作家紹介

フランツ・カフカ Franz Kafka

1883年7月3日、当時オーストリア・ハンガリー帝国の領土だったボヘミアの首都プラハ(現在のチェコの首都)のユダヤ人地区で、豊かなユダヤ人の商人の息子して生まれる。(同じ年、日本では志賀直哉が生まれている)
大学で法律を学び、労働者災害保健局に勤めながら、ドイツ語で小説を書いた。
親友マックス・ブロートの助力で、いくつかの作品を新聞や雑誌に発表し、単行本として『観察』『判決』『火夫』『変身』『流刑地にて』『田舎医者』『断食芸人』を出す。しかし、生前はリルケなどごく一部の炯眼の作家にしか評価されず、ほとんど無名だった。
『訴訟』が書かれたのは1914年。(同じ年、日本では夏目漱石の『こころ』が出版されている)
1917年、34歳のとき喀血し、22年、労働者災害保健局を退職する。24年6月3日、41歳の誕生日の1ヵ月前、結核で死亡。(同じ年、日本では安部公房が生まれている)
遺稿として、3つの長編『失踪者(アメリカ)』『訴訟』『城』、たくさんの短編や断片、日記や手紙などが残された。それらをブロートが苦労して次々と出版していった。
「カフカの本質も従来の既成概念では掩いきれない根本的な新しさをもち、そのことが時代と共に発見されるや、それまでブロートがいくら頼みまわっても引受ける出版社などなかったというのに、一躍して世界的なカフカ・ブームを現出する時代に入ったのである」(山下肇D)
ちなみに、日本で最初にカフカを評価したのは中島敦だという。最初の日本語訳が出版されたのが昭和15年(1940年)。白水社刊、本野亨一訳『審判』。なんと6、7冊しか売れなかったらしい。なお、そのうちの1冊を安部公房が買っていたのだそうだ。
今では世界的に、20世紀最高の小説家という正当な評価を受けるようになっている。しかし、「発見されてもまだ真価は十分に汲みとられてはいない」(山下肇D)
カフカが死んで70年以上経つが、彼の作品はいまだに新しい。
「このところ僕は、ますますカフカが好きになりだした」(安部公房N)
カフカが本当に読まれるのは、むしろこれからである。

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Copyright (C) 1998, Hiroki Kashiragi
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