Neon Genesis Evangelion

「エヴァンゲリオン」TV版最終話考

Dec.2011(追記/Aug.2014)

おぱく堂主人・白龍亭主


Caution! ネタバレを含むので「エヴァンゲリオン」を見ていない方は読まない方がいいかも。

●今さらながら…

 TVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が放映されたのは、1995〜1996年なので、この文章を書いている時点で 15年以上が経過していることになる。なんで今さら、このテーマで書くのか?
 要するに「今さら初めて見た」のである。……いや、正しく言えば、見たのは2年以上前だが。
* 実を言えば、このページを書き始めたのは 2年前である。綾波レイについても書こうと思いつつ、2年経っても、まとめられなかった。結局、それを除外する形で、このページを公開することにしたわけだ。
 初回放映されていた頃は、自分の人生において最も忙しい時期で、元日も出社しないと仕事が間に合わない、といった状況だった。この頃の TV番組は、これに限らず全くといっていいほど見ていない。



↑エヴァの舞台を走る、箱根登山鉄道。
( Powered by Opaku's Train Kit )

 それはともかく、だ。
 事前に「最終二話は物議をかもした」という予備知識を持って見たわけだが……確かに、これは論議を呼ぶだろうなぁ、という結末であり、自分も語りたくなってしまったわけである。

 この最終の二話に関しては「表現手法」と「表現内容」の問題を分けて考えないと混乱しそうだ。
 当時「制作期間が足りなくなった」という理由が語られていたらしいが、これは、明らかに手抜きと言える「表現手法」を説明する理由にはなるが、謎とされる「表現内容」の説明には全くなっていない。
 ここでは「手法」については語らない。あくまで「内容」だけを考えてみたい。


●確信犯的な破綻

 散りばめられた謎と伏線を回収しつつ盛り上がってきた所で、一転、主人公の心の問題を語る内容に変わり、そのまま終わってしまう、という展開。物語としては破綻している、としか言いようがない。
 もっとも、第一話〜第二十四話と最終二話を分けて見ると、それぞれは破綻してはいない。
 最終二話だけを見れば、所謂アダルトチルドレンというテーマを(ストレートすぎる嫌いはあるが)ごく普通に扱った話であり、矛盾はない。
 この両者を強引に結び付けたところに、物語の破綻があるのだ。

 第一話〜第二十四話は面白い。クオリティの高い物語だと思う。
 これだけの作品を作る人間が、この結末と結び付けることで物語が破綻することを理解できないとは思えない。どうも「破綻は分かっていたが、あえてやった」という感じがする。確信犯ということだ。

 物語全体としては破綻してしまう、という問題を知りつつ、あえてもってきた最終話とは何か?
 そこまでして作品中に取り込まねばならないのは何故か?
 答はひとつしかないと思う。
 ──つまり、それが作者の表現したかった事の「核」だ、ということだ。

 そして、この最終話こそが核だと考えると、第二十四話以前は、この核心へと人々を導く「理想的な導入部」であることに気づく。理想的、というのは、物語の面白さに人々がついてくる、という意味だ。最終話だけでは、ついてこない人々をも、この導入部ゆえに、ひきずりこむことができる。やり方としては「騙し」に近い。
 ふと「満蒙開拓団」を思い出した。
 広大な土地を農地として開拓できる、という甘い言葉で誘って、結局連れていった先は不毛の土地だった、という、あの歴史だ。エヴァンゲリオンの結末は決して不毛ではないが、人々を連れてゆくテクニックとしては同様のものを感じてしまうのだ。それほど、第二十四話までは魅力的だ、ということでもある。
 おそらく、多くの視聴者は「騙された」と感じたのではないか。


●救済なのか?

 主人公、碇シンジは自己評価の低い少年だ。
 それがエヴァンゲリオンのパイロットとして他者から評価されることで自我を確立してゆくようにみえながら、同時にパイロットとしての自己嫌悪が増大し、その狭間で行き詰まる。第二十四話までは「よく出来た話」である。
* 最終話を見た後で振り返れば、主人公だけではなく、主要登場人物すべてが自己評価の低い人々であることに気づく。片寄った設定ではある。

 最終二話は、その心の行き詰まりにのみ焦点があたり、それ以外の世界が消える。
 世界がどうなったのか無視して終わるところに物語の破綻があるわけだが、要するに作品の「核」としては、世界はどうでもよくて、心の問題こそが重心を持っている、ということだろう。

 件の最終話である。
 自問自答のような展開が延々と続き、結局、他者からの評価に頼らなくても「生きていていいんだ」という認識に至って、めでたしめでたし、パチパチパチといった結末。拍手のシーンだけは気味が悪いが、それを除けば、結論として何かが間違っている、というわけではない。
 実際、何者にも依存しない高い自己評価が得られるのであれば、それに越したことはない。
 直球すぎる表現で、作者が最終話=核にこれを持ってきたということは、自己評価の低い人々への「救済」としてのメッセージなのだろうか。
 これがもし救済であるとすれば、はっきり言って安直にすぎるし浅薄だ。
 逆に、作者がこれが安直であることを知った上で表現しているのだとすれば、救済に見せかけて、本当の「核」は別にあることになる。そうであれば、そこには「毒」があるだろう。

 何者にも依存しない高い自己評価。それは理想だ。
 しかし、現実には、親から「理想的な愛され方」で育った者にしか手に入らない希少なもの。多くの人間は、そんな高い自己評価は得られず、他者から認められることで、自己を支えるしかない。その中で、自己の心を直視して対決できた者が、高い自己評価を自得することもあるが、心を直視するのは実際は恐ろしい話で、そう簡単なことではない。無理して直視すれば、精神に異常をきたす怖れもある。それは、信心深い人から神様を奪ってしまうぐらいの衝撃だからだ。
 本題に戻る。
 主人公シンジに対して「エヴァに依存するな」といったメッセージが与えられるが、正直、無茶だと思う。
 多くの大人が「仕事」に依存して自己を支えているではないか。にもかかわらず、何かに依存して自己を支えてはいけない、というのは厳しすぎる。というか、自分にできないことを、子供に求めるな。
* 仕事に依存することで心が救済される、からこそ心が不安定な人間は、若者より仕事に熟練した後の大人に少ないのである。しかし、そんな大人とて、定年で退職した途端、依存対象から切り離される。人生において仕事とは別に自己評価を高める努力を怠れば、老後に精神を病むことになりかねない。

 シンジは作品中で救済を得た(ように見える)が、現実にはこの状況下でこんな簡単に救済は得られまい。安直とは、そういう意味である。


●わからん…

 そもそも、主人公たちを自己評価の低い人間にしてしまったものは何か。
 答は簡単で「愛の欠如 → 愛着障碍」である。
 シンジも含めて母親を失った者ばかりであるし、父親をも事実上、失っているに等しい。碇ゲンドウという父親は、親の愛の欠片も見られない。子供を自己の都合のいい存在としか見ていない。
 こんな親は実は多い。
 たとえば学業の成績が良かろうが悪かろうが子供を大切にするのが、本当の愛である。だが、現実には学業成績が悪いことを、めちゃくちゃ怒る親もいる。それでも親の側は「愛があればこその躾だ」などと主張するだろうが、それで子供が苦しんでいるとしたら、事実上は愛とは呼べまい。暖かくなければ愛ではない。
* 学業をとやかく言うのは「過干渉」であるが、自分の場合は、一切かかわってこない「ネグレクト」な親であった。親の過干渉に苦しんだ人からは「気楽でいいね」と見られるが、これはこれで苦しい。自分の父親は、母親と自分を捨てた上に、養育費を一切送ってこなかった。母親が「千円でもいいから送ってくれ」と懇願しても、遂に一円も送ってこなかった。さらに、父方の祖母に「おまえの父親は子供を欲しがらなかったので、わたしが子供を作るように言った。だから、おまえは今ここにいるのだ」と何度も言われた。つまりは、父親にとって自分は「いらない子供」だったということを、祖母が証言してくれたわけだ。どれほど傷ついたか、嬉々として語る祖母は何も分かっちゃいなかった。──よく「どんな親でも子供を愛するものだ」などという人間がいるが、その薄っぺらい言葉が、愛されなかった子供たちの心をどれほど傷つけているか。そういう偽善を言うな。子供を虐待死させてしまうような親でも愛があるとでも言うのか。

 エヴァンゲリオンという物語の発端となっている「人類補完計画」なるもの。
 その詳細は明らかではないとしても、明らかなことがひとつある。それは人類の大半にとっては「大きなお世話」であるということだ。つまりは「過干渉」である。
 世界そのものが「迷惑な大人」で覆われている、ということだ。
 意味深でよくできた設定である。

 しかし、主人公を苦しめる元凶がこれほど明確であるにもかかわらず、それに触れないまま作品は終わっている。
 この辺がどうもよく分からない。
 エヴァが母体を象徴しているように見えるのに「エヴァに依存するな」というのは、愛への依存の否定にも見える。両者を加味して考えれば「自立せよ」とか「依存するな」というメッセージにも見える。だが、元凶に踏み込むことなく、そんな綺麗事を言われても困る。愛への依存が必要な子供時代に愛を欠如させたことが、そもそも自立できない最大の原因であろう。そこを抜きに「正しいこと」を言われたからといって、それはただ「大人の勝手な論理」を押し付けた結末でしかない。

 ──だが「そんなつまらない結末を語るために、こういう作品は作らないよなぁ」とも思うのである。

 最終二話で、世界を無視してまで、主人公の心に焦点を当てている。
 そこまでして、しかも、アダルトチルドレンについての知識も十分あるであろう作者が、そんな薄っぺらい結末を描くのか。──ありえまい。
 この結末の分からなさは何か?
 推測するに、これは「作者本人も明確な結論に達していない」ということではないか。はっきりと言語化されてはいなかったが、作者の頭の中にイメージはあったのだろう。それを作品として表現するつもりではあったが、目指すレベルが高すぎたのか、深すぎたのか……結局は、まとめきれなかった。
 恐らく、そんなところだろう、と見ている。
* ……などと今さら語ることの意味って何だろう(おぃ)


●旧劇場版を見て…(Aug.2014 追記)

 2014年 8月某日の深夜に、1997年夏の映画、旧劇場版「Air/まごころを、君に」が TV放映された。
 これは、主人公の内面表現だけになってしまった TV版の最終二話に代って、世界がどうなったのかを表現した、別視点での最終二話。ゆえに、TV版を見ていない人にはさっぱり分からない内容となっている。
* 一部シーンが音声だけ、という点は残念だったが、TV用には残酷すぎるのか性的描写が問題なのか、そんなところであろう。その部分の映像を見ていないから詳細分析ができるわけではないが、テーマ的には問題ないはず。

 感想を一言にまとめれば「そっちか!」ということになる。

 そっちって、どっち?
 つまり『源氏物語』や『南総里見八犬伝』の系譜ということだ。……とか書いても、説明しないと全然わからんわな。

 男=子を包み込む「母」と、男の前に立ち現れる他者(異物)としての「女」の、女の両面と、男との関係。
 これは普遍的なテーマである。
 まず『源氏物語』は、「母」の幻影を求めて「女」を渡り歩く光源氏から、浮舟という「女」の拒絶の前に立ち尽くす薫に至る、男と女の物語である。
 また『南総里見八犬伝』は(小谷野敦氏の著書『八犬伝綺想』の分析によれば)、「女」を排除し「母」たる伏姫が覆い尽した、八犬士=男にとってのユートピアという歪な世界の成立と、それを破壊し「女」のいる世界を取り戻す真の主人公「父」の物語なのだ。
* 八犬伝前半に数多く登場する「女」は、八犬伝後半に至ってことごとく退けられている。小谷野氏はこれをとっかかりにして、八犬伝という作品の裏に隠された壮大な男女のテーマをあぶり出したのである。『八犬伝綺想』はおすすめの本だ。
 そして、エヴァ劇場版も、すべてを破壊し「母」たるリリス=ユイ=綾波レイが覆い尽した歪なユートピアの成立(=サードインパクト)と、それを自ら拒絶した主人公シンジの物語と言い切ってよい。最後に生き残ったのが、シンジの他には、他者としての「女」アスカだったのが、上記古典二作品と同じ流れにあることを示している。

 これを見るまでは「親子」がエヴァンゲリオンのメインテーマだと思っていたが、劇場版を見て「男女」というテーマが隠れていたことに、初めて気づいた。アスカという女性の意味も、ようやくわかった。「そっちか」というのは、そういう意味だ。
* もっとも、親子関係が子供の後の男女関係に多大なる影響を与えるのだから「親子」と「男女」の問題はまったく不可分というわけでもない。

 ただ、気になることがある。
 八犬伝では八犬士以外の「父」の手で切り裂かれるユートピアが、ここではシンジ自らの決断で崩れる。だが、神童たる八犬士ですら自ら到達できなかった地点に、シンジはどうやって達したのか?
 綾波レイがそこに導いたようにも見えたが、その行為は「母」としてのレイの自壊ともいえ、他者のいないユートピアを自ら作り、自ら破壊に導くという矛盾が生じる。
 一方で「父」の位置にいるべきゲンドウが母胎にとりこまれて一体化してしまったようにも見え、さらにカヲル=アダムがレイ=リリスと融合したのではと思わせる場面もある。そうなるとレイが「母」でも「父」でもあることになってしまう。そうだとすれば、レイの行為の矛盾も説明できなくはないが、なぜこの両者が融合しなければいけないのか?
 もうひとつ、他者を望んだ後のシンジが、なぜアスカの首を締めるのか。これも謎だ。首を締めるという行為は、他者の拒絶だからだ。「死んじゃえばいいのに」という拒絶の言葉を発していた時のシンジならありえても、他者を受容した後のシンジの行為としては、不自然きわまりない。

 ……などと、あれこれ考えを巡らせているうちに、憂鬱な答がひとつ見えてしまった。

 最後にアスカの首を締めた以上、やはりシンジは他者を受け入れていないのではないか。とすれば、他者が存在する世界を望んだのはシンジの本音ではない。実際、シンジのように父母の愛情が欠落した環境で育ち、強い愛着障害に陥った人間は、情緒が未発達であり、他者を正しく把握できない。自他の境界があいまいになるのだ。このような人間が、他者のいないユートピアではなく、他者の存在する世界を望むわけがない。
* 情緒未発達な人間の極端な例が、ストーカー殺人犯だ。彼らは、相手が他者だということが、本質的には理解できない。だから、自分が好きなのだから相手も自分が好きになるのが当然と思っている。相手には相手の立場や感情があるということを、知識としては理解できても、感覚として理解できないのだ。だから、他者が自分の望まない姿で立ち現れた時、それを抹殺しようとするのだ。他者を他者として受け入れられないからである。実際、逮捕後の彼らの言葉をよく聞いてみれば、彼らには常に「自分」しかないことがわかる。
* もうひとつ類例を挙げれば、原理主義的テロリストもそうだ。彼らは、自分の正義だけが絶対で、相手には相手の正義があることなど、まったく理解できない。すべてを自分の基準で断罪しようとする。
* シンジの「死んじゃえばいいのに」という発想や、アスカの首をしめる行為は、これらと同一線上にあるものだ。シンジは「弱者」の位置にいるから暴力性が隠れているが、「強者」の位置に立った時は無慈悲な暴君と化す可能性がある。その意味で、父親ゲンドウと本質的には似ているかもしれない。いや、ゲンドウは少なくともユイという「女」との関係を構築できただけ、シンジよりは情緒が発達している。
 シンジの望みではないとすれば、シンジはなぜそうしたのか?
 答はレイの導きにある。「母」でも「父」でもあるのだとしたら、絶対的な存在としてシンジの上にのしかかる。これに逆らえるほどシンジの自我は発達してはいない。そう、シンジはレイのために望まない世界を決断したのだ。言い換えれば、シンジは「親」に対して「いい子」になってしまったのである。
 レイが「母」であるだけならシンジを包み込むだけで済んだが、対立すべき「父」をも取り込んだことでモンスターとなってしまった。結果、シンジは、レイに囚われたまま、本人は永遠に空虚である。一見救済に見えながら、これは永遠の絶望であり、酷い結末と言わざるをえない。
* 一見救済に見えるところに悪意が隠されており、その闇の深さは量り知れない。

 結局、「男女」のテーマを巻き込みつつ、やはり「親子」がメインテーマだった。一旦「そっちか」と思ったことは、あれこれ考えることで「やはり、こっちか」という感想に変わった。

 こんな世界に生き残ってしまったアスカこそ哀れであり、「気持ち悪い」と思うも当然だ。
 仮に救済があるとすれば、アスカが「母」になることだが、この結末を見る限り、そんな甘っちょろい未来は絶対に来ない。アスカは『源氏物語』の浮舟と同じ、拒絶する「女」であって、この絶望は終わらないのだ。
* 1997年の段階でこれを見たら、自分はこの映画の意味がまったく理解できなかったと思う。見る側にもそれなりの人間理解力を要求する作品だ。
* こんなに絶望的な物語を、メジャーな作品として世に公開してしまうなど、一種の暴挙であり、快挙でもある。制作側の人間には「してやったり」感があるのだろうな。