アイデン&ティティ




はせ(★★★★)(2004年1月18日)

 ロックバンド「スピードウェイ」のリーダーである峯田和伸の青春物語。メムバーは峯田、リード ボーカルの中村獅童ら四人。八〇年代後半だろうか。折からのバンドブームに乗って、彼等も小さなヒット曲をとばし、メジャー進出を果たす。だがそれ以後、 そこそこ納得できる歌をつくってもヒットにつながらない。収入が減って生活苦がひた寄ってくる。メムバーのなかにはアルバイトで食いつなぐ者もいる。かつ て好ライバルだったバンドは、すっかりメジャーになりきって、そのリーダーは顔を合わせるたびに横柄な態度を執る。四畳半のアパートで思い悩む峯田。
 峯田和伸という人は現役のミュージシャンながら、俳優経験はないそうだ。私も知らなかったから、最初は中村獅童が主演と思って見てしまった。そればかり ではなく、峯田はおそろしく暗くじめじめしていて、主演俳優であるからには曲がりなりにも華がなければならないという、そんな私たちの先入見を見事に踏み にじっている。恋人の麻生久美子も暗いが、峯田はその比ではない。歌声もとっつきにくい。大げさに云えば、物語の暗さとの相乗効果もあって、映画全体の光 を一人ですべて吸い込んでしまうブラックホールみたいだ。アフロヘアながらの黒縁眼鏡で、レコード会社幹部の岸辺四郎に「コンタクトにしろよ。」と勧めら れても応じない、そういうロッカーらしからぬ外見で、そういう頑固な性格でもある。つまり、先走っていうと、ロックバンドの青春という、この映画の表看板 から、愉快さや元気さを授かろうとすれば、ひどい裏切られ方をすることは請け合いだ。だがこれは田口トモロウ監督の狙いでもある。
 この映画の青春は「自分探し」だ。すべての青春がそうではなく、自分を滅して他の何者かになりきろうとする青春もある。例えば、政治的、宗教的イデオロ ギーに依拠する場合だ。(それもまた「自分探し」といえないこともないが。)ここではその意味では反対だ。「自分探し」とは好きなことに没頭し、すこしで も成果を挙げて自分を褒めることだ。自分の評価を自分でする。その基準は多分に感覚的で、それを護持するための頑固さも道連れだ。生活のためには最低限の 他人の評価を得なければならないが、峯田は気に入らないかぎりは、例えばそれを「商業ベース」と評して、あえて拒絶する。久しぶりにめぐってきたテレビの 生出演のチャンスも、進行の仕方が不満で、騒ぎを起こしてつぶしてしまう。そうやってズルズルと青春の時間を引き延ばしていく。  麻生久美子も風変わりだ。笑顔も表情の抑揚もなく、女子大生らしからぬおそろしく論理的な物言いをする。峯田を「君」と呼び、「何処までも君自身であろ うとする君が好きよ。」「君はわたしにマザーを見ているのでしょう。でもマザーは安定じゃないわ、破壊と隣り合わせよ。」などとおっしゃる。セリフが棒読 みに近く、まるでホヤホヤの演劇研究生のような下手糞さだが、これも田口監督の狙いの範囲と見た。現実感が希薄なのは、峯田の視線をとおしての願望、ぼん やりした時間を異性と過ごしたいという願望を強調したいがためと思う。マザーとダブった恋人、思い起こせば、若い頃私もそういう願望、というか空想を抱い たことがあった。
 歌作りが思いどおりに進まず、時間が刻々と過ぎ去っていくことが峯田を焦らせる。才能の無さが痛切に見えてくる。麻生久美子も、幻となって現れて彼を慰 めたボブ・ディランも、ともに去っていく。たぶんに空想的な、ひとりよがりのふわふわした青春の大部分がそこで終わる。《世間も今の自分も全部嘘だ。だか らこそ歌を作らねば……》という自己課題が、一時の勢いに煽られてではなしに、あらためて剥き出しになって峯田に問いかけてくる。まさに峯田自身も予想し なかったブラックホールだ。「自分探し」だけが残骸のように残るのだ。だが、こういうメロディは、今まで多方面から聴かされた気もする。貧乏にせよ、なん とか生きられる雰囲気もある。青春の最終期(長いか短いかは別にして)、ロッカーの売れない時代ということになるが、ナルシスティックな空気を蹴飛ばした い気にもなる。監督や脚本家の懸命の肩入れに一方では同調しつつも。