない。つまり、対里見戦でいっしょに戦っている仲間だ。
 対里見戦で同じ戦場で戦う滸我成氏は、顕定の駢馬三連車を褒めたたえているが、それはもしかすると自分に向けられたものかもしれない、とは思っていないようだ。能天気である。結局、定正や成氏は、顕定の駢馬三連車を焼き尽くしてくれた里見方大将・犬塚信乃に間接的に助けられているとも言えるのだが、当然そんなことに気づいてもいまい。顕定だけが内心「しまった!」と後悔しているわけだ。


● 高度なメカ? - 2012年 3月追記
 小谷野敦著「新編・八犬伝綺想」所収の「『八犬伝』の海防思想」に次のような一節がある。

「『八犬伝』の車戦は「戦車」の有無によって、管領軍と里見軍とのあいだに「差異」を設けている。つまり、管領軍が「異国」に擬せられ、里見の軍はあくまで「日本」として構成されていることになるのである」
 なぜそうなるかは、同書を読んでもらうとして。ここでは思想云々には触れない。
 ただ、馬琴の中に、異国の攻撃からの防衛というイメージがあったとすれば、不気味な予言になっているなァとも思う。なぜなら、駢馬三連車は、結果から見れば役立たずの珍兵器ではあったが「戦術」というものが一応ある。それに対し、里見方の火猪は神助の奇跡であって、人間レベルのリアリズムで見れば、そこに「戦術」はない。その後の日本が歩んだ歴史を思えば、多くの符合に暗い気分になる。
* 日本におけるリアリズムの欠如は、長い時を経て 21世紀の今も続いている。福島第一原発事故もそれだ。事前に指摘されていた「発電所が想定している以上の高さの津波が来る可能性がある」というのは単なるリアルな話。そこから導かれる結論が「だから反対」なのか「だから、ちゃんとしろ」になるのか。人間の意見がどちらだったとしても、地球の現実に変わりはない。なのに「そんな津波は来ない」といって対策しなかったのは、無意識のうちに神助を期待している思い込み。八犬伝の里見家のように本当に神助があればいいが、現実には必敗の道だ。

 話を戻す。
 このページを書いてから 13年半。その間に気づいたことなどを追記したい。

 山内顕定は、諸葛孔明の四輪車を否定している。(前記「馬車を発想した背景」の引用参照)
 四輪車は地面が平でなければ、どれか一輪は必ず浮き上がってしまう。それを防ぐにはサスペンションが必要だが、起伏が大きければ、それも限界がある。この時代の技術では、実戦では使い物にならない。つまり、顕定はただの古代中国かぶれではなく、メカニズムというものをそれなりには理解していたわけだ。
 しかも海上輸送が可能。
 よくよく考えてみれば、並々ならぬ設計である。馬は別に運ぶとしても、上陸してすぐに使えるところも、高度な設計を窺わせる。もちろん、設計製造は顕定ではないが、顕定がここまで高度なものを求めなければ、職人だってこんなものは作りはしない。
 珍兵器で欠陥があったのが事実だとしても、決してレベルの低いメカではない、ということは言える。

 ついでに言うと、これだけ大きいにもかかわらず、長い一本の車軸が支えている。これも凄いのではないか?
 通常の大八車と同じような車軸だったら、折れてしまうだろう。車輪にかかる輪重も当然重い。にもかかわらず、それが原因での破損事故のようなものは発生していないから、技術力もかなり高い。もっとも、顕定の本拠地は当時関東最大の都市である鎌倉だから、関東で最高の職人が集まっていた、という背景もあろう。やや無理のある設計が成立してしまっているのも、成立させうる技術があったからこそ、である。

 これほどのメカが、火猪ごとき安直な手段によって燃やされてしまったとは……メカマニアとしては「もったいねぇ」と思うのである。
* 職人の熟練によって丁寧に作られた玩具を平気でぶち壊すクソガキ。極めて高度な構造物である生命体を平気で傷つけ破壊する、虐待や傷害や殺人などの犯罪者。こういう「メカニズムに対する敬意を欠いた輩」には、子供の頃から工作好きだった亭主は、無性に腹が立つのである。苦悩と努力の末の創造であっても、破壊は一瞬である。虚しすぎて、やりきれない。


<< Prev - Next >>

□ 関連 → 国府台の陸戦図
目次 >> 考察 >> 八犬伝の謎/珍兵器・駢馬三連車
<< 前頁に戻る