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「小暮写眞館」少数派の読後感

Sep.2014(追記/Nov.2014)

おぱく堂主人・白龍亭主


Caution! ネタバレを含むので「小暮写眞館」(及び「ソロモンの偽証」)を読んでいない方は読まない方がいいかも。

●「小暮写眞館」とは

 宮部みゆきの小説。講談社文庫で上下巻。
 かつて「小暮写眞館」だった建物を中古で購入して移り住んだ花菱家の、都立高校生の長男・英一と、その周辺の日常が舞台。ちょっとした問題が発生し、それを主人公らが解決する話が全部で四つ。余韻を残しつつもちゃんと解決するので、読んでいてモヤモヤしたりイライラしたりすることはない。普通の日常を描きながらも、面白く読ませるのだから、流石の筆力というべき名作だろう。
 全四話に分かれてはいるが、全体としてひとつの物語になっている。
 主人公・花菱英一は、垣本順子という女性(毒舌にして邪眼、非常識で精神的に不安定な不動産屋の事務員)と出会う。最初は反発し、徐々に打ち解けてゆく中で、英一は色々なことを考える。その結果、英一は家族が長年かかえる問題と正面から向き合い、一応の解決に導いた。その過程で垣本順子もまた、それまで逃げてきた毒親との対峙を決意し、未来に向かって進んでゆく。
 ……という、ちょっとしたハッピーエンドで物語は閉じる。



↑小湊鐵道・飯給駅。「小暮写眞館」の表紙写真とほぼ同じアングル。
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 大多数の読者は、すっきりさわやかで温かい気持ちで読み終わるだろう。
 だが、自分は暗い気分なった。
* 暗くなったからといって、作品にケチをつけるわけではない。つまり書評ではない。多数派の読者が決して感じることのない、少数派だけの読後感について、ただ語るだけである。読後感に限定した読書感想文といったところで、作品全体を語るものではない。


●垣本順子という異物

 この物語の登場人物は、皆、普通の人々である。
* 主人公とその友人が高校生にしては優秀すぎて大人すぎる嫌いはあるが、医者や弁護士をめざす同級生がいるようなレベルの学校だから、そういう生徒がいてもおかしくはないか。
 そんな平凡な日常の中に、ひとり異物が存在する。
 不動産屋の事務員、垣本順子だ。
 睡眠薬等の過剰投与で何度も胃洗浄するはめになるなど、精神的に不安定な人間で、且つ、地元に根ざしていない流れ者である。

 このような異物との接触があったからこそ、花菱英一は強く影響を受け、変わることができた。
 何かを変えるために、強烈な異物が必要なのは、よくある話である。古い例えになってしまうが、有名な西部劇映画「シェーン」でも、よそ者のシェーンがやってきたからこそ、悪党は倒されるのだ。
 事が成し遂げられた後、シェーンは去り、垣本順子も主人公の住む街から姿を消す。
* ネタバレありといいつつ、英一周辺のメインのあらすじについては具体的には触れない。垣本順子がらみについては、以下、さらにネタバレするので注意。

 何故、去るのか?
 流れ者だから、再び流れてゆくのは当然なのか?

 逆に、去らなかったらどうなるのだろうか。
 シェーンが山に去らなかったら、三角関係という厄介な問題に発展する可能性があった。物語を美しいまま終わらせるには、彼は去るしかないのだ。
 では、垣本順子は?
 もし彼女が戻ってきたら、花菱英一と、七歳年上の彼女との恋が発展してしまった可能性がある。未来あるエリート学生と、年上のやばい女。この図式は、常識的な世間から見れば、モヤモヤしてすっきりはしないだろう。物語をきれいに終わらせるには、垣本順子は去らねばならないのだ。

 このパターンは定番すぎて、大多数の人間は違和感を覚えたりはしないだろう。
 おそらく、作者もまた違和感なく自然に書いたところだと思う。

 しかし、これこそが、読後に暗い気分になった原因なのだ。


●去って戻らない彼女

 垣本順子は、母親から逃げてきた。
 母親の新しい男にレイプされても母親が助けてもくれなかった。このままでは母親と男を殺しかねないと怖れて逃げ出したのだ。そして流れ着いた先が、主人公の住む街の不動産屋の事務員という職であり、社長は、たびたびトラブルを起こす彼女を受け入れていて、彼女は一応の安住を得ていた。

 彼女が街を離れたのは、逃げ続けることに終止符を打つためだった。
* 目的地は不明だが、大船駅で主人公・英一と同じ横須賀線の上り電車に乗らなかった最後の別れ方からすると、下り方面か、あるいは湘南新宿ライン経由で埼玉県方面か。本籍が埼玉県とのことなので、埼玉のどこかという可能性は高い。

 だが、彼女は英一の元には戻ってこない。
 それから年を経て、英一が大学生になった頃、千葉県の小湊鉄道の写真を送ってきて、垣本順子がどこかで未来を見つけたことが暗示される。あくまで暗示であり、具体的な消息を知らせて来たわけではない。

 なぜ?

 彼女は、未来を得るために一旦は親元に戻って決着をつけてくる必要はあっただろう。
 だが、せっかく手にした安住の地に戻らず、捨てる必要があったのか?
 逃げ続けるのを止めたのは、不動産屋の社長や英一との信じられる人間関係という支えがあればこそだ。そういう心の足場なくして、毒親という強敵とは戦えない。
* 安心のない環境にある者は、港のない船と同じである。港があってこそ出航できるのだ。
 主人公らとの関係は、彼女が人生で初めて得た大切な宝であって、簡単に捨てられるものでも、捨てていいものでもない。
 でも、捨てた。
 捨てて去って、見知らぬ土地に新たな安住の地を探した。

 本当に?

 流れ者が流れた先で生活を築くのは大変である。
 不動産屋の社長のように問題児を受け入れてくれるような心の広い人間は稀で、他に安住の地を見つけるのは至難のはずだ。となると、写真の暗示とは裏腹に、本当は未来なんか見つけてないのかもしれない。だから連絡先を知らせることができないとも考えられる。
* 船で例えれば、母港に戻らないということだ。強靱な精神を持つ者には可能でも、心が不安定な者には、現実には不可能だろう。港のない航海は発狂するほどの地獄でしかない。
* 妄想を逞しくすると……彼女が物語の最後に送ってきた、飯給駅の写真=表紙の写真は、撮影地点とおぼしき場所に実は鳥居があるのだ。つまり、神社から見たアングルである。それゆえに、垣本順子は神になってしまって、すでにこの世にいないのでは?……なんてことまで考えてしまった。非常にやつれた女性という記述があり、命がか細く感じるのも、こんな妄想を生む原因のひとつだ。

 つまり、自分にとって、この作品で最大のひっかかりは、垣本順子が戻ってこないことにある。

 不幸慣れして、せっかく手にした幸福が落ち着かなかったのか?
 英一との深入りを予感して、それを怖れたのか?
 理由はわからない。
* 上の二つは、自己評価の低い人間ならありうる理由を考えてみただけ。
* ネットの書評では「英一との心地よい距離感の関係を失いたくないから遠く離れた」という分析もある。それは「100が得られないのならむしろ0がいい」という完璧主義、あるいは理想主義の発想だ。英一との距離感が変化してしまったとしても、それも現実。現実主義ならば、80や60になったとしても向き合えるはずだ。つまり、この分析が正しいとすれば、遠く離れたのは、現実から逃げたことになる。逃げ続けてきた彼女だから、また逃げてもおかしくはないし、逃げることが悪いわけでもないけれど…。

 垣本順子が主人公の世界から消えることで物語はすっきり終わるとしても、視点を彼女の上に置いてみると、あまりに酷い。

 主人公を含めて、彼女以外の人々は逃げなければいけないほどの不幸もなければ、流浪の苦労もない。ただ無自覚に幸福である。
 その一方で彼女だけは、不幸な流浪から、幸福な定住を得られるかと思いきや、再び流浪しなければならない。
 それが彼女が望んだことだとしても、そう望まなければいけない位置にいること自体が不幸だろう。彼女の上にだけ「普通」という名の幸福がないのだ。


●涙しかない

 主人公・花菱英一は王道を行く。
 王道の物語の中では、邪道は掃き清められ、世界から退場させられる。
 多数派は主人公=王の物語としてこれを読む。だから、すっきりとした読後感になるのは当然だ。
* ちなみに自分の家族は「ろくでもない女が主人公の前からいなくなってよかった」と評した。これも少し偏ってはいると思うが、それでも普通の感覚に近いだろう。

 しかし、邪道の側に思いを馳せる少数派としては、この結末は悲しくて哀しくてやりきれない。
 この物語を読み終えて、自分は垣本順子に涙した。

* 作者のプロフィールを見れば、主人公と似た多数派=定住者=王道側の人間である。異物として排除される側を生きてはいない。弱者に優しい視点を持つと評価される人であるが、それでも邪道な流れ者を退場させてしまったのは、作者自身の立ち位置が関係しているのかもしれない。

[ おまけ・鉄道の事 ]
* 鉄道ファンとしての余計なツッコミをひとつ。垣本順子がJR京浜東北線の駅のプラットフォームから線路に降りてしまった時、「正面から電車が近づいてくるのを見たくて」と言っていた。で、線路に降りなくても正面から見られる駅はどこかという話につながり、最終的にたどりついたのは、小湊鐵道・飯給駅だ。でも、この駅はプラットフォーム上から「ほぼ正面」で見られる駅であって「真正面」から見られる駅ではない。ついでに言うと「ほぼ正面」でいいのなら、日本全国ほぼ全ての駅で見ることが可能であり、垣本順子が飯給を選んだ本当の理由は別のところにあるはずだ。


●「ソロモンの偽証」に継続された異端児(Nov.2014 追記)

 その後「小暮写眞館」の後に刊行された宮部みゆき作品「ソロモンの偽証」を読んだ。
 新潮文庫で全6巻。かなりの長篇で、複雑で重層的な物語である。その中に「小暮写眞館」と同一のテーマが隠されているのに気づいたので、ここに追記することにした。
* 以下「ソロモンの偽証」のネタばれありなので注意。

 大ざっぱにまとめると、ひとりの中学生の転落死事件がモヤモヤを残して決着をしたことに対して、納得できない同級生が学校内裁判という形をとって真相を追究する話である。その過程で、転落死した柏木卓也という少年の姿が明らかになるが、彼は札付きの不良少年にまで「やばいやつ」と評価されるような究極の異端児だった。
 つまり、最も異端なものが世界から消えたところからスタートする話なのだ。
 無論「小暮写眞館」とは全然違う内容の話ではあるのだが、普通=多数派と、異端=少数派という図式は色濃く感じられ、作者の中で意外に重要な意味を持っているのではないか、と思わせるものはある。しかも「小暮写眞館」では最後に排除された異端児が、「ソロモンの偽証」は排除されたところから始まるのだ。「源氏物語」に隠されたテーマを「南総里見八犬伝」が継いでいるように、これはある意味で続編なのかもしれないと思った。
* 「南総里見八犬伝」が「源氏物語」を継いでいるという説は、小谷野敦氏の「新編・八犬伝綺想」(ちくま学芸文庫)による。

 ここでは小説の主筋とは関係なく、柏木卓也という異端児だけに集中する。
 彼は、病弱で両親の過剰な庇護の下で育つ中、子供の頃から「死」に強い興味を抱きつつ、不条理な世の中で自分の生きる意味は何かと問うような繊細な少年である。事件の真相を追ううちに、彼が孤立し、かつ他者を見下し、最も親しかった友人・神原和彦への激しい敵意も明らかになる。そして、転落死は自殺であった。
 問題はここからだ。
 物語はあっけないぐらいスッキリ終わるが、最後に、死体の第一発見者・野田健一の二十年後という後日譚がとってつけたように追加されている。主人公格の藤野涼子でも神原和彦でもなく、敵役の大出俊次でも三宅樹理でもなく、なぜか彼なのだ。不自然な匂いのするところには、隠された意味がある。となると、野田健一に注目しなければならない。
 この小説は視点が次々と移動するが、野田健一視点の個所に何かあるはず。読み返して気になったのは、文庫版最終巻の中程、柏木卓也が神原和彦にぶつけた敵意の言葉が明らかになるところだ。藤野涼子の反対で公にならなかった言葉について、野田健一は公にすべきだったと後悔している。この激烈な言葉こそ柏木卓也を理解する最も重要な言葉であるにもかかわらず、公開に反対した藤野涼子はそのことを受け入れられなかったわけだ。つまり、彼女は多数派=異端児の心を理解できない側の代表にすぎず、多数派と異端児の両世界を見通せる位置にいるのは、野田健一だけということを暗示している。
* 後に柏木卓也を救えたかもしれない等と脳天気に語る生徒たちの中に、野田健一がいないことも重要だ。
 小説の前半で野田健一は殺意というものを生じさせていて、その過程も丹念に描かれている。このことが、柏木卓也が自らを殺した本当の意味を理解するための伏線になっているわけだが、それだけではない。
 実はこの物語は、最も重要な真実が語られないまま終わっている。
 殺意にも似た柏木卓也の強い敵意。彼がどういう過程を経てそこに至ったのか。ヒントとなる記述は多々ありつつも、その結論は無視されたままだ。何が起きたのかという真相は明らかになっても、なぜ彼がそうなってしまったかは、野田健一だけが言葉にできた「飢え」という感覚以上には明らかにされないのだ。だが、野田健一が殺意を醸成させた経緯を、柏木卓也に重ねてみると「飢え」という言葉の背後にある、言葉では語られないひとつの答が見えてくる。逆に、重ねてみないと見えてはこない。
 つまり、本当の真相は言外にあるのだ。
* 敵意や絶望は自然発生するものではない。何か(あるいは誰か)に追い詰められて(追い詰められた自覚がなくても)初めて生まれるのだ。その意味で、自殺は、そこに追い詰めた(追い詰めた自覚がなくても)者による他殺とも言える。大出俊次や三宅樹理も追い詰められ傷ついているが、自殺に至ってもいないし他者の命を奪うところにも至っていない。自死を選んだ柏木卓也こそが最も傷ついた者であり、その傷をつけた者(そこまで「飢え」させた者)こそが本当の殺人者だ。だが、そこまで言ってしまうことは社会通念上は認められない。だからこそ、作中ではなく言外に結論を追い出してしまったのだろう。
 ヒントは十分に用意した。あとは読者が読み解け。──曲亭馬琴が「南総里見八犬伝」で読者に突き付けた謎=隠微を、宮部みゆきもまた読者に突き付けているのだ。
* 馬琴の場合は、作品の中に解くべき謎が隠されていることを、読者に対して明らかにしている。馬琴は小説論「稗史七則」で、こういう謎のことを「隠微」と呼んでいる。


 ……という、一筋縄ではいかない曲者の作者である。ならば「小暮写眞館」の最後で垣本順子が周到に排除されていることも、何か隠された意味があるのかもしれない。そこまで読み解く力は自分にはないが。

* 聞くところによると、宮部みゆきはある時点で心境の変化があったらしい。「小暮写眞館」も「ソロモンの偽証」も、それ以後の作品だ。ネットの書評の中には「以後は面白くなくなった」という意見もちらほらある。例えていえば、以前は大波がうねる荒れた海面だったのが、以後は一見静かな波しか立たない海面になった感があるから、そう思う人がいてもおかしくはない。だが以後はおそろしいほどに深いところに踏み込んでおり、海面は静かでも深海は激しく動いている。それなりの人生経験を積んでいないとその深みは見通せないから、ついて来れない読者もいるわけだ。自分も、若い頃だったら「小暮写眞館」や「ソロモンの偽証」の面白さが理解できなかったと思う。……なのに、この両作品とも若者が主人公の話だ。その意味もなんとなく分かるが、うまく言葉にできないので、今はそこまで語らないでおく。