アイズ・ワイド・シャット

監督 スタンリー・キューブリック 主演 ニコール・キッドマン、トム・クルーズ

kaeru(2000年1月31日)
kaeru-n@attglobal.net
飼い主がキューブリックのファンなので見に行ってきました。ラスト・シーンも気に入ったし、思わせぶりな音楽やカットもいいと思ったのです。でも、現代アメリカにしては話の設定が古い気がしたのと(今時、将校に一目ぼれとか、今までみたこともない驚くべき秘密というのが上流社会の乱交クラブなんて)、トム・クルーズ演じる主人公がいい人すぎる(これは飼い主の意見)のが玉に傷でしょうか。☆☆☆です。
JO(傑作 5つ星)(1999年12月14日)
mitsuoka@x-stream.co.uk
キューブリックが神と呼ばれるゆえんは、彼の映画の中で起こることに全て意味がある、と信じる事から来る。そして、それが正しい見方だ。 故・監督の最後の最高傑作に、みんないつ気付くのだろう。
まず駄作呼ばわりされる最大の理由は「ドラマ性が無い、良くわからない」等から来るのだろう。意味が良くわからないのは良く考えていないからで、スクリーンに映っている事を追うだけではこの映画はつまらなく感じるだろう。
どんなに両目広げても、それだけでは何も見えない。 
MATRIX からの格言:「現実のような夢を見るだろう? 夢の世界と真実の世界の違いをどう見分けられる?」
目をボーっと開けて妄想に浸ったり、過去の記憶が実際にあったのではなく、夢で見た事だった…そんな経験は誰にでもあるのではないか。
  色々考えて、一つの言葉に辿り着いた。
  矛盾。これは矛盾に関する映画。
夢、妄想、そして現実の重みの違い。
男と女のかみ合わない思想。
愛とセックスの矛盾。
これらのテーマのどれを取り上げても、容易に映画に出来ないだろう。
虚実と現実のはざまに偽物くさいニューヨークや、中世から持ってきたような乱交パーティーがあり、どれが現実なのかわからなくなる。それよりも、自分に重要なことが現実である必要があるのか?
主人公ビルの中ではすでに「美しい妻の姿」がある。だから冒頭、妻の顔を見ないで美しいと言う。
実際に「見る」事と、心の中で見ることの違いはあるのか?  
この矛盾はそのまま話の核への伏線となり、アリスの実現しなかった妄想は、ビルの頭の中で実際に起こった事の様に彼に影響する。
今の時点ではとても映画に秘められた意味全てを読み取れないが、それは喜ぶべき事だと思う。 
健在どころかこれまで以上の絶妙の音楽の使い方や、素晴らしい色彩を見ながら、これはどういう意味なんだろう、と考えるのが楽しい。
妻の夢は夫の現実に、ビルの現実はアリスの夢に酷似し、「何が本当か」よりも、「何が自分にとっての真実か」。それを見出せないままビルは奇妙な旅から帰ってくる。
  そこで彼が「見た」ものは仮面。 
本当の姿を隠すための仮面が、最後に全てをさらけ出す象徴としてベットに置かれているのはなんと言う皮肉だろうか。
今までの映画では人間に冷たい、と言われつづけた監督が遺作に撮ったのは衝撃作ではなく、人は道を踏み外しそうになるけど、きっと大丈夫だよ、と言うクリスマス・ストーリー。世紀末にこの映画を作った訳はそこにある。
にんここ(1999年9月27日)
a9928412@mn.waseda.ac.jp
・・・・うーん、ちょっと期待ハズレだったなあ。
予告編はよかったし、キューブリック最後&久々の監督作だし、主演はトム・クルーズとニコール・キッドマン(!)だし、・・・しかしいただけない。ストーリーつまらなすぎ。
寝た。(しかも目を開けて寝ていたらしい。)寝ている間におもしろいことがまきおこっていたのかもしれんが、んなこと知ったこっちゃない。とにかく眠い、それだけ。
当然★。
albino(★★★★)(1999年8月23日)
ohh-t@lilac.plala.or.jp
日本語にすると、「見てはならないもの」といったところだろうか。
トム・クルーズ扮するビルは、「見てはならない」仮面パーティへと足を踏み入れてしまう。
仮面(ペルソナ)というのは、もう一つの自分の人格を顕すという。
なるほど、パーティには様々な仮面が登場する。
ある者は動物、またある者はキュービズムを彷彿とさせる仮面。
仮面を被ることによって今の自分という存在を埋没させ、もう一つの自分を浮かび上がらせるのだろう。
Q監督が言いたかった「見てはならないもの」というのは、もう一つの自分に他ならないと思う。ニコル・キッドマンの「浮気」についても然り、だろう。
・・・いや、違う。この映画で一番「見てはならないもの」は、トム・クルーズの白衣姿だ。これほど白衣の似合わない男がいるだろうか?
あげは(1999年8月23日)
初めまして。
最近、このページを知って、たまに読みに来ています。
書き込みをするのは苦手なのですが、それなのになぜこの採点簿に記入する気になったか、というと‥‥どうやら私もピンぼけの映画館で見てしまったみたいなんです。
名前は忘れましたが、新宿のコマ劇場近くの映画館でした。
ほんとうに、とても残念です。
感想は、うまくまとめられず、雑感になってしまいました。
読みにくくて申し訳ありません。
●私は、どちらかというと、語りの多い映画だと思いました。
特に、終わりの方でぺらぺらとしゃべる大物のおじさん。
あの話を聞いたら、謎めいた出来事がぐっと身近に感じられ(おじさんが媒介手段として目の前にいるのですから、どんなにあがいても真相にせまれない‥‥というものではなくなったわけです)、ピアノ奏者はシアトルで平和に生きていて、女の人は単なる麻薬中毒で死んだんだ、という方を信じてしまいます。
●実はシュニッツラーの小説を読んでいたので、イベントはある程度わかっていました。だからあまり「この映画イカレてる」とは思わなかったんですけど、でも、乱交パーティのシーンを見てもショックを受けなかった自分に驚きました。映像のせいなのか、今の時代において、そのパーティの性質自体が人を惹きつける力を失ってしまったからなのか、それはわかりません。
●それから、「F」のことばって、あんなに頻繁に口に出すものなんでしょうか。セックスの意味でかなり気軽に使っているような感じを受けたのですが、夫婦だから大丈夫なのでしょうか。
最後の一言だけにとっておいて欲しかったなー、とも思いました。
●なお、題名の意味ですが、朝日新聞には「目を開けたまま閉じる」という訳が載っていました。
採点は、星3つです。
パンちゃん(★★★★★)(1999年8月13日)
前回見たのは焦点が合っていないとんでもない映画館だったが、今回はきちんとした映像を見ることができた。その結果、採点が、まったく逆になった。
*
この映画のテーマはセックスをめぐる妄想といってしまえばそれまでだが、その妄想というか、心の状態の変化をキューブリックは色調であらわしている。(俳優の演技などに頼らずに表現している。)
心には様々な思いが交錯し、その色合い(色調)は微妙に違う。その違い、心の状態の変化を色調で表現するという「文体」を試み、それを貫いているのがこの映画だ。
たとえばトムクルーズが外から帰って来る。部屋へ入るとき、ドアのすきまから廊下が見える。その色合いと家(家庭)のなかの色調が違う。家庭の方があたたかい色調だ。(扉の、外というか、廊下に向いた面の扉の色が青であるのに対し、家の内部の寒色を避けた配色の美しさ)同じ家の中でも、居間の感じ、キッチンの感じ、寝室の感じが、色調によって表現されている。寝室でのニコール・キッドマンの内側から輝くような色の美しさ。それはそのまま、トム・クルーズとニコール・キッドマンのあたたかな心の状態をあらわす。言い争いをするときは、その背後に青い冷たい色が存在し、あたたかな色とのくっきりとした対比を浮かび上がらせる。
トム・クルーズが娼婦の部屋にいるとき、帰りを待つニコール・キッドマンのいる部屋の、ブラウン管からこぼれたような青ざめた冷たい色。
トム・クルーズから、一夜のアバンチュールを聞かされたあとのニコール・キッドマンの冷たい朝の光そのままの青白い肌。
そうした細部に、色調の文体が徹底されている。
*
トム・クルーズの移動にともなって、画面の色調はくっきりと変わる。
前の感想ではトム・クルーズのことをけなしまくったが、こうした色調の変化を見せるためには、トム・クルーズのような表情のない顔の方が向いているかもしれない。
キューブリックは、映像の色調の変化による映画を試みているのであって、その変化よりも表情の演技(実感)の方へ観客の目が向いてしまっては、たぶん映画にならないと感じたのだろう。
それにしても素晴らしい。病院の内部(仕事場)の機械的で冷たい蛍光灯の光と家での白熱灯の赤い輝き。夜の街と昼の街の湿りけと乾燥の対比。街中と邸宅のある郊外の道の空気の違い。それらは違って当たり前のものだが、普通の映画では単一の色調で撮られる。仕事場も家庭も同じ空気が存在するように撮られ、夜の街は単に日光が消え照明がついただけのように撮られる。ところがキューブリックのこの映画では、夜の街では夜のいかがわしさと悲しみがそのまま色として定着している。昼の街は無機質に存在している。
パーティーでも最初のパーティーと仮面のパーティーでは完全に違う。(違いがありすぎて、こんなところで色調の変化と心理の変化の重ね合わせをしている、心理の変化を色調の変化で表現しているとは気づかなかった。)初めのパーティーには、反乱する光とともに猥雑な生気がいりまじった匂いのある色調なのに対し、仮面パーティーは猥褻なことがおこなわれているにもかかわらず、逆に猥雑さを超えて凄惨な感じのする光と色との対比がある。女の肌をとってみても、最初のパーティーではニコール・キッドマンの背中に代表されるようにつややかであたたかい。そこに影はなく、内からあふれる血潮が肉に立体感を与える。仮面パーティーでは、その肌は死体のように白く、青ざめ、陰りを帯びている。影が肉体の立体感を作っている。
*
数え上げればきりがないが、特に驚いたのが、娼婦と友達のアパートの色調の変化である。
最初に訪れたとき、その部屋の色調は少し緩めであたたかい感じがする。なんとなく匂いが存在する。2度目、娼婦の友達がいるときの部屋はピンと張り詰めた冷たい感じがする。気を許すことが出来ないような感じがする。
そして、このときのトム・クルーズの変化がとてもおもしろい。娼婦と会ったときの少し緩めであたたかい感じの色調の時は、こころが微妙に動く。少しずつ気兼ねをするように動く。ところが、色調が冷たいときは大胆に動く。平気で女のシャツを脱がせようとし、椅子に腰掛けるにも大股を開いて座る。この友達も娼婦に過ぎないのだろう、といった感じで、態度にもそれがあらわれる。
これは同時にトム・クルーズの演じている人間がとても「家庭的」な人間であることを証明している。これがあるから、全体としてのトム・クルーズの態度も理解できる。
確かに人間は、相手に親密さを感じたらその人に対して乱暴には振る舞えない。
あ、余分なことを書いてしまったかな?
*
キューブリックを称賛して、スピルバーグは「キーブリックは誰も真似しなかったが、みんながキューブリックの真似をした」と言った。
キューブリックは常に新しい「文体」を模索しつづけた。
この映画では色調による心理描写という「文体」を試みた。それは確かに誰も試みなかった「文体」だと思う。
そうした誰も試みない「文体」に挑む監督が亡くなったのだと思うと、あらためて悲しくなる。
新しい「文体」の作品に出会ったときが、やはり一番楽しい。一番興奮する。
養老龍雄(1999年8月9日)
yourou@hi-ho.ne.jp
http://www.hi-ho.ne.jp/yourou/
この作品に関してキューブリックは「性的妄想と現実を同等に扱いたかった」といった意味のことを述べていました。映画を見て思ったのですが、キューブリックの意図は結局は「人間の性欲はどう解釈すべきか」という問いに換言できると私は考えます。かつてアリスが若い将校に良い感じを抱いたことに対して、ビルは「嫉妬」するわけですが、「嫉妬」はアリスが夫以外の男に欲情することは「起こり得る」、という思いがあるからこそ生まれるものです。そんなことあるはずがないと「本当に」思っていれば嫉妬という感情は決して生まれません。このことはアリスが「浮気っぽい」ということを意味するでしょうか。無論そうではありません。「嫉妬」は愛とか理性とか意志を超えた存在としての「性欲」を私たちに突き付けます。ビルはアリスの発言に妬く一方で、自分もアリスの追及するパーティーで会った知り合いのモデルや女性患者への性的欲望を否定することができない(必死に弁解してはいたが)。この問題はフロイトを筆頭に多くの人々が研究してきたことからも分かるように非常に深いものです。その「深さ」(=キューブリックの問題意識の高さ)は仮面乱交パーティーというある意味ほとんど神秘主義に近い幻想的映像を提示することで体現されます。映画ではパーティーはビルの体験した現実として描かれますが、人間の性欲のメタファーだという解釈もできるでしょう。それほどにこのシーンの緊迫感・超越性はすさまじいものがある。最後にラストシーンの解釈ですが、これはキューブリックの上質のジョークではないかと。性的な問題というのはこんな感じでいろいろと難くて、私も何とか映画にしてはみたんだけど、やはり答えは簡単には出そうもないし、まあとにかく我々はヤッておけと。傑作です。★★★★★。
jean(★★★★★)(1999年8月8日)
jean@pop21.odn.ne.jp
うーん、見応えがありました。すごくリッチでぜいたく(かつスリリング)な時間を過ごせました。
Tamakiさんと同じく、「映画を見た!」という感じ。
冒頭のパーティの場面からいきなり引き込まれました。
スクリーン特有の(テレビ画面とは違う)ザラついた感じが、この映画では特に際立っているようで、それが何とも言えず味わい深かった。部屋の明かりの光り方も独特で、さらに味わいが豊かに。なんだかもう、すっかり夢見心地でした。
キッドマンと見知らぬ男とのやりとりも、目が離せず。
画面から、二人の息づかいや体温まで伝わってきそうでした。
このあと、夢見心地は優雅なタッチを失わないまま、悪夢へと・・・。
すごいと思ったのは、主人公の夫婦が、それぞれ別の相手とのセックスを思い描いたり、誘惑に応じかけたりしながら、結局一線を超えずに踏みとどまったこと。
そしてそれが、ほとんど何の慰めにもなっていない。(かすかな救いにはなっているようだけど)
これは衝撃的でした。しかし、衝撃はそれだけにとどまらず・・・。
頭がクラクラしそうだったのは、貸衣裳屋の父娘の場面でした。
最初の(秘密のパーティへ行く前の)登場場面は、別に何とも思わなかった。
父が不良娘を叱っているな、ぐらいにしか。
でも一夜が明けて、衣装を返しに行ったビルが「警察を呼ばなかったのか?」と聞いた時、急に背筋が寒くなりました。
そのビルの問いに父娘が何と答えたか、はっきりとは覚えてないけど、かわりに強烈ないかがわしさを感じたのを覚えています。
この父娘って一体…?はっきりと語られないだけに、いっそう不気味でした。
私の頭の中では、この二人のイメージが急にふくらんで、映画の本筋を離れて、別の物語になっていきそうでした。さらにすごいのは、こんなに印象的な場面なのに、ほとんど何の強調もされずに淡々と過ぎてしまった・・・これも衝撃的でした。
思えば、この映画は語られないことが多すぎます。
あのピアノ弾きの男は無事だと、ビクターは言ったけど、そんなはずはない。
ビルをかばった女は、最初に出てきたジャンキーの女だったということらしいけど、それも何だか謎めいている。
あのうさんくさい貸衣裳屋の父娘。そしてラストのアリスの一言。
もう、すべてが夢の中のできごとのようで、それでいて生々しさが消えない。
こういう気持ちにさせてくれた映画は、やっぱり初めてです。
キューブリックか、、、巨匠だとは聞いていたけど、その巨匠の技にちょっとふれて、それだけでもうノックアウトされた感じ。
うっかり見逃していた他の作品もチェックしよう。
なんか人生が変わってしまうかもしれない・・・そんな予感さえ感じています。
というわけで、巨匠の技を見た衝撃に星5つ。
Tamaki(1999年8月5日)
パンちゃん、こんにちは。Tamakiです。
メールをありがとうございました。
パンちゃんの追加した感想も読みました。
それを読んで、またまた私が考えた感想の追加です。

パンちゃんの言っている、キューブリックが描きたかったのは 『今いる場所が、「今」「ここ」ではなくなる苦悩』だったとしたら、 この映画はちょっと違った方向へ行っているのかな?と。
私にはまずトム・クルーズが終始一貫、オバカな妄想男に見えました。 (あのハンサムぶりがオバカに拍車をかけているという感じ。)親しい 人に思いもよらないことを突然言われて、妄想がひた走る。ちょっとこ れは『苦悩』とはほど遠いかな?「ねえねえ、あなたの妻は別にあなた にこういう事を考えてほしくて、あなたに将校との空想話をしたわけじ ゃあないんじゃないの?」とトム・クルーズにツッコミたくなるくらい。 この男、ちっとも妻の送ったSOSのサインの意味がわかっていないと。 で、まあ最後までよくわからなかったんじゃないかしら。
そういうお話だったら、主人公にはやっぱりトム・クルーズのペラっと ツルっとした感じがピッタリかな〜、と思いました。だとすると「これ はトムクルーズバージョン」というパンちゃんの言っていることがとて も理解できるのだけど。
ニコールの送ったSOSは、パンちゃんの言うところの『夫婦が「今」 「ここ」を共有していない。その不安定な関係を解消し、同じ「今」 「ここ」を取り戻したい』というサインだというのは、パンちゃんの感 想を読んでからわかりました。トムは、妻が送ったメッセージを、“何 故”妻がそれを送ったのかを考えず、言った言葉だけを聞いて、「すっ ごいビックリ、そんなこと考えてたの?」とちょっと絵を想像したら止 まらなくなって、訳が分からなくなって、妄想が妄想を呼んで、普段と 違うことを少々してみた、と。これって規模は小さくても日常によくあ る話ですよね?
でも妻が、9年間も疑問を持たずに結婚生活を送ってきた夫にSOSを 送ったところで、やっぱり彼は最後まで「違いのわからない男」だった としたら。(違いとは肉体の「今」「ここ」とこころの「今」「ここ」 の違いですか。)そういう役ってトム・クルーズにピッタリ。
そしてニコールの涙は、自分の夫が「やっぱり違いのわからない男」だ とわかり情けなくて流した涙だとしたら・・・。っとここまでいくとコ メディになってしまいますか。
ふと思ったのですが、トムの演じた内科医役のような人って私の周りに 多いです。そのうちの1人は本当に内科医だったりします。なんという か「仕事はできてふつうに優しいけど、でもツルっとした人」というの でしょうか。根本のところが、無気力・無感動・無感情みたいな・・・。 そういう人って最近多いから、このテのタイプの男性を描くのがこの映 画の目的の1つだったとしたら(そんなことあるわけないでしょうが)、 極めて現代的な話だなあ、とも思いました。
娘の算数の宿題を見てあげているニコールを見て、「あれれ?これは?」 って思う瞬間だってあったんだから、トムくんもう少しそこからヒント を得て妻の苦悩について考えてみればよかったのにね、と思いました。 って、ここまで考えさせるっていうのは、私としては「やっぱりこの映 画は面白い」っていう結論になってしまうようです。
Tamaki(★★★★★)(8月4日)
tamaki3@mta.biglobe.ne.jp
すごく面白かったです。うっひゃあ、映画を見ちゃった!って感じでした。こういう映画って他に見たことがないなーってぼんやり思っていたら、一緒に行った友達も「この映画って○○風とか△△風とかって表現できない他に類を見ない作品だね」と言っていました。
音楽もすごく良くて、映像の勢いをさらに倍にして伝える役割を果たしているというか、恐怖心を駆り立てるところなんかは、音楽がすごく上手く使われていました。
トム・クルーズが妄想に掻き立てられて、自分の身に起こった事を悪く悪く考えていく姿は興味深かったです。1つ嫌な事が起こると、またかまたかと次々起こる事にも過敏に反応してしまう、普段だったらそこまで悪いほうへは考えないのに。こういう経験あるよねえ、って女2人で帰り道に話しました。
「でも普通あんなに夫に意地悪なこと言うか?」「んー、だからロンドンじゃなくてアメリカが舞台なのかな」「そうねえ、アメリカ人だったらああいう言いにくいことも夫に言いそう」「でも最後にニコールが何故泣いたのかはわからなかったね」「そうだよね、何がそんなにショックだったんだろう」「でもさあ9年目の結婚に倦怠感を感じている女の人だったら・・・」と更に映画について会話は弾む私たち。見た映画についてこんなに感想をお互いに話し込むなんて何年ぶりだろう。
別の帰国子女の友人に『アイズ・ワイド・シャット』ってどういう意味?って聞いたら、「見て見ぬふりってところじゃない」との回答が。それで合っているのかな?他に解釈の仕方をご存知の方がいたら教えてください。私はこの耳に心地良いタイトルがとても好きなのです。
パンちゃん(1999年8月4日)(これはTamakiさんの採点についての感想メールとして書き始めた文章なのですが、書いているうちにメールという感じではなくなってしまったので、ここに掲載します。)
Tamakiさん、こんばんは。パンちゃんです。
『アイズ・ワイド・シャット』の採点、ありがとうございました。
うーん、トム・クルーズは妄想にかきたてられているように見えましたか。
見えたなら、いい映画でしょうねえ。
私には見えなかったんですねえ、これが。
苦悩と憎悪と愛情と、それに好奇心もあるかな、そうした人間の心の迷路がそのまま街の迷路と重なって、今いる場所が、「今」「ここ」ではなくなる、という感じが、トム・クルーズからは伝わってこない。したがって、街も「今」「ここ」が「今」「ここ」のまま……。
キューブリックの描きたかったのは、その苦悩のはずなのに、(それを描きたかったのだと思う)、それがトム・クルーズではつたわってこない。
ニコール・キッドマンが泣くのは、やはり彼女自身が「今」「ここ」が「今」「ここ」ではないという感じを深くしたからではないかな。
「今」「ここ」が「今」「ここ」ではなくなる、というのは、自分が不安定で自分自身でなくなったような感じを引き起こす。
子供がいて、子供へのプレゼントをデパート(?)で買う、というきわめて日常的な状況なのに、「今」「ここ」とうい状況と自分がつながらない。パートナーの夫も「今」「ここ」にはいない。そばにいるけれども、ニコール・キッドマンと同じ「今」「ここ」を共有していない。
その不安定な関係を解消し、同じ「今」「ここ」を取り戻す、同じ時間と空間を生きているという感覚を取り戻すために、性交をしたいと言う。
そのときの彼女の肉体と表情は、その切実さをきちんと表現しているが、やはりトム・クルーズは、そうした感覚を具体化していないと思う。
トム・クルーズは役者の肉体というもの、ことばにはならないあいまいな感情の集合体というものを理解していないと思う。
キューブリックは完璧な映像をめざすと同時に、なぜか役者の肉体そのものに引きずられて映画を撮る監督だとも思う。
たとえばこの映画では、ニコール・キッドマンのヒップの美しさ、そしてその上の背中の美しさ(それはいつでも隠されたヒップを想像させる)、そうしたものを背後に持つ顔の陰影にひどく衝撃を受け、それを延々と撮り続ける。それが最初の方のパーティーのダンスシーンだ。もっと短くてもいいシーンだろうけれど、ニコール・キッドマンに引きずられて、延々と撮ってしまう。
ホテルのオカマのシーンもそうだと思う。あそこでホテルマンがオカマである必要はない。ところが、そのオカマがとても肉体的なので、その肉体すべてを映像にしてしまいたい気持ちになったのだろう。それをやはり不要な長さで撮っている。
肉体というのは、常に「今」「ここ」にある。(こころは、「今」「ここ」にないときがある。)
「今」「ここ」にあるものをきちんと描けば、そこには「永遠」が生まれる。忘れられない瞬間となる。
そして、その「今」「ここ」にある肉体と、「今」「ここ」にないこころとを同時に描けば、その苦悩と存在の不思議さは、人間そのものになる……。
私が今度のキューブリックの映画から感じたのはそうしたことだけれど、
トム・クルーズがだめにしている。
ニコール・キッドマンが完璧なのに、その完璧さをずたずたにしてしまっている。
ニコール・キッドマンの背中から始まるシーンや、オカマのシーンのように、思わず引き込まれて撮ってしまったというトム・クルーズのシーンがないでしょ?
キューブリックに限らないけれど、監督というのは役者に引きずり込まれたときに完璧になる。あるいは信じられないくらいの充実した映像になる。
役者に引きずり込まれるというのは、監督からすれば一種の破綻なのだけれど、その破綻、統制力のほころびから美が生まれる。(美は乱調にあり、といったのは三島由紀夫だけれど、これは本当だねえ。)
そうした破綻、破綻の美、美の陶酔をトム・クルーズは引き起こしていない。
そうしたシーンがあれば、この映画は★5個なのになあ。
それがないから★4個になるのではなく、私の評価では★1個になってしまう。★5個の映画であるべきものが、ある一つのものを欠いているために、映画になれずにいる。それがこの映画だ。
これと同じようなことは『シン・レッド・ライン』でも感じた。あの映画ではガダルカナルの熱帯の空気が映像化されていなかったので単なる「文学趣味」の映画になった。
『アイズ・ワイド・シャット』もトム・クルーズが肉体として存在していないために、単なる「心理」的というかセックスカウンセラー的というか、お説教くさい映画になってしまった。
ああ、悔しい。キューブリック大好きな私としては、本当に悔しい。
パンちゃん(★)(1999年8月3日)
私の見た映画館は非常に映写技術が悪く、予告編で見たシーンなどあまりに色調が違いすぎていたので、映写技術のしっかりした映画館で見れば、たぶん、もう少しいい採点になると思う。
しかし……。
これは本当にキューブリックが「完成」と認めた映画なのだろうか。
唯一面白いのは前半のニコール・キッドマンと見知らぬ男の出会いとダンスのシーンだけ。
ニコール・キッドマンの背中とシャンパングラス、見知らぬ男のワンショットの映像は、完璧。どこかで見たような感じを呼び起こす、緊張感と魅惑に満ちている。
たぶん、このデジャビュの感じ(いつかどこかで見たことがあるという印象)がこの映画の鍵である。
どこかで見たような感じ、でもそれは本当に見たのか、単なる意識のいたずらなのか、あるいは絶対的な予感なのか……。
そのなかで人間の精神は揺れ動く。今経験していることの意味が揺れ動く。
たとえばニコール・キッドマンが若い日の一瞬の思い出を語る。将校と浮気したかもしれないという思い出を語る。
その瞬間、トム・クルーズにはその光景がまざまざと見える。それは本当に見えたものなのか。それともトム・クルーズの欲望なのか。見知らぬ男の体の下で官能に震える妻の姿、それは本当はトム・クルーズの欲望の反映ではないのか。
(また、ニコール・キッドマンは本当に浮気心を起こしたのか。単に夫を刺戟するために、一種の嘘をついたのか……。本当に浮気心を起こしたとして、そのときニコール・キッドマンはトム・クルーズの見た官能的なシーンを思い描いたか……。)
すべてがわからない。目を見開いて見たものか、目を閉ざして見たものか。どちらであるにしろ、非常に完璧に作り上げられ、心の奥にしっかりと焼きついてしまう様々なシーン。
その代表としてのニコール・キッドマンとシャンパングラスと見知らぬ男のシーン。
本当にどきどきしますねえ。
しかし、そのどきどきをトム・クルーズが台無しにする。
トム・クルーズは一説に字が読めないという。その欠点が映像にくっきりと出てしまった。
あらゆる体験(見たもの、見たと思ったもの)はことばとなって心の奥深くで交錯し、様々な陰影を浮かび上がらせ、その陰影のために、今、目の前にあるものさえもが違った形に見えることがある。あるときはまがいものとして、あるときは本能の理想として。
ところがトム・クルーズが出てくると、そうした揺れ動きが消えてしまう。美形かもしれないが、あの深みのない顔が、あらゆる出来事を単なるストーリーにかえてしまう。これは経験をことばにして蓄積し、反芻する能力が決定的に欠けるからである。字が読めないから、経験をことばとして定着することができないし、経験から未来を推測することもできない。
ニコール・キッドマンの完璧な美としての背中、飲みかけのシャンパングラスの吸引力、男のまなざしは「事件」である。未解決の事件である。そこからすべてがはじまり、同時にすべてがはじまらない、ということもできる。
ところがトム・クルーズが出てくると、彼がさまよう街は彼を誘い込む迷路という事件ではなく、単なるストーリーの書き割りになる。彼が出会う秘密のセックスパーティーも、どんなデジャビュの感じも引き起こさない、単なる誰もが知っているようないかがわしいパーティーになる。彼の表情、身体の動きは、現実を反芻し、心の奥にため込むということができない。そうした精神の働きをする人間の持っている「謎」を決定的に欠いている。(ニコール・キッドマンには、それがある。)
本当にこれはキューブリックの作品なのか。キューブリックが公開を許した作品なのか。
ウワサによるとこの作品の出演者はどんどんかわったらしい。キューブリックの思い描くようなシーンが撮れなかったためであろう。
そのキューブリックは、それでトム・クルーズに満足したのか。違うと思う。
この映画は最初、キューブリックとニコール・キッドマンとトム・クルーズだけが見たという。
もしそれが本当なら、それはキューブリックがこの映画をニコール・キッドマンとトム・クルーズのプライベートフィルムとして限定したということかもしれない。
公開には耐えない、主演のふたりの内輪で見る映画としてなら許されると考えたのかもしれない。
もう一度、全編を撮り直したと考えたのかもしれない。
「理」に落ちたラストも、とてもキューブリックの作品とは思えない。
先に書いたニコール・キッドマンとシャンパングラス、男の視線から始まる逸脱と、トム・クルーズが事件を追って行く過程で出てくるホテルのフロントのオカマの逸脱に、かろうじてキューブリックらしさを感じるけれど。
タカキ(★★★★★)(1999年8月1日)
TakakiMu@ma2.justnet.ne.jp
http://www2.justnet.ne.jp/~takakimu/WELCOME.htm
すごいオチだなあ・・・。
そういえば、キューブリックの映画って、全部、オチがすごい。『現金に体を張れ』での、二人がじわりじわりと歩いてくるあのラスト(最高!)、『2001年宇宙の旅』での、宇宙を飛翔する赤ん坊(活字にすると何と滑稽な・・)、『シャイニング』での、凍死したジャック・ニコルソンの顔のアップ(わざわざアップで映さなくても・・)、等々・・・・。
キューブリックの作品は、何故素晴らしいのか。それは単純に「面白いから」に他ならない。カッコつけすぎたり、考えすぎたり、映像に凝りすぎたり、金をかけすぎたりするあまり、面白くすることをすっかり忘れてしまっている映画が氾濫している中で、彼は映画のおもしろさを追求することを決して忘れていない。子供にもわかりやすい内容でありながら、なおかつ、程良く知的好奇心を刺激してくれる。そんな映画って、あまりない。
自己という名の安定。キューブリックは自分の才能や映画に対する情熱を一度も疑ったことがないのだろう。まさに映画を撮るために生まれてきたようなものだ。
『アイズ・ワイド・シャット』(このタイトルも素晴らしい・・)も、R指定ではあるものの、決して過激なものではないし、難解なものでもない。
まだ観ていない方のためにも詳しい内容は書きませんが、第一級のエンターテイメントであるという以外の何物でもないこの映画に映った、極めてキューブリック的なニューヨークの風景は、彼が私たち映画ファンに贈ってくれた最高のプレゼントだと思います。