[ 開発室・おぱく堂的 鉄道昔語り ]


[ 戯言 ]

鉄道が最高に輝いていた昭和30年代。自分が生まれたのはその頃である。
そして、気が付けば半世紀……。何事も有意義なことをなしえぬまま、昔語りができる年齢に達してしまった。てなわけで、ほとんど自己満足にすぎないが、語ってみることにした。なお、思いつくままに書いたので、時系列を無視して、話は前後している。


●1968年の沿線案内

下の写真はかなり縮小してあるが、駅の観光案内所に置いてあった「沿線案内」の表紙である。
1968年頃のもので、左から、小田急・西武・京王・京成・京急。

当時、なぜ、これを集めたかったのか。遠すぎる過去で、記憶がない。
ただし、捨てずに(捨てられずに)残っていると、詳細な記憶はなくとも、懐かしいものではある。
* 小田急のは大判だが、翌年にはサイズダウン(及び紙質ダウン。といっても他社と同じになっただけ)したものに変わった。西武のは、秩父線が工事中になっている。秩父開業直前のものだ。
* 子供の頃、海に連れていってもらったことがない。そんなこともあり、海につながる京急というのは、はるか遠い未知の世界につながっているイメージを持っていた。
* 翌 1969年に登場した 12系客車を「新車」として紹介している鉄道雑誌もあったのだが、後に家庭内にゴタゴタしたことがあり、その渦中に失われてしまった。残念。


●向ヶ丘遊園の「おとぎ電車」

向ヶ丘遊園は、かつて子供にとっては憧れの場所であった。
小田急線の向ヶ丘遊園駅から遊園地の正門まで、約1km。歩くには遠く、この間を、蓄電池機関車が牽引する「おとぎ電車」がつないでいた。やがて、それはモノレールにとってかわられたが、その切替前後に、小田急沿線に住んでいたので、両方に乗ったことがある。
* 今は小田急線の駅名に残るのみ。まさか、遊園地が消えてなくなるなどとは思いもよらなかった。
* 左上フレーム走行見本 No.29 に、おとぎ電車とモノレールの比較あり。モノレールの駅は No.774 参照。

おとぎ電車は、実質、遊園地のアトラクションと同じ。
つまり、子供にとっては小田急線を下りてすぐに遊園地が始まるのと同じであった。速度は遅く、遊園地までは長い旅路。それが逆に楽しかった。

一方で、モノレールだが……正直、幻滅だった。
外見は未来的で、乗るまではワクワクした。だが、いざ乗ってみると、中はふつうの電車に乗るのと大して変わらない。さらに悪いのは、速いということだ。たった1kmしかないのだ。目的地にあっという間に着いてしまう。
「ええっ、これだけ?」
移動手段としては正解なのだろうが、アトラクションとしては失格である。
* 以後「向ヶ丘遊園に行きたい」とは、あまり思わなくなってしまった。子供心というのは難しいものだ。
* 同じ理由で、子供心に幻滅したのが、上野動物園のモノレール(No.68)だ。速度は遅いが、それ以上に路線が短すぎ。楽しい乗り物というのは、ある程度以上の時間は乗っていられないとダメである。


●中央東線 v.s. 甲州街道

まだ小学生にもならぬ幼時、東京に住んでいたが、夏は母親の実家がある長野県に帰省した。
カーマニアであった父親が当時「スバル360」という自家用車を持っていたため、往路は甲州街道であった。一方、父親は一泊かそこらで一足先に帰京してしまうため、母親と自分は、国鉄に乗って東京に戻った。……ということで、当時の鉄道と自動車の旅を比較してみよう。
* 左上フレーム走行見本 No.295 参照。
* スバル360といえば「初めて庶民が買えるようになった車」として知られているが、そうはいっても貧乏人に買えるような代物ではなく、父の収入では買えなかった。長野県で工場を経営していた母の実家から金を借りたのである。だが、父は借金を返す気など全くなく、ついに一円すら返済しなかった。この父は後に母の実家の経営が傾くと同時に、母と子(=おぱく堂)を見捨てたが、養育費すら払わなかった。要するに「金の切れ目は縁の切れ目」そのもので、父にとって母は「金づる」でしかなかった、ということである。

当時は、国道であっても、鋪装されているのは一部だけ。甲州街道の大半は未舗装路であった。
スバル360の頼りないサスペンション+凸凹道+砂埃。しかもクーラーなんてあるはずもない灼熱の車内。これが延々と続くのである。運転している父はカーマニアだから楽しくて仕方なかっただろうが、同乗する家族にとっては苦行であった。母の実家に着いたころにはへとへとに疲れきっていた。
* 排気ガス規制もない時代。途中の笹子トンネル(有料道路だった)内の空気は淀んでいて、これも辛かった。

一方の鉄道。自分の記憶にあるのは、気動車急行「アルプス」からだが、これは快適そのものだった。
勾配のきつい中央東線の気動車時代は、列車速度は非常に遅かったはずだが、それでも道路の比ではない。揺れも凸凹道の比ではないし、窓からの風は砂埃もなく爽やか。クーラーもないしエンジン音もうるさかったはずだが、自動車の方が酷すぎた。鉄道が「陸の王者」と呼ばれたのも当然なのである。
* その後「アルプス」は、165系電車化されたが、これは更に速く、更に快適だった。→ 急行「アルプス」の歴史は No.247 参照。
* しかし 165系には辛い想い出(No.102)もある。小学生になってから、ついに家庭は崩壊し、8歳の時に長野県某所の親戚に預けられた。この時「親戚の家に遊びにいく」と騙されて連れていかれ、そのまま母親だけが「アルプス」で東京に帰っていったのだ。はっきり言うが、親は子供に対してこういうことはしてはいけない。今もって、この時の「駅での別れ」の記憶はトラウマ(PTSD?)となってうなされるのだ。……ちなみに、国連「児童の権利に関する条約」には、子供は「親と引き離されない権利」があると定められている。親が虐待をする場合等は別として、子供を親と離すことは深刻な問題なのである。


●新宿駅「アルプスの広場」深夜の賑わい

大人になってから、週末深夜の新宿駅「アルプスの広場」をたまたま通った時に、愕然とした。
「なんで、こんなに寂れているんだ…」と。
いや、新宿駅だからして人通りは多い。決して寂れているという状況でもない。だが、かつて夜行列車全盛期のこの場所を知る者からすれば、なんとも寂れた感じがしたのである。
* 昼間のシーンだが、昔の新宿駅は、左上フレーム走行見本 No.333 参照。

「アルプスの広場」は、夜行急行アルプスの乗客が待つ場所であった。
小学六年の途中で、東京から長野県に再転居したが、この時、夜行に乗った。改札が開くまで、この広場で待っていたわけだが、ものすごい混雑だった。大騒ぎする人はいなかったが、それでも、人数があまりにも多く、決して静かな場所ではなかったのだ。
その記憶と比較すると、夜行列車が衰退した時代の深夜の新宿駅は、どうしても寂れて見えるのだ。
* 前述、8歳の頃に長野県に転居しているが、再び東京に戻り、また長野県に引っ越したのだ。結局、大人になるまでの間に、13回の転居を経験した。そんな生活ゆえに「地元」と呼べる場所がない。

* 新宿とは無関係だが、アルプスつながり、ということで。長野県に住んでいた祖母からもらった切符。こういう素朴な絵を使ったものはなくなったなぁ……としみじみ思うのである。

[ 追記 ]
その後「アルプスの広場」そのものが無くなっている、とは知らなかった。
一方、バスタ新宿の YouTube動画を見て驚いた。夜行バスを待つ場所が、まさに昔の「アルプスの広場」そっくりの賑わいだった。夜行列車が無くなっただけで、深夜に移動する人々は、昔も今も変わってないんだな。


●青ガエルの「恐怖」

東急電鉄・旧 5000系、通称「青ガエル」。
幼時、東横線の沿線に親戚がおり、そこに連れていかれる時にこの有名な電車に乗った。
しかし、あの独特な裾絞りが曲者で、他の電車よりホームとの隙間が広かった。なぜかは分からないが、そこに落ちてしまうのではないか、という恐怖に怯えた。
* 昔の渋谷駅は、左上フレーム走行見本 No.540 参照。
感情の記憶は大人になっても残る。
可動ステップがあるとはいえ、秋田新幹線や山形新幹線の扉付近は、感情に波風が立つのである。


●1979年‐北海道

今は廃線になってしまった、北海道の広尾線。
自分が初めて北海道に行った時はまだ現役路線で「愛の国から幸福へ」キャンペーンの真っ最中ということもあり、ちょうど「愛国駅」が改築された直後のことだった。観光客も多く、賑わっていて、まさか後に廃線になるとは、思いもよらなかった。
* 愛国駅は No.213。幸福駅は No.215No.216

といっても、切符は買ったものの、鉄道旅行ではなく、バイク(自動二輪)で行った。
鉄道で行った方が貴重な体験談が語れたのかもしれないが、当時の自分はバイクにハマっていたので、今さらどうにかなるものではない。
* バイク一人旅は No.217
自分は、昔も今も人格に問題があり、対人関係が基本的に面倒くさい。……いや、対女性は別かな。異性関係はむしろ大歓迎だ(おぃ)。
そんなこともあり、人がたくさんいた「愛国駅」や「幸福駅」よりも、両駅の間にあって誰もいなかった「大正駅」の方が想い出深い。駅前にバイクを止めて、孤独にふけったのが懐かしい。
* 半分は、ソロライダーとしての自分の姿(=「孤高でしぶい男の俺」)に陶酔していただけかもしれない。
* 大正駅は No.214
当時の写真を今見ても、古い木造駅舎は趣深く、なぜここを観光の対象としてアピールしなかったのか、不思議な感じがしないでもない。確かにこの時代は、この種の木造駅舎はありふれていたかもしれない。だが、その当時に、自分はこの駅の方に愛国駅よりも魅力を感じたのだ。同じように感じる観光客もいたはずである。その後、廃線前に新駅舎に建て替えられたらしいが、路線廃止ということは、まだ想定外だったのだろう。

この北海道旅行で最も感動したのは「裏摩周」である。
鉄道とは直接関係ないが、これについても書いてみたい。今では体験できない話だからだ。
「裏摩周」とは、摩周湖展望台と湖を挟んで反対側にある場所である。当初、ここに行く予定はなかった。正確に言えば、そういう場所があることを知らなかった。だが、地元の人から「今年で最後だから、裏摩周は絶対に行った方がいいよ」と勧められたのである。
最後なんて嘘? 今でも「裏摩周」はある?
いやいや、確かに観光地として今でも存在はする。だが、今と当時では根本的に違うのだ。
* 自分も「今でも裏摩周はある」と知った時は騙されたのかと思った。だが、詳細を知って「あ、やっぱり、あの年が最後だったのか」と、地元の人を一瞬でも疑ったことを反省した。
当時、裏摩周方面に向かう国道も未舗装だったが、国道から分かれて裏摩周に向かう林道はひどい悪路だった。四輪車だったら底をこすらないように慎重に運転する必要のある激しい凸凹道で、オフロードバイクなら問題はなかっただろうが、自分の乗っていたのは、400ccの重いオンロードマシン。免許をとって半年にも満たず、テクニックも未熟な自分にとっては、転倒の恐怖と戦いながらの道筋であった。
* もし高校時代に免許をとっていれば、400cc限定などということはなく、いわゆる「ナナハン免許」が手に入った世代。だが、高校時代の自分はバイクには全く興味がなかった。
ようやく辿りついた外輪山の尾根にある裏摩周駐車場。
今は、ここから「裏摩周展望台」に登り、はるか下に摩周湖を見る。だが、この時、展望台はなかった。
この年が最後になったこと。それは「湖畔に下りられる」ということ。この道が翌年から通行禁止になってしまったわけだ。摩周湖の自然環境を守るためには当然の措置だろうし、むしろ、それまで観光客が自由に湖畔に下りられたのが不思議なぐらいである。
摩周湖の景色を(実際にでも写真でもいいが)見たことがある人なら分かるだろうが、摩周湖は外輪山に囲まれた湖である。しかも、外輪山から湖へは急傾斜で一気に落ち込む地形だ。
* 摩周外輪山の平均斜度は 45度だそうだ。
駐車場から湖畔へは、この急傾斜を降りるわけだが、普通に考えたらジグザグに道路を作るはずである。だが、ここにあったのは、一直線に湖まで下りる道だったのだ。一時、山国の長野県で育ち、学校の行事として簡単な登山も経験したことがある。そんな自分が見ても「嘘だろ…」と、一瞬、絶句するような急峻な山道だ。実際、木の枝に掴まらなくては登り降りできないような場所もあり、足をとられて1〜2mほど滑り落ちてしまったりもした。
* 当時の北海道には、この手の「危険な観光地」は他にもあった。
* 断崖絶壁なのに木の板を一枚渡しただけの橋にも行った。自分は高所恐怖症だから、本来ならこんな場所を歩くことはできない。だが、行った時はたまたま濃霧でここが断崖絶壁とは分からず、ほいほいと往復したのだ。結局、霧で景色が見られなかったため、晴天の翌日に出直したのだが……そこで知ってはいけない真実を見てしまい、血の気が引いたのであった。
* もうひとつ。現地で知り合ったバイクライダーといっしょに、とある露天風呂に行ったのだが、その日に泊まった宿の人から「あんなに熊がいっぱいいるところに、よく行ったねぇ」と言われ、これまた背筋が凍ったのである。
* 後々知ったのだが、摩周外輪山周辺も熊出没地帯だそうで……知っていたら、あの崖道に足を踏み入れることはなかったと思う。
やっとの思いで湖畔に下りてみると、先客が二組。駐車場に二台の自動車が停めてあったので、数は一致する。カップルとファミリーだ。あのハードな道を下りてくるような人々には見えなかったが、遠くから来たようにも見えなかった。北海道の人々にとっては、あの程度の山道はハードでも何でもないのか、と驚いた記憶がある。
それはともかく景色はどうだったのか。
──高く聳える外輪山に圧迫される。息苦しいまでの閉塞感。波の音以外に何も聞こえない静謐さ。自分を含めて三組の人間以外には、動物の存在を感じない=汚れた生物の生存を許さないかのような極端な清浄さ。完全な異世界がそこにあった。美しい。絶景としか言いようがない。だが、明確に人間を拒絶している本当の自然の怖さを同時に感じた。景色が怖い、などという経験は後にも先にもここだけだ。
* 自分が行ったことがないだけで、他にも「絶景だが怖い」場所はあるのだろう、とは思う。
* 高所恐怖とは別である。人間の生存そのものを否定するかのような、そんな怖さである。いや、それだけでは伝わらないだろうが、それ以上の言葉では説明できない。
正直に言って、他にも観光客がいてくれて助かった。
いくら孤独を愛する自分でも、人間世界と断絶した恐ろしいまでの自然に囲まれた中での「圧倒的な孤独」には堪え難いものがあった。あの美しい景色はまた見てみたいが、しかし、もう一度行くのには抵抗がある。実際には行かれないから問題はないが、もう一度行ったら二度と戻って来られないような、そんな怖さを克服できない。この感覚……古代の人ならば、おそらくは「聖域」と感じるのではないか。
* 私的な観光旅行として北海道に行ったのは、結局はこの時だけ。後は仕事で何回か行ったのみ。もっとも「仕事ついでの観光」というものはある。といっても、仕事上のつきあいもあり、同行者の意向にも配慮した結果、自分だけなら絶対に行かない場所を観光することになった。つまり「札幌競馬場」である。ギャンブルをやらない(仕組みには興味があるが、賭ける気にならない)自分が、生まれて初めて馬券を買ったのはここだ。


●EF64と受験勉強

話は再び 1970年代前半に遡る。
何度も転居した自分が、中学・高校時代を過ごしたのは、国鉄中央本線某駅近く。深夜は、EF64による貨車の入れ換えがあり、勾配機関車の大きなブロワ音と、貨車の連結器のガチャガチャいう音がよく聞こえた。
* 当時の中央東線の車輌は No.8。但し風景は架空。
自分の家にはレコードプレーヤーはなく、唯一の音源だったラジオも落として壊れたままであり、当時、受験勉強の BGM は、まさに、EF64の音だったのである。
ただし、住んでいた家からは駅はまったく見えず、かといって、どんな入れ換え作業をしているのか近くまで見にも行かなかったので、頭に残っているのは音だけであり、視覚的な記憶はない。
厳密に言えば、昼間の入れ換えは見たことはある。
駅至近の踏切が、入れ換えのために、特定の時刻に三十分以上閉じた。その時に、踏切の脇でボーッと見た記憶はあるのだ。今にして思えば、もっと真剣に作業のディテールを見ておけばよかったが、後悔先に立たず。
高校卒業後、今に至るまで、機関車のブロワ音が聞こえる場所に住んだことはなく、自分にとって、EF64 の音は青春の思い出とだけ結びつくものとなった。
その EF64(0番台)の廃車が進行している。二軸貨車も消えた。あの時を思い出せば、空間だけではなく、時間においても、遠くに来たものだと感じざるをえない。この「遠さ」が「老い」なのだろうか。
* DE10のような入れ換え専用機はまったく存在せず、常に本線機関車の EF64が入れ換えていた。貨物ホームがあった駅すべてで、あのような作業が行われていたのか。あるいは、側線が多くある駅だけで行われていたのか、事情はまったくわからない。あるいは、もっと大きな駅では DE10あたりもいたのだろうか。
* EF64と関係ない話。中央東線を見慣れすぎ「湘南色=急行」という刷り込みがされた身には、その後、湘南色の普通電車というものに、ものすごく違和感を感じるようになった。
* これまた EF64と関係ないが、かの地を離れて三十数年以上を経て、中学時代に隣に座っていた女子、でこっぱちの美里ちゃんのことが妙に思い出される。当時、別の女子(玲子さん)に入れ込んでいた自分だが、そっちの女子には別に会いたいとも思わないのだから不思議なことだ。でも、美里ちゃんも今はもう、かなりのオバチャンなんだろうなぁ。現実を見ず、思い出にとどめておいた方がいいのかもしれない。……流浪の自分は、かの地に実家があるわけでもなく、故郷でもないので、同級生が集う旧盆の頃に帰省などしない。だから、彼女に限らず、他の同級生にもまるっきり会ってはいない。
* 中学の頃の思い出といえば、No.758 もあるが、これについての詳細は「旧型客車」のページの、スハ43「旧客的余談」に書いてある。


●荒涼たる、多摩センター駅

小学生の頃、小田急・多摩線も、京王・相模原線も存在しなかった。
その後、中学・高校では東京を離れ、大学進学で東京に戻ってみたら、多摩センターまで両線が開通していた。1970年代後半の話。
* もうひとつ。濃青と橙色だった小田急電車が、白地に青線に変わっていたのも、びっくりした。
好奇心から、東京に来てすぐに行ってみた。まずは多摩線乗り換えの新駅、新百合ヶ丘駅!
隣の百合ヶ丘駅近くには小さな頃に入院した病院があり、この辺はまったくの無縁の地ではない。それだけに、何もなかった頃を知っており、そこに三面六線もの駅が出来ていることは、驚愕以外の何物でもなかった。
そして、旧型車(2200形?)の短い二輛編成の電車に乗って、終点の多摩センター駅へ。
こちらは、新百合ヶ丘とは別の驚きがあった。どこの辺境かという、あまりにも荒涼たる風景の凄まじさ!
駅の南側、今はバス停や商業施設のある場所は、工事用フェンスで覆われて一般人の入れない空間。小田急のホームからは、わずかにフェンスの向こうを見通せたが、何もない草と土の大地のみ。一方で北側も、建物もまばらにあるものの、ほとんど道路だけ。両鉄道とも十輛編成対応の二面四線(つまり、あわせて八線!)分のスペースをとってある大きな駅ながら、周囲は未開発。行ったのが昼間だったこともあるが、人影もなく、道路を走る自動車もなし。
* 小田急駅は、この時点では、四線分のスペースがありつつ線路があったのは二線のみ。四線化したのは後のことだが、再び二面二線に減らして現在に至る。
ここが将来、多摩ニュータウンの中央になるというプランが、自分が生きている間には実現しないんじゃないか、とすら思えた。
実際には、その後一気に開発が進んで、本当にニュータウン中央に相応しい駅になるわけだが、今度はまさか、生きているうちに、多摩ニュータウンの衰退などというニュースを聞くことになるとは思わなかった。諸行無常だ。
* バブル経済の到来と、多摩ニュータウンの発展は重なった。そのせいか、開発速度はものすごく、あれよあれよという間に、何もない土地が、人のための街に変わっていった。1980年代までは、時々ここを訪れて、その発展ぶりを目の当たりにしたが、こんな猛烈な開発を見ることは二度とないのかもしれない。
* 後に小田急の終点、唐木田駅(多摩センターの一駅先)ができることになる場所の周辺を、友人とバイクで探索したことがある。開発前のこの場所はほとんど雑木林。その中を狭い道路がくねくねと貫いていたのだが、その両側は、不法投棄のゴミの山。何もない荒野(雑木林を切り倒した次の開発段階)とは別の意味で驚きがあった。唐木田駅ができた時(1990年)に見に行ったが「あのゴミの山がこんな綺麗な街になるとはなぁ…」というのが正直な感想。それは、不法投棄の山を片付けなければいけなかった人々の仕事の成果なわけだが、途中経過を見ていないだけに、過去との差があまりにも大きく衝撃的であったのだ。


●0系、車内販売のアルバイト

プロフィールページでも触れているが、学生時代に新幹線 0系の車内販売のアルバイトをしたことがある。これまた 1970年代末の話だ。
車内販売は、食堂車と同じチームの一員であり、食堂車から西側をA車、ビュッフェから東側をB車といって、各車バイトひとりづつ、計二名の配置であった。
* 乗ったのと同じ頃の編成は No.157。食堂車とビュッフェがあった時代。
AとB、どちらになるかは日によって違ったが、自分的にはB車の方が嬉しかった。なぜなら、A車は常にチームの責任者である食堂長の監視下にあって、うるさい人だったりすると、細々としたことで怒られてストレスがすごいのだ。
一方でB車は精神的には気楽ではあったが、肉体的にはきつかった。A車には自由席があり、そこで多く売れる。一方でグリーン車と指定席だけのB車はあまり売れない。売れないと、売れるまで、何度も何度も車内を往復しなければならない。新幹線編成は長いので、半分だけとはいえ、一往復 400mはある。十往復で 4kmだが、それだけではすまない。B車だと、往復回数が多くて、東京‐広島で 10kmに達することもあった。
自分が働いた事業所の担当は、東京午後発で、岡山か広島行。そこで一泊して翌朝、東京に帰還、という列車だった。宿泊地で観光しようと思っていたが、早い時刻に到着する列車に乗るチャンスがなかなかなく、まともに観光できたのは一回だけ。広島で「厳島神社」に行った。
* 当時の船ではないが、No.1192 に厳島神社のシーンあり。
東京駅ホーム下の事業用スペースや、そこからホームに上がる事業用エレベータにも乗れたわけだから、鉄道ファン的には、面白かったというべきか。
* 嫌なことも色々あり、面白いばかりではなかった。一番つらかったのは、釣銭窃盗の疑いをかけられたことだ。現場できっちり精算するから、そもそも誤魔化しようがない。なのに、後日突然に、バイトを管理する地上勤務の人に「あの日の金額が合わなかったが、君が盗んだんだろ」と、犯人扱いされたのだ。バイトは以後も続けたが、疑惑を晴らす証拠もなく、毎度、冷たい目で見られた。おつりの金額を間違えるようなミスすらしていないのに、なんで盗みの疑いをかけられたのか。まじめに働いたのにそんな目に遭って、悔しくて堪らない。後年、新幹線に乗って車販の担当がその会社だった時は、買う気にはなれなかった。
* プロフィールページにも書いたが、新幹線では、大竹しのぶにプリンを売った。当時の自分は芸能人にほとんど興味がなかったので、それほどの感動ではなかったが。……今は、若い女性芸能人を見て「ええのぅ♪」とか言っているエロじじいだが、当時はエロじゃなかったのか? 自分でも不思議に思っていたが、懐かしい映像を流したTV番組を見て理由が分かった。エロ化した今でも、当時の若い女性芸能人にはピクリともしない。つまり、自分の好みのタイプの女性が、当時の芸能界にほとんどいなかった、ということだ。つまりは、年齢とともに女好き化したのではなく、単に対象がいなかっただけで、若い頃から女好きではあったわけだ。


●渋谷駅で迷子

恥ずかしい話だが、大人になってから、渋谷駅で迷子になったことがある。
原因は「思い込み」である。
何度も転居した自分は、子供時代に小田急沿線に住んだことがあり、その時に、下北沢乗り換え・井の頭線で何度も渋谷に出ている。また、渋谷に近いトロリーバス(明治通り上)沿線に住んだこともある。そのことで、中途半端に「渋谷を知っている」と思っていたのが、第一の問題。
* トロリーバス(東京都無軌条電車 200形)のシーンが、No.879 にあり。
一方で、何度も東京を離れて別の場所に住んだりもした上に、東京に戻って来て以降、渋谷はほとんど自分には無縁だった。正確に言えば、乗り換え駅としては縁があったこともあるが、駅を下車して渋谷の街に出ることはほとんどなかった、ということである。つまり実質「渋谷をよく知らない」というのが第二の問題である。
具体的に書こう。
井の頭線の渋谷駅と、国鉄(→JR)の渋谷駅。道路をへだてているが、その上に営団(→東京メトロ)銀座線に平行して連絡通路がつながっている。問題は、この連絡通路が道路を跨いでいるとは思わず、井の頭線と国鉄の駅が一体化していると思い込んでいたことだ。
そのような勘違いをしたまま、井の頭線の駅から直接、外に出てしまったのだ。目的地は「ハチ公」だったが、駅が一体化していると信じていたため、国鉄駅前にあるそこに行くには早めに外に出てしまった方が楽だ、と思ってしまったのである。
* とりあえず外に出ればいい、という安易な考えも間違いで、出た口の場所も悪かった。さらに、国鉄の駅とハチ公の位置関係も、実は正確に把握していなかった。駅前にあるんだろ、という程度の認識である。これで迷わない方がおかしいというものだ。
だが、実際は道路をへだてた別の場所。
にもかかわらず、ハチ公はすぐ近くと勘違いしたまま、うっかり歩きまわってしまった。その結果、まるっきり見当違いの場所に出てしまい、ついに自分の位置を見失った。つまり、自分が渋谷のどこにいるのか、まったく分からなくなったのだ。いっそ何も知らなければ、こんなことにはならなかっただろう。中途半端に「知っている」と思っていたのが、よくなかった。
* 井の頭線の駅に戻って出直す、という発想に至らなかったのは、この「知っている」という驕りも要因のひとつ。
結局、どこをどう歩いたのか分からないが、おそらく国道 246号を越えて駅が見えないところまで行ってしまったのだろう。いつのまにか国鉄線を越えてしまい、駅の反対側、東横線の駅を見つけたところで、自分の位置がようやく分かったのだ。そこから北側へ国鉄の駅をぐるっと回る形でハチ公側に戻った。ここで、やっと井の頭線の駅が道路の向こう側にあるのだと気づき、渋谷駅の全体構造を初めて把握したのであった。
* 若い頃の話である。今は、太陽の方向などの周辺情報から脳内マップを補正しながら移動するので、自分の位置を見失うことは少ない。こういう習慣が身についたのは、この時の教訓と、自動車の運転経験による。
* 時代は少し遡ってしまうが、渋谷駅のおおざっぱな地図は、No.798 にあり。
* 多数の人間が GPS付のスマホを所持している現在にあっては、もはや迷子になりようがないわな。


……結局、有意義な話はまるでないな。
なんちゃって鉄道ファンでしかなかったわけだから「記録」という視点が欠落している。要するに客観的な何かを残していないので、主観で語るしかないんだな。もっとも、とある哲学者によれば、客観性なるものも間主観性でしかない。つまりは、何かを語る上で主観もありだろうよ。そう思わなければ、こんなページは書けんわな。


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