あの子を探して
監督 チャン・イーモー 出演 ウェイ・ミンジ、チャン・ホエクー
とみい(2001年8月19日)
まいった。
「初恋のきた道」はいい映画と認めつつ涙腺をかけらも刺激されなかった私ですが、少女がTVカメラの前に立ったとき、頬を伝うものは何?って感じになってしまいました。
中国の、また中国人の抱える現実の厳しさとそのなかの飾らない温かさが胸に染み入る。
言葉でも、映像だけでもあらわせないここには映画でしか不可能な表現があります。
★★★★★。
もう一つ、この映画から学べること。レンガを運んで旅費を稼ごうとするところで、ありがた迷惑なことをやってることを棚に挙げて「金もらえた」という結果だけをもとに子供たちが方法論を議論するところに、中国人の皮膚感覚が現われてる。
いい悪いではなく、「中国人の感覚ってそうゆうふうに結果をスタートに考えるもんである」という認識をもたないと、日本はまた外交で失敗するんと違うかな。
灘かもめ(2000年12月2日)
http://www.d1.dion.ne.jp/~seagull/
子役達に泣かされました。子役、と言っても登場人物みんなコドモなんだからあたりまえですが。
すんごくぐっときたところは、ラストももちろんだけれど、始めのあたりでクラス委員っぽいしっかりした女の子が、クラスのいたずらっ子に大事な日記を読まれちゃうところ。
子供なり、彼女なりの自尊心が傷つけられて、大粒の涙が流れる。子供って、大人のようにたくさんの言葉を知らないから、自分の本当の気持ちを言葉で飾って語ることが出来ない。
主人公のミンジも、TVカメラの前では大人の段取りにあわせたしゃべりが出来ない。とがってごつごつした、生の本音の言葉しか出てこない。
ミンジは、自分の給金のためにホエクー少年を探しに出たのに、だんだん自分がどうしてこんなに必死になっているのかわからなくなっているみたいだ。
ミンジは、ほとんどお金のことしかしゃべらない。でも、必死になっているのはお金のためだけではない。それが何かはわからない。
TVのキャスターにいろいろ質問されても、何も答えられない。自分がどうして必死にホエクーを探しているのか、ここに来るまでの間にいろんなことがありすぎて、混乱するばかり。
最後に「ホエクーが見ているかも知れないから、彼に話し掛けて」と言われ、初めて「心配でたまらない。早く帰ってきて」と言葉が出る。
たぶん、その瞬間まで、自分がホエクーを心配していることの自覚はなかったのではないかなぁ。
この時の彼女の涙と、前述の女の子の涙がだぶって見える。
この涙を境に、ミンジの表情は全然明るくなるんだな〜。
ラストの、黒板にひとりひとり字を書くところでまたじわじわと来てしまった。
ホエクーが「3文字書いてもいい?」とミンジの名前を書くところでもうダメ〜〜〜(ToT)。
繊細でたくましい子供たち、みんな輝いてるんだね。
狗東西(2000年10月23日)
http://www.asahi-net.or.jp/~ri4s-armz/
★★★★☆
これは本当に子供の映画。主人公は、絶対貧困地区の農村へ、(おそらくは)別の絶対貧困地区の農村から代用教員(!)としてやってきた13歳の少女。
社会の発展から完全に取り残された農村、そこは、おそらくはもっとも素朴な心というものが残っているであろう場所。そこに、少女とその「教え子」たちという、純粋な心を持った子供たちの物語が展開される。
映画の中でのその少女の行動は、やることなすこと本当に危なっかしい。自分の思ったことをかたくなに、どんな大人にも相談せずにやるから、全くうまくいかない。本当に見てはいられない。
それでも、打算のない純粋な思いこみからの行動は、なぜか次の道、次の道を切り開いてしまっている。
その純粋さが、社会的身分がありながらも、純粋な心を完全にはなくしていなかった大人(なのであろう)に伝わる。かたくなで気丈な少女が涙を流し、それが笑顔に変わる。最後の最後に、やっとうまくいった!
「純粋な心」「子供」「行動すること」。キーワードを並べると、ほとんど陽明学の世界。私の好きな富野由悠季監督の世界とも重なる。感動を呼ぶものは常に、混じりけのない美しさ。
パンちゃん(★★★★★)(2000年10月19日)
3か月ぶりに見て、前より、もっともっと泣いてしまった。
あの学校のおんぼろな感じ、でこぼこの、狭い運動場、着古した子供たちの服……すべてが昔を思い出させる。
それにしても、貧しさのなかでも失われぬ一直線な感情の、そのまっすぐさをそのまま伝える子供の顔の何という美しさ。
それとも貧しいからこそ、真剣で、一直線になるしかないのかなあ。
*
(飛び飛びの感想になるけれど……)
『シビリアの理髪師』を見た時、ロシアの大地の広さと人間の感情のことを思ったけれど、今回も中国の大地と人間の感情のことを思った。
子供たちのまわりに広がる山と空と大地。子供たちがどれだけ集まっても(と、いってもそこは過疎地で子供の数は少ないのだけれど)、その人の塊を存在しないかのように思わせてしまう広がり。
ここでは「人事」というものは育たない。それぞれのまっすぐな感情があるだけだ。
感情がぶつかっても、そのぶつかりがあるだけで、それを回避して人間関係を滑らかにしようというような配慮が入る余地がない。人間の感情など、ぶつけさせあえばいい、というような寛容さがある。この感覚が私は好き。
「人事」がないから、感情がぶつかりあっても、感情がひねくれることがない。そこが好き。
*
これは、田舎の「道」に似ているかなあ。
田舎の道は、地形によって曲がってはいるけれども、結局まっすぐ。
主人公の少女が街へ行った時にたどったように、ただ一本、まっすぐ脇にそれずに続いている。
人と人とがすれ違い、そのすれ違いをうまく処理するために幾つもの通りができた街とは違う。
ただまっすぐに歩くだけ。まっすぐに歩けば、行きたいところにたどりつく。
少女は、そうやって、探していた少年を見つけ出す。
彼女の歩みをあれこれゆがめたのは、「街」の「人事」。
でも、それを断ち切って少女の純情はまっすぐに歩き続ける。
そのまっすぐな純情が、少年にぶつかって、涙がこぼれる。それは愛とか憎しみとかいうような「観念的」な涙ではなく、ただ感情がぶつかることで生まれる涙だ。
これはいいなあ。本当にいいなあ。
*
好きなシーンは、他にも色々ある。
少女が、筆と紙を買って、「尋ね人」のビラを必死で書くシーン。
そのビラが、夜の風に吹き散らされ、街路を掃除する人によって、無残に集められていくシーン。
客が食べ残したラーメン(?)を、周りの視線を気にしながら立って食べるシーン。
愛情あふれるシーンも、残酷なシーンも、そこにまっすぐな感情が存在するから、悲しいけれど、哀れではない。
そこがいい。
猫(2000年8月11日)
http://www.d1.dion.ne.jp/~goronyan
★★★★
いろいろ考えてしまった・・・13才の中学も出ていない子が、代用教員として村にやってくる。
こんな子供しか代用教員のなりてがいない、 こんな子供が お金を稼がなければいけない、働かなければいけないという現実。
みていると随分いいかげんな教員なのだ(^_^;) 黒板いっぱいに字を連ね、「これを うつして」といったきり外に出てしまう・笑
あいまいに話をうやむやにしようとする 大人の村長さんと違って、 カオ先生に言われたとおりのことを キチンとやる・・まだ子供の先生。
子供ゆえに生徒に逆らわれ、子供ゆえに策略なしでケンカする・・・
彼女は1ヶ月学校を守り 給金を手にしなければいけない。
彼女が働きにきた理由は何も示されないけれど・・・
「もうこれ以上一人も学校を辞めさせてはいけない」というカオ先生の言葉どおり 彼女は頑張る。
最初私は カオ先生が「一人も辞めなければ・・余分に・・・・・」という お金がらみの約束のもとに彼女は必死になっていると思っていた。
けれど この感想を書いていてボーナス?も最初の目的であったろうけれど、何より ”カオ先生の言い付けを守る事”が 彼女の支えだったんだな・・・と気が付いた。
13歳で たった2つ年下の生徒を 「私は先生なのよ」と仕切らなければいけないプレッシャー。 ならばカオ先生のいった通りにやること・そうすれば自分=カオ先生とみてもらえる。
あれれ?へんだな・・・今になってこの映画がわかってきた・・・
出稼ぎに出た子を探しに行く為に お金を得ようとする。
最初はいとも簡単に、教室のみんなから集めようとする・・そしてそれがムチャだとわかり みんなで考える・・
本当の教育とはこういうものなんだろうな・・・必要は発明の母(父でしたっけ?)である。と言ったのは誰だったけ?
教室の子供たちも みんな素直だ・・観ていて、とても清清しい。
モノがなくたって、お金がなくたって 知恵がある。
町で働く子達も 一生懸命だ。「生」を感じる・・
感想を書こうとして 作品を振り返らなければ気が付かなかったことが いっぱいでてきた。
とりあえず オススメマークをつけることにしよう。
リピートしたら 1回目より泣いてしまうかもしれないなぁ・・・・・子供たちがいとおしくなって・・・・
パンちゃん(★★★★★)(2000年7月23日)
色付きのチョーク、覚えていますか?
最後のシーンで、子供たちがそれぞれ色付きのチョークを持って黒板に好きな文字を1字ずつ書く。
その瞬間、涙があふれる。とまらない。
何色で何を書きたい?
子供たちはそれを自分で探す。
文字を書くことの喜び、それは自分の思いを自分で書くことができる喜びである。
ああ、こんなふうに書いてしまうと何かが違ってしまう。
子供の真剣さがきらきら輝いている。子供の「我」がぶつかりあい、手さぐりで何かを求め、求めていたもの以上のものが、ぱっと花開く。
その瞬間の輝きがまぶしく、懐かしく、美しい。