白龍亭・南總里見八犬傳年表

目次 >> 情報整理(時系列) >> 南總里見八犬傳年表(1997年 4月〜/最終修正 2001年 9月)

 南総里見八犬伝の物語の年表。
 岩波文庫・旧版をベースにした資料。白龍亭ルール「資料系ページは地名人名等、馬琴の文字使いを再現する」により、表中は旧漢字使用。ゆえにタイトルも「南總里見八犬傳年表」と旧字にしてある。岩波文庫・旧版に誤植があった場合、必然的にこの資料に間違いが生じる。というわけで岩波文庫・新版でもチェックすべきなのだが、それはいつかやる……かなぁ?

 八犬伝の年表は「図説日本の古典19 曲亭馬琴(集英社)」と「新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴(新潮社)」にも掲載されている。両方の年表には表現上の共通点が多い。共通の元ネタがあるのかもしれない。年表は網羅する資料ではなく省略整理する資料である。作成者の視点によって省略整理の基準が異なる。詳細で正確な前者も簡潔な後者も自分の視点とはいささか異なる。ゆえに独自の年表を作ることにした。
 これらの年表も多少参考にはしたが、この白龍亭版年表の年月日はすべて岩波文庫・旧版上で確認、及びそこから前後を逆算。確認できなかった年月日は記載していない。なお正史との比較はごく一部を除いてしていない。

[ 推奨 ]
・白龍亭版では物足りないという人は、ゆーかさんのサイト「伏姫屋敷」にある八犬伝年表がお薦め。超絶というか究極というべきか、とてつもない詳細さには驚く他はない。


・改元年について。
 南総里見八犬伝では、改元のあった年の年号は、何月何日であっても改元後の年号で記述されている。そのため十二月に改元した寛正元年七月に犬塚信乃が誕生していたりする(七月は長禄四年)。正史じゃなく架空の稗史物語なので馬琴もそこまでは気をつかわなかったようである。

・旧暦と日数計算について。
 月日は原作のまま、つまり旧暦。当然原作における日数も昔の"数え"で記述されている。「三日」とあれば今日を第一日として第三日目、つまり翌々日である。三日後ではない。日数逆算もこれを基準にしている。

月日 
永亨九年(1437)丁巳  金碗八郎孝吉、神餘家を去る。
 八郎の子、加多三誕生。後の金碗大輔孝徳。加多三の母・濃萩は産後死去。
永亨十年(1438)戊午  
永亨十一年(1439)己未 二月十日關東管領足利持氏、室町將軍足利義教と關東執權上杉憲實の軍に敗れ、鎌倉報國寺にて嫡男義成(史實では義久)とともに自害(永亨の乱)。
 下總國の結城氏朝、持氏の二男春王と三男安王を主君と奉じて籠城。持氏恩顧の武將里見治部少輔季基(史實では家基)と子の里見又太郎義實、春王の近習大塚匠作三戍と子の大塚番作一戍も結城方に參加。=結城合戰。
永享十二年(1440)庚申 十二月大晦日加多三の外祖母死去。
永享十三年(1441)辛酉
嘉吉元年
二月十七日改元
四月神餘光弘、落葉が岡にて誤射され死去。山下定包、神餘家を乘っ取り瀧田城主となる。
四月十六日結城落城。春王と安王は捕らへられる。里見義實は、杉倉氏元・堀内貞行とともに落ちる。大塚父子は兩公達を護送する敵軍にまぎれる。
四月十八日義實らは相模國三浦(矢取の入江)に到着。白龍の姿を見て導かれるやうにして安房國へ渡海。
四月下旬上陸後、安房郡館山城主安西景連と會見。
翌々日義實、金碗孝吉と出會ひ擧兵。
翌日暁、義實長狹郡東條城を落とし、そのまま平郡瀧田城へ向かひ山下定包を攻める。
翌々日山下定包、家臣に殺される。瀧田城落城。
翌日玉梓処刑。
五月十六日春王・安王は美濃國樽井(垂井)で斬首。大塚匠作は刑場で討たれる。大塚番作は兩公達と父の首をもって逃走。
五月十七日大塚番作、信濃國吉蘇の夜長嶽麓の拈華庵で手束と出會ふ。後に同國筑摩で湯治。
六月安西、里見と使者を交換して和睦。
七月七日金碗孝吉自害。加多三、父孝吉と對面。
七月末大塚番作の母病死。
 義實、上總國椎津城主萬里谷入道靜蓮の娘、五十子と結婚。
 大塚番作の異母姉龜篠、彌々山蟇六と結婚。
 氷垣夏行、穂北に住む。
嘉吉二年(1442)壬戌 里見義實の娘、伏姫誕生。(夏の末とあるので六月か)
 扇谷定正、山内顯定誕生。(没年と享年の記述から逆算)
嘉吉三年(1443)癸亥  持氏の末子永壽王足利成氏、長尾昌賢のとりなしで關東管領になる。(第九囘の記述。なお山川日本史年表によると文安六年)
 蟇六、鎌倉の成氏に大塚匠作の娘婿として申し出て、大塚の村長を命ぜられる。
十月末大塚番作夫婦、武藏國大塚に歸り犬塚と改姓。
年末里見義實の嫡男二郎太郎誕生。後の里見義成。
嘉吉四年(1444)甲子
文安元年
二月五日改元
 伏姫、洲崎明神別当養老寺の役行者の岩窟に參拜。歸路、平郡に入った邊りにて役行者から仁義禮智忠信孝悌の八字が浮き出た數珠を授かる。
文安二年(1445)乙丑  
文安三年(1446)丙寅  
文安四年(1447)丁卯 八房誕生。(第百十七囘に、文安四年伏姫七歳の頃との記述あり。然しこの年は伏姫六歳。參照→享徳二年)
文安五年(1448)戊辰  
文安六年(1449)己巳
寶徳元年
七月二十八日改元
  
寶徳二年(1450)庚午  
寶徳三年(1451)辛未  粟飯原胤度の嫡男、夢之助誕生。
 金碗孝徳の外祖父一作死去。享年七十八歳。
寶徳四年(1452)壬申
享徳元年
七月二十五日改元
持氏の末子永壽王足利成氏、關東管領になる。(第廿四囘の記述)
享徳二年(1453)癸酉  八房誕生。(第八囘に、伏姫十一二の年とある。十一だとすると前年。參照→文安四年)
 網乾左母二郎誕生。
享徳三年(1454)甲戌 十二月足利成氏、上杉憲忠を誅殺。
享徳四年(1455)乙亥
康正元年
七月二十五日改元
六月十三日足利成氏、鎌倉の御所を上杉方に攻められて退去。
千葉一族、成氏方と管領上杉方に分裂。
 足利成氏、下總國許我の熊浦に屋敷を構へる。
成氏は孝胤を千葉介に任じ、關東管領は實胤と自胤を取り立て、千葉氏は完全に二流に分裂。
康正二年(1456)丙子 八月義實、飢饉の隣郡安西領に米五千俵提供。
康正三年(1457)丁丑
長禄元年
九月二十八日改元
安西景連、里見領の飢饉に乘じて瀧田城を攻める。八房、景連を噛み殺す。里見義實、安房國全郡の領主となる。
里見義實、正式に安房國守となり治部少輔に叙任される。(鎌倉の成氏が室町將軍に執りなしたとあるが、成氏は二年前に鎌倉退去。矛盾)
伏姫、八房と富山の洞窟に住む。
手束、瀧野川辨才天に一子を祈願して日參を始める。
 山林房八誕生。
長禄二年(1458)戊寅 伏姫自害。仁義禮智忠信孝悌、八つの玉が飛び散る。金碗孝徳、丶大法師となり諸國行脚へ。
長禄三年(1459)己卯  堀内貞行、京都へ。將軍足利義政の執奏により、里見義成が安房守となる。
八月伏姫一周忌、義實家督を義成に讓る。
九月犬山堅物貞與入道道策と阿是非の子、道松誕生。後の犬山道節。
九月二十日手束、神女より玉を授かり犬(與四郎)を拾ふ。
十月二十日安房國洲崎にて糠助の子、玄吉誕生。後の犬飼現八。
十一月古那屋文吾兵衞の子、小文吾誕生。後の犬田小文吾。
十二月一日犬川衞二則任の子、莊之助誕生。後の犬川莊助。
長禄四年(1460)庚辰
寛正元年
十二月二十一日改元
 赤岩一角武遠と正香の子、角太郎誕生。後の犬村大角。
七月戊戌の日犬塚番作一戍と手束の子、信乃誕生。後の犬塚信乃。
 玄吉の母死去。
 糠助、禁漁を犯して獄舎につながれるも伏姫三囘忌の大赦にて釋放、安房追放となる。
糠助、行徳にて玄吉を犬飼見兵衞隆道に譲る。見兵衞は一旦玄吉を定宿古那屋に預け一月あまり後に迎へとる。
寛正二年(1461)辛巳  足利政知、京都より伊豆國北條に下り堀越御所と唱えて諸國の賞罰を掌る。
 粟飯原胤度の娘、玉枕誕生。
寛正三年(1462)壬午 一月犬山道策と妾黒白の娘正月誕生。後の濱路。
 犬村儀清の娘、雛衣誕生。
寛正四年(1463)癸未  正月、大塚蟇六の養女となり濱路と名付けられる。
寛正五年(1464)甲申 角太郎の母正香死去。
赤岩一角、窓井と再婚。
十月三日赤岩一角、庚申山の化猫に殺される。
十月四日化猫、赤岩一角になりすまして里に住む。
寛正六年(1465)乙酉 八月僞の赤嵒一角と窓井の子、牙二郎誕生。角太郎、母正香の實家犬村家の養子になる。
九月十一日犬川衞二自害。
十一月粟飯原首胤度、馬加大記の讒言により籠山逸東太縁連に殺される。粟飯原夢之助切腹。胤度の正妻稻城、娘玉枕処刑。籠山逸東太は逐電。
十一月二十九日莊之助の母、安房へ向かふ途中、武藏國大塚で死ぬ。
翌日莊之助、大塚蟇六の下男となり額藏と呼ばれる。
十二月粟飯原胤度の妾、調布、相模國足柄郡犬阪にて懐胎三年にして子、毛野を生む。後の犬阪毛野胤智。
寛正七年(1466)丙戌
文正元年
二月二十八日改元
 里見義成の一の姫、靜峯姫誕生。
 里見義成の五の姫、濱路姫誕生。(第七十二囘の記述から逆算。參照→應仁二年)
文正二年(1467)丁亥
應仁元年
三月五日改元
 里見義成の二の姫、城之戸誕生。
 里見義成の三の姫、鄙木姫誕生。
信乃、不動の瀧で死にかけて糠助に救はれる。
 この頃、調布と毛野、鎌倉へ。調布、女田樂に雇はれる。
應仁二年(1468)戊子  里見義成の四の姫、竹野姫誕生。
 里見義成の五の姫、濱路姫誕生。(第百八十囘下の記述から逆算。參照→文正元年)
 この頃、赤岩一角の妻、窓井頓死。
九月末里見の濱路姫、鷲にさらはれて甲斐國へ。四六城木工作に拾はれて養育される。
十月下旬犬塚信乃の母、手束病死。
應仁三年(1469)己丑
文明元年
四月二十八日改元
 里見義成の六の姫、栞姫誕生。
 里見義成の七の姫、小波姫誕生。
文明二年(1470)庚寅  里見義成の八の姫、弟姫誕生。
三月犬塚番作自害。信乃、犬塚信乃戍孝と名のる。
四月額藏と信乃、義兄弟の誓ひ。額藏は犬川莊助義任と名のる。
 足利成氏、山内顯定に許我御所を攻められて千葉へ没落。
文明三年(1471)辛卯 三月額藏と信乃、八房の梅に仁義禮智忠信孝悌の文字を見る。
 氷垣夏行、穂北・梅田・柳嶋、三郷の長となる。
文明四年(1472)壬辰  
文明五年(1473)癸巳  この頃、毛野、女田樂に加はり旦開野と名のる。
 義成の嫡男、義通誕生。(第百八囘の記述から逆算)
 この頃、安房洲崎沖に外國船が流され此を救助。禮として鸚鵡を里見義實に獻上。
文明六年(1474)甲午  この頃、濱路は實の親が豐島一族の誰かだと知る。
 小文吾、惡党桫欏犬太を殺し、犬田小文吾と呼ばれる。
文明七年(1475)乙未 古那屋文吾兵衞の娘沼藺、市川犬江屋の房八に嫁ぐ。
 義成の嫡男、義通誕生。(第百八十勝囘下の記述から逆算)
年末房八と沼藺の子眞平(通稱大八)誕生。後の犬江親兵衞。
文明八年(1476)丙申 犬飼見兵衞、子の見八を從者として安房へ。帰路、古那屋に止宿。小文吾と見八は兄弟の義を結ぶ。
小文吾の母死去。
房八の父、犬江屋眞兵衞死去。その後、山林房八を名のる。
文明九年(1477)丁酉 四月十二日姨雪世四郎と音音の子の力二郎・尺八、曳手・単節と結婚。
四月十三日扇谷定正に攻められ豐島一族滅亡。
 足利成氏、上杉家と和睦して許我へ歸城。(一説に文明十年)
犬飼現八の養父犬飼見兵衞死去。
七月二十二日犬飼現八の實父糠助死去。
 角太郎、元服して犬村角太郎禮儀と名のり、雛衣と結婚。
犬村儀清の妻死去。
調布、毛野に素性を告白。毛野復讐を決意。
毛野の母調布病死。
 毛野、胤智を名のる。
 濱路姫の養母、麻苗死去。
文明十年(1478)戊戌 知雨老師に化けた妖賊、武藏葵岡村民を騙す。(文明十五年、丶大法師により退治さる)
五月簸上宮六、大塚の陣代となる。
六月足利成氏、上杉家と和睦して許我へ歸城。(一説に文明九年)
 簸上宮六、巡検の途中立ち寄った大塚家で濱路に一目惚れ。
六月十四日陣代の下役軍木五倍二、陣代に婚姻を強制することを提案。
同日行徳に雨が降って川が増水したため、翌日からの祇園祭が二十一日に延期となる。
六月十五日軍木、大塚蟇六宅に来て濱路を陣代の嫁に求める。
六月十六日龜篠、網乾左母二郎に村雨のすり替へを依頼。その夜、信乃に許我行きをすすめる。
六月十七日神宮河にて村雨をすり替へられる。夜、濱路、信乃の臥房を訪れる(濱路口説き)。
六月十八日信乃、許我に向けて旅立つ。濱路、陣代との婚姻を知る。
同日小文吾と房八、八幡社頭の相撲にて勝負する。
六月十九日信乃、許我に到着。
同日網乾左母二郎、濱路を連れだす。本郷圓塚山で村雨を取り戻さうとした濱路は左母二郎に斬られる。犬山道節忠與、左母二郎を殺し妹濱路と對面。その後濱路死去。そこへ来あはせた額藏は村雨を持ち去らうとした道節と戰ふも、道節は火遁の術で逃げる。婚姻の席に濱路がゐないため簸上宮六は蟇六と龜篠を斬る。そこへ戻ってきた額藏は主の仇として簸上宮六を斬る。
六月二十日額藏、大塚の問注所に聯行される。
同日?芳流閣の對決?(第三輯第三十囘の記述からの推定)
六月二十一日犬塚信乃、許我成氏に敵の間諜と疑われ芳流閣屋上に追ひ詰められ犬飼見八信道と對決。組み合ったまま利根川に浮かぶ舟に轉落。その勢ひで縄が切れて舟は流れ下る。(第四輯第三十一囘の記述による)
信乃と見八、行徳に流れ着き、古那屋文五兵衞に匿はれる。文五兵衞の子犬田小文吾悌順と對面。犬飼見八、現八と改名。
六月二十二日山林房八、死をもって信乃を救ふ。丶大法師、犬士らに伏姫の因縁を傳へる。房八の子眞平も犬士の一人と判明し丶大法師により犬江親兵衞仁と命名される。
六月二十三日四犬士、市川の犬江屋へ。夜、房八沼藺夫婦の密葬。
六月二十四日早曉、信乃・現八・小文吾、舟で大塚に向かふ。神宮河原で矠平(姨雪世四郎)から大塚の凶變と額藏の危難を聞く。
七月一日額藏の処刑を命じる領主大石家の使者、鎌倉から大塚へ来る。
七月二日信乃・現八・小文吾、庚申塚の刑場を襲撃し額藏を救出。逃げる途中、戸田河で矠平・力二郎・尺八に助けられる。力二尺八は落命、その首は信乃額藏の首と僞って晒される。
同日丶大法師、行徳を出立。
七月三日信乃・莊助・現八・小文吾、雷電神社で語らふ。
七月五日親兵衞、神隱し。富山で伏姫神靈に養育される。
七月六日信乃・莊助・現八・小文吾、上野國の明巍山(妙義山)に參詣。犬山道節の仇討ちの場に卷き込まれ、一旦散り散りになる。夜、同國荒芽山の音音の家に力二郎・尺八の靈が訪問。
同日古那屋文吾兵衞、大塚に小文吾を尋ねるが、行方知れず。
七月七日早曉、信乃・莊助・現八・小文吾・道節が對面。道節は犬士の因縁を知り恥じて火遁の術を捨てる。その後、扇谷定正家臣の巨田助友に包圍され、戰ひ逃げる中で五犬士は散り散りになる。
七月九日古那屋文吾兵衞、行徳に歸る。
七月十一日古那屋文吾兵衞、安房へ向けて出立。
七月十日か十一日犬田小文吾、武藏國淺草寺近くで猪を退治。それをきっかけとして舩虫の家に泊まり殺されかかる。
翌日小文吾、石濱城の馬加大記常武の屋敷に抑留される。舩虫は逐電。
九月依介、市川犬江屋を継ぐ。
舩虫、下野國に逃れ僞赤岩一角の妾となる。(後に正妻)
 現八、鎌倉から信濃路を經て京都に足を留める。
 信乃、信濃路から越後・陸奧・出羽へ。
 莊助と道節、信濃路から美濃・尾張へ。犬山に逗留した後、伊勢・伊賀・大和・紀國を経て四國・九州へ。
 巨田持資入道、湯嶋天神建立。
文明十一年(1479)己亥 二月十五日古那屋文吾兵衞病死。
三月小文吾、品七から馬加大記の惡事を聞く。
四月小文吾、對牛樓にて馬加大記に謀叛の密議に誘はれるも断る。
五月十四日小文吾、旦開野(實は毛野)を娶る約束をする。
五月十五日馬加大記、旦開野を招ひて對牛樓にて酒宴を開く。
五月十六日曉天(第五十七囘の記述による。第八十九囘では五月十五日の眞夜中、第九十二囘では五月望の夜)、犬坂毛野胤智、對牛樓にて馬加大記を討つ。その後、小文吾と城を脱出。墨田河で散り散りになる。小文吾は犬江屋依介に出會ひ父の死を知る。毛野は羽田浦から故郷犬坂へ歸り願成院に隱れ住む。
五月十七日小文吾、この日より五十日、喪に服す。
丶大法師、甲斐國石禾指月院住持となる。
 小文吾、鎌倉から伊豆へ。下田から船に乘るが暴風にあひ大嶋へ。戻る船が再び惡風にあって三宅嶋へ。
 この頃、長尾景春、上野國白井城を落とし、扇谷定正は武藏國五十子城へ退去。
文明十二年(1480)庚子 犬村儀清病死。
四月舩虫、角太郎夫婦を赤岩に呼び戻す。
五月舩虫、角太郎と雛衣を離別させる。角太郎は返璧の庵、雛衣は媒人預。
甲斐國石禾指月院にて丶大法師、道節・莊助と初對面。
七月現八、他犬士の夢を見て京都を去る決意。
八月現八、京都を去る。
九月五日現八、荒芽山の音音の住処の跡を訪ねる。
九月七日現八、網苧の茶店で庚申山の話を聞く。夜、化猫の眼を射て赤岩一角の靈に會ふ。
九月八日現八、返璧に角太郎を訪問。その後、舩虫、返璧を訪れ角太郎と雛衣を復縁させる。現八はその後、赤岩一角の道場を訪問。籠山逸東太も一角を訪問。
九月九日僞の赤岩一角と舩虫、雛衣の肝を求め、雛衣自害。角太郎と現八、化猫と牙二郎を斬る。
 籠山逸東太、舩虫を護送するも途中で逃げられる。逸東太も長尾家を逐電。
十二月角太郎、赤岩犬村兩家相傳の田畑を賣る。
 小文吾、船を得て三宅嶋から浪速津へ。有馬で湯治、南都・左界で保養。
 舩虫、越後の山賊酒顛二の妻となる。
文明十三年(1481)辛丑 小文吾、北陸道へ。
二月角太郎、大角と改名。大角と現八、赤岩を出立。後に鎌倉を經て箱根山を超え、伊豆駿河、遠、三、尾、勢、美濃、近江へ。
二月莊助、武藏・下總・常陸・陸奧・出羽・越後・信濃を目指して石禾指月院を出立。道節は留守番。
十月末犬塚信乃、甲斐國巨摩郡猿石村長の四六城木工作の家に泊まる。
翌日初雪(夏に閏月があったので十月ながら季節は十一月と同じ)にて信乃は足止め。長逗留となる。
十一月相模國犬阪村願成院住持遷化。毛野に少々遺財が入る。
同月大塚の濱路の亡魂、四六城の娘濱路に乘り移り信乃の部屋に夜這ふ。
六日後四六城木工作殺される。
三日後信乃、奸計にはまり四六城木工作殺しの犯人にされるが、犬山道節に救はれる。指月院で丶大法師と再會。濱路はかつて鷲にさらはれた里見義成の五女濱路姫と判明。
翌々日甲斐國守武田信昌、指月院で信乃と道節に對面。
十一月二十日信乃と道節、濱路姫と蜑崎照文、指月院を出立。信乃道節は墨田河にて蜑崎等と別れる。後に奧州會津、白河、下野那須二荒山へ。
文明十四年(1482)壬寅 犬阪毛野、故郷を旅立ち京都から信濃國へ。
三月末犬田小文吾、越後國小千谷の石龜屋に宿泊。
四月九日小文吾、古志郡二十村の牛の角突の神事にて暴牛をとり押さへる。三四日後から眼病で物が見えなくなる。
五月十八日舩虫、按摩を裝って小文吾を襲って捕らへられ、土地の法に從って庚申堂に吊るされる。犬川莊助、知らずに舩虫を救ふ。小文吾の目、見えるやうになる。
五月十九日舩虫の夫酒顛二ら、石龜屋を襲ふが莊助・小文吾に討たれる。舩虫は逃亡。
五月二十日莊助・小文吾、越後片貝城主箙大刀自に捕まる。
六月莊助・小文吾、越後片貝執事稻戸由充により命を救はれる。その後、信濃國下諏訪で毛野と再會。青柳で毛野と別れる。
六月下旬莊助・小文吾、指月院に戻るが、すぐに出立。
六月下旬大角・現八、赤岩に戻り返璧にて雛衣の三囘忌の法宴を行ふ。
上總國館山城主蟇田素藤、濱路姫を嫁に求めるも義成に拒絶される。
九月中旬大角・現八、赤岩を出立。
九月大角・現八、武藏國足立郡穗北で地元の郷士氷垣殘三に盗賊と間違へられるが、眞犯人を捕らへた信乃と道節と再會。四犬士、氷垣殘三の家に滯在。
十月中旬大角・現八、指月院へ向けて穗北を出立。
 石龜屋次團太、無實の罪で箙大刀自に捕まる。
文明十五年(1483)癸卯 一月十日莊助・小文吾、信濃路より指月院に戻り、現八・大角と對面。
一月十一日四犬士、指月院を立って蓑生山(身延山)へ。
同日里見太郎御曹司義通、鎧の初着の祝儀。
一月十三日後住が決まり丶大法師、指月院を去る。
同日義通、正八幡・宇佐八幡・諏訪神社の社參に出発。
一月十五日丶大法師、武藏國豐島郡葵岡で妖賊を退治。
同日蟇田素藤、妙椿尼の妖術の助けにより義通を人質にとる。
一月二十日毛野、湯嶋神社にて扇谷定正夫人蟹目上の飼猿を救ふ。扇谷の忠臣河鯉守如、毛野に奸臣龍山免太夫(實は籠山逸東太)殺害を依頼。
同日甲斐國から穗北へ向かふ途中の小文吾・莊助・大角・現八、武藏國司馬濱にて舩虫と出會ふ。同地で舟を待っていた信乃・道節も加はり、舩虫らを牛の角で突かせて殺す。
一月二十一日毛野、鈴茂林で籠山逸東太を討つ。扇谷定正出陣するも道節ら六犬士に襲われて逃亡。河鯉守如・蟹目上、自害。信乃、定正の五十子城を落とす。
一月二十二日七犬士ら、穗北に歸る。
同日里見義成、蟇田素藤征伐に出陣。
一月二十三日里見軍、素藤の上總館山城に到着。
一月二十四日里見軍、館山城を攻撃するも、人質義通を櫓の柱に縛りつけられて新戸の陣まで退却。
一月二十五日この日から里見軍、城を遠卷きにするのみ。
一月石龜屋次團太、釋放されるも越後追放となる。
二月下旬里見義實、伏姫の菩提を弔ふため富山を訪問。敵方に襲はれるが、犬江親兵衞が現れて義實を救ふ。
翌日親兵衞、館山城に赴き蟇田素藤を捕らへて義通を救ふ。
三月十日頃濱路姫の寢所に妖怪出現(實は妙椿尼)。親兵衞に番をさせる。
三月下旬義成、親兵衞に他郷遊歴を命ず。
四月一日素藤、妙椿の力により軍陣を揃へる。
四月二日素藤、館山城奪還。
四月十日妙椿、濱路姫を奪はんとして伏姫神靈に阻まれる。
四月十一日義成、親兵衞を召し返すことを決める。使者蜑崎照文、安房を立つ。
四月十二日政木狐、河鯉孝嗣を処刑から救ふ。親兵衞、孝嗣と知りあふ。政木狐、親兵衞に妙椿退治の方法を教へる。その後、親兵衞・孝嗣、兩國にて石龜屋次團太と出會ふ。
四月十三日親兵衞、眞夜中過ぎに兩國船宿にて蜑崎照文と出會ふ。ここで河鯉孝嗣は政木孝嗣と改名。その後出航。親兵衞ら、館山城を襲ひ、妙椿を退治し素藤を捕らへる(後に斬首)。
四月十四日七犬士、穗北から結城を目指して出立。(十三日との記述もあり)
四月十五日親兵衞、結城へ向けて出立。政木孝嗣、石亀屋次團太らも從ふ。
四月十六日丶大法師、下總國結城郡城西古戰場にて法要。逸匹寺住持徳用ら、丶大一行を襲ひ、七犬士ら戰ふ。ここに親兵衞も來着し丶大の危機を救ふ。孝嗣、石亀屋らは鐵砲に撃たれて川に落ちてそのまま流され行方不明。八犬士揃ふ。
四月十七日結城家の重臣小山朝重、丶大法師一行に詫びる。
四月十九日八犬士、穗北へ戻る。
四月二十日丶大法師、安房國へ戻り白濱延命寺に入る。
四月二十二日延命寺法筵第一日。義成參詣。
四月二十三日延命寺法筵第二日。義通參詣。
四月二十四日延命寺法筵第三日。義實參詣。
四月二十五日延命寺法筵第四日。里見季基、五十子を延命寺に改葬。
四月二十六日
〜二十七日
延命寺法筵第五日〜第六日。
四月二十八日延命寺法筵第七日。義成・義通參詣。
四月二十九日丶大法師、義實・義成に見參。
四月三十日丶大法師、穗北へ向けて出立。
五月初旬八犬士、瀧田城にて義實に見參。
翌日八犬士、稻村城にて義成に見參。丶大法師、富山に登り七日の斷食讀經修行。
翌日八犬士、富山に登る。
翌日八犬士、白濱延命寺參詣。
七月十日義實、八犬士を金碗氏とする勅免を得るために京都に使者を出す内談をする。
七月二十日頃親兵衞を正使、蜑崎照文を副使として京都への使者出発。
七月下旬親兵衞一行、三河國苛子崎で海賊海龍王修羅五郎等に襲はれる。
八月中旬親兵衞一行、京都に到着。
八月二十五日八犬士に金碗氏と宿禰姓を與へる勅許下り、將軍家へ執達。
八月二十七日親兵衞、花の御所に參上し宣旨と御教書を受け取る。
八月二十八日親兵衞、管領細河政元に從って參内。
八月二十九日管領政元、親兵衞を管領屋敷に留める。副使蜑崎照文は歸國。
八月頃政木孝嗣、石亀屋次團太らの鐵砲傷が治癒する。
九月親兵衞、京の五虎との武藝の試合に勝つ。
九月中旬穗北の氷垣殘三死去。
十月里見家、陸戰・水戰の調煉を行ふ。
十月管領政元、巨勢金岡の描いた無瞳子の虎の繪に瞳を入れて虎が飛び出し京を荒らす。
十一月初旬扇谷定正、穗北を襲撃。里見を討つ決意。
十一月中旬蜑崎照文、親兵衞歸東を請う使ひとして京都へ向けて出立。途中遠江灘にて凶事あり、壬癸生まれを棄船させよとの占により副使ら下船。後、蜑崎等は伊勢阿漕に流され海賊と間違はれて北畠家により禁獄される。
十一月中旬義成、間諜より扇谷定正の動靜を知り、軍議。毛野を軍師とする。
十一月二十五日親兵衞、白川山の談講谷で虎を退治。虎は元の繪に戻る。
十一月二十六日親兵衞、近江の三關を破る。その後、管領政元見送りに來る。虎の掛軸を將軍義尚憲覽、更に禁裏御所で主上叡覽。親兵衞に從六位上を與へる宣旨下りる。
十一月二十七日親兵衞、伊勢國石藥師にて從六位上の勅命を聞くが辭退。
十一月二十八日義成、洲崎明神社頭に本陣を置いて軍令を下し隊配を定める。
十一月二十九日里見軍、國府臺・行徳へ向けて安房を出陣。
十一月下旬定正の五十子城に諸侯来會。
十二月初旬棄船した京使副使ら、三河苛子崎から鄰尾氏手配の船で歸東。途中三浦氏による臨檢により新井城へ。
十二月一日山内顕定、鎌倉の館を出発。
十二月二日六郷河にて扇谷・山内の會盟。後に顕定、五十子城に入る。
十二月三日關東管領方、諸將集合して軍評定。
同日義通、國府臺城に入る。
同日行徳口。莊介・小文吾、藁人形の策をもって管領方の今井河原柵・妙見嶋柵を騷がす。
十二月四日扇谷・山内兩管領、赤嵒百中(實は大角)と出會ひ、風外道人(實は丶大)の法力による風を依頼。水軍決戰を八日と定める。
同日國府臺城にて義通、信乃・現八、軍議を行ふ。
同日眞夜中行徳口で莊介・小文吾、今井河原柵・妙見嶋柵を落とす。
十二月五日關東管領方聯合軍、國府臺・行徳に向けて五十子城を出陣。巨田道灌、助友を名代として定正に里見との戰を諫める。
同日行徳口。莊介、稻戸由充の軍と遭遇するも、三舎を避けて戰はず。
同日國府臺口。現八、長阪橋上唯一騎にて敵を防ぐ。
同日親兵衞、信濃路で關東管領方と里見家の戰を知り道を急ぐ。
十二月六日行徳口。小文吾、敵軍一の猛者と一騎討ち。
同日國府臺口。信乃、文明の岡に陣を移動。顯定、岡の陣を包圍。
十二月七日行徳口。両軍兵を休めつつ決戰準備。
同日國府臺口。信乃、猪六十五匹を手に入れる。
同日眞夜中扇谷定正の水軍、五十子城沖を出航。
十二月八日行徳口の決戰。莊助・小文吾、勝利して大石憲重・千葉自胤を捕虜にする。
同日國府臺の決戰。火猪の計により顯定の駢馬三連車を燒く。信乃・現八に京都歸りの親兵衞加はり里見方の勝利。足利成氏らを捕虜とする。
同日洲崎沖の水戰。毛野の策により敵船を燒き盡くし、里見方の勝利。毛野、五十子城に入る。穗北の一黨、忍岡城を落とし、後に道節、入城。
同日大角、三浦氏の新井城を落とす。
十二月下旬里見の諸將、敵將を捕虜として安房へ凱陣。
文明十六年(1484)甲辰 一月下旬蜑崎照文等、疑ひが解けて解放され北畠氏手配の船にて京都へ。
二月初旬蜑崎等、京都へ到着。室町殿へ參上。
二月彼岸第一日丶大法師、施餓鬼の法會を行ふ。第一日は墨田河〜兩國河。
同 彼岸第二日施餓鬼の法會。兩國河〜科革澳(品川沖)。
同 彼岸第三〜六日施餓鬼の法會。科革澳〜三浦の新井澳。
同 彼岸第七日施餓鬼の法會結願。新井澳〜洲崎。
三月十二日將軍家より關東管領御譴責の御下知が下り、將軍家の使者、勅使代、蜑崎照文等とともに京都を出発。
三月二十八日蜑崎照文、京都より戻る。
四月十五日京都からの使者、安房に上陸。義成、敗將と對面。
四月十六日義成・義通、將軍家からの諚使と朝廷からの勅使代に對面。和議の御諚と昇進の宣下。義成正四位上左少將。八犬士從六位下、信乃が信濃介になる等、各々叙任。
四月二十一日敗將歸國。
四月二十四日頃國府臺にて信乃、成氏に村雨を返す。
六月一日管領方と里見家、和睦會盟。誓書獻酬の義。諚使歸京。
六月五日勅使代歸京。ともに丶大法師と八犬士、京都へ。
六月末丶大と八犬士上洛して參内。昇殿を許される。伏姫に富山姫神の神號と勅額を賜り、丶大大禪師となる。
七月二日道節、富山に十條兄弟の碑を作る。(第百三十一囘。この時道節は京からの歸路のはず。矛盾)
七月十二〜十四日京の歸路、美濃國樽井金蓮寺にて春王・安王・大塚匠作を改葬。
七月十六日八犬士、拈華庵を訪問。
七月二十三日丶大と八犬士、安房へ歸る。
八月十五日論功行賞。八犬士城主となる。
八月十六日〜富山姫神社の勅額を藏するため、富山で作事(約三十日)。奉行は八犬士。
九月後半八犬士と里見義成の姫君との配偶を決定。
翌日武田信隆、稻村城にて五十日の閉籠。
十月武田信隆、廳南城に還任。
文明十七年(1485)乙巳 二月八犬士と里見姫君結婚。
 八犬士、故郷へ墓參。
上總國金光寺に政木狐龍の化石落下。
 杉倉氏元死去。
文明十八年(1486)丙午 七月二十六日扇谷定正、巨田道灌を討つ。巨田助友は鶴岡八幡宮にゐて命拾ひ。
文明十九年(1487)丁未
長享元年
七月二十日改元
  
長享二年(1488)戊申  堀内貞行死去。
四月十六日里見義實死去。(一説に翌長享三年四月七日)
長享三年(1489)己酉
延徳元年
八月二十一日改元
  
延徳二年(1490)庚戌  
延徳三年(1491)辛亥  
延徳四年(1492)壬子
明應元年
七月十九日改元
 親兵衞嫡男、犬江眞平如心誕生。(二世犬士で生年が明らかなのは犬江のみ)
明應二年(1493)癸丑 十月五日扇谷定正、河鯉城にて死去。(史實では明應三年?)
明應三年(1494)甲寅  親兵衞次男、犬江大八誕生。
明應四年(1495)乙卯 義通の嫡男、後の義豐誕生。
明應五年(1496)丙辰  
明應六年(1497)丁巳 九月末日許我成氏死去。
明應七年(1498)戊午 六月十二日山内顯定、北條との戰で陣没。(史實では永正七年?)
 親兵衞の娘誕生。
明應八年(1499)己未  
明應九年(1500)庚申 四月八犬士の玉の文字と體の痣が消失。(文字の消失に氣付いたのは四月十五日)
四月十六日白濱延命寺にて里見季基六十年忌・義實十三年忌。
五月靈玉を目にはめた四天神王像を安房國四隅に埋める。
 丶大法師、白濱延命寺住持を念戌に讓り、富山岩窟に入定。
明應十年(1501)辛酉
文龜元年
二月二十九日改元
四月十五日里見義成死去。
文龜二年(1502)壬戌  里見義通死去。(一説に永正十七年二月一日)
文龜三年(1503)癸亥  
文龜四年(1504)甲子
永正元年
二月二十日?改元
 親兵衞の妻、靜峯姫死去。(犬士の妻で没年が明らかなのは犬江のみ)
年月不明
(「八犬士の退隠年」參照)
 里見實堯の代になり、八犬士、家督を二世に讓り富山に隱棲。
隱棲の二十年後二世が富山に八犬士を訪問。二世に里見家から退く事をすすめて忽然と消える。二世は父達の仙化を知る。
 實堯、義豐の後、義堯の代となり三世八犬士、再び里見家に仕へる。

ver.1.13/Sep.2001
ver.1.00/Apr.1997


□ 関連 → 年表補足/八犬士の退隠年
目次 >> 情報整理(時系列) >> 南總里見八犬傳年表
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