Cruel Goodness

残酷な善行

Dec.2011

おぱく堂主人・白龍亭主


●芸術観賞?

 少し前の話になるが……TVのニュースを見ていたら「目の見えない障碍者に絵画を感じてもらう」という「善意」の活動について報じていた。だが、見ていて嫌な気分にさせられた。どういうことか?
 活動内容は──盲目の障碍者を絵画の前に連れていって、その絵に何が描かれているかとか、作者は何を描こうとしたかを解説する。どうも、そういうことらしい。
 それって、芸術観賞?
 違う。言葉での解説など「絵画についての知識を学ぶ」以上のものにはならない。絵画にしろ、音楽にしろ、言葉で語れないものを表現する手段だ。それを言葉に置き換えたところで、核となるものは伝わりはしない。それは、見て、聞いて感じるしかない。
 健常者は、見たり聞いたりした上で、解説がある。解説は主でなく従でしかない。
 そんな言葉を伝えるだけの行為が「障碍者に芸術を楽しんでもらう」だって? 見られない絵画の前に立たせて、どこをどうしたら「絵画を感じる」なのか。できるわけがない。


●つらい現実を理解しているのか

 それ以前に、この行為はきわめて残酷だ。
 人間にとって「努力しても絶対にできないこと」を直視するのは、非常につらいことだ。特に、他には出来る人がいるのに、自分だけは出来ない、という状況では尚更だ。それを忘れていられる時間だけが幸せだったりもする。なのに、目の見えない人を絵画の前に立たせる、だと? 障碍者側からしてみれば「目の前に素晴らしいものがあるのに、それを見ることのできない自分」という、つらすぎる現実と向き合わされる、ということだ。これは、精神的には拷問に等しい。
* 考えてもみればいい。耳の聞こえない人の前でヴァイオリンを弾く行為。胃を摘出して限られたものしか食べられない人の前に、美味な料理を並べる行為。そばアレルギーの人の前で、ざるそばを旨そうに食す行為。これらは、通常「質の悪い嫌がらせ」と言われ、非難の対象になるはずだ。

 TVの中で、参加した障碍者が「ありがとうございます」と感謝していたが、これも可哀想な話だ。
 この状況(=何かをしてもらっている)では、感謝しないわけにはいかないだろう。だけど、内心はどうなのか。
 障碍者の置かれた立場というのは、非常に弱い。誰かに何かをしてもらうばかりで、自分からは何かをしてあげることはできない。常に感謝をしなければいけない立場であり、感謝される立場にはなれない。そういう立場は、精神的には、とてもつらい。
* 相手に感謝される行為は、それだけで相手にとって辛いのだ、という視点を持つべきである。障碍者に限らず、発展途上国への援助とて、相手に「援助を受ける屈辱」をも与えてしまっているのだ。だからといって援助をやめるべきではないが、脳天気な善意で臨んでいいことでもない。
 楽しくもないことにも感謝しなければいけない現実。
 この活動は、障碍者にそれを強要しているだけではないのか。
 ──活動をしている側の健常者は、感謝される側だから気分は悪くなかろう。本当に相手に喜ばれる行為ならば、そういう自己満足でやっていたとしても否定はしない。むしろ「自己満足なき善行」などというものこそ偽善だろうから。だが、それも相手に寄り添った行動あってのこと。そうでなければ、ただの傲慢にすぎない。


●本当に芸術を楽しんでもらうには

 本当に「障碍者に芸術を楽しんでもらいたい」というなら、別の方法があろう。
 目が見えなくても、耳が聞こえれば音楽が楽しめる。耳が聞こえなくても、目が見えれば絵画が楽しめる。そういう「感じることのできる手段」による芸術を、より楽しんでもらえるようにすればいいだけだ。いや、それしか方法はあるまい。
 じゃあ、ベートーベンはどうなのか?
 耳が聞こえなくても、音楽を作れたではないか?
 ベートーベンには耳が聞こえた時期があり、音楽の記憶がある。また、楽譜から音楽を再現する能力があるから、耳が聞こえなくなっても、楽譜から音楽をイメージできる。
 それと同じ条件を満たしている障碍者相手なら、耳の聞こえない人に音楽観賞というのも、ありかもしれない。だが、それは特別なことで、一般にも通用することではない。一緒にしてはいけないのだ。

 確かに、善行というのは難しい。知らずに相手を傷つけることもある。
 自分にとっての「善意」が、本当に相手にとってもありがたいことなのか。常に自問自答しても間違うこともある。
 だが、この TVのニュースになった活動は、ちょっと考えれば「相手にとって辛いかもしれない」と分かるはずだ。本当に分からないのか。あるいは、分かっていてサディズムでやっているのか。後者だったら怖いが、前者でも溜息の出る話だ。
* 真のサディストは「善意の仮面」を被っていることが多いから、後者の可能性もありえなくはない。だとしたら、障碍者に精神的苦痛を与えて暗い愉悦に浸っている、ということになる。
* 仏陀ならば「分かっていないだけ前者の方が罪深い」と言うのだろうな…。


 ──確かに、何もしないより、善行をめざしているだけ、この人たちも立派なのだろうとは思う。だが、結果的に、残酷な行為をしているのでは、意味がないし、もったいない。ついでに言えば、これを、さも素晴らしい行為であるかのように嬉々として報道した放送局の鈍感さにも、寒気を感じざるをえない。