SERA Gullwing Coupé

ガルウィングカーSERAの魅力

Mar.1997(追記/Sep.2007/Dec.2011)

おぱく堂主人・白龍亭主


●セラの評価に見られる"知識の陥穽"

 "走る温室"といわれる屋根までガラスのガルウィングクーペ、トヨタ・セラ。この車種は女性オーナーが多い(多かったというべきか。絶版になった今なお乗り続ける物好きは男に多いかも)。自分のごとき男は少数派。
 なぜか?
 自分の見るところ理由は明白だ。この車の特異なコンセプトは既成概念を超えたところにある。男は"車の知識"を持っている人間が多い。それだけに既成概念に縛られがち。だからセラが変な車にしか見えない。知識には落とし穴があるのだ。

92年式セラ

 この車はかつてない新しいコンセプトを打ち出したにもかかわらず、いやそれだからこそ"知識の陥穽"にはまってしまったのだ。5年間に1万6千台しか売れなかったという不人気の原因のひとつが、ここにあると見てよい。以下分析する。


●"伝統主義"に阻まれたセラ (1)メディア

 セラはガラスが継ぎ目なく屋根まで回り込んでいる。だから通常のドアでは開閉できない。
 その必然的結果として、上に開くガルウィングドアを採用している。これがセラへの正しい理解を阻む原因のひとつになったと思う。

 既成概念的にいえば、ガルウィングドア=スーパーカーである。
 ところがセラは、メカニズム的にはトヨタで一番安い車スターレットの親戚だ。スーパーカー的性能などあるわけがない。その結果「無駄なガルウィングドア」だの「ドアだけの車」だのといった評価を得ることになった。

 ガルウィングドア=スーパーカー、という前提はどこから来るのか?
 要するに「今までそうだった」ということにすぎない。"前例主義"あるいは"伝統主義"に陥っているのである。もちろん金を払って車を買う側の人間がどんな"主義"であろうと問題にすべきことではない。問題なのは公平な評価をすべきメディアの側がこの"伝統主義"の陥穽に落ちていたことだ。


 この車のもっとも重要なポイントはドアではない。
 "光と音につつまれる空間"の演出。ここにある。
 音については後述するが、光につつまれるためにガラスが継ぎ目なく屋根まで回り込んでいるのだ。この解放感(開放感)こそがセラの個性。
 開放感ならオープンカーがある? 違うのだ。オープンカーは開放"感"ではない。開放そのものである。外界と室内を遮断することによって得られるメリットを潔く放棄する覚悟がある者のみがこれに乗ることができる。そうでない人間にとってはデメリットが大きすぎる。
 セラは、外界と室内を遮断することによって得られるメリットを放棄することなく、開放的な空間を実現した唯一の車なのだ。屋根がガラスといえばムーンルーフもあるが、実際のところ開放感の差は雲泥である。

 おそらく車メディアにはオープンカーに乗る覚悟のある人間が多いのであろう。大きなデメリットがあるわりにはオープンカーの評価は高い。しかし「この覚悟なしには開放感は味わえないものだ」という知識そのものが、すでに"伝統主義"の罠に陥っているではないか。
 セラ最大の魅力であるガラス越しの開放感は、知識の陥穽に落ちた視点から見れば、オープンカーと比較して"中途半端な開放感"とならざるをえない。また、ガルウィングドア=スーパーカーという先入観を通せば、セラは"かっこだけでスポーツ性のない車"でしかない。独自の空間を演出するためのカタチを、スポーツ性のないスポーツカーのカタチと誤解した。そんな誤解の上に立った記事がセラのコンセプトを正しく伝えられる訳がない。


●"伝統主義"に阻まれたセラ (2)メーカー

 もうひとつ言えば、この車を作ったトヨタ自身がこの車の魅力を理解していなかった。

 "光と音につつまれる空間"のために、セラは世界で初めてDSPを使ったカーオーディオを採用した。音が本当に立体的に聞こえるDSPは今でこそ一般的だが、セラが発売された1990年当時、セラだけが装備していた。
 このオーディオはセラの本質を語る上で避けては通れない重要な存在である。
 にもかかわらず、トヨタは「オーディオ非装着車」を用意した。廉価版である。営業上の理由かもしれない。しかしこれがセラのコンセプトを分かりにくくしたのは否めない。
 後から廉価版を追加するのはいい。しかし発売当初は"光と音につつまれる空間"という世界で初めてのコンセプトを理解させるために廉価版を用意すべきではなかった。

 また広告も「翔んでるセラ」という意味不明なコピー。
 今までにない画期的コンセプトをこれで理解しろというのは無理。これはつまり、広告を作る側もセラの本質を正しく理解していなかったということだ。
 その後「かっこいい女性が颯爽とセラに乗る」というイメージの広告に変わった。女性の感性には訴えるものがあったかもしれないが、コンセプトを正しく理解させるという点では何の効果もあげていない。

 問題は根本的な部分にもある。
 "光と音につつまれる空間"を演出するには、エンジン音がうるさい。遮音性が低いのだ。スターレットをベースにした、という時点ですでにコンセプトにチグハグなものが生じていたと言わざるをえない。
 もっとも、遮音性を高めるのは高コスト。完璧さを求めていたら高価な車になってしまったであろう。そうなっていたら自分は手にすることが出来なかっただろうし……。魅力とコストのジレンマ。バランスポイントをどこに置くかは難しい。それでも、静粛さというのは絶対条件だったと思う。


●"伝統主義"に阻まれたセラ (3)車社会

 もうひとつの弊害が"クラス"という車社会のヒエラルヒーだ。

 ヒエラルヒー的視点に立てば、セラは 1500ccクラスに属する。"光と音につつまれる空間"のためにコストのかかったセラは 1500ccの車としては最も高価であった。ディーラーの人いわく「これだけ金を出せばもっと上の車が買える、とお客さんに言われてしまう」と。
 もっと上の車?
 スポーツカーやセダンならば、性能や質感において上下はあるし、ヒエラルヒーがあっても仕方ない。しかしセラは他に類似するコンセプトの車が存在しないのだ。"光と音につつまれる空間"を選択するか否か、しかない。そもそも上下云々という話が出ること自体がおかしい。無意識のヒエラルヒーの弊害たるや!


 余談。
 偉そうに言うものの、自分もこのヒエラルヒー意識から逃れられない。カローラに乗っていて横にセルシオが来たら、やはりそこにヒエラルヒーを感じてしまう。そんなわけで、スポーツカーなら最速、セダンなら最高級じゃないと我慢できそうもない(笑)。でも買えない……。
 その点、セラはいい。
 横に同じガルウィングドアのカウンタックでも来ない限りヒエラルヒーを感じずに済む(アホだな)。


●"伝統"の背景にある歴史の浅さ

 学生の丸坊主問題。
* 最近はまるっきり話を耳にしないので、学生が強制的に丸坊主にさせられる事例は激減したのかもしれない。時代は流れたのだな…。
 そもそも丸坊主というのは明治期に輸入された西洋文化だ。それ以前の本来の日本は長髪文化である。よく言われる「昔から丸坊主だったから」という"伝統主義"は、もっと古い伝統まで逆上ると否定されてしまう。
 同様に、歴史の浅いものが"伝統"づらしてのさばっている例は多い。(その伝統が是か否かは別問題である)

 セラの正しい理解を阻んだ車社会の既成概念といっても、よく考えてみれば、結局のところそれを生み出した歴史は浅いのである。にもかかわらず、よほど意識していないとその既成概念に縛られてしまう。人間というのも困ったもんである。

 セラはその既成概念を超えた製品だ。
 既成概念を破るのは個人ですら難しい。それなのに、集団で開発する車という製品でこれを可能にしたとはすごいことだ。天才が同時代には理解されないように、セラという車の正しい評価も未来まで待たねばならぬのかもしれない。今、セラ開発者はいかなる心境にあるのやら……。


●そして 10年…(Sep.2007 追記)

 このページを書いてから 10年の時が流れた。
 既にセラは手元にない。いや、あれこれ事情があり、自動車そのものを所有していない。

 セラは所謂「バブル時代」に設計され、バブルが終わる頃に生まれた。
 それがセラの不幸と見られているが、仮にバブル全盛期に生まれていたとしても売れなかったかもしれない。

 根拠があるわけではないが、大阪万博(1970)の頃だったら、こういうコンセプトの自動車は売れたのではないか。ガルウィングドアのような新しいものに素直に感動できた時代だからだ。社会のありとあらゆる物事が未成熟だったからこそ、人々は未来に夢を見られたし、それゆえに未来的なセラが受け入れられる余地はあったに違いない。



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 バブルの頃、日本は既に成熟社会になっていた。
 金を持っていた人々が何かに浮かれていたのは確かだろうが、そこに未来の夢のようなものは感じられなかった。むしろ刹那的ですらあった。まぁ、自分のような貧乏層にとって、あの時代は物価高に苦しんだだけの腹立たしい思い出でしかないが…。
 成熟というのは、多種多様だったものが一点に収束してしまった結果でもある。
 自動車の評価基準も「高級」「高性能」「高実用性」といったような所に収束されてしまい、それ以前にあった多様な(あるいは雑多な)ものが淘汰されてしまった。
 セラのガルウィングドアは、未来に夢を見た未成熟社会の残照ではなかったか。セラが男よりも女性に人気があったのも、成熟社会をもたらした効率優先の男社会の価値観の呪縛から逃れられていた人間が、女性に多かったからではないのか。今にして、そんな事を思うのである。

 成熟社会になってみて感じるのは「つまらん…」という事である。
 次々と新製品が出るが、未成熟だった時代ほど、新製品に感動することができない。ちょっとやそっとの事では感動できないものだから、あらゆることが過激化しているが、それゆえに益々「感動できない度」が高まる悪循環に陥っている。
 無論、今さら未成熟社会に戻れるわけでもないし、戻ることが幸福かと言えば否としか言えまい。
 だが、個人が創造力を再び手にすることで「つまらなさ」から逃れることは可能である。問題は、個人が創造力を発揮する余地を奪う方向へと世の中が「進化」し続けていることであり、その流れが変わらない限り、かつてのような「感動」は戻っては来ないであろう。セラのような車はそういう「感動」する力が戻らない限り売れはしないだろうから、そういう面白い車が再びこの世に生まれることは(少なくとも日本では)期待できない事になる。
* 自分的には成熟社会に対する何らかの拒否反応があるのかもしれない。実用性やコストパフォーマンスといった面で最高度に成熟した日本製品に対して、年々、魅力を感じなくなりつつある。完璧な実用性よりも強烈な個性を求めてしまうのだが、そういうものは大抵、海外製品である。愛国者(のつもり)の自分としては不本意なのだが。

 以前は「セラという車の正しい評価も未来まで待たねばならぬのかもしれない」と書いたが、そういう未来そのものを日本は喪失してしまったように思う。


●セラとの再会?(Dec.2011 追記)

 2004年に発売されたゲーム「グランツーリスモ4」は、運転する車としてセラが選べる。
 実は、2011年に至るまで、そのことを知らなかった。発売された当時、ゲーム機 PS2 を持っていなかったので、ゲーム情報に関心を抱いていなかったのが最大の理由。すでに、世の中は PS3の時代であり、PS2など過去の機械なのだろうが、対応ゲームがまだ販売されていて助かった。
 で、そもそも速く走るための車ではないセラで、レースを走ることには無理があるのだろう。だが、車の性能以前に、ドライバーとしての腕がヘボすぎて、ゲームではマヌケな走りに終始している。実車より難しいよ、これ。
 内装が再現されていないので、いまひとつ「セラを運転している」という感覚になりにくいが、外観はパーフェクトに再現されているため、自車を後方から見下ろして運転するモードや、リプレイシーンなどでは「おお、セラだっ!」という感動がある。こんなカタチではあっても、セラと再会できたことは、喜び以外にない。