Audi in Spirited Away

「千と千尋の神隠し」アウディの謎

Mar.2003

おぱく堂主人・白龍亭主


Caution! ネタバレを含むので、まだ「千と千尋の神隠し」を見ていない方は読まないように!

●リアルすぎる自動車

 宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」を初めて見た時、冒頭のアウディ(自動車)の動きのリアルさに目を奪われた。宮崎作品はどれもリアルだが、このリアルさは飛び抜けていて圧倒された。その後の物語の展開に圧倒されつづけたのも言うまでもない。
 しかし、どうも変だ。
 乗り物といえば後に鉄道も登場して、これはこれでリアルなのだが、冒頭のアウディほどではない。アウディのサスペンションの動き、ブレーキペダルの動きは、他の何にも増してリアルに描かれている。物語の本筋と無関係なはずなのに、ここまでリアルに描く必要はあるのか?



↑登場する「海原電鉄」もそれなりにリアルだが…。
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 不自然に強調されている個所には隠された意味がある。
 これは「南総里見八犬伝」から学んだことである。ということで「隠された意味」を追究してみたい。……というと作品分析を試みるかのように聞こえるが、そうではない。冒頭のアウディ周辺を分析するだけ。作品全体を云々するわけではないので、期待せぬように(最初から期待なんかしてないとは思うが)。


●明確すぎる車の仕様

 なぜブレーキペダルの動きに目を奪われたかといえば、明らかにABS(アンチロック・ブレーキ・システム)を装備していると分かるからだ。ロック(滑走)を防ぐためにセンサからの情報を元に油圧を微妙に制御する。そのためにABS作動中は目一杯の踏力でペダルを踏んでいてもペダルの位置が激しく動くことになるわけだが、「千と千尋〜」では、これが表現されている。
* 人間側のテクニックとしてロックを防ぐためにペダルを踏む力を小刻みに変化させるという方法もある。しかし、お父さんの足を見る限り、人間側がテクニックを駆使しているようには見えない。
 それ以前に、運転している千尋のお父さんが「この車は四駆だぞ」と発言するので、四輪駆動車であることも分かる。
 車の仕様(性能)が妙に明確なのだ。
 自動車好きを対象にした作品なら別にどうということではないが、これはそういう作品ではない。

 四輪駆動+ABSという車は何を意味しているのか。
 それを考えているうちに、冒頭のアウディのシーンが、後にお父さんが豚になることの暗示(あるいは同じモチーフのくりかえし)となっていることに気付いた。


●自信過剰にして無反省

 無舗装の道に入ってから、お父さんは急にスピードを出し始める。舗装路では普通に走っていたのに、だ。
 ここでお父さんは、いっぱしのラリースト気取りになるのだ。要するに運転テクニックに自信を持っているのである。四輪駆動車を選んでいるあたり、すでにこういう悪路をぶっ飛ばすのが好きなのだろう。そのことは仮に良しとしても、このおっさんは次の点で間違っている。
・初めて通る道である。
・妻子を乗せている。
 危機意識ゼロ。何の根拠もなく安全を過信しているし、自分の腕も過信している。だから、先の分からない初体験の道路でも妻子が同乗していても、スピードを出してしまうことに何の問題も感じていない。
 案の定、予期せぬ行き止まりという危機に遭遇するが、急ブレーキでなんとか激突せずにすんでいる。

 ここで前述の車の性能が生きてくる。
 四輪駆動車は走行安定性が高く悪路に強い。またABS装備の車は、誰でも究極の急ブレーキがかけられる(思いっきりペダルを踏む度胸がない人はダメだけど)。つまり、お父さんが安全に走れたのも、ちゃんと止まれたのも、車の性能のおかげ。ドライバーの腕じゃないのだ。
 しかも、そのことに気付いていない。「おかげで助かった」という謙虚な姿勢はまるでない。

 ……と、ここまで書けば分かると思うが、その後「豚になってしまう」展開は、同じパターンのくりかえしになっている。
 街の異様さを不自然に思わないどころか、テーマパークの残骸と信じて疑わない(証拠もないのに)。それに巻き込まれる家族が嫌がっているか否かという配慮のかけらもなく進み、勝手に食べてしまって問題があるかもしれないという危機意識もなく、案の定、豚になるという危機に遭遇してしまうのだ。
 道路の行き止まり=豚、なのだ。
 アウディの性能に助けられたように、千尋の働きに助けられるわけだが、これまた「おかげで助かった」という謙虚な姿勢もない(豚になっていたことを知らないから無理はないとも言えるが)。

 このお父さん「豚になるべくしてなった」としか言いようなない。
* 世の中、このタイプの人間はけっこう存在する。そういう身勝手な人間に振り回されて腹が立つことも多々ある。だから豚になったシーンは一種のカタルシスでもある。お父さんが豚になった時、ちょっと爽快な気持ちになったのは自分だけか?


●そこに愛はあるのか?

 ついでに言うと、お母さんもろくでもない。
 お父さんの乱暴な運転を一応たしなめはするものの本気で止める気はない。お父さん同様、危機意識なんかないのだ。後にお父さんとともに怪しい食堂で勝手に食べはじめてしまうのも、結局同じパターン。お父さんと同じ穴の貉と言っても過言ではあるまい。

 いや、むしろこのお母さんの方が問題ありかもしれん。
 トンネル内で、母親にすがろうとする千尋を「歩きにくい」という理由で退けてしまう。しかも往路も復路も、まったく同じ台詞を吐く(2度も同じ台詞を言わせるんだから、作品的にこれは深い意味があるはず)。あえて言わせてもらうが「母親失格」である。子供の方をまるで見ていない。
* 千尋が不安に感じていることに全く無頓着という意味で、かなり無神経な女だとも言える。主人公の両親であるにもかかわらず、かくまで無神経な夫婦に設定した意味が気にはなる。

 現代にありがちな家族像かもしれないが、愛を感じない家族である。
 むしろ「油屋」の方が意外と愛があるんじゃなかろか、とすら思えてしまう。
 ラストシーンの、アウディの汚れにしか興味のないお父さんなんかも最低。お母さんも引っ越屋さんがどうこうと心配するのみで、あいかわらず子供のことなんか見ちゃいない。

 千の世界は千尋の世界より過酷だが、千より千尋の方が孤独だ。
 千尋はやがて、この家に見切りをつけて出てゆくに違いない。異なる世界に出てゆく心の準備はすでに出来ている。