評論
『訴訟』の生原稿について+語られすぎたカフカのために
- はじめに――疑問と障害
- 1
カフカの弱さと強さ- 2
『訴訟』の生原稿があらわれるまで
本稿について- 3
先入観について
現実をとらえていることについて
解釈について
作家や国や時代を知らないとダメか
いかに読むべきか- 4
翻訳について+『訴訟』を読む- 5
カフカ翻訳書ガイド
引用文献
小説は説明を必要としないし、説明することもできない。
作品がすべてであり、それだけを純粋に読むことこそ求められる。
だから、読んだほうがいい批評や評論や解説というのはありえない。
しかし、本稿はその性質上、おとこわりしておかなければならないこと、お知らせしなければならないことがいろいろある。
また、作品がすでにさんざん批評され解説されて唾だらけになっている場合、それらをぬぐいとり、無化し、純粋に読むことを可能にするための文章は、例外的に必要とされる。この文章はそれを目指している。つまり、足すためではなく、引くために書かれたものである。
はじめに――疑問と障害
長い間謎につつまれていたカフカの Der Process の生原稿が、1990年の夏、ついに公開された。
これまでどれほど多くの人が、どれほどこの生原稿を見たがってきたかしれない。
本稿は、その生原稿の訳である。生原稿から直接というのは、初めてのことになる。
公開と同時に、ドイツのS・フィシャー書店から、マルコム・パスリー(Malcolm Pasley)による、生原稿の校訂版と、詳細な原稿調査の報告が、2巻本で出た(Franz Kafka, Der Process, Kritische Ausgabe, S.Fischer Verlag, 1990)。これを参考にした。次のような疑問を持つ人があるだろう。
カフカの小説をよく知っている人は、さらに次のような疑問を持つだろう。
- 1990年に生原稿が公開されたということは、これまで出版されていたものは何だったのか?
- 謎とは何か? どんなことが新しくわかったのか?
そして、つねにある基本的な疑問として、
- 『訴訟』という題名の作品は聞いたことがないが?
- 「逮捕+終り」というのは、どういうことなのか?
これらの疑問にこれからお答えしていきたいと思う。
- どういう小説なのか? どういう作家なのか?
124がそれにあたる。この文章にはもうひとつ目的がある。
カフカの小説(に限らないが)の本当の面白さをわからなくする、強力な障害がいくつかある。それらをここでできるかぎり取り除きたいと思うのだ。
3がそれにあたる。
障害というのは、まず第一に、誰もが小説に対して持っている先入観。小説とはこういうものだ、という思い込み。
第二に、学校あるいは世間から、いつの間にか、たたき込まれている本の読み方。作品を解読しなければならない暗号のように思っている人が多い。「これは何を意味しているのか?」という疑問が当然のことのように発せられる。また、「作者や、その生涯について知らないと、作品は本当にはわからない」「作者が生きた、作品が書かれた時代、国の状況を知らないと、作品は本当にはわからない」などと言われると、「そうかもしれない」と思ってしまう人が多い。
第三に、これまでの解釈。カフカの作品については、おそろしく多くのことが言われている。それらの影響をまったく受けずに、白紙の状態でカフカに接するのは容易なことではない。そして、さんざんに落書きされた後では、本来のよさはなかなかわからない。今回初めて文章を書く者の言うことでは、なかなか信用してもらえないだろうから、評価の定まった偉大な現代の小説家たちの言葉をなるべくたくさん引用するようにした。
彼らの言っていることは、驚くほど一致している。考えてみれば、驚くことはないわけで、真実がたとえ一つではないにしても、真実どうしがくい違うことはありえないのだから、あたりまえのことだ。
「そういう文章がすでにあるのなら、なぜ誤った読み方がいまだに横行しているのか?」
理由はいくつかある。まず、なんといっても、彼らの言葉はわかりにくい。決して難しい言い方はしていないのだが、小説についてつねに考えている人間が、その考えの一部を語っているのを聞いて、誰もがすぐに理解できるわけもない。彼らの言葉はどうしても説明不足なのだ。この文章の中で、文脈にはめ込むことによって、彼らが何を言っているのかわかるようにしていければと思う。
ウケのいい言葉を使って説得口調で熱心に声高に説いている批評家たちのそばでは、作家たちのつぶやきはそっけなく、弱々しいかぎりである。
しかし、耳を傾けなければならないのはどちらか?なお、本稿をきっかけにカフカの他の作品を読んでもらえるよう、5でカフカの翻訳書を紹介してある。
(文中のアルファベットは引用文献の記号)
カフカの弱さと強さ
作家について知る必要はない
まず最初に、カフカがどういう人間だったか、紹介しておこう。
――といっても、作家についての説明は、本来は必要なものではない。作家について知ることが作品の理解に役立つというのは、最悪の思い違いの一つだ。アインシュタインについて理解したら、相対性理論が理解できるわけではないのは、誰でも想像がつくだろう。
作品と作家の間には、一般に思われているような一貫性はない。セザンヌがどんなに好色だったとしても、彼の裸婦画の芸術的価値が変わるわけではない。むしろ、作品と作家はまったくの別物と思ったほうがいい。
「ヘミングウェイの生きざまが好きだから、作品も好き」などと平気で言う人がいるが、すぐれた作家にとって、そういう評価のされ方は大いなる侮辱だ。本物の作家には作品がすべてであり、自分の存在はむしろ消してしまいたいと思うものだ。「私は人間としては、歴史から破棄され抹殺されたものでありたい。印刷された書物以外はどんな痕跡も歴史には残したくない」(フォークナー J)。フローベールやブロッホなど、偉大な作家たちは、みな同じことを言っている。
だから、作品を読むのに、作家を気にせずにいられないというのは、作家になることを目指して作家ぶってみせるのと同じくらい愚劣なことだ。『訴訟』を前にして、ヨーゼフ・Kよりもカフカが関心をひくようなことではいけない。「作者のイメージの背後に作品が隠されてしまう今日」とクンデラも嘆いている(J)。
だったら、ここでもカフカについて書くようなことはしなければいいのだが、カフカはすでに有名で、有害な誤解が蔓延している。「読者がカフカという名前で知っている作家はもはやカフカではな」い(クンデラ α)。だからここで修正しておきたいと思うのだ。
また、作品とは別に、カフカの人となりは、一人の人間のドキュメンタリーとして、興味深いものがある。
偉大な小説家は巨人ではない
偉大な小説家というと、重々しい顔つきで、哲学的で、思想を持ち、知識人で、社会について語り、人々を導く、といったイメージが一般にあるように思う。
20世紀最高の小説家の風貌は、そういう、いわゆる「作家らしさ」とは対極にある。
カフカが世の中について語ったことといえば、日常生活のグチだけだ。学校が自分をダメにした、家族に我慢がならない、勤めがいやだ、夜眠れない、体の調子が悪い、消化不良だ……。外見的にも、いつも実際の年齢より若く見られ、初めてカフカと会った若い詩人ヤノーホは、それが『変身』の作者と知って、「目の前の平凡な市井人に幻滅を覚え」たという(F)。
しかし、本物の小説家がどのようであるかを知りたいと思ったら、カフカを見るべきなのだ。いわゆる小説家らしさは、本当の小説家らしさとは無関係な、むしろ不純な要素といってもいい。小説を書くことと、思想・哲学・社会を語ることは、まったく別のことだ。絵を描くのがうまい医者のほうがいい医者だとは言えないように、小説家に思想・哲学・知識などの付録がついていたほうがいいということもない。
カフカの小説家としての純度の高さは驚くべきもので、他に比べられる人がいない。カフカの人物像が他の小説家たちと異なっているのはそのためだ。20世紀最高の作家の風貌としては、まさにふさわしいわけだ。
カフカは、彼を慕う若いヤノーホに、こんなふうに言っている。「あなたは詩人を、途方もなく大きな人間、足は地を踏まえ、頭は雲の上に聳えている、という風に描いていらっしゃる。これは当然、小市民的通念の枠にはまった大へん通俗な見方です。無意識の願望が作り出した幻影であって、現実とは何の関わりもない。事実は、詩人はつねに社会の平均値よりもはるかに弱小です。詩人はだから他の人々よりも、現世の生活の重さというものをはるかに強大に考えています。詩人のうたは、詩人その人にとって一つの叫び声にすぎない。芸術は芸術家にとって一個の苦悩であり、その苦悩を潜って、彼は新しい苦悩に向かって自らを解放するのです。芸術家は巨人ではない」(F)
ここで言われている、「弱いがゆえに、より現実を把握することができる」という認識は重要だ。
弱いということ
カフカは手紙にも日記にも、自分の弱さについて、くり返しくり返し書いている。
「僕は僕の知っている最も痩せた男です……体力は弱いし……(夜寝る前にいつもの軽い体操をすると)大概かるく心臓がいたみ、腹の筋肉がぴくぴくします」
(フェリーツェへの手紙1912年11月1日 G)
「こんな体では何ひとつ成功しない……恵まれた体温を生み出す、内部の情熱を貯える脂肪がちっともない。……最近たびたび僕に刺すような痛みを与えた弱い心臓が、どうしたらこの足の先まで血を押し出すことができよう……」(日記1911年11月22日 G)
「ぼくはこの人生に必要な要件を、ぼくの知るかぎり、なにひとつ備えておらず、ただ普遍的な人間的弱みしかもっていない」(八折り判ノート第4冊 A)
「将来にむかって歩くことは僕はできません。……将来にむかってつまずくことは、これはできます。一番うまくできるのは倒れたままでいることです」(フェリーツェへの手紙1913年2月28日 G)過敏さと強調
いまにも死にそうなようだが、じっさいには、頑健ではなかったにしても、ごく普通には健康だった。
最初の就職をする前に、医師の診察をうけて、「健康」と診断されている。ルードルフ・フックスもカフカの印象を、「彼は見たところいかにも健康そうな感じがした」と語っている。(E)
カフカ自身もこう書いている。「鏡はぼくに言わせればどうにもならないぼくの醜さを映し出した……。もっともその醜さなるもの、必ずしもありのままの姿ではなかっただろう。本当にぼくが鏡の中の自分のように醜かったとしたら、まわりで大騒ぎをしたにちがいない」(日記1911年12月31日 E)
カフカの弱さの正体は、敏感さである。たとえば、人の手が自分の腕にふれたとする。普通なら手がさわったと感じるだけだ。しかし、もし感覚が並外れて鋭敏なら、それだけの接触でも痛みとして感じるだろう。
そしてさらに「カフカの流儀というのは、場合によっては自分を屈服させるような事柄は、なんでも非常に強調した」「自分自身に対するある種の高々と勝ち誇るような自虐趣味」「千倍の拡大鏡をもってするように文字通り自らの弱点を誇張する」(ブロート E)弱さが文学のために大切だったということ
カフカが自分の弱さを誇張し、日記の中でまで、くり返しそのことにふれるのは、弱さが彼にとってそれだけ重要であるからだ。「もし誰かが『くりごと』の必要なこととその機能についてはっきり知っていたとすれば、それはカフカであった」(カネッティ G)
カフカは自分の弱さを気にして、「肥満した人間に対するほとんど迷信的な……尊敬」(同前)を持ち、まともな生活力のある人間にあこがれていた。
しかし同時に、自分の弱さを大切にしていた。その弱さ=敏感さゆえに、より現実をとらえることができるからだ。小説家にとっては何よりも重要なことである。「彼の高ぶった敏感さにとっては、ある人間が他の人間に及ぼす作用の一つ一つが苦悩であった。……一見ごく平凡な事態にあっても彼は、他の人たちがその破壊の仕業によって初めて経験できることを経験したのである」(同前)
先に引用した「ぼくは……人間的弱みしかもっていない」のつづきはこうなっている。「この弱みによって――もっともこういう観点からするとじつは巨大な力なのだが」(八つ折り判ノート第4冊 A)「こういう観点」というのは、「現実把握」ということだ。
カフカは弱さの力を十分に自覚していたのである。
だから、弱さを本当になくせるとなったら、拒否していただろう。
絶望を描いているのではない
カフカがあんまり自分の弱さを強調しているので、批評家の中には、「カフカは意思が弱く、心理的に不具であった」「カフカは――意気阻喪し、不満で、絶望的で」(エドモンド・ウィルソン C)などとカフカをけなしている人もいるが、間違いなわけだ。
また、イギリスのW・H・オーデンなど多数の作家たちは、カフカの小説が「絶望と罪悪感に終わってしまうことを非難した」(城山良彦 C)というが、これも的外れな非難だ。たしかにカフカの小説には現実に苦しめられる人間が出てくる。しかし、カフカはその苦悩を描いているのではなく、その弱さによってとらえられる現実を描いているのである。カフカの強さ
「カフカの作品の中には、強さと弱さ……全く独特な調子で浸透し合っている」(ブロート E)。「まず最初に目につくのは弱さ」だが、強さは、弱さとともに、あるいはそれ以上に、カフカの重要な特徴である。
カフカの恋人のミレナはこう書いている。「あの人は本当にいつでも、罪のある人間、弱い人間だと考えるのです。そうは言っても、あの人ほどものすごい力を持っている人間は他にはいないのです。あの完全性、純粋性、真実を絶対的に、論駁の余地を残さず必要とする人は他にはないのです」(E)
カフカの強さは、絶対的なものを求めて、どんなことがあっても決して妥協しないところにある。これほどの強さを持つ人間はほとんど考えられないほどだ。弱さと強さ
カフカはその弱さゆえに他の人たち以上に現実をとらえ、決して現実をのりこえず、それに押しつぶされ、その強さゆえに、それらをそのままの鋭さで欠けるところなく保持しつづけ、適当な形にまとめてしまうことなく、妥協なしに描き切ろうとした。
「あらゆることは等しく彼を始めから終わりまで不安におとしいれてやまない」(カネッティ I)「あらゆるものが彼の肉を斬り、敵には何ごとも起こらない」「失敗に失敗を重ねても彼はけっして成功しない。困難は依然として困難である」「向かって進みたいと思うすべての目標が数知れぬ疑念によって近づくかわりに遠ざかる」(〃 G)「彼はあらゆることにけりをつけないし……あらゆることは決して言いつくされない」(〃 I)「何ひとつ彼から失われてはいない」「こんなふうにして彼が常に保存しているものはすべてメスのように鋭い」(〃 G)「どんなことにも彼は『見きりをつけ』たりしなかった」(ブロート E)
彼の天才をこれだけの性質で説明しつくすことはできないが、しかし彼が他の誰よりも現実をとらえることができたのは、これらの性質が大きく関与している。文学的才能に対する自信
その強さゆえに、あらゆることに確信を持てなかったカフカだが、(意外に知られていないが)自分の文学的才能にだけは生涯ほんのわずかな疑いも持たなかった。これは唯一の例外であり、それだけに感動的だ。
「カフカはその生涯の全期間にわたって、『日記』のなかでも手紙のなかでも、つねに自分を文学者として扱っている」(モーリス・ブランショ C)
今でこそおかしなことに感じられないが、生前のカフカは、世間から作家として認められてはおらず、ただの勤め人にすぎなかったのだ。しかし、自分を作家あつかいするカフカには、なんの気負いも、照れも、ためらいもみられない。彼にとっては、自分が小説家であることは、人間であることと同じくらい、自明な事実であったようだ。
力強い発言といったものはカフカにはほとんど皆無だが、自分の文学的才能について語るときだけは、そこにわきあがってくる力が感じられる。
「(書きたいという衝動が自分の内部に感じられるときには)自分が、握りしめると爪が肉に喰い込んでゆく拳になったように――ほかに言いようがないのだが――感じられる」(マックス・ブロートへの手紙1911年9月17日 A)。文学のために犠牲にしたこと
カフカには文学がすべてだった。だから、妥協のない彼は、持っているすべての力を文学にそそぐために、他のいっさいを犠牲にした。ミレナはこう書いている。
「あの人は……純粋さ、妥協することのできないために禁欲生活を強いられている人なんです」(E)
「書くことがぼくの本質の最も収穫の多い方向であるということが……はっきりしてきたとき、一切のものが殺到してきて、性欲や飲食や哲学的思索や、とりわけ音楽の喜びへ向けられていたすべての能力を空っぽにしてしまった。……めそめそすることは許されないのだ。これらすべてのことを埋め合わせてくれるものは、明々白々である」(日記1912年1月3日 A)結婚問題
カフカは、まともな人間は結婚して子供を育てるものだと考え、そういう生活にあこがれていた。
そして、フェリーツェ・バウアーに恋をし、彼女と二度婚約するが、二度とも解消した。「どんなお伽話を読んでみても、だれか一人の女性を手に入れるために、ぼくがあなたを求めてした以上の悪戦苦闘が行われた例はありますまい」(フェリーツェへの手紙 E)
二人の結婚に障害があったわけではない。悪戦苦闘はカフカが一人でしたのだ。彼は、弱さと強さという本領を発揮して、結婚を望みながら、頑強にそれを拒んだのである。「ぼくは彼女なしで生きることはできない。……しかしぼくは……彼女とともに生きることもできないだろう」(日記1914年2月14日 A)
これもまた文学のためだった。「ぼくを引きとめたのは、主としてぼくの文筆家としての仕事に対する顧慮だった。なぜなら、この仕事が結婚によって脅かされると信じたからだ」(日記1914年3月9日 A)
その後、カフカは何人もの女性とつき合うが、ついに生涯、結婚することはなかった。書くことのみがすべて
小説家としての生活の理想を彼はこんなふうに書いている。「書くときには、いくら孤独でも十分ということはなく、いくら周囲が静かであっても静かでありすぎるということはないのです。夜中になってもまだ夜中でなさすぎます。僕にとっては意のままになる時間が十分ということもないのです。なぜなら道は長くて、人はたやすく逸脱し、それどころか時折不安になり、強制や誘惑がなくても、もう走り帰りたい欲求にかられます。……しばしば僕は考えました。書くのに必要な物と明かりを持って、広い締めきった地下室の一番奥の部屋にいることが、僕にとって一番いい生活法だろうと。誰かが食事を持って来て、いつも僕の部屋から離れた地下室の一番外のドアの内側に置いてくれるのです。部屋着で地下室の丸天井の下をすべて通って食事を取りに行く道が、僕の唯一の散歩なのです。それから僕は自分の部屋に帰って、ゆっくり慎重に食事をとって、すぐにまた書き始めるのです。それから僕は何を書くでしょう!どんな深みからそれを引き出すことでしょう!」(フェリーツェへの手紙1913年1月14〜15日 AG)
これについてカネッティはこう書いている。「わたしたちはこのすばらしい手紙を完璧に読まなければならない。かつてこれ以上純粋な、これ以上きびしい執筆について語られたことはない。この世のあらゆる象牙の塔はこの地下室の住人をまのあたりに見て崩れ落ち、作家の『孤独』という濫用された空虚な言葉はたちまち重要さと意義を取り戻す」(G)文学と生活の矛盾
しかし現実には、生活費を得るための役所勤めをやめることはできなかった。そのことを彼が苦痛に感じなかったわけはないのであって、弱さに関するグチと同じくらい頻繁なのが、勤めに関するグチだ。
「私の勤めは私にとって耐えがたいものである、なぜなら、私の唯一の欲求と私の唯一の使命に、つまり文学に反対するからである。私は文学以外の何ものでもなく、何ものでもありえず、またあろうとも欲しないゆえに、私の勤めが私を占有することはけっしてできず、むしろそれは、私をすっかり混乱させてしまうでしょう」(日記1913年8月15日 A)自分の小説が売れないことを知っていた
小説で食べることをカフカは最初から考えていない。
しかし、それは自分の小説に自信を持っていなかったということではない。「私の仕事が永くかかること、またその特別の性質ということからしても、文学では食べてゆけないでしょう」(日記1911年3月28日 E)。
すぐれた小説が売れないのはいつの時代も同じことで、カフカが小説で食べられないと思っていたのは、それだけ自分の創作に自信を持っていたからだ。
カフカは勤めを心底いやがったが、よりいい小説を書くために勤めが邪魔なのであり、勤めをやめるために売れる小説を書くようなことは、当然なかった。狂気の人ではない
最後に。驚いたことに、カフカは狂気の作家に分類されていることがよくある。作品を読んでそう思ってしまうのだろうが、これは間違いだ。カフカは生涯、完全に正常だった。彼の作品と狂気は何の関係もない。
『訴訟』の生原稿があらわれるまで
作品の成立
『訴訟』は1914年、カフカが31歳のとき書かれた。他の長編同様、生前は出版されず遺稿として残された。焼却の遺言
カフカは遺稿の焼却を、親友のブロートに遺言した。
しかし、ブロートは遺言に従わなかった。くわしい事情は『訴訟』のブロートのあとがきに書いてあるが(A)、自分が従わないことはカフカにもわかっていたはずだし、名作を焼くことはできなかったという。遺言の真意
あまりにも高いレベルを目指し、妥協のないカフカは、自作に対する評価がきわめて厳しかった。けなしていない作品はひとつとしてない。遺稿の焼却の遺言も同じことで、完全な作品を目指す者にとって、完全とは思えない作品が残って、完全な作品と誤解されることほど辛いことはない。ポイントはそこにある。
「作曲家たちのすぐれた習慣。彼らは〈優れたもの〉と認めた作品にだけ作品番号を与える」(クンデラ J)
小説にもこの習慣があったら、カフカも番号なしにするだけで、焼却の遺言はしなかったかもしれない。
それにしても、驚嘆するばかりのカフカの作品に対して、満足できないなどと言えるのはカフカだけだ。出版の困難
ブロートは遺稿の出版を決意したが、「出版社を見つけるのが……大変だった。……有名人の関心をかきたてようと試みた。しかし……カフカの名前は一度も聞いたことがないと伝えて来た」(ブロート E)
それでも彼は何十年も出版の努力をつづけた。マックス・ブロートに対する批判
今ではカフカは世界的に最も高く評価される小説家だが、「ブロートがいなければ、今日私たちはカフカの名前さえ知らないことだろう」(クンデラ α)
しかし、ブロートは非難もされた。とくに『訴訟』について。『訴訟』の原稿は草稿の状態で、登場人物の名前が省略記号になっているところがあったり(フロイライン・ブュルストナー→F・B)、言葉使いのプラハなまりもそのままで(カフカは清書の段階で修正していたという)、章の順序もはっきりしなかった。
そこでブロートは原稿に手を加えた。「(この作者の独特な言葉のメロディーと一致すると思われるかぎりにおいて)句読法、正字法、文章論的構造などは一般のドイツ語用法に従わせるよう努めた」(『訴訟』のあとがき A)。また、各章の区分と配列を、はっきりした証拠と、「自分の感じ」と、「この小説の大部分は友人(カフカのこと)の朗読によって聞いていたから……それらの記憶」とによって決めた。
これが問題視された。シオニスト(ユダヤ民族主義者)のブロートは、カフカの作品をユダヤ教的に解釈していた。「『審判』と『城』においては、神性(カバラの意味における)の二つの現象形式――審判と恩寵――が描かれている」(C)といった調子だ。だから、勝手な改ざんの強い疑惑を持たれたのだ。
ブロートは生原稿を公開しようとはしなかったので、今回の公開まで、疑惑はずっとそのままになっていた。生原稿のたどった運命
遺稿の中からブロートが最初に出版したのが『訴訟』だった(1925年)。しかし、ナチスの侵攻やスエズ動乱の戦火をくぐって、原稿類のほとんどがイギリス・オックスフォードのボドレェイアン図書館に収まった後も、『訴訟』の原稿だけはブロートの手元に残され、1968年のブロートの没後、親しかった元秘書に遺贈され、そのまま表に出てくることはなかった。生原稿の競売と展示
それが1988年、突然、ロンドンのサザビーズで競売にかけられたのだ。落札された生原稿はドイツのバーデン=ヴュルテムベルク州の資料館に収められた。
そして1990年、西独マルバッハ市の国立シラー博物館で展示されたのだ。カフカが書いてから76年目にして、初めて一般の目にふれたのである。
本稿について
タイトルについて
本稿にはおことわりしておかなければならないことがいろいろある。
まずタイトルについて。原題の Der Process の訳は「訴訟」が正しいが、これまでは『審判』と訳されてきた。おそらく『訴訟』では魅力に欠けるからだろう。
しかし、もはや魅力を気にする必要はないだろう。『審判』というタイトルは、宗教的なニオイがするのがずっと気になっていた。せっかく生原稿から訳すことでもあり、原題通りのタイトルを使うことにした。なぜ最初と最後を
本稿は『訴訟』の「最初の章」と「最後の章」だけを訳したもので、間の章は省略してある。
このシングルカットには、もちろん理由がある。途中で読みやめる人が多い
海外では、『訴訟』の人気はとても高い。
ところが日本では、いまひとつ人気がない。
特徴的なのは、読みはじめても、なんとなく途中でやめてしまう人が多いことだ。周囲にもそういう人がたくさんいる。三木卓でさえ、『訴訟』は「終わりまで読み切っていないように思う」と書いている(B)。
原因として大きいのは、未完の草稿であることだ。未完の章があったり、章の間がとんでいたりする。話の筋が追えない気がして、読む気がしなくなるようだ。
本当は未完といっても読むのに支障はないはずなのだが、ひとつのまとまった世界が見えてこないと、読めなくなってしまう人がどうしても多い。最後の章のすばらしさ
途中で読みやめてしまうせいで、『訴訟』の最後の章を読んだことのある人は意外に少ない。じつにもったいないことで、『訴訟』の最後の章は、カフカの全作品の中でも、最高のもののひとつといっていい。きっかけづくり
というわけで、『訴訟』はまだ正当な評価を受けていないし、有名なようでじつはあまり知られているとはいえない。しかし、これまでどおり『訴訟』の全体を訳して出すだけでは、これまで気づかなかったよさに気づいてもらえるわけがない。
そして、気づいてもらえそうないいプランがあった。カフカはまず「逮捕」と「終り」を書いた
『訴訟』の章の順序が問題視されてきたことはすでに述べたが、H・ビンダーによる代表的な推定(『審判』新潮文庫の解説中に引用されている)を見て驚いたのは、原稿の書かれた順序と、章の順序をまったく同一視していることだ。カフカは出だしから結末にむけて順番に書いていったと、最初から思い込んでいるのだ。
カフカは他の小説をそういうふうに書いた。だから、『訴訟』もそうに違いない、というのだろう。ビンダーだけでなく、みんなが同じ前提に立っていた。
しかし、『訴訟』が最初から最後にむけて一直線に書かれるような作品でないことは、読めばまず最初にわかるはずのことだ。
どう書くかは、作品が決める。すぐれた小説家なら、作品の要請に逆らうことはありえない。いつも同じ書き方をしていたとすれば、その書き方がふさわしい作品ばかりだったからだ。カフカの他の作品は、あきらかに出だしから結末にむけて順に書かれるべきものだ。しかし、『訴訟』はあきらかにそうではない。
まず最初に「逮捕」と「終り」が書かれたと思った。
それが今回の生原稿の調査で事実として証明された。物的証拠によってわかった執筆順
今回のパスリーの調査で特徴的なのは、すべてが物的証拠によって証明されていることだ。犯罪捜査でいえば、指紋によってということで、有無をいわせぬ確実さがある。生原稿だからこそできた画期的なことだ。
カフカは間を埋めるように他の章を書いていった。いくつかの章を平行して書いたりもしているようだ。章の配列は書いた後で決められたりもしている。小世界
なぜ、カフカは「逮捕」と「終り」をまず書いたのか。なぜ、読めばそれがわかるのか。
「逮捕」と「処刑」(「終り」)が全体のワクなのだ。『訴訟』の基本的な世界なのだ。他の章はその世界をより深めるもので、別の展開を加えるものではない。最初の章と最後の章が鉢であり土であり根であり芽であり、そこからその間の章が果てしない高みにむかってかぎりなく成長していくのだ。
『城』の場合、結末にたどりつくことがありえないところに永遠性があるが、『訴訟』の場合、Process には英語のプロセスにあたる「過程」の意味もあるのだが、果てしなさは発端から結末までの過程にある。未完の状態もそのことを示している。『城』は中絶というかたちで未完になっているが、『訴訟』には最初の章と同じくらい完成度の高い最後の章がある。未完なのは途中の章だ。『失踪者(アメリカ)』にも最後の章(未完)があって、その前に章の欠落があるが、それまでの展開には連続した流れがあり、あきらかに展開順に書かれている。『訴訟』の場合、章の連続性が希薄で(だからこそ正しい章の配列が議論されるのだ)、それぞれがかなり独立している。つまり、間の章は、いくらでも後から加えていくことができるのである。
未完の『訴訟』に欠けるところがないように、「逮捕」と「終り」だけで、ひとつの完成がある。この2章だけでも了解可能であり、他の章があればもちろんもっと深く豊かになるわけだが、ひとつの小世界をかたちづくっている。作者の頭の中にまず明確にあったのはこの小世界なのだ。
「逮捕」+「終り」の小世界を把握することで、『訴訟』全体を見渡すことができるようになり、まとまった世界が見えてくることで、読みやすくなり、途中で読みやめることもなくなるのではないだろうか。そして、『訴訟』の真価がこれまで以上に理解されるだろう。これがこの2章をシングルカットした理由である。これなら最後の章も読んでもらえることも、いい点だ。カフカは部分だけで価値を認めている
もちろん、どんな必然性や意義があるとしても、長編の一部分だけを取り出すのは、許されることではない。長編として書かれたものは、当然のことながら、長編として読まれるべきだからだ。
少しは救いになるのは、カフカ自身がブロートら友人たちに長編の一部分だけを朗読したり、『変身』の第一章だけでの雑誌掲載を認めたり(ムージルへの手紙1914年7月 A)していることだ。『火夫』は、長編『失踪者(アメリカ)』の第一章だが、カフカはこれを独立させて、単行本として出している。
とはいえ、この本はあくまで『訴訟』のよさをわかってもらうための紹介の本であり、この本をきっかけに全体を読んでもらえることを願ってのものである。「逮捕」と「終り」だけで読むことができる
「他の章を知らずに読んだのでは、わからないところがあるのでは」という心配はいらない。
「終り」を読むのに必要な予備知識は「逮捕」の章ですべて与えられているし、それ以外の情報は必要ない。「終り」を読んでいて、「これはきっと前の章で何か言われていたことなんだろう」などと思ったとしたら、大変な誤読をしてしまうことになる。全部の章を読んだとしても、「終り」の章は、この本で「逮捕」の章の次にあらわれるのと同じようにあらわれるのである。「終り」を読んでいて、よくわからないところがあるかもしれないが、それは他の章を読んでいてもわからないのだ。そして、それは『訴訟』が未完なせいでもない。くれぐれもそのつもりで読んでもらいたい。「承転」が抜けているわけではない
「逮捕」の次にいきなり「処刑」があると、「出だしと結末だけがあって、肝心な展開部分がないなんて」と思うのが、むしろ自然かもしれない。
しかし、「彼の物語は……核となるイメージを展開し、ふくらませてゆくところに成り立っているのだ。……ひとつのまとまりのある筋を、発端、展開、帰結と追ってゆくのではなく、より深い直観にむかってますます強度に『見る』ことを深めてゆく過程が物語の進行にほかならないのである」(グリーンバーグ S)
「逮捕」+「終り」は『訴訟』の核であり、他の章でより深められる肝心な世界は、すでにここにあるのだ。
先入観について
先入観は味をわからなくする
本文を読んだ人の中には、「それほどのものかね、ぜんぜん面白くなかったよ」という人も少なくないだろう。ボルヘスでさえ最初は「言いようもなく無味乾燥なものに思われた」(U)くらいだから。
「自分の弁解の余地のない文学的鈍感さ」とボルヘスは言っているが、世界的に有名な詩人・小説家が文学的に鈍感なわけがない。本当の原因は、小説に対する先入観にある。先入観を持って読むのは、舌にキャップをして食事するようなものなのだ。小説は進化する
その小説についていろいろ聞いていればもちろんのこと、まったく知らないで読むときにも、人は先入観を持って小説を読むことになる。
「未知の小説に対して、いったいどんな先入観がもてるのか?」と思うかもしれないが、誰でもが持っている「小説はこういうもの」という認識が、すでに誤った先入観になりうるのだ。
「小説はこういうもの」というとき、現代のほとんどの人が思い浮かべるのは、じつは19世紀に完成された方法による小説である。小説はすでにそこから先に進んでいるが、一般の認識がそれに応じて変わるまでには、どうしてもそうとうな時差がある。それは当然のことで仕方ない。問題なのは、19世紀の小説を「小説そのもの」と思い込んでしまって、新しいものを「小説ではない」と思ったり、拒絶反応をおこすことだ。
カフカの小説を「わけのわからない変な小説」と言う人がいる。しかし、そう感じるのは、19世紀のリアリズムにあまりにもとらわれているからだ。剣しか知らない人には、拳銃は武器に見えないだろう。じっさいにはカフカの小説は新しいだけなのだ。そして、すぐれた小説はつねに新しいのである。「偉大な小説とはこういうもの」という昔から変わらない唯一絶対的な規範があるわけではない。「事実は、すべてがたえず変化するのであり、いつでも新しいものが存在するのである」。「あらゆる芸術の分野において、形式というものは生き、そしてほろびてゆくものであり、いつの時代にもそれは、たえず更新してゆかなければならない。十九世紀的なタイプの小説構成は、いまから百年前には生命そのものであったが、いまではもはや空虚な公式にすぎず、退屈なパロディーに役立つだけの能しかない」(ロブ=グリエ L)
考えてみれば、これまでと同じような小説であることにこだわる必要はどこにもないはずだ。人間には、見慣れているのと同じものを見て安心したがる傾向があるが、これはしばしばマイナスに働く。新しい本物に出会って認識を変えさせられるくらい感動的なことはないのだ。
「小説はこういうもの」という先入観を持たないでいることはできない。しかし、先入観を持っていることに無自覚であってはならないだろう。そして必要なのは、その先入観にとらわれないことだ。
いままでのものと比較することなく、素直に読めば、作品はその本来の姿を見せてくれるはずだ。
「ある種の文学的素養……こそ、かえって……理解をさまたげるものではないかと、疑いたくなるくらである。それに反して……精神をくもらせていない、きわめて純朴なひとびとは、彼らが生きている世界、および自分自身の考えを認めることのできるこれらの作品……彼らがもっともはっきり事態を見きわめるのを助けるこれらの作品に、そのまますっとはいってゆけるはずである」(ロブ=グリエ L)カフカの新しさ、自由さ
「二世紀にわたる心理的写実主義によってほとんど不可侵の基準がいくつか作られてきました。作家は、容貌、話ぶり、行動など登場人物にかんする情報を最大限提供しなければならない。登場人物の過去は読者に知らしめなければならない。彼の現在の行動誘因はすべて過去にあるがゆえに」(クンデラ J)。登場人物の服装や家の様子や家具も描写され、外を歩けばあたりの風景が描写された。
人間であれば名前や顔があるはずだし、どこにいたってまわりの景色が必ずあるはずだ、だからそれを描写するのはごく自然なことだ、というわけで、これは小説のある種の書き方というよりも、ごく自然なあたりまえの書き方のように思われていた。というより、そういうふうに、方法として意識されることがなくなるほど長い間、この書き方が守られてきたのだ。
ところが、カフカの小説では、主人公の名前はKとしか書いてないし、顔つきもわからないし、体格もわからない。そして、「K……の子供時代について何がわかっているでしょうか」(同前)。あたりの風景も、本当に必要な場合にしか知らされない。
必ずしもそういう描写をしなくてもいいことを知って、初めて読んだとき、目の覚める思いがしたものだ。
話法も変わっている。「Kは」と三人称で書いてあるのに、「ぼくは」という一人称で書いてあるかのようなところがたくさんある。
この種の話法が採用されるのは、たいていの場合、客観的な描写もしたいし、主人公の心情にも寄りそいたいということのようだ。しかしカフカの場合は違う。
「カフカの小説では、主人公は複雑な内面生活を持ってはいない」(M・スピルカ S)「カフカはKの考えをたえず追いかけるのですが、ただしその考えはもっぱら現在の状況に向けられています。……尋問に出頭しようかやめようか。……Kの内面の生はことごとく、彼がはまりこんでしまった状況にからめとられ、この状況をはみ出ているかも知れないもの(Kの記憶、観念的な考え、他人への思惑など)はいっさい読者には明らかになりません」(クンデラ J)
ようするに、カフカは、ふりかかる出来事とその内での人間とを、総体として描こうしているのだ。
というわけでカフカの小説にはいわゆる心理描写もない。それを欠落と感じるなら、それが先入観なのだ。
クンデラが小説の変遷について書いている文章を少し引用しよう。これはある面からみた変遷にすぎないが、小説がたえず進化をつづけ、それにしたがって書かれ方も変化していくことがわかってもらえるだろう。
「ヨーロッパの初期の作家たちには、心理描写は想像外のことでした。ボッカチオは行動と冒険を語るだけなのです。……行動は行動する人間の自画像だとみられていたわけです。ボッカチオから四世紀後のディドロになると、ずっと懐疑的になります。……人は行動によって自分自身の姿を明らかにしたいのだが、その姿はまるで自分に似ていない。行動のそうした逆説的性質こそ、小説の偉大な発見のひとつです。……自我を探究する小説が行動という見える世界に見切りをつけ、見えざる内面の生を探る機会がやってきます。十八世紀のなかば、リチャードソンが、登場人物が手紙のなかで自分の考えや感情を告白する書簡体小説という形式を発見します」「(小説は)サミュエル・リチャードソンとともに、〈内面に生起するもの〉を検討し、秘められた感情生活を暴きだすようになります。バルザックとともに、『歴史』に深く根ざした人間を発見し、フローベールとともに、そのときまで未知の地であった日常生活を探査し、トルストイとともに、人間の決断や行為に介入してくる非合理的なものを検討します」「彼(リチャードソン)の偉大な後継者は周知の通りです。……この展開の頂点はプルーストとジョイスにあると私はみています。……偉大な小説家たちが、自我の内的生の微に入り細をうがった探究から当然予想されるどんづまりに行きついたあとで、意識的にあるいは無意識的にあらたな方向を探りはじめた……。カフカこそが新しい方向を、プルーストの後の方向を開いたのです。彼の自我の考えかたはまったく思いがけないものでした。KをほかならないKにしているものは何か。容姿ではないし(読者にはなんにも知らされません)、経歴でもない(読者は何ひとつ知らない)。名前でも(彼に名前はない)記憶でも好みの傾向でも固定観念でもない。彼の行動範囲はおそろしく狭いですね。内的思考でしょうか。……プルーストにとって、人間の内面世界は私たちを驚嘆させてやまないひとつの無限、ひとつの奇跡でした。しかしカフカの驚きはここにはありません。彼はどんな内的動機が人間の行為を決定するのかとは問いません。それとは根底的に異なる問いを提出するのです。外的決定要因が圧倒的に強くなった結果、内的動機の意味がもはやなくなった世界にあって、人間にどんな可能性が残されているのか、という問いです」(J)伝統から拒絶された
小説はつねにいくつかのルールを守って書かれる。しかし、小説の書き方は決して一つだけではなく、ルールは作品ごとにつねに新たに規定されるべきものなのである。小説はそういう自由さ、大きな可能性を持っている。カフカはそれ以前の小説のルールを破っているが、わざと逆らったとか、アンチ、外し、反抗、破壊、否定ということでは決してない。彼は純粋に自分の書ける最高の作品を書こうとしただけなのだ。その結果、彼の天才は、古い方法にとらわれることなく、小説本来の自由さと可能性の中で、まったく新しく小説を生み出した。ただただ驚くしかない偉大さである。
しかし、その結果、過去の方法にとらわれた人々から黙殺された。これまでの小説とちがうということで、受け入れられなかった。安部公房がいつだったかのインタビューで言っていたように、「カフカは伝統を拒絶したのではなく、伝統から拒絶されたのだ」。
ブロートの働きと、時代の流れとによって、カフカは世界的に有名になったが、現在でもまだ「おかしな小説」の汚名は完全には晴らされていない。
「みんなに、というかほとんどそれにちかいくらい多くの人びとによって、暗黙のうちに認められた小説理論が、過去にあったし、いまもあって、それがわれわれの発表するすべての作品にたいして、壁のように立ちはだかるのであった。われわれにたいして、こういうことがいわれるのであった。『あなた方は人物を生き生きと描いていない、だからあなた方は本当の小説を書いてはいない』、『あなた方は物語を語っていない、だからあなた方は本当の小説を書いてはいない』、『あなた方は、性格も環境も研究していない、情熱も分析していない、だからあなた方はほんとうの小説を書いていない』云々」(ロブ=グリエ L)
この壁がいまだにカフカの前に立ちはだかっている。
もちろんカフカだけに限らない。小説の新人賞の審査をしている人の話を聞いたことがあるが、同じような基準で作品を判断しているそうだ。名作は即落選だ。
過去の小説が持っていたものを持っていないといって新しい小説を責めるのはバカげている。新しい小説は、もはやそんなものを持とうとはしていないからだ。夏の海に泳ぎに来ている人間に、なんでスキーを持ってこなかったんだと怒るようなものである。
新しい小説のよさをはかるモノサシは、その作品以前には存在しないのである。こういうよさがあるだろうと、待ち構えていてはいけない。古いアミでは新しい魚は素通りしてしまう。すぐれた作品であるなら、そこには予想することのできないよさがあるのだ。そういうよさがあることを、その作品ではじめて知るのだ。それに気づける、受け入れられる柔軟性こそ、読者に求められるものである。
いまカフカが生きていたら111歳になる。その小説を、わたしたちはまるで老人が若者を理解できないように、理解できずにいる。カフカにとっては誇れることだが、わたしたちにとっては恥ずべきことだ。
もうそろそろ、先入観を捨てて、まともに味わってみてもいいころではないだろうか。ないものねだりの、あるもの見ず
「小説はこういうもの」という認識さえ作品の面白さを味わう邪魔になるくらいで、それ以上に先入観を持っていれば、もちろん大きな問題となる。
芸術的にすばらしい映画でも、ポルノ映画だと思って、そのつもりで見れば、ヌードがないのがけしからんということになる。ヌードばかりさがしていれば、その映画の面白さはわからないだろう。
先入観を持っていると、そういうふうに「ないものねだり」をすることになる。そして、「あるものが見えなくなってしまう」。そのせいで「面白くない」という判決を下された作品がどれほどあることか。これはまったく不当なことだし、もったいないことだ。
「既成の一般論からはじめるようなことがあれば、それは見当ちがいも甚だしく、本の理解がはじまるより先に、とんでもなく遠くのほうにそれていってしまうことになる」(ナボコフ K)
「いま、カフカの『審判』をとり、それを探偵小説のように読んでみるがよい。……その本の頁をマリファナを巻くのに使ったほうがましだろうし、もっと大きな満足が得られるだろう」(ウンベルト・エーコ W)
「『不当に』逮捕された男の絶望的な抵抗の物語といふ風にしか読めないやうな生真面目過ぎる人にはカフカの面白さはわからない」(倉橋由美子 B)
先入観というのは、せっかく作品を読んでも、読んでいないのとまったく同じことにしてしまうくらいの大きな力を持っている。そのことをぜひ知ってほしい。
現実をとらえていることについて
なぜ人が虫に変身するのか
「現実にはありえないことが書いてある」というのが、最も一般的で最も激しい、カフカの小説に対する拒絶反応だ。他のことはともかく、これが決定的なようだ。
たしかに、人が虫になるようなことは現実にはありえない。だが、なぜカフカはそんなことを書いたのか。
それをここで説明してみたいと思う。理由さえわかれば、拒絶反応も解消されるはずだからだ。文学の目的は現実の把握にある
文学の本来の目的は現実の把握にある。(そういうふうに意識することはないが)現実を把握したいという本能的な情熱が、そもそも小説を生み出し、人にそれを読ませるのだ。
「つねに創作とは認識の焦燥である」(ブロッホ J)
だから、もともとは科学とぜんぜん別ものではない。よく正反対のものとして対比されるが、人は本当にまったく関係のないものを比べようとはしないものだ。どこかに共通性を感じるからこそ、違いを強調したくなるのだ。その共通性は、同じ認識の情熱から発生したという点にあると思う。
だから、科学の感動も、文学の感動も、きわめてよく似ている。それは認識の感動である。「純粋科学の戦慄は、純粋芸術の喜びに劣らぬ楽しいものだ。大切なのは、思考であれ感情であれ、いずれの分野にせよ、あのひりひりと背筋にうずくものを経験するということだ」(ナボコフ K)
神話の段階では、科学も文学もまだ渾然一体としている。世界がいかにして創られたかを説明するのが神話で、それは科学でも文学でもある。それが時の流れとともに分化していった。全体としての現実把握の力を高めるために、分化していくのは自然なことだ。
だから、同じ現実を把握するためのものといっても、科学と文学では、現実のとらえ方が異なる。つまり、科学でしかとらえられない現実があり、文学でしかとらえられない現実がある。科学がいくら進歩しても、そのせいで文学が不要になることはないし、その逆もまた真なのは、そのためだ。言葉にできない現実
わたしの考えでは、科学は言葉できれいにとらえることのできる現実を対象とし、文学は言葉でとらえることのできない現実を対象とする(その逆ではなく)。
トーマス・マンのなにかの小説に、人間の精神活動とは未知なものに「名前」を与えることだ、というようなことが書いてあるらしいが(M)、まさに至言だ。人間は未知の現実に名前をつけ、言葉の秩序の中に位置づける。そうすることで、外の世界を頭の中にとり込む。人間は言葉によって現実を把握するのである。
しかし、言葉で現実のすべてを把握することはできない。一本の木についても、細胞の構造に至るまで、さまざまなことを果てしなく把握することができるが、かといってその木が持っているアナログ情報をすべて言葉にしてとり込めるわけではない。人がその木を見て感じることは、つねに言葉をはみ出している。
というわけで、現実をより把握しようとするとき、そこに二つの動きがおきる。言葉でとり込める現実の追求。そして、言葉にならないものをどうにかして言葉にしようとすること。
前者が科学であり、後者が文学だ。前者では当然のことながら、名前をつけて言葉の秩序の中にとり込む過程自体はスムーズに行くので、言葉の存在は目立たない。後者では言語化の困難がつねにつきまとうので、言葉ばかりが目につく。しかし、文学が相手にしているのは、じつは言葉にならないものなのだ。
「(小説家は)言葉になったことのない世界に言葉で辿り着こうと努力している」(安部公房 O)
「芸術における美――突如輝きだす、ついぞ語られたことのないものの光」(クンデラ J)
言葉にならないものを、言葉を通じて、なんとか認識させることが文学の目指すところだ。
カフカもそうだが、偉大な作家たちには必ず、言語に対する絶望、不信がある。たとえばハロルド・ピンターは、駄目な作家をけなすのに「この種の作家は明らかに言葉を絶対的に信頼しています」(β)という言い方をしている。というのは、言語に対する絶望、不信こそが文学の出発点なのである。言葉で現実のすべてがとらえられていないことに気づくからこそ、創作に向かうことになるのだ。言葉からはみ出した現実をなんとか言葉によって表現しようとすることになるのだ。安部公房が「言葉に対する不信と絶望を前提にしなければ、作品に自己の全存在を賭けるなどという無謀な決意も、生まれてくるわけがないのである」(M)という、ちょっと聞くと矛盾しているように思えることを言っているのも、そういうことなのである。現実把握の必要性
現実の把握になぜ人は情熱を感じるのか。
それは、それが生存に欠かせないからだ。
下等動物は、生まれながらに行動のプログラムを持っている。それにしたがって生きるだけなので、現実を知る必要はない。しかし、そのプログラムは環境に合わせてあるので、その環境の中でしか生きられないし、環境の変化に弱い。
高等動物になると、より広い環境、環境の変化に適応できるように、行動のプログラムの中に、生まれた後で環境に合わせて組み立てられる部分が出てくる。ビーバーは生後に泳ぎをおぼえる。高等動物になるほど生後の学習によるプログラミングの割合が大きい。
しかし、環境に適応しているだけでは、やはり限界がある。人間は、さらに生存に有利な進化を遂げている。環境のほうを自分たちに適応させる能力を持つに至ったのだ。地球上での圧倒的な繁栄はその結果だ。
この能力は、言語の獲得によってもたらされた。外の世界を言葉におきかえて頭の中にとり込むことによって、頭の中でそれを組み換え、それに合わせて外の世界を創り変えることができるようになったのだ。
「人は本能が壊れた動物である」ということが言われる。しかし、べつに壊れたわけではない。進化の結果、本能に従って行動するだけでなく、言語によって環境を把握し、自分で行動を決めるようになったのだ。動物とちがって行動が著しく多様なのもそのせいだ。
しかしそのために、下等動物には必要のなかった現実の把握が、生存に欠かせなくなった。本能的な部分が少ないので、ほとんどの場合、現実をよく把握し、よく考えないと、適切な行動がとれない。最初から考えつくされたような行動を整然ととれる下等動物にあこがれを感じて、「人間は本能が壊れている」などと嘆く人がいるのは、そのつらさからだ。
つまり、人間にとって現実は、未知の深遠として目の前にあるのだ。それを知らなければ、どんな行動をとることもできない。考えてもみよう、目の前のものがすべて未知のわけのわからないものだったら、おそろしくて一歩前に足を踏み出すことさえできないだろう。生き抜くためには、現実を知る必要がある。そして、現実を知れば知るほど、生存はよりたしかなものになる。だから、人は現実をどこまでも知ろうとする。もちろん、そういうふうに自覚することはないが。
現実把握の情熱は、生存の情熱なのである。だからそれは生殖欲求や食欲と同じように強いのだ。現実の完全な把握は不可能
脳がどういう方法で情報を蓄えているにしろ、外界のすべての情報がそこに入るわけはない。脳は生存に必要な情報だけを選択してとり込むようにできている。
だから、目を向けても見えない現実がある。たとえば白い花を見たとする。それが白い花であることは、ありのままの現実に見える。しかし、蜂には同じ花がまったく別の模様に見えるのだ。蜂の目は紫外線を感じるからで、蜜を求める蜂にはそれが都合がいいのだ。つまり、人間も蜂も、自分たちのとらえ方でとらえられる現実しか見ることができないのである。
言葉によって把握できる現実も、現実そのものではなく、言葉でとらえられた現実にすぎない。
「現実そのもの」には人間は決して手が届かない。手に入るのは、「あるとらえ方をした現実」だけだ。
「私が世界について尋ねるなら、あなたは、ある座標系のもとでは世界はこうであるとか、また別の座標系のもとではこうなっているとか、私に説明してくれるだろう。しかしもし私が、あらゆる座標系から離れて世界はどのようか語ってもらいたいと迫ったら、あなたはなんと言えるだろうか。記述されたものが何であれ、われわれはそれを記述する方法に縛られている。
われわれの宇宙はいわばこれらの方法から成るのであって……世界から成るのではない」(グッドマン X)無限の可能性
ただここで面白いのは、花の色は白いままだが、言語による現実の把握は、それ自体進歩していくということだ。とらえ方の工夫が可能で、それ次第で、より現実をとらえることができるようになるのだ。。どこまで行っても「あるとらえ方」をしていることに変わりはなく、現実を完全にとらえることは不可能だが、無限に向上していくことはできる。だから、人間にとっての現実はつねに更新されていくものなのである。科学や文学やその他もろもろの学問芸術の本質的な進歩はここにある。個々人によって現実の認識に違いがあるのもこのためである。方法の必要性
「あるがままを自然にとらえる」というようなことが、方法の放棄という意味でよく言われるが、方法なしで現実をとらえることは不可能なのだ。だから、そういうことを言っている場合には、じっさいは、あまりになじんでしまってもはや「とらえ方」として意識されなくなったステロタイプの方法を用いているにすぎない。ありきたりな現実の把握に終わるだけで、ろくな結果が出ないのはそのためだ。
たしかに、いま見えている現実は、あるがままの現実に見えるかもしれない。しかし、とらえ方を変えれば、別の現実が見えてくるのである。そして、現実は決して知りつくされることはない。
だから、小説家はつねに、より現実をとらえるための方法を、まだ言葉になっていない現実を言葉で表すための方法を、追い求めなければならない。方法の放棄どころか、方法の存在を自覚し、その進化こそを目指さなければならないのだ。「普通のフィルムで不足なら、赤外フィルムを発明しなければならないし、光を感ずる望遠鏡で不十分なら、電波望遠鏡を創らなければならないのである」(安部公房 M)リアリズム
リアリズムが現実をとらえるための方法なら、だから、それは時代とともに変化していくのが当然なのだ。固定した一つの方法では決してありえないのである。
「作家はだれでも、自分はレアリストだと考えている。……現実の世界こそ、彼らの関心を惹くものなのである。各自がほんとうに、《現実的》なものを創造しようと苦心しているのである。……そしてこれはいつの時代でもおなじことであった。どの新しい文学流派も、レアリスムにたいする関心から、それに先行する流派を打破しようとしたのだった。これこそ、古典主義者を攻撃するロマン主義者の合言葉であったし、ついで、ロマン主義者を攻撃する自然主義者の合言葉であった。超現実主義者たちでさえ、やはり、現実のことにしか意を用いないと断言したものである。……文学上の革命がなぜ、いつでもレアリスムの名において達成されてきたかということも、容易に了解できる。書き方のある形式が、その最初の活力、そのちから、その激烈さを失い、追従者たちももはや、その必然性について疑問をいだくことさえせずに、機械的習慣ないし怠惰によってしか尊重しないような、卑俗な小説作法となり、アカデミズムとなってしまったときには、たしかに、生命を失った表現様式の告発と、それにとって代わることのできるような新しい形式の探究とは、現実的なものへの回帰を意味するものである。現実の発見は、磨滅した形式を捨てないかぎり、前進しつづけることができない。世界がいまや、あますところなく解明されつくしたと考えるのでないかぎり……どうしてももっと先へすすもうと試みないわけにゆかないのである。……まだ未知の方向にすすむことこそ大切なので、そのとき、新しい書き方が必要となってくるわけである」(ロブ=グリエ L)文学の方法=フィクション
文学の方法はフィクションである。小説が作り話なのは誰でも知っている。なぜ作り話なのか。より面白くするためになどの理由から作り話になってしまうだけでなく、そもそも根本的に「文学=現実をとらえるための虚構の世界を構築すること」なのである。
言葉にならないものを言葉にするのが文学だが、言葉にならないものは言葉にはならない。そこで登場するのが虚構だ。さまざまな虚構を設定することで、そうでなければとらえることのできない現実をなんとかとらえるのである。
「文学は作り物である。小説は虚構である。物語を実話と呼ぶのは、芸術にとっても真実にとっても、侮辱だ」(ナボコフ K)
実話だからそれだけ現実に近いわけではない。どれほど現実がとらえられているかは、「とらえ方」によるからだ。実話だからといって、それを現実そのものだと思ってしまうのは、現実に対する過少評価だし、芸術の否定だ。よりすぐれた「とらえ方=フィクション」の創造こそが芸術なのである。(もちろん、現実をとらえるためのものではないフィクションは、芸術とも関係がない)自律と他律
フィクションで現実をとらえるというのはどういうことか。安部公房は設計図という比喩でそれをうまく説明している。言い方が難しいが、よく読んでほしい。
「設計図が、現実の単なる引きうつしではなく、設計図作成の過程で、設計図作成理論の展開が行われ、その発想にしたがって、現実の分析と総合が、はじめて可能になるということだ。具体性に則すると同時に、製図の仕事の中で、その具体性が深められ、則する方法がつくられる。創造はこの自律性と他律性の中から生まれるのだ。言いかえると、創作の方法には、現実認識の方法と、製図の方法とがあり、この両面の有機的関連の中に立つことによって、新しいリアリズムが可能になるわけである」(安部公房 M)自立した別世界
偉大な小説家たちはよく次のようなこと言う。
「その作品によってはじめて成立可能な世界の創造、それが文学の存在理由だと思う」(安部公房 N)
「作品の外側のいかなるものにも寄りかかる必要なしに、すっくとひとり立ちできるようななにものかを建造すること。これが今日では、小説なるもの全体の野心なのである」(ロブ=グリエ L)
つまり、別世界の創造である。現実をとらえることを目指しながら、なぜ別世界を創造しようとするのか。
それはつまり、「設計図というものは、高度になるにつれて、その独自性が要求される」(安部公房 M)ので、それは「現実像であると同時に、それ自身一つの独立した現実となる」(〃)からである。
製図の方法がしっかりした自律性、内的整合性、完成度を持つことが、それだけたしかな現実把握につながるのである。
たとえば数学でも、独立した世界としての内的整合性こそが重要で、それがけっきょくのところ現実に対する有効性を決定する。1+1は2だが、リンゴ+バナナでは2にならない。ここでつまずく小学生があるというが、それは現実の世界と数学の世界の区別がついていないからだ。1とか2とかは、現実のどこをさがしてもない。それは頭の中にしかないのだ。頭の中の1、2を現実のものに対応させるのが、数を数えるということで、つまり、それ自体独立した数学の世界によって、現実をとらえているのである。なぜリアリティーがあるのか
非現実的なことが書いてあるにもかかわらず、カフカの小説にはリアリティーがある。
「カフカの幻影はどんな眞実よりも眞実といふ感じをあたへる」(丹羽文雄 D)
それは、別世界がたしかに構築されているからだ。
「人間が昆虫になることは事実上ありえないが、カフカの『変身』のなかでは事実になるでしょう。……あの作品のなかで、カフカは事実として人間が昆虫になる世界を創造したわけです」(安部公房 N)
そこにたしかな世界があれば、それがたとえ別世界であっても、わたしたちはリアリティーを感じる。眠って見る夢にリアリティーを感じるように。
世界のたしかさとは、他律と自律のたしかさである。
つまり、カフカの小説は、それだけ現実をとらえる力も強いということだ。本当らしさはいらない
19世紀のリアリズムは本当らしさを追求した。それにすっかりなじんでいるので、本当らしさがないと、それだけ現実から遠いと思われがちだ。しかし、現実をとらえるのに本当らしさが欠かせないわけではない。
本当らしさが求められるようになったのが意外に最近のことなのは、知っておいたほうがいい。「初期の小説家たちは、ありそうにもないことに対するこんなためらいなどもっていません。『ドン・キホーテ』の第一巻で、中部スペインのどこかに一軒の旅籠があって、まったく偶然にみんながここで出会います。……まったくありそうにもない出会いの累積ですね。ですがこれをセルバンテスの素朴さとか不器用さとみてはならないでしょう。当時の小説は、読者とはまだ本当らしさについての契約をかわしていなかったのですから。……十九世紀のはじまりは小説の歴史における巨大な変化、ほとんどショックといっていいものです。現実模倣の要請は、セルバンテスの旅籠をたちまちこっけいなものにしてしまいました」(クンデラ J)
しかし、19世紀以前の本当らしさのない小説が、現実をとらえることができていなかったわけではない。
現実模倣は、小説の進化の過程で出てきた、リアリズムの一つの手法にすぎないのである。
それはそれで素晴らしいものだった。しかし、これまでに説明してきたように、いつまでもそこにとどまることは、愚かしいことでしかない。本当らしさにこだわりつづけた小説は、まったく価値のない、「もっとも退屈な人生よりも退屈なものにな」った。
現実をとらえるためには、どこまでも現実に近いものを書くことだ、というのはわかりやすいし、もっともなことで、反論の余地はないように思われる。しかし、どんなやり方についても言えることだが、そのやり方になじむにつれて、そのやり方ではどこまでいってもとらえられない現実があることに気づくことになる。そしてやがて、とらえられる現実よりも、とらえられない現実のほうが目立ってくる。その現実をもとらえようとするが、その方法では無理なわけで、そのとき「行き詰まり」ということが言われはじめる。方法に無自覚で、同じやり方でどこまでも前進するしかないと思っているから行き詰まるのであって、小説そのものの行き詰まりのように言われるが、それは一つの方法の行き詰まりにすぎない。つねに別の方法がありうるのだ。だから、天才はつねに、まったく別のところから不意に現れる。
1981年になってノーベル文学賞を受賞することになる偉大な現代小説を1930年に書いていた天才カネッティは、当時を振り返って、「リアリズムの在来の手段によって世界を把握することは、わたしにはもはや不可能と思われました」(H)と述懐している。
それよりさらに早く、カフカは新しいリアリズムによる小説を書いたわけである。
「十九世紀の睡りこけていた想像力は、突然、フランツ・カフカによって睡りからさまされました。カフカは……夢と現実との融合を作り出すことに成功しました。……これはすでにノヴァーリスが予感していた、小説の古い美的野望です」(クンデラ J)夏目漱石も初期にこの野望を抱き、挫折している。「カフカだけがこの技法を百年後に発見したのです。この大きな発見は、小説の進化の完成というよりはむしろ、ひとつの予期せざる開始であって、これによって私たちは、小説とは想像力が夢のなかでと同じように爆発しうる場であることを、そして見たところ抗しがたいもののように見えるほんとうらしさの要請から、小説は自由になることができるということを知るのです」(同前)
たしかに、人は虫にはならない。しかし、それはいってみれば科学的現実だ。文学とは関係がない。文学は、文学だけがとらえることのできる現実をとらえればいいのであって、そのためなら、たとえば科学的現実をどんなに無視してもかまわないのである。自律と他律の、自律の部分では、小説はどこまでも自由なのだ。というより、その自由さを最大限に利用して、より現実を把握しようとしなければならないのである。
ひとつの方法を絶対的なものと誤解したとき、最初は開拓の斧であったものが、しだいに身動きを制限する足の重りになっていく。「小説の形式はほとんど無限に自由なのです。……ところが歴史のなかで、小説はその形式を利用しなかった。この自由を取り逃がしていたのです。形式の可能性をたくさん未開拓なまま残しているのです」(クンデラ J)
カフカはごく当然のことのようにその自由さの中で新しい形式を生み出したのである。「彼(カフカ)の小説……には現代世界にそそがれる明晰この上ないまなざしと、もっとも自由な想像力とが二つながらあるのです」(クンデラ J)。先の安部公房の引用を思い出してほしい。「創作の方法には、現実認識の方法と、製図の方法とがあり、この両面の有機的関連の中に立つことによって、新しいリアリズムが可能になるわけである」。
本当らしさのワクの中でちぢこまっていた人々は、そんな必要はどこにもなかったことに、小説の大きな可能性と力に、目を見張らされる驚きとともに気づかされたのだ。膠着して冬眠状態に入っていた小説は、カフカによって眠りから覚め、生まれたばかりの生命力を持ってよみがえったのである。「予期せざる開始」と感じられたのはそのためだ。 「わたしはもう二十年もまえのガブリエル・ガルシア=マルケスとの会話のことを思い出す。彼は私にこう言った、『ひとが別様に書くことができると理解させてくれたのはカフカだった』。別様にとは、本当らしさの境界を超えてということだった。それは……現実世界から逃避することではなく、現実世界をよりよく把握するためなのである」(クンデラ α)
そしていまやロブ=グリエはこう言うわけである。
「《まことらしさ》とか、《類型に合致している》とかが、いまや基準としての役目をはたすには、いかにほど遠いか」(L)方法としての非現実
カフカの小説にはたしかに非現実的な設定がある。しかし、それは現実をとらえるための方法なのである。
「こういう方法でしかとらえられない世界があるってことね。単におもしろがったり奇をてらったりしているわけじゃないんだ。こういうおもしろさがつかめないような感受性では、現代文学のすぐれた部分をそっくり見逃してしまうことになる」(安部公房 P)
「仮説の設定は現代文学に欠かすことの出来ない重要な方法の一つですから」(〃 N)
ウィリアム・カリーはメタファーと呼び、安部公房は仮説と呼び、他の人はまた別の呼び方をしているかもしれないが、とにかくこれは、カフカの到達したリアリズムの方法なのである。
「強い印象を与えるメタファーを創り出す、彼の才能……。ぼくの考えでは、今あげた分野こそ、カフカが二十世紀の世界文学に大きく貢献した分野なのだ。……現代の主だった作家は、この方法が自分にみあう様式であると考えている」(ウィリアム・カリー S)
安部公房はこれを説明するのに、「補助線」という比喩をよく用いている。幾何の問題を解くために図に書き加えるのが補助線だ。補助線を引くことで、そのままではわからない角度が、わかったりする。しかし、学校でも補助線の引き方は教えにくいという。「なぜ急にそんなところにそんな線を引くのか」を説明するのが難しいのだ。「そうすれば問題が解けるから」としか説明できない。この補助線にあたるのが、仮説というわけである。眼鏡の形
考えてみれば、現実を見せてくれる眼鏡が、現実の形をしている必要はないのだ。
だから、上から下に落ちるはずのものが、下から上に落ちると書いてあるからといってめくじらを立ててはいけない。とらえられていない現実にこだわるのではなく、そこにあるものに目を向けてほしい。そうすれば、次の作家たちと同じような感想を持つだろう。現実が把握されている
「信じられないほど現実を透視した作家です」(安部公房 N)
「われわれの世紀を最も純粋に表現してきたし、それゆえ私が当の世紀の最も本質的な掲示と見なしている作家のカフカ」(カネッティ I)
「他の方法ではまず開示されえないような真理を開示する」「彼はより一層深く現実の本質に迫る」(クロード・E・マニー C)
「生の真実が……そのあるがままの姿で語られている」(柴田翔 B)
「人生のもたらす新たな洞察や経験が既にカフカの作品の中に反映されており、これ以上適切な形はないと思われるような形で表現されているのを私はたびたび見出したのである」(ゲァハート・シェーパース Z)
「現実にはありえないことが書いてある」からといって読む気がしなくなるのは、意識はしていなくても、現実を求めているからにほかならない。だったら、カフカの小説こそ読むべきものなのである。拒絶反応のもう一つの理由
しかし、非現実的な設定というだけのことなら、SFやファンタジーにも同じ拒絶反応がなければおかしい。だいいち、物語の世界では大昔から、動物がしゃべったり、桃から人が生まれたりしてきた。それらは抵抗なしに受け入れられているのだ。
カフカの小説に対して「現実にはありえないことが書いてある=現実がとらえられていない」という拒絶反応が起きる最大の原因は、逆にそこに、これまで以上に現実がとらえられていることにあると思われる。
大部分のSFやファンタジーは、表面的にはどんなに非現実的に見えても、全体を支えているのはこれまでどおりの現実認識だ。それを非現実的な道具立てで飾り立てているだけだ。ありふれた恋愛も、舞台を宇宙にすれば、目先が変わって、読者を退屈させないというわけだ。これまでどおりの現実認識の上に構築されているからこそ、表面的にはどんなに非現実的であっても安心して読めるのである。過去の文学にあるのもまた、すでに持っている現実認識だ。
ところが、カフカの小説では、これまでの現実認識からはみ出していた現実が、初めてとらえられている。
その見知らぬ現実は、これまでの現実認識を現実そのものと思っている人には、現実に見えない。ニュートンの世界像を現実そのものと思っていた人には、相対性理論の世界像が現実と思えなかったように。「真のリアリティはつねに非リアリスティックです」(F)とカフカが言っているのはそういうことだ。「これは現実ではない」「異常だ」という拒絶反応が、そこに生じるわけである。
いや、それが本当の現実であることはおそらく誰もが感じるのだ。だからこそ、たんなる否定ではなく、強い拒絶反応を示すのだ。人が虫になるくらいのことは娯楽小説でもよくあるが、「カフカの手になる作品が人の心を震撼させる度合は、あの興味本位で病的な『不気味』ごのみの描写が与えるものよりも、幾層倍か強烈なのである」(ブロート E)。現実認識の更新は、多くの人にとって受入れがたいものなのである。
なぜなら、これまで見えていなかった現実に対して目を開かされることは、これまでの現実像が現実そのものではなかったことに気づかされることでもあるからだ。現実把握の不確かさを知らされるのは、もともとが生存にかかわることだけに、世界が液状化現象を起こすような、すぐ足もとに深遠が口を開けるような不安感があるはずだ。それをなんとなく予感するから、ちゃんと目を向ける前から、拒絶反応を起こすのだ。
すぐれた文学は、最初必ずこうした拒絶反応に出会う。最初から理解する人はごく一部だけだ。
「カフカが安定した生活にとって、あまりに奇怪すぎるという抵抗感は、洋の東西を問わないものである」(辻★ D)
「(カフカの小説は)力ずくで私たちの目を開かせる」(クロード・E・マニー C)
「(カフカの)異常はわれわれに新しい視点を与える。常識的な結論を破壊する。異様なリアリティをもって、われわれが眼をつむろうとしていた、ゆがめられたおのれの内部をあざやかに照らしだす」(安部公房 D)
「詩人は、現実を変更せんがために、人間に別の眼を嵌めようとします」したがって「ただ持続するだけを望んでいる」者にとっては「危険分子」なのだ(ロブ=グリエ L)
「日常性に対する信仰は、異常性を二重の意味で拒否し敵視する。一つには、それが絵そら事であり、不真面目であるという点で、いま一つは、より積極的に、日常の破壊者であるという理由によってである」(安部公房 M)
「最右翼から最左翼にいたるあらゆる地点で……新しい芸術は不健康で、頽廃的で、非人間的で、陰惨であるということばがくりかえされている。だが、そうした判断が引合いに出す健康とは、目かくしとフォルマリンとの健康、死の健康なのである。過去の事物と対比されるときには、われわれはいつも頽廃的である。……人間のために新しい生活を打ち立てようと欲することは、そんなに、非人間的とはいえない。この新しい生活が陰惨であると見えるとすれば、それは――いつでもむかしの色どりばかり哀惜していて――この新しい生活を照らしだす新しい美のかずかずを見ようとしない場合なのである」(ロブ=グリエ L)
「常識は多くの心やさしい天才たちを、彼らの目が出始めの月の光のような真理の黎明の光を見て歓喜したというので、踏みにじってきたのだ。……常識とはその最悪の場合、俗化した分別である。したがってこれに触れられれば、すべては快適に安っぽくなる。……才能があればあるだけ、その人は磔台の近くにいるのである。見知らぬ人はつねに危険と韻をふむ。……変わり者を祝福しようではないか。事物の自然の進化においても、もし変わり者が一家に現れなかったら、猿が人間になるようなことも、おそらくなかっただろうから」(ナボコフ K)越えがたい障害
現実に対する認識は年をとるほど固定化していくのが普通だ。幼児は物語を聞きたがる。物語によって世界像を得ようとするのである。青年期までは現実認識の向上の情熱が持続する。しかし、生きていくのに支障がないだけのいちおうの現実認識を得ると、その現実の内でどう生きるかに興味が集中していく。そうなると現実は固定的であったほうが都合がいいわけで、自分の現実認識をはみ出す現実からは、もはや目をそむけるようになる。「悠然とかまえた人びとが……、『わしはもう小説を読まなくなりましてな、もうその年でなくなったのでしょうな。……わしはそれより、現実のほうに興味がありましてな……』などといった、ばからしいことを公言する」(ロブ=グリエ L)
現実認識は、いったん獲得されてしまうと、多くの人にとって越えがたい障害となる。
文学青年がある意味で文学からいちばん遠いというのも、特定の小説にあまりにも心酔したせいで、現実のとらえ方がそこで固定化されてしまっているからだ。新しい文学に最も無理解な人間になってしまうのだ。
「人は書物のなかに人生を、まるで小鳥を籠に捕えるように、閉じ込めようとする。が、そうはいかない。逆に、人間は書物の抽象作用のなかから、自己自身を閉じ込める体系の檻を作り上げるにすぎません」(カフカヤノーホとの対話 F)
「(文学がわかっているつもりで、わかることのできない人について)現実は彼に浸透することができない。彼は現実に対して完全に隙間を塞がれているのです。……使い古しの言葉や観念が堆肥となって詰まっているのです。これは部厚い装甲板よりも硬い。人間はその背後に、時代の変転から身を隠すのです」(〃)すぐれた小説とは
現実認識のたしかさが安心につながるだけに、現実把握の衝動はしばしば後ろ向きに働くのである。
ほとんどの文学作品は、その後ろ向きの欺瞞に満ちた心の動きにおもねるものだ。
「(二流の作家は)ただ既定の事物の世界から、慣習的な小説様式から、可能なかぎりの甘い汁を絞り出そうとするだけのことだ。二流の作家がこのような決められた限界内で生み出しうるさまざまな組み合わせは、かげろうのようにはかないが、それなりになかなか面白い。なぜなら二流の読者というものは、自分と同じ考えが心地よい衣装をまとって変装しているのを見て、快く思うものだからである」(ナボコフ K)
「もはや純文学も娯楽小説もない」ということが言われる。差別をなくすようで聞こえはいいが、人間と文学は違うし、クモと昆虫を分けるのは差別ではない。純文学、娯楽文学という分け方がそれに対応しているかどうかは知らないが、新しい現実を発見している文学と、これまでどおりの現実認識をなぞっている文学とに、文学は大きく二分される。この差は決定的なもので、それを同じだというのは、科学も非科学もない、というようなものだ。
カフカは、すぐれた文学と、そうでない文学を比べて、ヤノーホにこう言っている(訳者は前者を文学、後者を文芸〔芸能としての文学〕と訳している)。
「(文芸は)現実からの逃亡です。……没意識の生活を容易にする嗜好品、麻酔剤です。……文学はまさに正反対です。文学は覚醒します。……文芸は、ものに快い好もしい光をあてようと努める。文学の作家は、しかしものを真実と、純粋と、持続の域にまで昂めるべく強いられている。文芸は快適を求める。詩人はしかし幸福を求める人だ。そしてそのことは、何はともあれ決して快適なことではない」(F)真実について
作家たちは真実という言葉をよく使うので、それについて少し説明しておきたいと思う。
ある現実のとらえ方が支配的なとき、そのとらえ方でとらえられている現実は、一般的には現実そのものと思われている。そのとき、そこからはみ出している現実に気づいた者は、それを真実と呼ぶわけである。
その真実がとらえられ、一般的になったとき、それはまた現実そのものと思われるようになる。そして、また別の人間が、新しい真実に気づくわけである。把握しがたく、受け入れがたいもの
現実は把握しがたく、受け入れがたいものである。
「しりごみする渋面に、なおも皎々と照りつけてくる光――それだけが真実だ。ほかにはない」(カフカ八つ折り判ノート第4冊 A)
だから、真実を追い求める喜びより、欺瞞の満足をとる人のほうが多い。日常生活はそれで困らないし。
だが、真実を追い求める気持ちをまったく持たない人というのも、またありえない。
たしかに、すぐれた小説を読んだからといって、給料が上がるわけではない。しかし、人は自分の現実認識の内で生きるのである。だから、現実認識の向上は、人生においてこの上なく大きなことだ。読む前と読んだ後では人間が変わるというのは、そういうことだ。出会ってよかったと心底から思うのは、もし出会わなかったと思うとゾッとするのは、そのためだ。現実に対する視力が増す喜びに勝る喜びがあるとは思えない。
だから、こう言うことができるのである。「このうえなく稀有にして成熟した芸術の果実を味わうことを学ばないなら、人生で最高のものを失うことになるだろう」(ナボコフ K)感動という報酬
生存に欠かせないだけに、食事や生殖行為に快感の報酬があるように、現実把握にも感動の報酬がある。人に小説を読ませるのは、直接的にはこの感動である。
感動にも種類というか、レベルの差がある。
これまでの現実認識をなぞり、飾りたてているだけの小説から得られるのは、「現実はあなたの思っているとおりですよ」と言ってもらえる安心感、化粧されてより魅力的になった現実に対する感嘆だ。快さの上に面白さがのっかっているわけで、コタツでみかんの楽しさだ。これ以上の感動はないとも思えるだろう。
しかし、すぐれた小説が与えてくれる感動は、そんなものとは比べものにならない。もともと現実把握の感動なのだから、これまで以上に現実をとらえることの感動のほうが大きいのは当然だ。
また、一般の小説が与えてくれる感動はそのときだけのもので、よほどドラマに入り込みやすい人でないかぎり、その後に影響を残すことはないが、すぐれた小説の感動は(もちろん、感動しっぱなしになるわけではないが)その後も人生から消えることはない。というのも、そこで現実認識が変革され、もうもとの現実認識に後戻りすることはありえないからだ。クンデラはカフカの作品をはじめて読んだとき「目がくらんだ」という。「その後、私の視力は〈詩〉の光に慣れ、私を眩惑させたもののなかに自分自身の経験を見届けるようになりました。それでも光がいつもそこにあることに変わりはありませんでした」(J)。
残念ながら、本当の感動を知る人は少ない。すぐれた小説の数はおそろしくわずかだし、運よく出会っても感動する前に拒絶してしまう人が多いからだ。そして、この感動は、一般の小説が与えてくれる感動と違って、予想することができない。経験してみてはじめて、これほどの感動があることを知るのだ。それほど強烈で、かけがえのない素晴らしさである。これ以上のものはない最高レベルの感動だとはっきりわかる。
「定義づけることも、念頭から追い出してしまうこともできないこの感動」(ナボコフ K)
生殖行為の快感と同じように、この感動も人をとりこにする。知ってしまえば、感動のニンジンが人を真実に走らせる。
だから、最初の拒絶反応をなんとか克服することだ。現実認識の更新を一度受け入れれば、もう二度と拒絶反応を起こすこともない。「読まなかったら、こういう世界を結局もたずに済ませてしまうわけだからね。決まった尺度でしか物が見えないなんて、考えてみたらこわいことじゃないか」(安部公房 P)
お湯をかけられてごちごちにかたまったゴムのようになっている人には、カフカのよさはわからない。柔軟性をとり戻すのは難しいが、よさがわかるまでカフカの小説をくり返し何度読んだとしても、感動の報酬がそれに十二分に報いてくれるはずだ。関連して1――癒しについて
いま小説を読む人の多くは癒されたいと思っている。
しかし、文学は本来、癒すものではない。カフカの言うように、脳天に一撃加えて目を覚まさせるものだ。
癒してくれる小説を読めば、そのときは澄んだ気持ちになれるだろう。しかし、じきにまた癒されたくなる。根本的な解決にはならないはずだ。
癒されたくなるのは、自分の現実認識と現実の間にズレがあるからだ。そのズレが、原因のはっきりしない疲れを生む。ズレを自覚し、現実認識を更新し、新しい安定を得る以外に根本的な解決はありえない。
文学は「神経症をいやす代わりに、神経症そのもののなかにいやしを与える力、認識の力を探る」(テオドール・アドルノ C)
読むのがダルそうで、気持ち的に求めることができなくても、癒されたい気持ちを救ってくれるのは、癒してくれる小説ではなく、すぐれた小説なのである。関連して2――類似品に注意
アメリカのカフカだの、ポーランドのカフカだの、自称他称のカフカの後継者が世界中にたくさんいる。
ちょっと表面的な雰囲気が似ているとそれだけでもう「カフカ的な作品」という紹介の仕方がされる。
しかし、ほとんどの場合、カフカの小説とは似ても似つかない。不可解な出来事がおきれば、それでカフカなわけではない「自称カフカの後継者たちの作品のなかに、どんなにわずかしかカフカ的宇宙が名残りをとどめなかったかということは、すでに判定ずみだが、それは彼らが……この先師のレアリスムを忘れていたからなのである」(ロブ=グリエ L)
最近は、非現実的な設定のある小説も多い。しかし、必然性のないフィクションは、何の意味もなく、表面的な模倣にすぎず、カフカの方法とは根本的に異なる。
「いつの世にも、風向きの変化を敏感に感じとって、必然性さえ感じず、その機能さえ理解できないのに現代的形式を模写」する「追随者がいるものだ」(同前)
「前衛的スタイルはすこぶる通りのよいものになり、一種のムードにさえなってしまった。様式の追求は大事だが、それが現実発見のための仮説の精神であることを忘れては、なんにもならない」(安部公房 M)
類似品によって逆に「カフカもこんなふうなのか」
と知ったような気になることだけは避けてほしい。すぐれた小説家には、似た小説家などありえないのだ。
解釈について
ハエがたかっている状態
ほとんどの人は、カフカをじっさいに読むより前に、その解釈を耳にすることになる。「カフカの書いた全部のテキストより、カフカについて……書かれた文章のほうが、はるかにはるかに膨大な量に達している」(金井美恵子 B)
カフカを読まなくなるのは、そのせいのことが多い。
「小説を読むのに何か特別深刻な解釈の体系に至らなければ本当に読んだことにはならないといふのでは、肩から頭まで凝ってしまふ」(倉橋由美子 B)
また、解釈ごしにしかカフカを読めなくなってしまうせいで、本来の面白さがわからなくなる。せっかくの料理も、たかっているハエごと食べたのでは、美味しいわけがない。
ここで、ハエと料理の区別をはっきりつけて、作品を純粋に味わえるようにしたいと思う。さまざまに解釈されている
解釈の被害を受けない小説はないが、「この領域でのカフカの不幸は、模範的である。このレアリスム作家……は……彼の愛読者や注解者たちによって、もっとも多くの意味――《深層》的意味――を賦与された作家で……あった。たちまちのうちに彼は、一般読者の目には、なによりもまず、ある彼方の世界のなぞめいた実在性をわれわれに垣間見せるという唯一の目的のもとに、われわれにこの世界の事物について語るふりをする人間となった。……彼が、ヨゼフ・Kが裁判を追求する、事務所や階段や廊下をわれわれに示すとしても、それはもっぱらわれわれに向かって、《恩寵》という神学的概念について語るためだともいう。以下すべて、このたぐいである」(ロブ=グリエ L)
「カフカ……の文学についてこの半世紀あまりの間、実にさまざまな、しばしば互いに相反する、驚くほど多量の見解が生じた。……そのこと自体が現在では大きな問題となり、また彼の作品に明快な意味を見出すことは不可能だという見解も多い」(城山良彦 C)あらゆる解釈は誤り
無限を感じさせる量のカフカの解釈のすべてに目を通しているわけではないが、しかし、それらはすべて間違いである。そう断言できるのは、「解釈」という行為自体が誤りだからだ。
解釈が成り立つとすれば、「カフカのいろいろな物語は、寓意小説(アレゴリー)にすぎなくなる。それらは、たんに説明(その内容をあますところなく網羅するほどに、完全にそれらを要約できるような)を要求するばかりでなく、そうして得られた意味がさらに、筋立てを構成する、触覚的世界を根底的に破壊するという効果をもつ。文学とはそもそも、いつでも、組織的なやり方で、ほかのことを語るにあるのだというわけである」(ロブ=グリエ L)
「解釈」とは、すなわち「言い換え」である。現に書いてあることをそのまま受け取とらず、別の言葉に置き換える。「言い換え」が可能でなければ、解釈は成立しない。
小説は、先に述べたように、言葉によってとらえることのできない現実を、なんとかして言葉によって表現=認識しようとするものだ。どんなふうにでも語れるものを語っているのではなく、それまでとらえることのできなかった現実を、その語り方によってはじめてとらえているのだ。だから、別の言葉の組み合わせで同じものをとらえることは決してできない。「言い換え」は不可能なのである。
つまり、正しい解釈というのは、ありえないのだ。
「カフカを自分の思想にロマネスクな衣装をまとわせた思想家として扱うことは、彼を理解するもっとも大きなチャンスをみずから禁じることになる、なぜなら彼が論文やエセーをではなく、小説を書いたとすれば……彼にとって重要なものはヴィジョンであり、イメージや言葉のある種の動き、要するにいかなる場合にも概念に還元することができず、ただ文学のみが判断する手段をもつ一切なのである」(ロベール C)小説家であること、小説であること
もちろん、何か言いたいことがあって、それを小説という形で表す人はいる。しかし、その人は小説家とはいえないし、それは決してすぐれた小説とはなりえない。「小説だけが発見できるものを発見すること、これだけが小説の存在理由」(ブロッボ J)「小説のただひとつの存在理由は小説のみが語りうることを語ることである」(クンデラ J)
「社会的、政治的、経済的、道徳的等々の内容を表現するために創造された作品という、その概念そのものが虚偽を構成する」「もっとも熱烈にこの旗印を標榜する作品の完璧な芸術的貧困は、たしかに偶然の結果ではないのである」(ロブ=グリエ L)
「(解釈で)片づく作家もいるけれどね。片づかない作家がけっきょく本物なんだよ」(安部公房 R)というのは、そういうことだ。
だから、作品の中にメッセージを見出そうとすることは、それを小説とみなさない、その著者を小説家とみなさないということだ。
「彼の注解者の大多数にとって、カフカに感嘆するとは何よりもまず、彼をその作家という境涯の外に位置づけることである」(ブランショ C)
小説を前にして、「作者はこの作品でなにが言いたかったのか」という問いが当然のことのように発せられるが、じつはまったくのたわごとなのである。なぜ解釈したくなるのか
しかし、「解釈はダメ」という説明だけでは、なかなか納得できないだろう。というのも、作品を読むと、自然に「解釈したい」気持ちがわきおこるからだ。
なぜ解釈したくなるのか? 解釈欲求の呪縛から本当に解放されるためには、そこまで知る必要がある。
感情というのは、その感情が間違っていると言われても、なかなか修正できないが、その感情がわきおこる原因を知って、そこにある誤りを知れば、なぜかきれいに解消できるものだ。
「カフカの作品を初めて手にした者は誰でも、どうやってその作品に近づいたらよいのか、しばしば困難を感じるにちがいない。私自身……初めてカフカを読んだとき……一体何がそれほど特別なのか……さっぱりわからなかった。しかしそれでも、そこには忘れ難い何かがあり、カフカに対する最初の関心を私のなかに呼びおこしたのである。……この作品の何をどう読んだらよいのか見当もつかず、私にはただ謎めいていて幻想的でまさに悪夢のように思われただけだったが、それでもその作品の何かが私を魅了して放さなかった。……カフカは何か重要なことを言おうとしている、それゆえたとえそれが困難であっても、彼の作品は深く理解しようとする価値がある――そんな感じを読者は抱くのである」(ゲァハート・シェーパース Z)
つまり、「作品から何かが伝わってくる→しかし、それを言葉にすることができない→まだよく理解できていないのだと思う→作品が何を言っているのか理解することが作品を理解することだ」という道筋で解釈に向かうわけである。
読み終わっても、その作品について何ひとつ語ることができないとき、人はそれを理解できていないと感じる。解釈に向かってしまうのは、学校の国語教育や世間一般の風潮の影響が大きいが、そういう教育や読み方が行われるようになったのも、そうしないと「作品について語ることができない」からだ。解釈は、その作品について何事かを語るための手段としてある。
つまり、解釈したくなるのは、言語化の衝動なのである。前に説明したように、人間には現実把握の衝動があり、人間は言葉によって現実を把握する。だから人間には、すべてを言葉で表そうとする強い衝動がある。「言葉にできない気持ちが大切」などと言って許されるのは、わかりきったステロタイプな感情だけだ。
しかし、言葉で書いてある小説を読んで、どうしてそれを別の言葉で言い換えたくなるのか。
それは、そこに新しい現実がとらえられているからだ。それを感じとれる人は、驚き感動するだけで、解釈したくなどならないし、そんなことは思いもよらない。しかし、現実認識が固まってしまっている人は、これまでの現実認識のワクの中でそれを理解しようとするから、その範囲内の言葉に言い換えたくなる。それがすなわち「解釈」である。
考えてみれば、書いてあることをそのまま受けとめずに、別の言葉に言い換えて読むというのは、異常ともいえる不思議な行為だ。じつはそれは、従来の現実認識への翻訳であったわけである。
「こういうことを言っているのだ」という解釈の答えが、つねにありきたりなのも、当然のことなわけだ。
どの解釈でも作品を完全に説明することができないのも、これで納得がいくだろう。これまでの現実認識からはみ出している現実を、これまでの現実認識で説明しようとするのだから、最初からムリな話で、そんなことをすれば作品は永遠の謎になる。
「評論家は……カフカをある解釈の檻の中に閉ぢこめるために読む。この自分の捕へたカフカを見よ、といふわけである。ところがそんな檻の中に肝腎のカフカはゐない。カフカは檻の外にゐる」(倉橋由美子 B)
「彼らの作品は、なにか手っ取り早い一個の解釈で割りきれない、はるかに重い手応えをもっている。そのことから、彼らの小説を読む読者の中には、不可解だという印象、あるいは不満を感じる読者も多い」(ウィリアム・カリー S)「遅かれ早かれ、カフカの書物を象徴的にとらえ、世界にあるなにかとの関連によってそれを説明しようとする欲求が生じる――カフカの父親、カフカのツベルクローゼ、カフカのユダヤ教、あるいはもっと一般的に、官僚機構、ファシズム、文化的ペシミズム、精神的疎外等々。私自身の経験では、大部分の解釈者はただちにそのような説明を求め、彼らにもっともだと思われる説明を見出すと始めて満足する」(アンソニー・ソールビー C)
この不満はなんなのか。この満足はなんなのか。これまでの現実認識のワクにおしこめることに成功して一安心という、自分の現実認識をゆるがされなかった満足であり、それがうまくいかない不満だ。ようするに、解釈の衝動の正体は、後ろ向きに働いた言語化の衝動なのである。感動を忘れてはいけない
きれいに解釈できた満足のせいで見逃されがちだが、もしその小説に書いてあるのが本当にその解釈の答えのように、ありきたりな、つまらないことだったら、果して最初からその作品に少しでも惹かれただろうか。
「そこには忘れ難い何かがあり……その作品の何かが私を魅了して放さなかった」(シェーパース Z)ことが出発点だったはずだ。
そのことを忘れてはならないだろう。解釈に向かう人も、最初からまったくの無理解ではないのだ。これまでの現実認識からはみ出す現実を感じとってはいるのだ。問題は現実を固定的に考えていることで、だから作品をそのままでは受け入れられなくなる。
解釈できないからといって、この作品は何も語っていない無意味なものだと判断して、作品から遠ざかる人もいる。これほどバカげた態度はないだろう。
これまでの言語表現、通念を超えるのが小説なのだから、それをこれまでの言葉、通念に引き戻そうとする(=解釈)ことは、まさに小説に対する破壊活動だ。
ロブ=グリエは自分の小説に、「読者は……意味をさぐろうなどとしないでいただきたい」(T)という、ただし書きまでつけている。
「カフカの作品を思想的に解釈することは、むしろ容易なことであるが……それはカフカの世界がもつリアリティを説明するのにほとんど役に立たない常識化に終わってしまうだろう」(安部公房 D)
解釈は作品の否定である。解釈をはじめたとき人は、料理を汚し、食べる人の邪魔をするハエになり下がる。難解ではない
カフカの小説が難解と言われるのも、難解な解釈を真に受けていたり、あるいは「解釈しなければならない」と思っていたりするせいがある。
難解な解釈を耳にするだろう。しかし、それは作品が難解なのではなく、解釈自体が難解なのだ。そして、その解釈は間違いなのである。
「小説は決して寓話(アレゴリー)ではないということだ。つまり、いくつかのシンボルをパターン化して構成したものではない。ある鍵にしたがって解釈すれば、すらすらと意味の解けてくるような作品ではないのである」(ウィリアム・カリー S)
それを解釈しようとするから、できない=難解ということになる。しかし、暗号ではないのだから、解読できないのがあたり前で、「カフカの場合、読者は一見模造された理路整然さの解釈の試みが挫折するなかで、支離滅裂さを発見せざるをえない」(ホルスト・シュタインメッツ C)などと作品を非難するのは、バカもいいところだ。ようするに、作品に関係なく、読むほうで勝手に難解にしているだけなのである。
「すでに五十年ちかい前から効力を持たなくなった、時代おくれの暗号解読格子をこれにあてはめようなどとしない人間にたいしては、なんらとくべつの難解さを提出したりはしない」(ロブ=グリエ L)宗教的解釈
代表的な解釈のいくつかと、それについての作家たちのコメントを紹介しておこう。
ブロートは、先に紹介したように、熱心なユダヤ教徒で、カフカの作品を宗教的に解釈した。以後、宗教的解釈の流れは、現在でも完全にはなくなっていない。
「聖者としてカフカを考えてこそ、彼の著作ははじめて理解しうるという……ブロートの意見をすっかり排しておきたい。カフカはなによりもまず芸術家だった。……カフカの天才のなかにいかなる宗教的な意味合いをも読み込むことはできない」(ナボコフ K)
「初期の解釈者たちは……小説を宗教的寓話として説明したのでした。こういう解釈は私には間違っていると思われます(といいますのも、カフカが人間の生の具体的状況を把握しているところに、それはひとつのアレゴリーを見ているからです)」(クンデラ J)
カフカはキルケゴールの本をよく読んでいたし、ブロートのすすめでユダヤ教の勉強をしている。しかし、ついにどんな宗教にも入ることはなかった。弱いカフカとしてはさぞ入信したかったことだろうが、現実を見つめ、妥協や欺瞞のありえない強いカフカには、盲目的に何かを「信じる」ようなことは、とてもできなかった。ノートにこう書いている。「ぼくはキルケゴールのように、もう重く沈みつつあるキリスト教徒の手によって人生に引き入れられたのではなく、シオニストのように飛び去るユダヤ人の礼拝用かぶり物の最後の末端をまだ掴まえているのでもない」(C)
宗教的解釈についてはクンデラの次の言葉が最も核心をついている。「城を神と解釈することは、もっともなことです。カフカは現実を追求したわけですが、人々はつかみきれない現実を神と呼ぶからです」(J)精神分析的解釈
カフカの小説は、夢か妄想のように思えるために、「精神分析からの解釈を、おびただしい数に上るほど受けてきた」(城山良彦 C)。
「フロイトの精神分析学に立つ伝記作家たちは、『変身』はカフカの父親との複雑な関係および彼一生の罪意識に根ざしたものであると主張する。さらに神話的象徴世界において、子供は害虫で表現されると主張する……そして、カフカが南京虫の象徴を使ったのは、これらのフロイト的原理にしたがって、息子を表現しようとしたのだという。……そんな馬鹿々々しい話は願いさげだ」(ナボコフ K)哲学的解釈
「第二次世界大戦中から……実存主義文学が盛んとなり、カフカはこの場合も先駆者として尊敬された。……今日でもカフカと実存主義を一つのものとして考える人はかなり多いかもしれない」(城山良彦 C)
小説と哲学が異なることは、すでに述べた。
たしかに「小説はフロイト以前に無意識を、マルクスより前に階級闘争を知っていましたし、現象学者より前に現象学(人間的状況の本質の研究)にとりくんでいた」(クンデラ J)。しかし、それは小説の中で哲学を展開したということではない。「人はチェーホフの哲学、カフカの、ムージルの哲学、等々といいます。ですが、彼らの作品から首尾一貫した哲学のひとつでも引き出そうとやってごらんなさい!」(同前)
無理に引き出してみせる人はたくさんいるが、そのときその人はすでにカフカの作品から遠くにいるのだ。純粋な文学
カフカの作品は純粋に文学でしかない。
「カフカ……の小説の社会的、政治的、〈予言的〉な並はずれた射程は……あらゆる政治的プログラム、イデオロギー的概念、未来学的な予想知、こういったものに対する小説の全的自立性のなかにあるのです」
「この自立性あればこそ……カフカは私たちの人間の条件(今世紀に明らかになったような)について、どんな社会学的、政治学的考察も私たちに語ることができないことを語ったのでした」(クンデラ J)別の種類の解釈
これまで説明してきた「作品はじつは別のことを語っている」という解釈の他に、「作者が描いたのはこの現実だ」とする解釈もある。小説は現実を描くものだから、この解釈は正しいようだが、「この現実」というのがある特定の具体的な現実を指している場合、これも間違いである。
この種の解釈で代表的なのは、「作品」と「作者の体験」の同一視だ。作家がどのような人生体験からその作品を生んだのかをさぐり出し、「彼はこのことを書いたのだ」と、鬼の首をとったように言う人がいる。作品と体験の対応があきらかな場合、これはなかなかの説得力を持つ。
たとえば『訴訟』は、フェリーツェとの婚約事件を書いたものだと言われる。
カフカは、前に述べたように、結婚を望むと同時に望んでいなかった。自分からフェリーツェに結婚を申し込んで、逃げ出した。フェリーツェは友人のグレーテ・ブロッホに仲裁役を頼んだ。ところが、カフカとグレーテの間で、以前のカフカとフェリーツェのような手紙のやりとりがはじまる。しかし、そうしてフェリーツェとの間に距離ができたことが、かえってカフカにフェリーツェとの結婚を決意させる力を与える。
彼はフェリーツェに二度目の求婚をする。そして、1914年6月1日、フェリーツェの家で正式に婚約。
「当然予期されなければならないことが起こった。……正式の婚約式はカフカに怖じ気をふるわせた」「カフカは……全然自分に関係ないという感じを持っていた」「彼は自分が『罪人のように縛られていた』と感じた」「しかも他人のなかで」(カネッティ G)
婚約してもカフカはとりあえず自由だったが、彼はグレーテへの手紙にフェリーツェとの結婚の不安をくり返し書いた。嫉妬と罪悪感を感じるようになっていたグレーテは、「フェリーツェに警告した」(同前)。
同年7月12日、ベルリンのアスカーニッシャー・ホーフ・ホテルに呼び出されたカフカは、大ぜいの関係者の中で、被告の立場に立たされた。「彼はひと言もしゃべらなかった。彼は弁解しなかった。そして彼の望みどおり婚約は破れた」(同前)。
カフカはそのときのことを日記にこんなふうに書いている。「ホテル内の法廷……Fの顔。……僕に対して全然、あるいはほとんど非難すべきことはないのだ。いささかの罪もなくして極悪非道」(7月23日 G)
「翌日はもう両親のところへ行かなかった。自転車乗り(メッセンジャー)に別れの手紙を持たせてやっただけ。手紙は不誠実で思わせぶり。〈僕をわるく思わないでください。〉絞首台からの挨拶」(27日 G)作品と体験の対応
カフカが『訴訟』を書きはじめたのは、同年8月のことだ。「生涯の二つの重大な事件が、屈辱的な衆人環視の中で行なわれた。……二つの出来事の感情的な内容は、彼が八月に書きはじめた『審判』に直接はいっていることがわかる。婚約は第一章の逮捕となり、『法廷』は処刑として最後の章に現れる。日記の中の幾つかの箇所はその間の事情を……とても明瞭にしている」(カネッティ G)先に引用したように、日記には「罪人」「法廷」「いささかの罪もなくして極悪非道」「絞首台」といった言葉が出てくる。「こんなふうに当時事件から二週間後の七月二十七日にはもう『絞首台』が彼の心に巣くっていたのである。『法廷』という言葉で彼は小説の領域に足を踏み入れた。『絞首台』で彼の目標と結末は予測されていた。この早期の目標の決定は注目に値いする。それは『審判』の展開の確実さを説明するものである」(カネッティ G)はたしてネタはわれたのか
さて、これでもう、ネタはわれたと思う人も多いのではないだろうか。「なんだそういうことだったのか。カフカは自分の婚約事件のことを書いたのか」と。
フロイライン・ブュルストナーとフェリーツェ・バウアーは同じF・Bだ。婚約式と誕生日……。
しかし、読んでわかるように、『訴訟』は婚約事件の話ではない。婚約事件を書いたのだとしたら、カフカはなぜそのまま書かなかったのか。
このことは決して軽視してはならない。『訴訟』がなぜいまのような物語になっているかは、小説を書くとはどういうことかということなのだ。
別の体験『訴訟』のもとになったとされる作者の人生体験は他にもある。この場合も作品と体験の対応はあきらかだ。
クンデラはこう言っている。「例の有名な手紙(父への手紙)を見てみますと、彼がその小説の大きなテーマのひとつとなる有罪化の技法を知ったのは家族からであり、子供と両親の神格化された権力との関係からであることがよくわかります」(J)
カフカの父親は「夫人の一言をもってすれば、『巨人』だった。フランツは一生、この強力な、体格も人並はずれて堂々たる(大柄で、肩幅の広い)父親の陰で暮らしたのである」(ブロート E)父親は精力的に商売に励み、成功し、多くの子供を作り、家長の喜びにひたった。体格もふくめて、カフカとは対照的だ。カフカは父親をおそれ、父親に対してだけは吃った。
「僕たちがしばしば一つの脱衣室でいっしょに服を脱いだことを思い出します。僕は痩せていて、弱々しくて、細くって、あなたはがっしりしていて、背が高く、肩幅が広かった。脱衣室の中ですでに僕は貧弱に見えました。それもあなたに対してだけでなく、全世界に対して。なぜならあなたは僕にとって、あらゆるものの尺度だったからです」(カフカ父への手紙 G)
「ぼくはお父さんの前に出たが最後、まるで自信というものをなくしていました。そのかわり際限のない罪の意識がこみあげて来ました。罪の際限のなさを思い出しながら、ぼくはかつてある作中人物についていみじくも『彼はこの恥ずかしさが自分の死んだのちも生き残るのではないかと恐れている』と書いたことがあります」(〃 E)
ブロートは「カフカはこれで自分の小説『審判』の結びの言葉に、みずから注釈を加えていることにもなるのだ」と書いている(E)。
さらに別の体験
ヤノーホの聞いたところでは、こんなこともあったようだ。まだ小学生の頃、ユダヤ人の弱虫と言われたくなくて喧嘩に参加したカフカは、泣きながら服をぼろぼろの泥まみれにして家に帰ることがあった。そういうとき「料理番の女中が幾度かこう呟いたことがあります。『あんたはラヴァホルね。』」意味のわからないこの言葉にカフカは不安を感じ、父親に意味を尋ねた。父親は「『犯人だ、人殺しだよ』」と答えた。翌日、カフカは熱を出す。もちろん女中は、乱暴者くらいの意味で、ただそう言ってみただけだった。女中も笑ってそう説明したし、カフカもそれを理解した。しかし、カフカはその驚異的な傷つきやすさで、「ラヴァホルという名前はもうそれから誰も口にする者はありませんでしたが、それは私の内部に棘のように、正確にいえば、折れた縫針の尖が身体中をめぐるように、突きささっていました。咽喉炎は引きましたが、私はもっと奥の奥をやられた病人、ラヴァホルでした。しかも見たところは何一つ変わっていませんでした。皆の扱いも以前と変わらなかったけれども、私はそれでも自分が放逐された人間、犯罪者、要するに――ラヴァホルだということを知っていました」この話を聞いたヤノーホは「なんて無意味な!……時がたてば、そんなことはどこかへ消えてしまったでしょうに」と思わず口走る。しかしカフカは「ところがそうじゃないのです。……根拠の分からぬ罪悪感ほど烈しく魂のなかに定着するものはありません。それは――はっきりした根拠がないからこそ――いかなる悔いと償いをもってしても除き去ることはできないからです。だから私は、うちの料理女とのことを表向きはとっくに忘れてしまって、言葉の本当の意味をすでに了解したときにも、やはりラヴァホルだったのです」(F)時代の先取り
「作者が書いたのはこの現実だ」と言われるのは、作者の人生体験に限らない。
生前は無名だったカフカが、「第二次世界大戦中から直後にかけて世界的な流行を見るに至った」(城山良彦 C)のは、カフカの死後、ナチスによって、無実の人間がいきなり逮捕され処刑されるようなことが現実に起こったからだ。カフカの妹たちもその犠牲になっている。作品の中でもとくに『訴訟』が有名になったのは、じつはそのせいだ。ようするに、カフカの小説はまず予言書として有名になったのである。カフカ的社会
同じようなことが、全体主義国家でも言われた。
「(カフカは)東ヨーロッパ、特にソ連では……長らく禁じられた作家だった」(木村浩 Y)
突然いわれもなく逮捕され処刑されるというのは、最近まで東欧社会主義各国のまさに現実だったからだ。
「現代史には、生活がカフカの小説に似ているような時代があります」(クンデラ J)
「次のように結論したくなるかも知れません。……(カフカの小説は)全体主義国家の先取り……と」(〃)作品と現実の対応
他にもカフカはさまざまな現実を描いたと言われる。
「『カフカ風』といういかがわしい流行語がはやくも作られて、人間の思考・行動・夢の、だがそれだけではなく、近代的な官僚政治やもろもろの機構や装置や、また奴隷化のための諸施設等の一切の夢魔的なもの、迷宮的・妖怪的なもの、不条理なものに適用されているのは理由のないことではない」(エムリヒ C)
「(カフカの小説)の社会はあらゆる点で、典型的な近代的組織についてわれわれが抱くことのできるイメージに答えている。われわれはそこに、なんの苦もなくその社会を支配する多かれ少かれ不可解な力点や、被支配者たちの大群衆の原理上の自由と事実上の無力……を認める、最後に、われわれはそこに社会的な物事の驚くべき運行ぶりを見出す。不完全で、不正で、非人間的であるにもかかわらず、それらはあたかもずっと以前から自明のことであり、あやまることのない法則に属するかのように運ばれていく」(〃)すべてを満たす説明は
「フランツ・カフカの政治的関心を示すどんな……証拠も見当たらないでしょう」(クンデラ J)というふうに、それぞれの解釈を否定することは簡単だ。そもそも、同じくらい説得力のある解釈が複数あることが、どの解釈も誤りであることの、なによりの証拠だ。しかし、それだけではやはり納得できないだろう。
どの解釈も作品とぴったり符合し、「作者が描いたのはこの現実だ」と思わせるだけの説得力があるのは、どういうことなのか。
同じくらい説得力のある、異なる解釈がたくさんあるのは、どういうことなのか?普遍的現実
「今日、ひとつの社会−政治的予言として受け入れることができ……る作品が……自分の生活と芸術に没頭していた孤独で内向的な……(カフカの)作品であるのはどうしてなのでしょうか」(クンデラ J)
クンデラはある女友達の家で、そのことを一挙に理解したという。彼女はかつて、犯してもいない罪のために逮捕された。当時は数百人の共産党員が同じ目に遇っていた。多くの者は「『自分たちの過去の生活を詳細な点にいたるまで検討すること』を受け入れ」、ありもしない罪を告白した。しかし、彼女は「自分の死刑執行人たちに手を貸すことを拒否したために」、15年後に名誉を回復し、釈放された。逮捕時1歳だった彼女の息子は16歳になっていた。彼女はこの息子に執着した。クンデラはこの息子が26歳のとき、二人の家を訪れたのだ。「傷つけられ、腹を立てて、母親は泣いていました。原因は、息子の朝おきるのが遅すぎる、といったような、まったく取るに足りないことでした」。クンデラがたしなめると、「母親にかわって息子が答えました、『いいえ、母はむちゃをいっているのではありません。……私がまっとうな人間になって欲しいと願っているのです。私が朝おきるのが遅いのはほんとうですが、母が私を責めるのはそういうことではなく、もっと重大なことです。私の態度、私の利己主義的な態度なのです。私も母の望むような人間になりたいと思っています。あなたの前で、そのことを母に誓います』。党が母親に対して決してなし得なかったことを、母親は自分の息子に対してなすことができたのでした。彼女は、息子に不条理な告発と一体となり、〈自分の過ちを探すこと〉を、人前で告白することを強いたのです。私は唖然として……そして一挙に次のことを理解したのでした。つまり、大きな歴史的事件(一見したところ、信じがたい、非人間的な)の内部で機能している心理的メカニズムは、内輪の状況(まったく凡庸で、きわめて人間的な)を支配しているメカニズムと同じものであるということを」(J)
大きな社会も小さな家庭も人間が生みだしているものだ。つまり、その根底には同じ人間の現実がある。
ようするに、カフカはそういう普遍的な現実をとらえているのである。
「カフカの小説は作者のもっとも個人的な、そして私的な葛藤の投影なのか、それとも客観的な〈社会機構〉の描写なのか、しばしば問題にされています。カフカ的なものは、私的な領域にも公的な領域にも限定されるものではありません。それは両者をともに含んでいるのです」(同前)予言ではない
「プラハにおいてカフカの小説が生活と混同され、パリにおいては、同じ小説が作者の徹頭徹尾主観的な世界の不可解な表現とみなされるというようなことがどうしておこるのか」(クンデラ J)
「全体主義国家は、カフカの小説と現実の生活との密接な関係を明るみにだしました。しかし、西欧においてこの関係が見えないとしても、それは、いわゆる民主主義的社会が今日のプラハよりもカフカ的ではないからだというだけではなく、西欧では人々は致命的に現実感覚を失っているからでもある」(〃)
つまり、全体主義国家では(またナチスの時代には)その現実がより見えやすかっただけのことなのだ。同じ現実がいつでもどこでもつねに存在しているである。
「状況とは、人間と環境の間に、いつも存在する緊張関係であり、それは描写された範囲で一定の社会秩序に結びついているが、原理的にはそれに限定されていない」(リヒター C)
そういう普遍的な現実をとらえるのが小説である。
カフカは特定の社会の到来を予言したわけではない。たとえカフカのとらえた現実が目につく社会があらわれなかったとしても、作品が現実をとらえていることに変わりはない。クンデラが「彼の小説に予言的なものがまったくなかったとしても、価値を失うことはありません」(J)と言っているのは、そういうことだ。特殊から普遍をとりだす
たとえば、「あるリンゴが枝から地面に落ちた」という特殊な出来事そのままでは、普遍的な現実は見えにくい。「ものは地面に落ちる」としたほうが、ある意味では、より深く現実をとらえることになる。さらには、引力の法則を導き出したほうが……。
現実のすべてを知るには、ありとあらゆる体験をしなければならないわけではない。もっとも日常的な、もっともありふれた出来事の中にも、現実のすべてが含まれている。しかし、それを見てとることのできる目を持つことは現実には不可能だ。だから、じっさいには、特殊な出来事に出くわしたときに、人は初めてこれまで見えていなかった現実に気づくことになる。
その出来事の特殊さゆえに、他では目立たない現実がそこではあらわになっているからだ。しかし、その現実は、どこにでもいつでもつねにある現実なのである。
親子関係で何か強烈な体験があったら、たいていの人はその親子関係を書くだろう。それでも、それがいい作品なら、人はなにかしら新しい現実に気づかされるだろう。しかし、親子関係を描くことは本当に必要なのか。そこにある現実は親子関係と一体なのか。親子関係の中でその現実に出会っただけのことではないのか。むしろ、親子関係という特殊性と結びつけられることで、その現実の普遍性がボカされているのでは。特殊性の影に隠れて見えにくくなってしまっているのでは。必要なのはできるだけ純粋にその現実だけをとり出すことではないのか。その体験が強烈だったのは、その現実のためなのだから。
リンゴが地面に落ちるという特殊な出来事から引力という普遍的な現実をとり出すのは科学だが、文学もまた特殊な出来事の内にある普遍的な現実をとらえる。
「科学的認識は、直接的な観照を概念の助けをかりて定式化し、その客観的法則をより深く完全に把握するものであり、芸術的認識は、直接的な観照を……感性的表現のたすけをかりて典型化し、その主体的法則をより深く完全に把握するものである。いわゆるリアリティとか実感というのは、この場合、芸術的抽象のたしかさのことであり、それが普遍性にまで達したとき、典型となるのである。……リアリズム芸術においては、この典型の把握こそ、目標だといえるのである」(安部公房 M)
偉大な小説家の小説は、それがどんなに特殊な国の特殊な状況を描いていても、世界中で同じように面白がられ、理解される。それは、特殊の中から普遍をとり出しているからなのである。「世界的な作家」というほめ方は、そういう意味では正しいのである。暗号化された私小説ではない
『訴訟』が婚約事件の話でないのは、カフカが婚約事件という特殊な出来事の内にある普遍的な現実をとらえ、それを典型化しているからだ。
事件をそのまま書いたのでは、人は事件を知ることはできても、現実を知ることができるとはかぎらない。小説の役割は現実をとらえることだ。必要のない特殊さをできるだけなくし(芸術的抽象)、そこにある普遍的な現実だけを、よりはっきりとたしかに伝えられる物語を作る(典型化)。その過程で、物語は婚約事件から離れていったのである。科学の法則が具体的な事象から離れているのと同じことだ。
婚約事件(あるいはその他の作者の体験)と『訴訟』の間にあるのはそういう違いであり、決して私的事件が暗号化されているわけではない。だから、『訴訟』を読むのに、婚約事件を知っている必要はないし、知っていたほうがそれだけ理解が深まるということもない。その普遍的な現実がどこからとり出されたのかは、できあがった作品とは関係がないのだ。作品は完全に自立しているのである。だから、カネッティも言っているように、「(婚約事件との対応を知っても)小説の完全さはそのために損なわれはしない」(G)。
「最も私的なものにつながっていながら、一個の客観物になりきっている、それがカフカの不思議なところです」(中野孝次 Q)
たんに婚約事件を描いたのではありえないほど『訴訟』が現実をとらえていることは、あらためて検証するまでもないだろう。
「文学は濃縮です。エッセンスです」「芸術の問題とするところは、線香花火のように人の目を奪うことではなく、持続的な典型となることです」(カフカヤノーホとの対話 F)典型
長い間、非現実の代表のように言われていたカフカだが、時が経つにつれて、「カフカの小説と現実の生活との密接な関係」が、さまざまに指摘されるようになっていった。「現代を語ろうとするすべての人にとってカフカの文学は絶好な例証となり、そこに無数の解釈も生まれたわけだ」(山下肇 D)
人々はカフカの小説に、第二次大戦を見る、全体主義国家を見る、社会の仕組みを見る、現代人の悩みを見る、宗教を見る、哲学を見る、エディプス・コンプレックスを見る、婚約事件を見る……はてしがない。
それは、それらの特殊な現実の内に、普遍的な現実があり、その普遍的な現実をカフカがとらえているからだ。どの解釈も作品とぴったり符合し、「作者が描いたのはこの現実だ」と思わせるだけの説得力があるのは、そのためだ。典型がさまざまな具体的な現実にあてはまるのは当然のことで、科学の法則がさまざまな具体的な事象にあてはまるのと同じことだ。
カフカの小説が他に類をみないほどさまざまに解釈されてきたということは、つまり、それだけ芸術的抽象、典型化がたしかで、他に類をみないほど普遍に達していたということである。
どの解釈も作品を完全に説明することはできない。
「カフカの作品は部分的に上記の読み方(世界内のいろいろなものとの関連)で読みうるが、完全にはできない」(アンソニー・ソールビー C)
「彼の物語のどんなに小さなものについても……いつまでもそれについて語り続けることができ、すべてを汲みつくすということがない」(C・E・マニー C)
科学の法則がひとつの具体的な事象のみにあてはまるものではないように、典型をひとつの特殊な現実だけとイコールで結ぼうとしても無理なのは、やはり当然のことだ。
だから、「『訴訟』は第二次大戦を描いている」と言ってしまうと間違いなのである。そこにある現実をとらえているという意味では正しいのだが、第二次世界大戦という特殊性は作品とは関係がないのだ。
「婚約事件を書いた」というのも、そこから現実をとり出したという意味では間違いではないのだが、婚約事件そのものを書いたと言ってしまうと間違いなのだ。それは普遍を特殊に戻してしまうことになる。少し冷静になって考えてみれば、作品と作品のもとになった体験を同一視することが、いかにバカげているかわかるだろう。木と、その木の絵がイコールで結ばれるだろうか。また、「画家が、壁のしみから、モチーフを発見したとしても、べつにそのしみそのものを描いたことにはならない」(安部公房 M)
作品にぴったりあてはまる解釈がたくさんあり、しかし、そのどれもが正しい解釈ではありえないのは、こういうわけなのである。
作者や国や時代を知らないとダメか
作者やその生涯について知らないとわからないか
「作者や、その生涯について知らないと、作品は本当にはわからない」と言う人がある。
このことについてはすでに述べたので、もう一度くりかえす必要はないだろう。作者と登場人物の関係
小説の主人公と作者はよく同一視されるが、すぐれた小説の場合、主人公が作者そのものということはありえない。主人公はあくまで作中人物なのだ。
これは決して間違えてはならないことだ。
また、主人公の口を借りて自分の言いたいことを主張する作家もたしかにいるが、すぐれた小説の場合、登場人物がどんな考えを持っていようと、それがそのまま作者の考えということはありえない。時代や国を知らないと本当にはわからないか
「作家が生きた時代、国を知らないと、作品は本当にはわからない」と言う人がある。
こっちにその知識がない場合、その時代や国にくわしい人から、絶対にそうだと言われれば、「そうなのかも…」と思ってしまいがちだ。外国の人の行動や考え方を、その国や民族についての知識がないために理解できないということが、日常でもよくあるだけに。
カフカに関して言われるのは、「当時のプラハのユダヤ人の特殊な立場を知らないと……」ということだ。
それはたしかに特殊なものだった。「カフカはユダヤ人としてキリスト教的世界に完全に属していなかった。宗教的にインディフェレントなユダヤ人として……ユダヤ人にも完全には属していなかった。ドイツ語使用者としてチェコ人にも完全には属していなかったし、ドイツ語を話すユダヤ人として、ボヘミア・ドイツ人にも完全には属していなかった。ボヘミア人としてオーストリアにも全的には属していなかった」(ギュンター・アンダース C)
カフカの小説はそのような特殊な状況の中から生み出されたのであり、したがってその状況について知らないとカフカの小説は本当にはわかないというわけだ。
しかし、特殊な状況の中で、そこにある普遍的な現実をとらえる力を持つのが小説家であり、「なぜそのときそこでそのような作品が生まれたのか」を考えるのには、時代背景などの知識が必要だろうが、作品を理解するのにはまったく必要ない。また、料理に関するうんちくを知っている人のほうがそれだけ味がわかるということもない。
カフカの小説にはユダヤ人的なところがあるだろう。しかし、だからといって「カフカの作品を、ユダヤ的な特質からだけ解明しようとするのは、いささかこじつけに過ぎるだろう。……一見カフカを高く評価しているように見えながら、実はその現代的普遍性を、あえてユダヤ的固有性に引き戻そうとする、セクト主義的な臭いを拭いきれないものがある」(安部公房 M)
「彼が書き表した世界は、やはりユダヤ人でなければ発見出来なかったものだ。しかしそれは、だからユダヤ人でなければわからないということでもない。……発見された以上、もはやそれはわれわれのものだ。なにしろそれは、われわれが現にいま、こうして生きているこの世界そのものだからである」(後藤明生 B)プラハ
カフカが小説の中で描いている都市の細部はカフカの住んでいたプラハの町に酷似しているのだそうだ。また、カフカの小説の題材が当時のプラハの日常茶飯事からとられていることもあるらしい。
モデルやモチーフがあるのはべつに驚くことではないと思うのだが、なにか大発見のように言われることが多い。「カフカが生きた時代とプラハの町を知らなければ作品のすべてがわからないと主張する人もいる。根気よく歩きまわってカフカの小説の『モデルたち』を探し出した研究者もいる」(池内紀 V)
まったくご苦労なことだ。そういうことをするのが文学の研究だとしたら、文学の研究者など一人もいないほうがいい。科学の研究と称して、ニュートンが万有引力に気づいたリンゴを探しまわり、「これがそのリンゴだ!」と大発見して、万有引力の法則についてこれまで以上に理解した気になっているとしたら、信じられないほどの愚かしさではないか。
最近、『城』のモデルになった城が実在することがわかったらしい。しかし、それがどうしただ。
「(カフカの散歩コースを)私はできるだけ……辿ってみた。そして気づいた、これらの場所やコースは城の眺めを抜きにしてはありえない、と。どこにいても必ず視野のどこかに城の姿があった。……『あ、これだな』と感じるものがあった」(谷口茂 B)
モデルを見てカフカ的世界を感じるのは、見るほうがカフカの小説を読んでいるからで、モデルがそういう世界を持っているからではない。最近のカフカの映画「KAFKA迷宮の悪夢」「トライアル辮R判」はともに、カフカ的雰囲気を出すためにプラハで撮影を行ったが、そのかいはまったくなかった。当然のことで、モデルになった木を見せて、ある「木の絵」のイメージを持つはずだと思うほうが無邪気すぎる。
モデルとなる城があったから、カフカは『城』の着想を得たのかもしれない。しかし、その城を見れば、他の人でもその着想が得られるわけではない。そして、その城がなくてもカフカは同じような小説を書いただろう。作品の秘密がモデルを知ることでいくらかでも解明されると思ったら大間違いだ。また、むろん、モデルがあるかどうかは作品の価値となんの関係もない。
モデルを知らなくても、作品は完全に理解できる。そして、モデルを知ることで得られるのは、モデルについての知識だけだ。
「プラハに一度は行かないと、カフカについては語れない」というようなことが言われるが、「そうしないと語れないと思うようでは、語る資格がない」というのが本当のところだ。リンゴを知る必要があるのか
作品の理解の浅い人ほど、なにか不満を感じ、作品の周辺の知識の収拾に走りがちだ。周辺の知識なら、努力で得ることができる。知識を得ることで、作品についていろいろ語ることができるだろう。しかし、それは作品の理解が深まったということでは決してない。
作品を理解するには、作品を読むしかない。すべては作品の中にあり、作品は完全に自立しているのだ。
いかに読むべきか
作品を本当に味わう
いろいろ言ってきたが、ではどう読めばいいのか。
- まったく新しいものとして接する「芸術作品というものは必ずや一つの新しい世界の創造であるということ、したがって先ずしなければらなぬのは……なにかまったく新しいもの、わたしたちがすでに知っているどの世界とも単純明解なつながりなど全然もっていないものとして、その作品に対することだ」(ナボコフ K)
- すべてを事実として読む
小説に書いてあることがいかに非現実的でも、それは小説の外の世界と比べたときのことで、小説の世界ではそれは現実なのだ。すべてを事実と受けとめて読むことで、はじめて得るべきものを得ることができる。
「すべて言葉通りにとること、なにものも上からの概念によっておおわないこと」(アドルノ C)
「判じ絵を解読するようなまねは一番いけない。カフカ学者たちはカフカを解読しようとして、カフカを殺したのだ」(クンデラ J)
「いまでもあの『赤い草』の世界を事実と信じているよ。それだけあの作品によって付け加えられた感覚があったと考えてもいいんじゃないか。自分が広がるというか、豊かになるというか……」(安部公房 P)- 作品を理解するために想像力を使う
「この話(カフカの小説)は想像力に身をまかせて読まなければならない」(クンデラ J)
シーンを想像するとかそういうことではない。未知のものを理解するには想像力がいるということだ。
「作者が……提示している特定の世界を明確に把握しようと努める必要があるということ」(ナボコフ K)- 細部に注意して、ゆっくり読む
普通の小説なら、ストーリーさえ追えばいい。しかし、すぐれた小説の場合、とくにカフカの場合、絶対に必要なことしか書いてない。だから、読み流せない。
「本を読むとき、なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない」(ナボコフ K)
そして、密度が濃いぶん、ゆっくり読む必要がある。
どんな本でも速く読むほどトクなわけではない。すばやく読んだのではなんにもならず、かえって時間のムダになる本もある。カフカの場合、こけおどしのない文章なので、普通の本を読む速さで読んだのでは、何も感じないまま最後までいってしまいかねない。
細部にこだわって、普通の本より10倍ゆっくり読めば、カフカの小説がいかに豊かかに驚かされるだろう。- 再読「良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである」(ナボコフ K)
最初は無味乾燥に思えた人も、こりずにくり返し読めば、あるとき急に面白さがわかる。不思議だがそういうものだ。そして、それ以後は、再読の度にこれまで気づいていなかったよさを新たに発見することになる。「これらの作品を読むたびに私は絶えず新たな発見をするが、この発見の喜びが今後も長く続くであろうことを信じて疑わない」(シェーパース Z)感動=理解
「わかる」「わからない」ということを言うが、どういうとき本当に作品を理解できたといえるのか。
その目安は感動である。すでに説明したように、小説は現実をとらえるもので、認識の情熱が満たされたとき感動がある。だから、感動したということは、作品を完全に理解した、わかった、ということなのだ。
「カフカの『変身』が単なる昆虫学的幻想以上のものとして感動を呼ぶなら、その人は良き読者、偉大な読者の仲間に加わったのだ」(ナボコフ K)
これまでだって目が覚めていたわけだが、もう一回さらに目覚める感じ。どうして今まで何も感じなかったのかわからなくなる。それがすなわち、新しい感性の芽生えで、「その作品に誘発されたオリジナルな感性」(安部公房 N)を私たちは得るのである。その結果、目の前の現実はいままでと少しちがって見えてくるが、それは類型的なとらえ方から抜け出し、より現実をとらえることができるようになったからだ。
本当に感動すれば、そのことが自分でもわかる。言葉にできなくてもわかっているのだ
もちろん、感動しても、「この小説でとらえられているのはこういう現実だ」と説明することはできない。
だが、すでに述べたように、それでいいのだ。説明できるような現実なら、小説でとらえられることもない。読者はその小説を通して、他の言葉では説明することのできない現実を感じるのだ。作品から得たものを無理に言葉にしようとすれば、通念の側に引き戻すことになり、得られたものはそのつまらない説明にとってかわり、風に出会った煙のようにあとかたもなくなってしまって、とりかえしのつかないこともある。
だいたい、説明がほしくなるのはわかっていない証拠だ。「不可思議さは何の不思議さもなく語られ……読者はこの語り手が、自分たちが日常のなかで暮らしているのと全く同様の自然さで、その不可思議さのなかで自然に暮らしていることをそのまま信じてしまう、いや信じてしまうという以上に、そのことに殆ど気づきさえせず、自分たちもその不可思議さのなかでごく自然に暮らしているかのように無意識のうちに感じ始めてしまう。小説のそうした魅力に本当に身をひたしてしまった読者が……もう一度意識のレベルで吟味しつつ全てを読み直し、そこにある不可思議さを改めて日常の現実のなかに置き直し、抽象的な言葉で説明し納得してみたいと思うだろうか」(柴田翔 B)
まだわかっていないと思ったら、とにかく再読あるのみだ。間違っても誰かの説明を読もうなどとは思ってはいけない。説明を読んで、作品についてわかるということは、ありえない。このことを忘れてはならない。すべてに答えてくれるのは作品だけなのである。夢見るように読む
どう読めばいいのかをまとめると、「夢を見るように読む」ということになるように思う。もちろん眠って見る夢のことだ。
先入観をもって夢を見る人はいないし、解釈しながら夢を見る人もいないし、夢の見方が決まっているわけでもない。夢を見ているときには、夢の世界に完全に入り込んで、そこで起きることはどんなに非現実的なことでもすべて事実と受けとめて、心を動かす。
小説は、まさにそのように読まれるべきものである。
翻訳について+『訴訟』を読む
ここでは本文に7種類の補足説明を加えたいと思う。
原文に誤解のないよう、bだけは知っておいていただきたい。そして、原文に興味のある方は、acdを(efg)も。本文を読んでも面白いと思えなかった方は、ぜひefgを読んでみていただきたい。
まず次に、どういう補足であるかを説明しておく。a翻訳について
今回の翻訳では、生原稿からの初めての翻訳だから、情報の正確さを重視し、できるだけ原文に忠実に、逐語的な直訳をした。
思い切った意訳をしたかったので迷ったが、けっきょく、読みやすさは犠牲にしても直訳調に近いかたちでいくことにした。
というのも、日本語としてわかりやすい、抵抗のない文にする過程で、原文の微妙で複雑なニュアンスが失われることがよくある。そして、そのせいで、その文がとらえていたものはどこかに行ってしまい、ただの平凡な文になってしまうことがある。川を下ってきて角がとれた丸い石のような世馴れた表現は、読む者になんの衝撃も与えない。さっと読める自然さを得るかわりに、その文が本来持っている効果を失ってしまうのだ。読者がそのことに気づけないだけに罪が重い。
カフカの場合とくに、そうして削られてしまうところに、こたえられないよさがある。今回、原文を見て、これまで知らなかった細部のよさが満ち満ちていることを知って、本当に目のくらむ思いがした。
そこで、たとえ読みにくくなっても、細部のニュアンスまで、ためらうことなく訳文にとり込むことにしたのだ。もちろん読みやすさと両立させたかったが――それは可能なはずだが――力不足で、できなかった。
カフカの作品はゆっくり読んだほうがいいので、読みにくい訳文くらいのほうがいいだろうとも思った。
もちろん、カフカの原文は非常に平明で明解なもので、訳文のように読みにくいものでは決してない。
なお、完全な直訳ではなく意訳している部分もある。
その他の方針も参考までに少しだけ紹介しておこう。――その他の方針については長くなるので省略する。
- 勝手に文学的な表現を使わない。
文学だからというので、平気で文学的表現を多用する訳者がよくあるが、新しい小説に、それ以前の手垢のついた陳腐な文学的表現を使ったのではだいなしだ。
クンデラもそういう被害にあって、「フランスでは、翻訳者が私の文章を飾りたててこの小説を書きかえてしまいました。……翻訳のショックで私は癒されない傷を負いました」(J)と書いている。
ありふれた文学的表現を使えば、さまになるし、読みやすいし、大多数の人からはるかに好まれるのはわかっているが、そういうのは吐き気がするほどイヤだ。
誤訳と同じくらい読者に誤解を与えることも少なくない。原作に対する無理解が原因であり、解釈ミスによる誤訳といってもいいと思う。
カフカの文章は素晴らしい名文で、「今世紀が生んだ大作家の見事な文体」(ウィリアム・カリー B)
だが、いわゆる文学的な文章、美文とは対極にある。
多くの人にはそっけない、事務的なものに思えるだろう。俗なクラシック愛好家がハーモニーに酔うように、カフカの文章に酔うことはできない。
「名文」もやはり時代とともに変化していくのである。
カフカは日常生活で誰でもが使うような言葉しか使わない。「詩人は……読者に馴染み深い、一見平凡極まる言葉を使うのです」(カフカヤノーホへ F)
曖昧な表現や情緒的な表現も使わない。「カフカは合理的で論理的な日常語に終始する」(エムリヒ C)
しかし、「この方法を通じて彼は非凡な詩的効果を達成しえたのであった」(ナボコフ J)
カフカ以後の偉大な作家はすべてカフカの文体の影響を受けている。- 同じ単語が同じ意味が使われているときには、同じ訳語をあてるようにした。
「トルストイが skazal (『言った』)と書いているところで、翻訳では『発言した』、『言い返した』、『繰り返した』、『叫んだ』、『話し終えた』、その他が用いられている。翻訳者は同義語がほんとうにお好きである。(私は同義語という概念そのものを否定する。一語一語が固有の意味をもっており、意味の置き換えができないからだ)」(クンデラ J)。- ドイツ文学の翻訳家でもある小説家の古井由吉は、過去のカフカの翻訳について、「あまりと言えばあまりな、悪訳であった」(B)と書いている。厳しい評価だが、誤訳というのは必ずといっていいほどあるものだ。「翻訳者の中には、カフカを一九世紀のリアリズムでしか見られなかった人がいて、その人たちはなにしろ因果関係で訳すんだから……ずいぶん誤訳が多かったですね」(中野孝次 Q)。そういう解釈ミスによる誤訳は減らせたと思う。もちろん、単なる誤訳も減らしたつもりだが……。
なお、訳しにくいせいか、訳されずじまいになっていた文がけっこうあった。すべて訳すようにした。
今回の翻訳では、これまで指摘したような悪いことはしていないが、それ以上のよさを出すこともできなかったというのが本当のところだ。
本文さえ読めば、それで原文についてすべてわかったと思っていい、とはとても言えない。
解説の長い翻訳書ほど訳が悪いと言われるが、同じ訳なら解説がついているほうがマシだろう。
生原稿からの初めての翻訳という特殊性からも、原文についてできるだけ詳しくお知らせする義務がある。
説明をつけることで、もし解釈の間違いや誤訳があれば、それもよりはっきりするわけだ。踏み台にして、いい訳が現れてくれれば幸いである。
なお、今回の翻訳では後に紹介する先生方の『審判』の既訳を参考にさせていただいた。深く感謝します。b改行位置
カフカの文章は一つの文がとても長い。コンマなども少ない。改行もきわめて少ない。「文章が殆ど綿々とつながって行く……カフカの文体」(柴田翔 B)
訳文も当然そうなっていなければならないのだが、原文の一文が、訳文では二つか三つの文になっていることが多い。読点もずっと多い。改行もたくさんあるが、読みやすくするために訳者が勝手にやったことだ。これまでの翻訳では会話のところで改行していたが、今回はそれだけでなく、さらに改行を増やしてみた。
夏目漱石も『吾輩は猫である』のときには改行がひどく少ないが、後の小説では改行が増え、会話でも改行するようになっている。こういうことは時代の習慣に合わせてもいいのではないかと思った。
それに、こういうことをしても、カフカの切れ目のない想像力の流れは、はっきりと感じられる。
しかし、やはり許されることではない。すべて力不足のためで、ひたすらお詫びするしかない。
せめて本来の改行位置をお知らせしようと思う。c従来のブロート版との異同
従来のブロート版と生原稿との違いは、今回の翻訳の性質上、ぜひお知らせしなければならないだろう。
ブロートはカフカを聖人視する自分の解釈を守るためか、それとも友人としての配慮からか、カフカの日記の「売春婦への言及ばかりでなく、性に関するところをすべて削除し」ているらしい。(クンデラ α)
だから、つねにまったく問題がなかったわけではないのだが、『訴訟』について言えば、問題になるような改ざんはしていなかった。ブロートは汚名をはらし、現在では逆にその文学的良心が賞揚されている。
今回、「逮捕」と「終り」の章の全文を、ブロート版と比べてみた。結果、違いは次のような点にあった。
しかし、最初にお断りしておくが、たいした変更ではない。つまり、ブロート版でもほとんど問題はない。したがって、この翻訳の価値はほとんど、これまでブロード版にもありながら訳されていなかった文も残らず訳出したこと、これまで以上に原文を伝えようとしているところにある。
- 生原稿は草稿なので、会話の”“がなかったり、フロイライン・ブュルストナーが F.B. と略してあったりする。ブロートはそういう不備をなくしている。
- 先にも紹介したように、なまりのあるカフカの文章を、ブロートは一般のドイツ語用法に従わせている。
- ブロートはコンマの数をかなり増やしてる。ごくまれに原稿にあるコンマをとっていることもある。
- 「!」「?」の数を増やしている。削除もしている。
- それ以外にも原稿に手を加えているところが若干あって、訳に関わってくるのはそうした変更だ。そういう訳文に影響する変更点についてのみここで紹介する。
なお、これまでは「第一章」「第二章」……と分けられていたが、これはブロートのしたことで、カフカは各章に見出しをつけているだけだ。だから、本稿では「第一章」「第十章」というのを入れてない。
これまで同じ第一章だった「逮捕」と「フラウ・グルーバッハとの会話、それからフロイライン・ブュルストナー」は、二つに分かれることになった。
章の配列について議論があったことはすでに紹介したが、パスリーの生原稿調査の結論を紹介しておこう。
第四章だった「フロイライン・ブュルストナーの女友達」が断章にまわされた。そして、断章の順序が変えられた。「Bの女友達」「検事」「エルザの家へ」「支店長代理との戦い」「その建物」「母のもとへ」
というのが新しい順序。それ以外はこれまで通り。dカフカ自身による修正
生原稿には本人による書き直しがあちこちにある。
注目に値するものについて、ここで少し紹介する。e見どころの指摘/f技法の解説
有益な解説や批評があるとしたら、それは「こういうところに注目して読むといい」という指摘だけではないかと思う。それで作品のよさがわかることがある。
面白さに気づくのは、何がきっかけになるかわからない。だから、技法の説明も少ししてみたいと思う。g細部の解釈
カフカの小説を途中で読みやめる人の多くは「よくわからない」と言う。たとえばある登場人物の行動や感情の動きが、なぜそうなるのか常識ではわからない。
登場人物の行動その他が類型的でないから読めないというのはおかしな感想で、よくわからないからこそ読む価値があるのだ。小説に求められるのは、今は現実に見えない現実、つまりまだはっきり認識されていない現実をとらえていることだ。カフカの小説は細部に至るまでそうした現実の発見に満ちているのである。
しかしそれでも、わからないと読みにくいという人があるだろう。ここで少しだけ説明してみたいと思う。面白さに気づくきっかけにならないとも限らないからだ。もちろん、完全に説明することは不可能だし、説明が正しいとは限らない。むしろ信用しないでほしい。※以下は、できれば本文(翻訳)を読んでから、その後で読んでほしい。(というか、先に読んでもなんのことかわからないと思う)
そして、この解説をきかっけに、もう一度、本文をじっくり読んでみてもらいたい。では、いよいよ補足説明に入りたいと思う。
逮捕
だれかがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった。というのも、悪いことはなにもしていないのに、ある朝、逮捕されたからだ。彼に部屋を貸しているグルーバッハ夫人のところの賄い婦が、毎日、朝8時ごろに朝食を持ってくるのだが、このときは来なかった。こんなことはこれまで一度もなかった。
- 重要なのは第二文。しかし、重要でない第一文を最初に置いている(だれが中傷したのか、という話題は最後まで出てこない)。
いきなり「逮捕」では、やはり白々しい。まず「だれかが中傷を」と言っておくことで、「逮捕」のリアリティーが増す。
また、「だれかが中傷をしたにちがいない」と言われると、読むほうは、何が起きたのだろうと思う。好奇心を持たせることで、「理由もなく逮捕」という状況を受け入れやすくしているわけだ。
第二文は、第一文の根拠を述べているようで、そうではない。
言いたかったのは第二文で、第一文はそのための前フリなのだ。
さらに、第一文は推測であり、主人公はこれから、何一つはっきりした事情をつかむことができずに一人であれこれと推測をめぐらすことになるのだが、その前フリにもなっている。- カフカはここで、最初 gefangen(捕らえられた、つかまえられた)と書いていたのを、verhaftet(逮捕された)に変えている。gefangen のほうがより口語的で、日常的に使われる言葉だ。
Kは……むかいに住む老婆が異常なほどの好奇心でこちらを観察しているのを、枕から見ていたが、ようすがおかしいし腹も空いたので、人を呼ぶためにベルを鳴らした。
- ここから逮捕された朝の具体的な描写に入る。 まず、日常の習慣がこのとき初めて破られた、という報告。
- 同時にKの生活に関するさまざまな情報が盛り込まれている。
- 「彼に部屋を貸している」は原文通りではない。ドイツ語には「部屋の貸し主」の意の単語があり原文は「彼の部屋の貸し主の」。
まだこの家で一度も見かけたことのない男が入ってきた。
- 日常の習慣が破られたのにつづいて、いつもはないことがある。
- ベッドの中にいるときからKは好奇の目にさらされている。
- 「異常なほどの」と訳したが、原文は ganz ungewohnlichenで、ungewohnlichen(日常とちがった、普通でない、並はずれの)に、さらに ganz (きわめて、たいへん)がついている。
- 「ようすがおかしいし腹も空いたので」と訳したが、直訳すると「いぶかしさと空腹感を同時に感じて」。
- 「人を呼ぶために」は原文にない。「呼び鈴を鳴らした」では部屋の外に出てチャイムを鳴らしたと誤解する人があることを知ったので、この説明を加えた。使用人を呼ぶための呼び鈴である。
男はしかし、自分が現れたことは、やむをえぬこととして受け入れなければならない、とでもいうように質問を聞き流し、ただ彼のほうから言った。
- 期待したのとは別の人間、それも見知らぬ人間が現れる。ちなみに、ブロートによれば、カフカがこれを書いた当時には、他の用途に用いられる旅行服のような服はまだなかったそうだ(E)
相手のようすに注意し、よく考えをめぐらせて
- こういうさりげない的確な描写がカフカはじつにうまい(訳文はさりげなくならなかったが)。この男は法にしたがって命令でここにやってきている。その法には相手もしたがわなければならない。反論があるかもしれないが、それを受け付けるのは自分の役目ではない。そういう場合の、横柄とも、乱暴とも、見下しているのとも違う独特な態度が、見事にとらえられている。
小さな笑い声がとなりの部屋でおきたが、それが一人だけのものかどうか、はっきりしなかった。
- 直訳すると「注意と熟考によって」。
「だめだ」
- 後半は直訳すると、「その音からは複数の人間がそれに(笑いに)参加していないかどうか、たしかでなかった」。
- この一文だけで多くのことが伝えられている。Kは日常的な行為の実行を求めただけなのに、それが笑いをかってしまった。一人、あるいは複数の人間が隣の部屋にいる。そして、ここがカフカのうまいところだが、Kは自分が笑われたのに、そのことに反応するのではなく、すぐに人数をつきとめようとしている。Kはなにより状況がつかみたいのだ。果てしない推測の努力の開始だ。
「そんな」
聞こえるように言う必要はなかったし、そのせいで見知らぬ男の監督権をある程度認めてしまったことに、彼はすぐに気がついたが、しかしそんなことはいまは重要ではないと思われた。それでも、見知らぬ男はそういうふうに受けとったらしく、
- 「だめだ」は直訳すると、「それは不可能だ」。
- 「そんな」は直訳すると、「それは新事実だ」といったところで、「それは初耳だ」ということ。
自分の本意よりもゆっくりと、となりの部屋に入った。
- ここもまたうまいところだ。また、特徴的なところだ。
人間関係というのはつねに権力闘争の面を持つが、Kの過敏さがその気づきにくいわずかな音をひろい、その音量だけを上げる。
「部屋を出てもいいですか」と言えば、相手の監督権を完全に認めたことになるように、「出るぞ」と告げるだけでも、ある程度監督権を認めたことになってしまう。Kはしまったと思い、自分のミスにも敏感なので、気にしている。それだけに、どうでもいいことだと思おうとするが、「それでも」、しまったと思った自分の発言に、相手が反応する。Kにはイヤなことだ。
笑える部分だ。笑いを誘われるのは、人間のある種の性質が的確に、デフォルメされて取り上げられているからだ。
- 「聞こえるように」は、従来「大きな声で」と訳されていたが、ここは大きな声か小さな声かは問題ではなく、聞こえるように言ったことが重要なのであり、原語からもこのほうがいいと思う。
Kはこの新しくかかわり合いになった男から、戸口に立ったままのフランツと呼ばれた男のほうに視線を移し、それからまたもとにもどした。開いた窓ごしに、またあの老婆が見えた。いかにも老人らしい好奇心で、一部始終を見とどけるために、いままた真むかいにあたる窓辺に移ってきていた。
- 相手を認めないのなら普通に入るべきなのに、警戒心からついゆっくりになってしまった、ということだろう。訳はほぼ直訳。
- ここで舞台がKの部屋からグルーバッハ夫人の部屋に移る。
あんたは捕らえられたんだ
- 視線にはいくらかの力がある。Kがまさにその力を使っているとき、自分を見ている視線に気がつく。この展開もうまいものだ。
- 老婆の登場は2回目。場所を移動してまで見物しているのだ。
……この売上金は、第一に……そして第二に
- gefangen(捕らえられた)を、ブロートは verhaftet(逮捕された)に変えている。冒頭の部分でカフカが同じ訂正をしているし、後で同じ見張りの会話のところで(16)、カフカが最初から verhaftet を使用しているからだろう。
- ここで初めて逮捕が告げられる。
今日が彼の30歳の誕生日だからというので
- 生原稿の「第二に」(zweitens)を、ブロートは weiter(さらに)に変えている。
彼はまだ自由だった。
- 逮捕された日がKの30歳の誕生日なのを、読者はここで知る。
- この前の見張りの長いおしゃべりの途中から、Kは少し非現実的な、ぼうっとした状態になる。描写はKの内面に入っていく。
すべて冗談かもしれないと思うが、たしかめない。見張りたちに笑って見せて、もし彼らが笑い返さなかったら、とりかえしがつかない。失った威厳は取り戻せない。ヘマは彼を深く傷つける。- この付近で、vielleicht(もしかすると……かもしれない)の3連発がある。「あるいは」「もしかすると」「ひょっとすると」と訳しそうになったが、クンデラの言葉を思い出し改めた。
- 「冗談」「コメディー」という認識がここで登場している。事態は、まさに滑稽なのだ。しかし、それは現実の滑稽さである。
いまおそらく誰よりもあんたの身近にいるおれたちを、無益に怒らせようとしているらしいな
- 原文ではここで初めて改行される。ここまではずっと改行なし。
例外的に短い文。ここで再び行動の描写に切り換えられる。まだ拘束されていないと指摘することで行動の予告にもなっている。この申し出には答えず、
- 見知らぬ二人の見張りが、いまやKの最も身近な人間なのだ。
彼はベッドに身を投げ、ナイトテーブルからきれいなリンゴをとった。
- ここで2回目の改行。見張りたちとのやりとりはここで終わる。
- この後、2回目の「もしかすると〜かもしれない(vielleicht)」の3連続。可能性は吟味されるが、試す行動にはやはり出ない。
もっとも同時に彼は自問した、今度は自分の考え方からすると、自殺するどんな理由があるのか。
- ここでまた改行。ここから自分の部屋でのKの描写に移る。
Kはベッドに戻る。ベッドを出る前と比べて、明らかになったことは少ない。最初にベッドで待っていた朝食は見張りたちに食べられてしまい、Kはリンゴをかじる。- 生原稿では「ナイトテーブル」(Nachttisch)となっているのを、ブロートは Waschtisch(洗面台)に変えている。だから、ブロート版によるこれまでの訳はすべて「洗面台」になっている。
そのとき、となりの部屋から呼び声がして
- こんなにも早く、理由がないとK自身も言っている時点で、すでに自殺という考えが出てきている。人は自分が完全に自分以外のものに支配されそうなとき、自ら命を断つことがある。なぜなのか、納得できない不思議さがあるが、自然な心の動きでもある。
シャツのままで監督官の前に出ようっていうのか?
- ここで改行。監督官の登場。Kは自分の部屋から呼び出される。
「なにを言ってもだめだ」
- Kはこれまでずっと寝巻で見張りたちとやりとりしていたのだ。
と見張りたちは言ったが、Kが叫ぶたびに、彼らはひどく静かに、いや、ほとんど悲しげにさえなり、「ばかげた儀式だ!」
- こういう細部のよさは、他にはドストエフスキーくらいにしかありえない。ここを「わからない」と思う人は多いだろう。しかしヘンに思えるところこそ、重要なのだ。こういうシーンがなぜか心に残れば、それで得られたものがあったのだ。黒澤明監督がドストエフスキーの「白痴」の映画を撮っているとき、女優から「このシーンではどういう表情をすればいいんですか」と聞かれ、監督も困って原作を見たところ、ニヤリと笑ったと書いてある。あたりまえの反応ではなかったが、これが見事にはまったという。
いちおう以下に説明を書くが、あまり信用しないでもらいたい。
「なにを言ってもだめ」という事実は、彼らにも変えられないのだ。なのにKが自分たちに抵抗する。怒るというのもありうるだろうが、こういう反応もまたありうる。幼い頃に親のこういう反応に出会ったことはないだろうか。なくても想像はできるだろう。
細部においても、つねにこういうとらえにくい現実がとらえられているのが、カフカの小説だ。自分で洋服だんすを開けると
- 「ばかげた」と訳した原語は、こっけいなというような意味で、こっけいさが、ここでも指摘されている。
内心密かに、身じたくにあまり時間をかけずにすむのも、見張りたちが風呂に入れと強要するのを忘れてくれたおかげだと思った。それでもいまになって彼らがそのことを思い出すのではないかと、ようすをうかがっていたが、むろんまったく思い出しはしなかった。
- selbst(自分で)をブロートは削除している。
すっかり服を着終えると彼は、
- 服を着るとなるとKは評判になったいい服を選ぶ。そのよさは異様なほど強調される。そうして手抜かりなくきちんと身支度しながら、見張りたちの手抜かりを喜ぶ。「身支度に時間をかけずにすむ」からではなく、彼らの気づいていないことに自分が気づいているから。だから、それがどんなにつまらないことでも、Kは見逃さないし、こだわる。つまらないことであるだけにKはこの発見をもてあそぶ。事柄の値打ちのなさをまぎらわそうとする。
この部屋は、Kもよく知っているように、少し前からブュルストナーさんが住んでいる。彼女はタイピストで、いつも朝とても早く仕事に出かけ、夜おそく帰宅するので、Kとは挨拶くらいしか言葉をかわしたことがなかった。
- ここで改行。前の段落は、呼ばれて部屋から出てきて、また部屋に押しもどされて、着がえをするまで。
- 着がえたKは、今度は監督官とやりとりをする。監督官とのやりとりはブュルストナーの部屋で行われる。
部屋のすみに三人の若い男が立っていて……ブュルストナーの写真を見つめている。開いた窓の把手に、白いブラウスがかかっている。真むかいの窓に、またしても例の二人の老人がいたが、今度も仲間がふえている。
- 「挨拶くらいしか言葉をかわしたことがな」いわりには、Kは、職業もいつ仕事に出かけていつ帰るかも「よく知っている」。
ナイトテーブルの上の、マッチ、ロウソク、本、針刺しといったわずかばかりのものを、両手でわきに押しのけた。
- ブロートはここで改行している。カフカはここではなく少し後の「ヨーゼフ・Kだな?」という監督官の言葉のところで改行している。そこから監督官とKのやりとりがはじまるわけで、これまで通りの改行の仕方だ。ブロートはそこの改行はなくしている。
- 訳文には出せなかったが、ここのブュルストナーの写真は複数。
- とても印象的な、すばらしいシーンだ。部屋の中の様子の描写だが、Kにとって気になることだけが指摘されている。 新たな三人、写真、白いブラウス。さまざまの人の気配が部屋に満ちている。老婆の登場はこれで5回目になるが、またしても人数が増えている。見世物状態は、ピークに達する。
「すわってもかまわないでしょうね?」
- ここでブロートは、生原稿の paar(ほんのちょっぴりの、わずかばかりの)を wenigen(わずかの)に変えている。
- 監督官はこれらのもので手悪さをはじめる。Kが熱心に話しているのに、そういう態度なのは、べつにKをバカにしているわけではない。監督官は逮捕を告げに来ただけだ。逮捕は事実であり、議論の余地はない。少なくとも、彼はその議論と関係がないのだ。
「そういうことは慣例にないな」
と監督官は答えた。
「わたしが言ったのは」今度は間をおかずにKは言った。「一方でしかし」とKはつづけ、ここでみんなのほうを向いた。写真のそばの三人にさえもこちらを向かせたかった。
- 見張りたちとのやりとりのときには椅子がなくてすわれなかったが、今度ははっきり、すわることを許可してもらえない。Kはずっと立ちっぱなしだ。すわってもいいかと聞いたヘマを無化するために、Kはすぐに言葉をつづける。
あなたの質問に答えることはできないが
- 「こちらを向く」に当たる原語は、動作として「向く」というより、「注意を傾ける」という精神的要素が大きい。「三人にさえもこちらに注意を傾けてほしかった」ということだ。
- 生原稿の den をブロートは die に変えている。
den のままだと、「写真のそばの三人のほうにさえも向きたかった」となる。しかし、すでにKはみんなのほうを向いているわけだし、三人に注意を傾けたかったとは思えない。ブロートがこう変えたのは根拠があってのことだろうし、カフカのつもりとしては、ブロート版のほうが正しいのではないかと思う。Kは監督官をじっと見つめた。
- ブロートはここの kann を削除して、「答えない」にしている。
あなたがたは最初いきなりおしかけてきて、いまじゃあこのまわりで腰を下ろしていたり立っていたりしていて、わたしにあなたがたの前で妙技を演じさせている。
- ここで改行。監督官とのやりとりもまた実りがないことがわかり、Kの自問がはじまる。この後、章の終わりまで、改行はない。
電話のある玄関のほうに手をのばし
- ここのところは今までの訳では「フランツとヴィレムが立ったりすわったりして、Kに監督官の前で高等馬術をさせる」という意味になっていて、なんのことかよくわからなかった。 ここは逮捕に来た全員について言っているのだと思う。立ったりすわったりせわしなくしているのではなく、ある人はすわっている、ある人は立っている、つまり思い思いの姿勢で落ち着いているということだと思う。「高等馬術」は、直訳するとたしかにそうなるが、これは明らかに比喩だ。高等馬術というのは馬にいろいろな種類の技をさせることだから、ここではKがいろいろな対応を試みていることを指すのではないかと思われる。比喩をその説明と置き換えるのはいいことではないが、この場合はそうしないとわからないだろう。妙技はみんなの前で演じているのであり、それは二人の見張りに強制されているのではなく、もちろんKは好きでやっているわけではないから、そういう意味でやらされているのだが、全員が目の前でKがあれこれ対応を試みているのをそのままにしているということだろう。
一種の反抗心からたずねた。というのも、握手のためにさし出した手が受け入れられなかったにもかかわらず、とくに監督官が立ち上がってからは、ここにいる誰にも左右されない自分をますます感じていたからだ。彼は彼らと戯れていた。彼らが立ち去るのであれば、門のところまで追いかけていって、わたしは逮捕されるんじゃなかったんですか、と言ってやるつもりだった。
- Vorzimmer を「玄関」と訳したが、本当はメインの部屋に入る手前の部屋、控室のこと。ただこの場合、後でグルーバッハが Vorzimmer で玄関のドアを開けているので、玄関のあるホールを指していると思われる。普通の家の構造だとこういうことが多いので、Vorzimmer と玄関のイメージは一般にダブっている。
あなたは逮捕された、たしかに。しかしそのことは、あなたが仕事をするのを妨げはしないんだ。あなたも普段どおりの生活を送るように
- 握手が受け入れらなかった恥が、Kに反抗心を持たせる。反抗心を持って、戯れているのだと思えば、その恥も恥でなくなるからだ。恥を無化するため、相手にも自分が戯れていることをわからせたくて仕方ない。「追いかけていって……」と考えているのはそのためで、そうやって自分を慰め、もりたててもいるのだ。
- 「門」というのは大きな門のことではなく、建物の出入口のさらに外にある、敷地の囲いについている内と外との出入口のこと。
普通、逮捕がおそろしいのは、それにともなう肉体的な拘束、あるいは拷問や刑罰がおそろしいからだと思われている。しかし、罰に対する恐怖のあまり、有罪宣告自体の力が見逃されている。逮捕されるだけで、十分に決定的な出来事なのだ。十分に力を持つのである。そのことが、有罪宣告のもたらすものが、Kの逮捕には純粋に逮捕しかないことで、明らかにされていく。
- 「すでに逮捕という言葉が使われたにも拘らず、銀行へ仕事に行ってよろしいという、そして今後も自由に行動してよろしいという許可を与えられる」(カネッティ G)。これがKの逮捕において特徴的なことであり、決して見逃してはならない点だ。
この三人がわからないなんて
- 最後の文は意訳したが、逮捕はあなたを妨げないから、「あなたも普段の生活を妨げられてはいけない」というのが本来の文。
玄関ではグルーバッハ夫人が、とくに後ろめたそうな様子はまるでなく、一同全員のためにドアを開けた。見下ろすKの目に入ったのは、いつものように、太ったお腹に必要以上に深く食いこんでいる、彼女のエプロンのヒモだった。
- カネッティは逮捕の場面の登場人物たちについてこう書いている。「未知と既知のいろいろな度合いの混合がある。そこには全然新しい人物、二人の監視人と監督がいた。見たことはあったかもしれないが、彼にとってなんの関係もない向かい側の家の人たち。それから彼の銀行の若い男たち、なるほど毎日見てはいたが、逮捕の行為中その場に居合わせることによってその行為に協力をした彼らは、彼にとって未知の人たちになったのである」(G)
表でKは、時計を片手に、車をひろう決心をした。
- 「後ろめたそう」と訳した schuldbewusst は、「罪を意識している」ということ。グルーバッハは見張りたちや監督官をKに無断で家の中に通した。仕方なかったにしてもKに申し訳ない行為ともいえる。また、部屋に入ろうとしてKの姿を見つけ、逃げている。しかし、ここでの彼女は後ろめたそうにしていない。Kは行員たちと銀行に行こうとしているし、見張りたちや監督官たちも帰ろうとしている。事は終わったのだ。そういう意識が、婦人の罪の意識を簡単に霧散させてしまう。Kにはそれがいささか驚きだし、不満でもある。しかし、Kの目に入るのは、まったくいつもとかわらない、いささか滑稽で(日常性というのはつねにいくらか滑稽なものだ)所帯じみたグルーバッハの姿だけである。
Kは、もうとっくに目にとめていて、それどころか待ちうけてさえいた男に、クリッヒが注意をうながしたことで、腹を立てた。
- 「表で」と訳したが、直訳は「下で」。日本の家では少ないが、むこうの家は地面から玄関のドアまで何段かの階段がある。だからこの「下で」は、家を出て表に出たことを意味するのだ。
「あっちを見るんじゃない」しかし、だれかをさがそうと試みることさえなく、すぐにまた向きなおり、車のすみにゆったりもたれ込んだ。
- Kが腹を立てたのは、すでに知っている男なのに、クリッヒが自分が初めて発見したかのように教えようとしたからだけではない。このシーンでは少なくともクリッヒのほうがKよりも先に気がついている。Kにはそれが気に入らないのだ。また、自分が人から見物されていたというのは、知られたいことでない。
- 本来の情報の順は「1しかしすぐにまた向きなおった、2だれかをさがそうと試みることさえなく、3そして車のすみにゆったりもたれ込んだ」だが、ブロートは「132」の順に変えている。
終り
31歳の誕生日の前夜――夜の9時近く、通りが静かになるころ――二人の男がKの住居にやってきた。初めての訪問なので、玄関のところで型通りのあいさつが行われ、そのあとKの部屋のドアの前で、同じ儀礼がもっとおおげさにくり返された。
- Kは30歳の誕生日に逮捕され、31歳の誕生日の前夜処刑される。
ここに妙な象徴を見出そうとしてはいけない。こういう設定がされたのは、「時間の経過をあざやかな形で示すため」「終章の冒頭ですぐにこれが特別な日であることを予感させるため」「逮捕のシーンとはっきりした共通性を持たせることで、そこにある他の共通性にも目を向けさせ、発端のうちに含まれていた、この結末へとつながる必然性を意識させ、また、そこにある差異を印象づけるため」だと思う。彼らの来ることはあらかじめ告げられていなかったのに、Kは同じように黒い服を着て……新しい手袋をゆっくりはめていた、まるで客を待っていたかのように。
- 彼らはきちんと正装し、型通りの挨拶をし、むしろ白々しいほどに儀礼的である。
「するとあなた方がわたしのもとによこされたんですね?」
- Kも正装している。きちんと対応するつもりだ。
「あらかじめ告げられていなかった」にもかかわらず、Kは待ち受けていたのだ。非現実的で、重要なポイントだ。
すでに【本稿について】の[「逮捕」と「終り」だけで読むことができる]で言ったことだが、ねんのためにくり返しておくと、この前の章で訪問を予期していて当然のことがあったわけではない(たとえ『訴訟』が完全に書き上げられていたとしても、と言い切れる。なぜならここはその非現実性が大切なのだから)。Kは、自分がもっと別の訪問者を待っていたことを、自分自身に認めた。
- 「逮捕」の章の最初のセリフ「どなたですか?」と比べると面白い。見張りたちが現れたのは本当に思いがけないことで、Kは相手のことを何も知らなかった。しかし、ここではKは訪問を予期しているし、相手がなんのために来たかを知っているようすだ。
むかい側の窓々も、ほとんどがまだ暗く
- 特定の人物が頭にあるわけではない。Kは自分にふさわしい、それなりの人間に来てほしかったのだ。そういう自分の期待を自覚してなかったが、目の前の人間にがっかりしたことで気がついたのだ。自分の非、愚かさを認めるようなニュアンスが、ここにはある。そうすることで、目の前の現実を受け入れやすくする。
ふたりの小さな子供たちが
- noch(まだ)を、ブロートは schon(もう)に変えている。
(質問されるとは思ってなかったな)とKは心の内でつぶやき、帽子をとりに行った。
- 「ふたりの」(zwei)をブロートは削除している。
階段の上で、早くも彼らはKの腕をとろうとしたが
- 原文では普通の会話と同じく”“が使ってあるが、訳文では、内心の思いには、「」ではなく()を使った。これは、よりわかりやすくするために、慣習に従っただけのことだ。
- ここでKは、男たちから何も言われていないのに、帽子をとりに行っている。Kには外に出ることが最初からわかっているのだ。
男たちは、Kがこれまで誰からも一度もやられたことがないようなやり方で、体を捉えてきた。……それはほとんど無生物のみが形作ることのできる統一体だった。
- ここで最初の改行。ここで三人は部屋から出る。
街灯の下でKは何度も
- たんにKが拘束されたということが描かれているのではない。ここには非現実が大きく入り込んできている。こういうところこそ大切なのだ。なお、Kは歩くことだけは自分でもできる。
- 三人が統一体のようになって、夜の街を歩く。「終り」が素晴らしいのは、このイメージがあるからだ。天才でなければ創れない。カフカの創ったイメージの中でも最高のものの一つである。
文学でしか描けないというのは、たとえばこういうイメージだ。
このイメージは、この後さまざまに強化されていく。Kがそのことに気づいて立ちどまると、そのせいで他の二人も立ちどまった。彼らは、ひらけた、人気のない、さまざまな設備で飾られた広場の端にいた。
- ここで改行。前段落で三人は統一体になり、ここから歩き出す。
(もうそれほど力の要ることもないだろう、いま全力を出そう)……(この連中も手こずることになるぞ)
- ここで改行。ふいに情景が広がる。あざやかなものだ。
- 「いろいろな設備」というのは、たとえば花壇とか噴水とか。
そのとき彼らの前に、下の小路から小さな階段をのぼって、ブュルストナーが広場に上がってきた。
- この言葉からわかるように、Kは処刑されるつもりでいる。ここで本当に二人をふりはらって逃げようとしているわけではない。
ただ、自分の抵抗の無意味さが、すぐに意識された。
- ここで改行。ブュルストナーの登場。
忘れがたい強い印象を残す、素晴らしいシーンだ。彼は歩き出した。そうやって二人をよろこばせたことが、彼自身にもいくらか返ってきた。歩いていく方向を彼が決めても、彼らはいま文句を言わなかった。
- ブュルストナーの登場で、自分のやっていることを客観視することになり、その無意味さに気づかされる。
そうこうするうちに彼女は横道に入ってしまっていたが
- 統一は強化される。三人は一つの意思(Kの)で歩き出す。
三人ともいまや完全に了解しあって、月明かりの橋を渡った。Kのどんな小さな動きにも、男たちはいまよろこんで従った。
- ここで改行。
彼がちょっと橋の欄干のほうを向くと、彼らもそろってそちらを向いた。Kは夏になると、よくそのベンチの上で身体を伸ばして横になったものだ。
- 統一はさらに強められる。この感覚も、また貴重な創造である。
- 「彼らもそろってそちらを向いた」のところは、直訳すると、「彼らも全体の正面をそちらに向けた」。彼らは統一体になっているので、全体の正面というものがある。それぞれがその場で首を動かしたのではなく、全体の正面がそちらを向くように、男たちはけっこう動いているのだ。そこまでKの動きに従順なのだ。
上り坂の小路をいくつか通って行く。
- 今のKは、身動きもならず、これから処刑されるところだ。
そこここに警官が立っていたり歩いていたりする。……濃い口ひげをはやした一人が、サーベルの柄に手をかけて、声をかけてこようとするようすで……一行に近寄ってきた。
- ここで改行。
そのときKは、力まかせに二人を前に引っぱった。
- この後に、最初は次の文があった。「『国家がわたしに救いの手をさしのべてますよ』Kは一人の男の耳もとでささやくように言った。『わたしが訴訟を国法の領域に持ち込んだら、どうなります。国家に対してあなたたちを弁護しなければならないことになるでしょうね』」カフカはこれを削除し、Kの行動で表すだけにしたわけだが、この削除部分によってより議論の余地なくわかるように、警官の介入によってKは救われる可能性があったのだ。
そうして彼らはすばやく町の外に出た。この方角では、町はほとんどいきなり野原につながっていた。……まだ完全に町らしい趣のある一軒の家のそばにあった。
- 足をとめた二人を引っぱって、Kは自分の意思で警官から逃げる。ここでKは処刑を守ったのだ。重要なのはこの点である。
- この後の「自分たちと警官のあいだに曲り角を一つはさんだとたん」は、警官を後に残したまま曲り角を曲がったとたん、つまり、自分たちの姿が警官から見えなくなったとたん、という意味。
次の任務をどちらが遂行すべきかについて、慇懃なやりとりが二、三かわされたのち
- ここで改行。舞台が町の外に変わる。
- 「ほとんどいきなり野原につながっていた」というのは、家の数がだんだん減っていったりという、変化の中間地帯がほとんどなくて、都市から野原に急に変わっているということ。
- 「町らしい趣のある」家というのは、都会的な家のこと。
男は、それらの服をまとめて大切にたたんだ。いますぐにではないが、あとでまだ使うことになる品のように。
- ここで改行。ここからいよいよ処刑にとりかかりはじめる。
- 処刑の段階になっても、男たちは紳士的な態度をとりつづける。
一人が包丁をKの体ごしにもう一人に手渡し、受け取ったほうがそれをまたKの体ごしに返す。Kはいまきわめてはっきりわかっていた、包丁が手から手へ彼の上で漂っていたときに、自らそれをつかんで自分にめりこませるのが、彼の義務だったと。……完璧な態度を取ることはできない、役所の仕事をぜんぶなくしてやることはできない。この最後のあやまちの責任は、そのために必要な力を彼に残しておかなかった者が負うのだ。
- 見張りたちも服を欲しがったが、処刑人たちも同じのようだ。
あかりがぱっとついたかのように、窓の扉が左右に開け放たれ、ひとりの人間が、遠く高くにぼんやりかすんで、ぐっと身をのりだし、両腕をさらに外に伸ばした。
- 自分で自分にナイフを刺すのが義務だとKは考える。処刑人のほうでもそれを期待しているようだ。「完璧な態度を取ることはできない」というのは、その義務を果たせないことをいっている。「役所の仕事をぜんぶなくしてやることはできない」というのも同じことで、「なくしてやる」というのは、自分がやってやるということだ。自分で自分を刺さないことをKは「あやまち」と呼ぶ。その責任は、自分にあるのでなく、「そのために必要な力を彼に残しておかなかった者が負うのだ」とまでいっている。
- ここにあるのは、すでに知り尽くされている心理ではない。よく知っている心理が展開されているはずだという思い込みが邪魔するのだろう、誤訳されることが多い。本当はこういう意味だ。
- 「漂っていたとき」は、手から手に渡されようとするときの、宙ぶらりんの状態のときを指す。(schweben「漂い動く」)「めりこませる」と訳した einbohren はこの場合、「食い入らせる」という意味で、板にボルトを「ねじこむ」などと使われる。
「きわめてはっきりわかっていた」の直訳「精確にわかっていた」。一度も見ることのなかった裁判官はどこにいるのだ? ついにそこまで行きつけなかった裁判所はどこにあるのだ?
- カネッティはこの前後を「この作品の読者が二度と忘れない非常にすばらしい章句」(G)と言っているが、まさにその通りだ。
- 「あかりが……」は、窓の扉がぱっと開いて部屋のあかりが外にもれ、部屋にあかりがついたように見えたということだろう。
「窓の扉が左右に開け放たれ」というのは、観音開きの窓の扉が、外にむかって両側とも開け放たれたということ。
「人間」は「男」とも訳せるが、人間でなければならないと思う。包丁を彼の心臓に突き刺し、二度そこをえぐった。かすんでいく目で、Kはなおも見た、彼の顔のすぐ前で、男たちが頬と頬を寄せ合って、けりがつくのを観察しているのを。
- Kはついに最後までどういうことなのかわからないままである。
- hohe Gericht は、一般の普通の裁判所のこと。hohe を付けるのは裁判所を敬うから。
「まるで犬だ!」と彼は言った。恥ずかしさだけが後に残って生きつづけるかのようだった。
- ここで最後の改行。
- ブロートは「彼の心臓に突き刺し」のところに、tief(深く)という単語を足して、「彼の心臓に深く突き刺し」にしている。
- 衆人環視の状態は、最後までつづく。いちばん最初、まだベッドにいるときから、Kはむかいの家の老婆に観察されている。そして最後、死んでいくときにも、処刑人から観察されている。どちらも同じ beobachten(観察)という単語が使われている。
- 「恥ずかしさだけが後に残って生きつづけるかのようだった」の直訳は、「恥ずかしさが彼よりも長く生きるかのようだった」。
カフカ翻訳書ガイド
本稿をきっかけに『訴訟』の全文を、またカフカのその他の小説を読んでもらえればと思う。
(*印のものは古本屋でなければ手に入らない)【全集】
*『カフカ全集』新潮社 全6巻(1城/2審判、アメリカ/3変身、流刑地にて、支那の長城、観察、その他/4田舎の婚礼準備/5ミレナへの手紙/6日記)
『決定版カフカ全集』新潮社 全12巻(1変身、流刑地にて〔生前カフカ自身が公刊したすべての作品が収められている〕/2ある戦いの記録、シナの長城〔遺稿中の完成されている作品、あるいはそれに近い作品が収められている〕/3田舎の婚礼準備、父への手紙〔「父への手紙」と断片的な作品が収められている〕/4アメリカ/5審判/6城/7日記/8ミレナへの手紙/9手紙/10フェリーツェへの手紙2/11フェリーツェへの手紙3/12オットラと家族への手紙)
いったん品切れになったが、「92東京国際ブックフェア」で復刊された。全12巻のセット販売で3万円。まだ書店の店頭で見かけることがある。現在、新刊として入手可能な唯一の全集だ。全集でしか読めない作品が多く、そういう作品がまたいいので、ぜひ購入されることをおすすめする。【単行本】
『観察』吉田仙太郎訳 高科書店
『観察』の最初の出版のときカフカが望んだのに近い装幀を試みたもの。文字サイズがとても大きい。
同じ装幀で、もう2冊出された。いずれもカフカが生前に出版した短編集の翻訳。
『田舎医者』吉田仙太郎訳 高科書店
『断食芸人』吉田仙太郎訳 高科書店
『バベルの図書館4禿鷹F・カフカ』ボルヘス編 池内紀訳 国書刊行会
ボルヘスの編集によるカフカの短編集。
『カフカ最後の手紙』ヨーゼフ・チェルマーク/マルチン・スヴァトス編 三原弟平訳 白水社
1986年に発見された、カフカ最晩年の両親宛ての書簡類の翻訳。【文庫】
『変身』高橋義孝訳 新潮文庫
『変身』山下肇訳 岩波文庫(表題作のほかに「断食芸人」)
『変身』中井正文訳 角川文庫(表題作のほかに「ある戦いの描写」)
『審判』辻訳 岩波文庫
『審判』中野孝次訳 新潮文庫
*『審判』原田義人訳 新潮文庫
『審判』飯吉光夫訳 ちくま文庫
『審判』本野亨一訳 角川文庫
『城』前田敬作訳 新潮文庫
『アメリカ』中井正文訳 角川文庫
『ある流刑地の話』本野亨一訳 角川文庫(表題作のほかに、「二つの対話」「観察」〔同タイトルの小品集の全作品〕「判決」「村の医者」〔同タイトルの短編集の全作品〕「ある流刑地の話」「断食芸人」〔同タイトルの短編集の全作品〕「ある犬の研究」)
『カフカ短編集』池内紀訳 岩波文庫
『カフカ傑作短編集』長谷川四郎訳 福武文庫【文学全集】(いまも書店で見かけるもののみ)
『集英社ギャラリー[世界の文学]12ドイツ3・中欧・東欧・イタリア』(「変身」「流刑地にて」「田舎医者」「断食芸人」「巣穴」「判決」)
『新装世界の文学セレクション36カフカ』中央公論社(「城」「変身」「流刑地にて」「判決」)
引用文献
A――『決定版カフカ全集』新潮社 全12巻
B――『決定版カフカ全集』月報
C――『決定版カフカ全集』月報 城山良彦「カフカ論の系譜」
D――『カフカ全集』新潮社 全6巻 月報
E――マックス・ブロート『フランツ・カフカ』辻 、林部圭一、坂本明美訳 みすず書房
F――G・ヤノーホ『増補版 カフカとの対話』吉田仙太郎訳 筑摩書房
G――エリアス・カネッティ『もう一つの審判』小松太郎、竹内豊治訳 法政大学出版局
H――エリアス・カネッティ『断ち切られた未来』岩田行一訳 法政大学出版局
I――エリアス・カネッティ『酷薄な伴侶との対話』岩田行一訳 法政大学出版局
J――ミラン・クンデラ『小説の精神』金井裕/浅野敏夫訳 法政大学出版局
K――ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳 TBSブリタニカ
L――ロブ=グリエ『新しい小説のために』平岡篤頼訳 新潮社
M――『安部公房全作品』新潮社 全15巻 13〜15巻
N――安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮社
O――安部公房『都市への回路』中央公論社
P――安部公房ほか『マイブック』講談社
Q――安部公房/中野考二 対談「カフカの生命」 「波」1981年11月号 新潮社
R――安部公房「芸術の可能性を切り開く」 「波」1980年1月号 新潮社
S――ウィリアム・カリー『疎外の構図――安部公房・ベケット・カフカの小説』安西徹雄訳 新潮社
T――ロブ=グリエ『迷路のなかで』平岡篤頼訳 新潮社
U――『バベルの図書館d 禿鷹 F・カフカ』ボルヘス編 池内紀訳 国書刊行会
V――『カフカ短編集』池内紀訳 岩波文庫
W――ウンベルト・エーコ『物語における読者』藤原資明訳 青土社
X――ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』菅野盾樹、中村雅之訳 みすず書房
Y――『集英社ギャラリー[世界の文学]12 ドイツ3・中欧・東欧・イタリア』月報
Z――ゲァハート・シェーパース『日本からみたもう一人のカフカ』滝井美保子訳 同学社
α――ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』西永良成訳 集英社
β――『ハロルド・ピンター全集』喜志哲雄、小田島雄志、沼澤 治訳 新潮社
長々と書いてきたが、この文章は、さんざん語られてきたカフカの作品について、さらに語ろうとするものではなく、これまで語られてきたことを相殺するための中和剤を目指して書かれたものである。
願うのはただ、作品を純粋に味わってもらうことだ。
ごたくは必要ないのであり、それさえわかってもらえれば、他の文章といっしょに、この文章も忘れてもらってかまわない。
この文章も、もうこれで終わりだ。
こうしてごたくは消え去り、あとにカフカの作品だけがのこる……
となれば幸いである。
Copyright (C) 1998, Hiroki Kashiragi
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