付録


カフカの言葉

ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。
(親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)

多くの書物には、自分自身の城内の未知の広間を開く、鍵のような働きがある。
(オスカー・ポラックへの手紙 1903年11月9日 A)

私とは文学にほかならないのです。それ以外の何ものでもありえないし、あろうとも思いません。
(日記 1913年8月15日 A)

僕の生活は書くことにだけ準備されているのです。
(恋人フェリーツェへの手紙 1912年11月1日 G)

人は、どうあっても書かなければならぬものだけを、書かなければなりません。
(若い詩人ヤノーホとの対話 F)

真のリアリティはつねに非リアリスティックです。
(ヤノーホとの対話 F)

僕の本が君の親愛な手にあることを知るのは、僕にとってとてもうれしい気がします。
(フェリーツェへの手紙 1912年12月13日 G)

※アルファベットは引用文献の略称。引用文献のリストは最後に。


カフカをめぐる作家たちの言葉

エリアス・カネッティ…………1905〜94 思想家・文学者。小説『眩暈』など。1981年度ノーベル文学賞受賞。
彼(カフカ)は、もはや断じて追い越すことのできないものを書いた。……この世紀の数少ない偉大な、完成した作品を彼は書いたのである。
(『もう一つの審判』小松太郎・竹内豊治訳 法政大学出版局)

ミラン・クンデラ…………1929〜  小説家。小説『存在の耐えられない軽さ』など。

そこには現代世界にそそがれる明晰この上ないまなざしと、もっとも自由な想像力とが二つながらあるのです。それより何より、カフカとはひとつの巨大な美的革命そのものです。芸術的奇跡そのものです。……カフカより前には、これほど濃密な想像力は考えられないものでした。
(『小説の精神』金井裕・浅野敏夫訳 法政大学出版局)

安部公房…………1924〜93 小説家。小説『砂の女』など。

僕のなかでカフカの占める比重は、年々大きくなっていきます。信じられないほど現実を透視した作家です。……カフカはつねに僕をつまずきから救ってくれる水先案内人です。
(『死に急ぐ鯨たち』新潮社)

ガルシア・マルケス…………1928〜  小説家。小説『百年の孤独』など。1982年度ノーベル文学賞受賞。

大江健三郎 安部さんはどんな作家に、本当に興味がある。
安部公房 やっぱりカフカかな。マルケスもカフカから来ていると思う。彼にそういったら喜んでいた。「審判」かなにか読んだら、翌朝目覚めて、私は小説家になっていたって。

(1990年12月17日朝日新聞夕刊 対談)
私はもう二十年もまえのガブリエル・ガルシア=マルケスとの会話を思い出す。彼は私にこう言った、「ひとが別様に書くことができると理解させてくれたのはカフカだった」。別様にとは、本当らしさの境界を越えてということだ。それは(ロマン主義者のように)現実世界から逃避するためではなく、現実世界をよりよく把握するためなのである。
(クンデラ 『裏切られた遺言』西永良成訳 集英社)

中島敦…………1909〜42 小説家。小説『山月記』など。※日本で最初にカフカを評価した。

しかし、何といふ奇妙な小説であらう。
(「狼疾記」 『中島敦全集2』ちくま文庫)

ボルヘス…………1899〜1986 詩人・小説家。小説『伝奇集』など。

フランツ・カフカという署名のある一篇の寓話は、私には、まだ若い従順な読者であったにもかかわらず、言いようもなく無味乾燥なものに思われた。
長い年月を隔てたいま、私は敢えて自分の弁解の余地のない文学的鈍感さを白状する。啓示を前にしていながらそのことに気がつかなかったのだから。

(『バベルの図書館14カフカ』序文 土岐恒二訳 国書刊行会)

ハロルド・ピンター…………1930〜 現在の世界最高の劇作家。戯曲『管理人』など。

ベケットとカフカが一番ぼくの心に残りました。……ぼくの世界はいまでもほかの作家たちによって支えられています――それがぼくの最良の部分の一つです。
(インタビュー 小田島雄志訳 「新劇」)

カミュ…………1913〜1960 小説家・劇作家・批評家。小説『異邦人』など。

『審判』は完全に成功した作品だと、ぼくは言える。
(『シーシュポスの神話』清水徹訳 新潮社)

サルトル…………1905〜1980 哲学者・小説家・劇作家。小説『嘔吐』など。

カフカは模倣できない。彼は永遠の誘惑となって、地平線に残るだろう。
……カフカについては、現代の、数少ない、最大の作家の一人であると言うより他に、言うことはなにもない。……彼の世界は幻想的であると同時に厳密に真実である。

(『シチュアシオン2』佐藤朔訳 人文書院)

ナボコフ…………1899〜1977 小説家・詩人。小説『ロリータ』など。

リルケのような詩人たち、あるいはトマス・マンのような小説家たちも、彼(カフカ)に比すれば……石膏の聖人像みたいなものだ。
(『ヨーロッパ文学講義』野島秀樹訳 TBSブリタニカ)

*以上のような人たちがほめていても、かたくるしそうだと思うかもしれませんが、 「ある小説を読みはじめようとするとき、特にその作品を褒(ほ)めているのが、若い読者の目には古臭くて深刻にすぎると映る人々であるような場合、読みだす努力はしばしばたいへんなものだが、ひとたびその努力を払えば、報いはいろいろと豊かなものになる(ナボコフ J)


カフカのすすめ

あなたの持っているカフカのイメージが、世間の一般的なカフカのイメージと同じだとすれば、それはまちがっている。
難解だと思っている人がいる、異常な小説だと思っている人がいる。辞書で「カフカ」を引くと、「日常性の奥にひそむ生の不条理を描き、実存主義文学の先駆者とされる」などと書いてある。
とんでもないことだ! じっさいには、難解ではないし、異常でもないし、深刻ではないし、不条理とは何の関係もないし、どんな思想も宗教もない、純粋な小説である。
だから、眠って夢を見るのと同じように読んでほしい。書いてあることを「すべて言葉通りにとること、なにものも上からの概念によっておおわないこと」(テオドール・アドルノ C)
ナボコフが「人生で最高のもの」(K)と呼ぶ感動は、そうすることで得られる。クンデラは、カフカの小説を初めて読んだとき「私は目がくらんだ」と言っている。クロード・E・マニーのいうように、「これは力ずくで私たちの目を開かせる」「彼はより一層深く現実の本質に迫る」(C)。魅せられるのは、カフカの小説の力である。その強さである。「おそろしいのは、その力である」(丹羽文雄 B)既成の登録済みの尺度ではなく、「その作品に誘発されたオリジナルな感性」(安部公房 N)を私たちは得る。だから、読み終わった後も、その光が消えることはない。
カフカの小説を、ヘンな小説と思っている人もいるだろう。たしかに非現実的な表現があるが、「こういう方法でしかとらえられない世界があるってことね。単におもしろがったり奇をてらったりしているわけじゃないんだ」(安部公房 P)「異端といっても正統的異端」(安部公房 Q)
新しい文学は、つねにまったく思いがけないものとして現れる。だから異端に見えるだけなのだ。
カフカは、二十世紀の最も偉大な小説家であり、最も影響力の大きい小説家である。
「フランツ・カフカが存在しなかったとしたら、現代文学……はかなり違ったものになっていたはずだ」(安部公房 D) カフカの与えたショックは大きく、カフカ以後、すべてが変わってしまった。文学の流れを、カフカ以前、カフカ以後に分けることも可能だろう。その登場で文学は大きく一段階進歩した。
生まれたての赤ん坊が生命の驚異を感じさせるように、カフカの作品は、文学の力、文学の面白さによって、あらためて人々に衝撃を与えた。
新しい文学の誕生だ。別のかたちもありうることをカフカは示した。クンデラが「小説の進化の完成というよりはむしろ、ひとつの予期せざる開始であって」(J)といっているように、文学は突然、自由になった。そして、そのあまりにも大きい可能性で作家たちを眩惑した。
カフカ以後の偉大な作家で、カフカの影響を受けていない人はひとりもいない。先に引用した人々もほんの一部にすぎない。
しかも、「時間が経てば経つほどカフカの大きさが分かってくる」(安部公房 Q)
「カフカの小説は……読者をその限りない魅力で常に再読に誘う」(柴田翔 B)
「それにしても、なぜ、気がついてみるとカフカを読んでいるのだろう。そして、それは、何度も読んだはずなのに、いつも、初めて読んでいるという感じがするのだ」(金井美恵子 B)
誰もカフカのように書くことはできないし、カフカの作品の面白さは他で味わうことはできない。だから、読まずに死ぬことは、せっかく生を受けたのに、何かを知らずに死ぬことだ。
「カフカを読まないということは残念で不幸なことだよ」(安部公房 Q)

本来なら作品がすべてだ。解説はいっさい必要ない。偉大な作品であるなら、必要なことはすべてそこに書いてあるし、そこに書いてないことは知らなくていい。むしろ知らないほうがいい。
しかし、にもかかわらず、この本をまず後半の解説+評論から先に読んでもらうようお願いしたい。
料理を食べようとする手をとめて、うんちくを聞いてからにしろというわけではない。
カフカについては、すでにさまざまなことが言われすぎている。ハエを追わないと、食事にならない。


文学のすすめ――なぜ小説を読むのか

映画もあれば、テレビもあれば、マンガもあって、視覚的分野の発達した現在、小説を読むことにまだ意味があるのか?
――ある。名画は、決して言葉で表現することができない。映像的に発想された映画の素晴らしいシーンは、どんなことをしても文字では表せない。マンガを小説にすると、肝心な面白さが失われる。これは誰でも納得してもらえるだろう。
同じように、本物の小説が表現しているものは、決して他の分野では表現しえないのである。
名作といわれる小説を映画化した文芸映画で、成功作がまだ一本もないのは、このためだ。
ウディ・アレンも「彼(カフカ)は現代で最も重要な作家だと思う。彼が書いたことを抜きに今を生きることはできない」(朝日新聞92年7月22日)と語っているように、一般の人々と同様に、カフカに感動した映画監督・映像作家・演劇の演出家・音楽家は多く、それぞれにカフカの世界を自分の分野でも表現しようとしてきた。しかし、カフカの小説がそれほどの名作であればこそ――つまり他の分野で表現できないものを表現しているので――それらはことごとく失敗作だ。そこには肝心な面白さが抜け落ちている。同じ感動を、他の分野で再現することは不可能なのである。
駄作が原作だと成功することがあるのは、原作にひきづられることなく、原作をたんなるモチーフとして、独自の映画を作るからだ。木を見て絵を描くことはできるが、ある芸術を他の芸術に翻訳することはできない。映画は、もともと映像的に発想されないかぎり、いい映画にはならない。文学的に発想されたものではダメなのだ。
もちろん、小説のすべてが映画化できないわけではない。しかし、映画化できない部分が必ずある。そして、小説で大切なのはその部分なのだ。
あらゆる芸術の分野は、その分野でしか表現しえないものを持っている。だから、文学が滅びることは決してないし、読む価値はつねにある。
受動的になれるものほどウケるのが世の常で、文字を読むのに比べて、映像のほうが楽しむのに積極性を必要としないので、隆盛をきわめている。だから今、小説はコビて、視覚的になろうとしている。読者のほうも、視覚的な文学を好むようだ。
これほどバカげたことはない。かつて逆に、映画が文学にコンプレックスを持っていた時代があって、文学的な映画が多数撮られたが(もちろん駄作ばかりだ)、それと同じくらい自殺行為だ。映像でできるなら、文学でやる必要はない。
「小説のただひとつの存在理由は、小説のみが語りうることを語ることである」(クンデラ J)
純文学に分類される小説の99%以上は、読む価値のないまったくのカスだが、ごくわずかだけ、カフカのように、小説のみが語りうることしか語っていない、「知らずにすごしてしまった場合のことを考えると、ぞっとする作家」(安部公房 N)たちがたしかにいる。その読む価値は限りない。
「いくら……解説してみたって……本当のおもしろさは分からない。とにかく……読む前と読んでからで自分が変わってしまう。一番肝腎なことは、ああ読んでよかった、という思いじゃないか。もし知らずに過したらひどい損をするところだった、見落とさないでよかった、という、これこそ世界を広げることだし、そういう力を持っている作家との出会いというのはやはり大変なことです」(安部公房 N)
「人間は自己拡張する存在なんだ。この話を知っている人間と、知らない人間では、すでに拡張度が違う。それが芸術なんで、お説教はどうでもいい。べつにイデオロギーの上で何かを教わったとか、人間の幸福について学んだなんて言えないけど、自分の存在はたしかに拡張するね」(安部公房 R)
「読まなかったら、こういう世界を結局もたずに済ませてしまうわけだからね。決まった尺度でしか物が見えないなんて、考えてみたらこわいことじゃないか」(安部公房 P)
「このうえなく稀有にして成熟した芸術の果実を味わうことを学ばないなら、人生で最高のものを失うことになるだろう」(ナボコフ K)
「読んで、つまらないと思った人は、たぶんその人の人生もつまらないんだよ。そして、そのつまらなさに満足している人なんだ」(安部公房 P)

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