アミスタッド

監督 スティーブン・スピルバーグ 主演 ジャイモン・ハンスゥ、モーガン・フリーマン、マシュー・マコノヒー、アンソニー・ホプキンス

ななんぼ(★★★)(3月24日)
nananbo@din.or.jp
http://www.din.or.jp/~nananbo/
黒人の奴隷問題をテーマとした重い作品で考えさせられましたが、唸るほどの衝撃がなかった。それは何故だろう?
現実の話を作品化するにあたって、少しでも判りやすくドラマチックにしようとしたからだろうか?
私は昔に同じく黒人の人種差別問題をテーマとした『遠い夜明け』を観たとき、それは凄い衝撃を受けた。白人でもない黒人でもない自分には計り知れない問題なのだとショックを覚えた記憶がある。しかし、『アミスタッド』では、その作品と同じ様な衝撃は受けなかった。
人種問題とは「善悪」では分けられない問題なのに、善悪をわかりやすくしてしまったせいか、そのテーマ性に重みが感じなかった。
それとも、スピルバーグ自身が黒人問題の体現者でないからだろうか。
やはりこういう人種問題は体現者にしか、表現できない難しさと重さがるのだと痛感させられた気がする。
しかし、アンソニー・ホプキンスの演技というか存在感には圧倒されてしまった。マシューもモーガン・フリーマンも良かったけど後半部分からは彼の独り舞台のようだった。

パンちゃん補注
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haruhiko(3月14日)
ishii@binah.cc.brandeis.edu
パンちゃんの意見に同感です。
この映画は確かに見応えがあります。嵐の夜の中の反乱の場面の迫力。言葉の通じないアフリカ人達とアメリカ人弁護士達の問答のおかしさ。やがて相互理解が生まれ、紆余曲折を経て最終的に勝利が訪れるまで、スピルバーグの手並は鮮やかです。
しかし、これが実際に起きた事件、それも奴隷制や人種問題という重い問題を背景にした事件が主題であることを考えると、物足りないのです。スピルバーグの手際の良さは、裏を返せば型通りとも言えます。この映画の登場人物はスペインの女王のような脇役にいたるまで善か悪かに色分けされています。そして最終的に善が勝つことでカタルシスが得られます。(この辺りがパンちゃんの言うストーリーなのでしょう。)でも複雑な現実をこのように単純化するのは少し抵抗があります。悪いことは悪い人達が起こしたのだという歴史観は、人種問題には普通の人々が荷担していることから目を背けさせてしまいかねないと思います。
この時代では北部ではすでに奴隷解放がなされていて、南部ではまだ奴隷制が維持されていたようですが、だからといって北部の人間が善人で南部の人間が悪人とは限らないでしょう。また、北部で奴隷が解放されていたといっても、この映画でモーガン・フリーマンが演じた元逃亡奴隷の役のように黒人が白人同様に社会に受け入れられていたとは思えません。
俳優達の演技がしっかりしているので登場人物にそれなりのリアリティーはありますが、あくまでこのストーリーの中での役に終始しているように思えます。本当の多面的な生身の人間は描き切れていないように感じました。
僕はこの映画を見るまでアミアスタッド号の事件を知らなかったのですが、興味深い事件で、スピルバーグはさすがにいい所に目をつけていると思います。僕の考えでは、この事件の意義は法と道義を政治的判断や人種差別より優先させたことで、そこにアメリカの良識が見られると思います。でもスピルバーグは、(この映画がどれほど事実に即しているかは知りませんが)この時代にも善意の人(白人)がいた、そして異人種間の理解が存在しえた、という美談に持ち込もうとしているように感じました。
パンちゃん(★★★★)(3月8日)
スピルバーグの映画文体の的確さが非常によく出た映画である。
最初の嵐の海での戦い、自由を求めて立ち上がる奴隷船のアフリカ人。稲妻によって断片的に見える細部。想像力を刺激する映像。想像することを促す映像。それは克明な映像よりも、より多くのことを語る方法かもしれない。また、同時に、残酷なシーンを断片化することで、残酷さを強調しない方法でもある。
フィード・バックの使い方も大変自然だ。フィード・バックを意識させない。伏線の使い方も、イヤミがない。アンソニー・ホプキンスの温室趣味が、ジャンモン・ハンスゥのこころを開かせるきっかけになるシーンなど、本当に自然だ。
一番見事なのは、クライマックスの持って行き方だ。終盤のアンソニー・ホプキンスの演説は、普通なら、彼のオーバーな演技のせいもあって、しらけるところだが、しらけない。彼の演説のポイントの、過去・歴史についての語りが、ジャイモン・ハンスゥの気持ちと重なる形で語られるからである。
最高裁の法廷が開かれる前、ジャイモン・ハンスゥとアンソニー・ホプキンスが語り合う。そのとき、ジャンモン・ハンスゥが、こんなことを言う。
「困難な状況に立ち向かったとき、先祖の魂があらわれる。先祖の魂が自分を守ってくれる。導いてくれる。彼らの思いを実現するために、自分は、ここにこうして存在する。」
このことばの不思議さ、力強さに、私は、ふいに涙が流れた。美しさにびっくりした。先祖の魂は単にジャイモン・ハンスゥを助けるのではなく、彼を助けることで、自分の意識を実現する。そのとき、歴史は、単に過去のものではなく、永遠にかわる。過去は現実によみがえり、よみがえることで未来を切り開く。魂の歴史は、一つの真実を確立する……。
単独で聞けば、一種の原始宗教のようなことばが、ストーリーのなかで、奥深い哲学にかわる。(予告編で見たときは、「哲学」を感じなかった。)
そして、その「哲学」をアンソニー・ホプキンスが引用するような形で、アメリカの歴史、歴代の大統領の思想に重ね合わせる。そのとき、ジャイモン・ハンスゥの自由の権利を守ることが、単なる司法の正義から、アメリカの自由獲得の歴史そのものになる。
スピルバーグは、そうした「歴史」を映画という娯楽にしっかりと表現している。この巧みな手腕にはほんとうに驚かされる。
アメリカ(あるいは、欧米)の文化とアフリカの文化の違い(shouldということばがアフリカにない)も簡潔に、しかも文化の核心に迫る形で表現されていて、感心させられる。
----こんなに感心しながら★4個なのは、その表現があまりにもなめらかすぎることに不満が残るからだ。あまりにも美しすぎる映画文体に不満が残るからだ。
この映画のなかに、法廷では「ストーリーが大切だ」という考えが出てくる。ストーリーが感動を呼び、人の心を動かすという考え方だ。それはそうなのだろうが、あまりにもストーリーになりすぎている点が気掛かりなのだ。
こう書きながら、私は今、『ショアー』を思い出している。テレビで断片を見ただけなのだが、あの膨大なフィルムはストーリーを拒むことで、ストーリー以上の深い歴史をえぐりだした。スピルバーグはなめらかなストーリーを描くことで「歴史」をつくったが、「歴史」をえぐりだしたかどうか。
スピルバーグに欠けているもの----それは「えぐりだす」という力だと思う。「えぐりだす」というのは、残酷で、相手を、あるいは自分を傷つける行為である。だが、ときには「えぐりだす」ことが必要なのだ。「えぐりだし」、血まみれになり、そこから回復する。傷つかないかぎり、人間は回復しない。回復するという力を身につけることができない。そうした部分を遠ざけたスピルバーグは映画を作っているかもしれない。----それが、私のスピルバーグに対する唯一の不満だ。この不満のために、あえて★を1個減らした。
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