白龍亭・八犬伝地図制作記(旧地図付)

目次 >> 八犬伝地図制作記(旧地図は 1999年頃/2021年 11月~)


* サイト縮小化以前にも「八犬伝地図制作記」というページは存在したが、内容は異なる。このページはほとんど新規。
* 内容は「亭主と八犬伝」の、地図に特化した、番外編である。

●今の主地図は第3世代

 白龍亭の八犬伝地図は代替わりしている。
 初代の地図は初心者のお絵描きレベルだった。このサイトを作るために初めてパソコンを買ったので、描画に慣れていなかったのだ。
* それ以前に「ワープロ専用機」を使いこなしていたから、コンピュータ的には完全な初心者ではなかった。だが、マウス操作の経験はなく、マウスで絵を描くのも初だった。

 地図好きの自分的には、初代地図は満足できるレベルではなかった。しかし、描く技術が足りない以上、仕方がない。
 それから2~3年を経て、描画技術も向上。地図を描き直した。それが第2世代地図である。以下に、第2世代の主地図を載せる。
* 初代地図もここに載せたかったが、白龍亭地図を第2世代に入れ替えた後にパソコンが壊れた。その中から初代のファイルを取り出せないまま終わったので、白龍亭初期のものは地図に限らず、完全消滅してしまった。
* 当時のパソコンには USBはなく、当然 USBメモリもない。CD-ROMドライブは読込専用で書き出しは不可。OneDriveのようなクラウドもない。つまり、バックアップは容量の少ないフロッピーディスクだけ。白龍亭はフロッピーディスク1枚に収まらず、バックアップが面倒。という事でバックアップを怠った結果でもある。
* 第2世代地図を描いた正確な時期が分からなくなってしまったのも、パソコンが壊れて記録が失われたことによる。
* 下の旧地図画像のうち関東広域と江戸周辺図は、誤字修正等をしており、完全に当時のものではない。


▼関東広域(旧地図)


▼江戸周辺(旧地図)


▼房総(旧地図)


▼関西方面(旧地図)

* 上の旧地図が、今の八犬伝地図と大きく異なるのは「街道表示が無い」という事。主人公たちの移動経路が、古い地図では分からないのだ。
* 関西地図の「藥師院」の推定位置が、今の地図では「丹波国・南桑田郡」にしているが、この当時は「北桑田郡」あたりを想定していた。


 西暦2000年。20世紀最後の年に、地図を含めた白龍亭の大半を制作したパソコンが壊れた。
 そこで Windows から Mac に乗り換えた。
* モトローラのチップを載せてた頃の古い PowerMac である。旧 MacOS 8.6。
* この機種は USB1.0。つまり、USBメモリは使えない。しかも、CD-ROMドライブは読込専用で書き出し不可。フロッピーディスクドライブもない。iCloudにも非対応。これまた、バックアップがやりづらい機種。

 描画ソフトウェアもレベルアップし、ベクトル画像も扱えるようになった。
 そこで、ベクトル画像でベース地図を作り、それに情報を加える形でビットマップ画像にする。そういう手法で作ったのが、2002年正月に公開して現在に至る、第3世代の八犬伝地図である。
 描画的なレベルアップだけでなく、できるだけ詳細に、地名を網羅するようにした。それが「八犬傳地圖 Maniac」だ。
 ただ、原作読者にしか分からないような地名も載せたため、抄訳の八犬伝読者には情報過多で見づらいものになった。そこで「八犬伝地図 Pop」という一般向けを別途用意することにした。
* 何でもそうだが、ガチ勢とライト層をひとつのもので満足させるのは至難である。そもそも求めるものが違うわけだから。
* ベクトル画像を扱えるようになって初めて作れたものがある。PDFファイルの「ペーパーモデル古那屋」だ。

 しかし、この地図を最後に、八犬伝サイト更新は挫折。
 以後、空白の 10年を迎えることになる。
* 軸足が、もうひとつの鉄道サイト「おぱく堂版・電車走行キット(別タブ)」に移っただけで、自分的には空白ではない。ただ、八犬伝サイトの更新は止まってしまった。


     Powered by Opaku's Train Kit
 ↑関東の鉄道シーン八つの中からランダムでひとつ表示する。

 そして、2012年。白龍亭を縮小化した。
* 縮小化の経緯は「縮小化以前のサイトマップ等」参照。
 このリニューアルでは、縮小するだけではなく、サイトデザインも大幅に変更した。
 デザインをも変更する理由は何か?
 それは、時代の変化だ。つまり、インターネットの主流が「モバイル・ファースト」に移行しつつあった。ウェブサイトはスマホで見ることを第一として、パソコンは二の次、という事だ。

 以前のサイトデザインは、スマホに全く対応できない構造。
* 以前の白龍亭の基本デザインは 1990年代後半のものである。当時は、片手で持てるコンピュータの未来構想のようなものは存在したが、それが電話やカメラとセットになって、ネット閲覧からゲームまで可能なスマホになるなどとは誰も予想しなかった。
* 当然、サイトデザインは、パソコンのモニタ上でどう見えるかだけを考えればよかった。むしろ、年々大型化するモニタに対応するため、大画面を想定した表示をあれこれ考えなければいけなかった。小画面での表示などは、完全な想定外だったのだ。
* シンプルな構造のページなら、リキッドレイアウトとしてスマホ対応は簡単。しかし、以前の白龍亭はややこしい構造にしてしまったので、スマホ閲覧は完全にアウトになっていた。

 2012年当時、自分はまだスマホを持っていなかったが、サイト縮小という大掛かりな変更をする機会が、デザイン変更のチャンスでもあったのだ。
 といっても、地図は元々パソコンを前提として描いたものである。モバイル対応として縮小表示を可能にしたのは、さらに後年になる。
* 実際にスマホを手にして、自分のサイトを見てみないと、どう対応していいか全く分からなかった。
* スマホはパソコン画面より高精細である。標準的なもので3倍稠密。顔認証がなかった頃の古い iPhoneでも2倍。Android機の中には無駄に高精細な4倍もある。つまり、標準的なスマホを想定した場合、1/3まで縮小しても文字が読める、という事だ。……後年、地図等をスマホで見た場合のみ縮小表示可能にしたが、スマホの高精細画面を実際に経験してみないと「小さくても読める」という確信が得られなかった。

 スマホを手にする直前、パソコンも新しくした。
 Macの使用が 16年にも及び、完全に時代遅れ。仕様上、見ることすらできないウェブページも増え、もはや実用にならなくなったためだ。
* 長持ちしたのは本体だけ。モニタとマウスは何回も交換した。デスクトップパソコンのいいところは、モニタが壊れてもモニタを替えるだけで済むこと。ノート型だとそうはいかない。

 ここで、Mac から Windows に戻った。
 描画ソフトウェアは、グレードダウン。第3世代レベルの地図を作れる環境を失った。
* つまり、第3世代レベルの地図はもう描けない、という事。よって、今後追加するかもしれない補助地図は、第2世代レベルに後退することになる。
* Macは、なんだかんだで金がかかる。貧乏人は Windows一択だ。

●発端は国府台

 1996年の白龍亭開亭当初から予定していた「国府台の陸戦図」は、四半世紀を経て、2021年 11月にようやく完成した。
 25年は長い。
 だが、国府台の戦場地図を作りたいと思ったのは、それより遥か昔、八犬伝系図を作ろうと決意したのとほぼ同時。高校時代のことである。
 そこから数えると、約45年。本当に長かった。


 実は、国府台の陸戦図こそが、最初に作りたいと思った八犬伝地図である。
 理由は単純。この戦いがややこしすぎて、戦場の全体図が頭の中でイメージできない。そこで「これは地図を描いて整理するしかないな」と思った。

 しかし、戦場図には動きがある。
 系図と違って、動きを紙の上にどう表現するかは全く思い浮かばず、「地図を作りたい」という思いだけがあって、実際には何もしなかった。
* 日本初の本格的パーソナルコンピュータ NEC PC-8001 が登場するのは数年後。一般人が当たり前のようにパソコンを手にするのは、さらに後年の話である。当時は、紙に描く以外の方法はなかった。

 その後、十数年の空白。

 挫折していた系図作りを再開するきっかけとなったのは、1990年の岩波文庫「南総里見八犬伝」新版の発売。

 その3年前の 1987年に、日本語ワードプロセッサ(ワープロ専用機)を手に入れていた。これは、文書入力に特化したコンピュータである。系図は、基本的に文字データなので、そのままワープロで作成に入れた。

 地図は?
 画像データを扱うには、当時はパソコンでも非力だったのに、ワープロ専用機はもっと非力。おまけで「図表も描けますよ」程度の機能しかなかった。
 白黒二値で、中間のグレーを扱うことも不可。当然、カラーなんて夢のまた夢。さらにマウスもないので、カーソルの移動は矢印キーのみ。そんな環境である。まともな地図が描けるわけがない。
 ……とはいえ、地図好きの自分は、ワープロの限界に挑むように、地図作りはしていた。
 八犬伝ではないが。下の画像がその実例。
* 中間のグレーすら表現できないので、ドットの密度を変えて表現するしかなかった。
* このページは黒背景なので、白黒反転のネガ画像にした。


* お茶の水付近(神田駿河台)の鉄道の出口図。1990年代前半はこの辺に縁があり、とある場所への案内用に作ったもの。案内先は削除してある。
* 神田駿河台は、神田山を削り残した部分。東京でも起伏が激しい場所。ここに縁があったことで、江戸の高低差に関心を抱くようになった。八犬伝を読む上で江戸の地理勘は重要なので、このことが八犬伝を読む上で役に立った。

 1995年に Windows95が発売になり、パソコンが一部の人間のものでなくなり、インターネットも特殊なものではなくなった。
 その翌年すぐにパソコンを買った。
 この「マウスが使えてカラーで描ける道具」を手にすることで、ようやく地図が作れるようになった。系図資料は白龍亭以前からスタートしたものだが、八犬伝地図はこの白龍亭と共に始まったのだ。

 まずは動きのない、普通の八犬伝地図を描いた。
* 元々地理勘のある関東が舞台だからスムーズに描けた。これが地理勘のない場所が舞台の「源氏物語」だったら、相当に苦しんだであろう。
* 1996年 6月の開亭時は、普通の八犬伝地図だけで、戦場図は未完。

 一方で、動きの表現が必要な戦場図は苦戦した。
 将兵の動きをどう表現するかという悩みと、枚数が多いことの手間。それでも、主要3戦場のうち、比較的動きがシンプルな「行徳口の陸戦図」と「洲崎沖の水戦図」は 1998年には完成した。
* 但し、現在のようにスライダーやマウスホイールで画像を動かす仕組みは 2018年から。画像完成から 20年の時を経ている。
* 途中、2012年~2018年の間は、戦場図は非公開だった。画像を動かす仕組みを変更する準備ではあるが、準備期間 6年は長過ぎ。

 最初に作りたいと思った「国府台の陸戦図」は、21世紀に入っても着手できなかった。
 ぶっちゃけ、ややこしすぎて戦場を整理する気合が入らなかったし、複雑な戦場をどう整理して描くかというアイデアも思い浮かばなかった。
 ただ、還暦を過ぎた頃から「このままだと、生きているうちに完成しないんじゃないか」と不安になった。親しかった知人が六十歳で亡くなっている。それを超えた年齢の自分だって、いつ急死するか分からない。
 はるか遠い昔の 16歳の自分が作りたいと思った地図。
 今度こそ作らねば、と固く決意したのが 2021年。はっきり言って「遅すぎだろ」という話だが、遂に着手。同年 11月に公開するに至った。
* 洲崎沖の水戦図は画像 8枚、行徳口の陸戦図は画像 30枚。一方で、国府台の陸戦図は画像 49枚である。もっとも、49枚目は「後日」の地図なので、戦場図としての実質は 48枚。

 16歳の頃に作りたいと思った系図も地図も完成し、これで安心して死ねる……わけねぇよ。
 そう簡単に死んでたまるか。
* とはいえ、仮に 90歳まで長生きできるとしても、残り 30年を切っている。自分が終わる、というのがどういう感じなのか、想像すると怖くなる。

●なぜ地図が好きなのか?

 気が付いたら地図が好きだったので、好きになったきっかけが何かの記憶はない。
 ただ、なぜ好きなのかを自己分析したところ、ひとつの解答に辿りついた。──「全体像が分からないと不安になる」という事だ。
* 10代の時点ですでに地図好きだった自分が、より広範囲、より詳細な地図を求めるようになったのは、20代になって自動二輪に乗ったことだ。さらには、行く予定のない場所の地図をも見るようになったが、地図帳はそこそこ高価なので限界はあった。……今は、電子地図という限界を知らない地図が無料で存在しているから、ありがたいことだ。

 言い換えれば「俯瞰視点が欲しい」という事であり、弱点を言えば「野生の勘が働かない」という事でもある。

 自分が全体の中のどこにいるのか?
 それが分からないと身動きがとれない。晴れわたって遠くまで見通せないと不安で、五里霧中でも何とかする野生がない。

 国道等を走っていると、「東京まで〇〇km」といった案内があり、地図を見なくても、それに従っていればほぼほぼ目的地には到達できる。
 そういうナビゲーションは、誰かが(あるいはコンピュータが)地図の全体像を把握しているからこそ導き出せる情報である。その最終情報を他力本願にしていると、その誰かがいなくなったり(コンピュータが故障したり)すると、いきなり情報ゼロの世界に放り出される。
 自分はそういう事態が怖い。
 地図(全体像)を他力本願にせず、自分の中に抱えていれば、他者によるナビゲーションの喪失が致命的な事態にならない。自力ナビゲーションがある程度可能だからだ。
* 地理に限った話ではなく、仕事でもそうだ。
* 全体のワークフローの中で、自分はどの位置にいて、前工程の何に影響を受けるのか、自分の仕事が後工程の何に影響を与えるのか。それが分からないのは不安だ。最初、前後工程の詳細について知っている先輩がひとりもおらず、むしろ「そんな事を知る必要はない」とまで言われてしまった。しかし、どうにも耐えられなくて、後工程を担う別会社の人に頼んで色々と教えてもらった。その知識がすぐに役立つことはあまりなかったが、約十年後、前工程が遅れに遅れた時、納期に間に合わせるために、後工程の人と対策を詰める時に大いに役立った。平時には不要でも、応用が必要な緊急時には全体像を把握しているか否かは重要だと思う。


* ↑地図好きだから、スマホにも無駄に多くの地図アプリを入れている。
* 有名な地図アプリは全部揃えたいので、Appleマップも欲しい。しかし所有するスマホが Androidなのでどうにもならない。
* スマホでは見ないが、PCでは「百度地图」のような中国の地図も見たりする。日本の尖閣諸島を自国領扱いしているのは腹立たしいが、意外にも北方領土を日本の領土として表記している。西側に対抗する軸としてロシアと手は握っていても、必ずしも仲良しというわけではなさそうだ。

 野生の勘がある人間は、周辺の環境などから推測できる情報量が多い。それによって、全体像の知識がなくても、全体像をある程度推測して行動可能になる。
 自分はその勘が弱い。だから地図必須。
* 野生の勘もなく、地図も見ない。そういう人間も多々いる。自分の位置が全く分からないわけだが、その事を恐れてはいないようだ。実は過度の文明人であろう。
* 文明人といえば……電車のドアとプラットフォームの隙間に落ちる人が時々いるが、プラットフォームなんか無いに等しいような発展途上国の鉄道では隙間に落ちる人はいない。危険が大きく目に見える時に人間は危険を回避できるが、危険が小さく見えにくくなくなると危険回避に意識が行かなくなる。安全対策が進めば進むほど、安全にならなくなる、という文明化のジレンマ。

●八犬伝地図を描く理由

 地図好きだからといって、地図を描くとは限らない。
 では、なぜ自分は地図を描くのか?

 地図は「俯瞰」であると同時に「整理」だ。自分で地図を描くのは、自分の頭は自分流に整理したいから。かつ、何かを描くのが好きだから。この二つが重なって、地図を描くのが楽しい。
 八犬伝地図も、要するに自分が八犬伝を読む上でその地理を整理するためのもの。
 基本は「自分用」でしかない。
* 自分用だからこそ、金にもならない作業に力を注げるわけだし、自分が納得できるまで手を抜かないクォリティが保てる、とも言える。
* 一方で「公開して他者に見せる用」でもあり、あまりレベルの低いものを出せば自分の評価が下がってしまう。それを気にする一種の「見栄」も作用し、ますます手が抜けなくなる、という側面もないではない。

●地図の限界

 茨城県に「筑波サーキット」というレース場がある。
 一時期叔父が住んでいた以外、自分は茨城県に無縁で、初めての茨城県が筑波サーキット行であった。
 ここで初めて実感したのが、関東平野の広さだ。正面遠くに筑波山が見える以外、360°周囲に山がまるでない。同じ関東でも、神奈川や房総は山国だし、東京はビルばかりで平野が見えない。この時に感じたのが「関東平野、すげー」という語彙力不足な驚きであった。

 これこそが「関東」なのである。
 そして、これこそが南総里見八犬伝の本当の風景なのである。
* 江戸は大都市だが、一歩外に出れば、一面広大な田畑が広がっていた。馬琴もそれを見たであろう。その平らな地平線を唯一邪魔するように大地から突き出しているのが筑波山だ。江戸人にとって、富士山に次いで特別な山であったというが、さもありなんと思う。

 この広大な「関東」──ビルが林立する現代の都市部では感じることができないし、地図でも表現できない。

 脳には二つの回路がある。
 言語回路を経由する「知る」という道と、言語化できない「感じる」という道だ。
 地図に表現できるのは「知る」道筋だけであって、「感じる」ことはできない。これが地図の限界だ。「感じる」ためには、聖地巡礼するしかない。それでも、同じ空間には立てるが、同じ時間には立てない。どこまで行っても、超えられない限界がある。

 南総里見八犬伝は遠いのである。
* それでも、色々を知ることで、少しばかりは読者の近くに寄せることはできる。地図も、その手助け程度のことは可能だ。

[地図参考資料]
吉川弘文館「標準日本史地図」/山川出版社「日本史総合図録」/帝国書院「綜合地歴新地図」/東京書籍「最新世界地図」/昭文社「サテライトマップル広域関東道路地図」/同シティマップル「東京都23区道路地図」/同シティマップル「神奈川県道路地図」/同スーパーマップル「関西道路地図」/JAF・ジャフメイト付録「観光情報マッブ関東」/JR東日本・駅からマップ「御茶の水」/別冊宝島「徳川将軍家の謎」/PHP「大江戸ぶらり切絵図散歩」/河出書房新社・夢新書「日本地図から歴史を読む方法」/集英社・図説日本の古典「曲亭馬琴」掲載の天保二年・日本寺刊『房州図』/古地図史料出版「文化江戸地図」/日本実業出版社「東京の地理がわかる事典」/帝国書院「地図で訪ねる歴史の舞台 -日本-」/学研「戦国の城(上)関東編」掲載の内閣文庫蔵『長禄江戸図』等/甲州夢街道2001 ROAD MAP
……八犬伝地図は 2002年に基本形を描き終わっているので、上記資料はそれ以前のもの。電子地図が普及する以前の紙媒体であり、今はもう入手できないものもある。


□ 関連 → 八犬伝地図 Pop八犬傳地圖 Maniac国府台の陸戦図
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