英雄の条件


監督 ウィリアム・フリードキン 出演 サミュエル・L・ジャクソン、トミー・リー・ジョーンズ、ガイ・ピアース

(2000年8月15日)
http://www.d1.dion.ne.jp/~goronyan
原題は 「Rules of Engagement」 
どうしてもこの「英雄の条件」という邦題に違和感を持ってしまう。 この題名では ”英雄になるためにはどうあるべきか・・” という映画だと思っていたもの。
裁判ものとしては 少し詰めの甘い個所や、うう〜む???という個所もあったけれど、全体的にはよくできた作品だと思う。 よくできた・・というのは映画としての完成度が高いと言う意味で、この映画に同意できるか・・ということとは別問題である。
ストーリーの構成はうまい。 過去の出来事が現在にスライドし 適度な緊張感もある。
ネタばれです。
冒頭のベトナム戦争のシーンからすでに 米国に都合のいい映画だな・・と思ってしまった。
自分たちだって、さんざんベトナム兵を殺しているのに、それを忘れて 自分の国の人間だけの論理で行動している・・・・
それが戦争なんだよ・・ってこと??
この映画からは そうした戦争への反省も、ましてや反戦の気運すら感じ取れない。
ただただ、部下を守るリーダーがえらいのか?
国に忠義を尽くすものだけが 「英雄」なのか?
この映画の監督は ウイリアム・フリードキン。
20年以上前に 面白い「フレンチコネクション」や 怖かった「エクソシスト」を作った監督。
チラシの裏に ”「シンレッドライン」のテレンス・マリックに次ぐ巨匠の復活”とあるけれど、やめて欲しい。
静かに反戦を描いていた 「シンレッドライン」を引き合いに出して欲しくない。
本当に大事な事柄は、民衆が銃を持っていたかどうか ではなく どうして紛争になったのか、避けられなかったか?ではないだろうか・・?
”銃には銃を”では ベトナムのなんの反省もいかされていない。
この映画の中では 銃で応戦したことは「正しい」かもしれない・・・・確かに 策略によって有罪に陥れられることは間違っている。
けれど こういう映画は作って欲しくない。
いいたいのは ただそれだけ。 おりしも戦後55年目の夏・・・・・・・・
パンちゃん
猫さんの感想に触発されて、次のように考えました。(日記と重複しています。)
この映画はたしかにアメリカの犯罪を隠ぺいするものかもしれない。
民衆が銃で武装していたというテープを前面に押し出して映画を展開すれば、それは国際問題になるかもしれない。
それをあいまいにするために、テープはなかったことにし(廃棄されたことにし)、市民は武装していなかったという言い訳を(?)を与えておいて、その一方で政府高官の犯罪にし、軍人、軍の行動を無罪にするという、とても高等な戦略なのかもしれない。
これは単なる侵犯行為以上の複雑な行動だ。軍事大国というのは、あるときは軍人を犠牲にし、ある時は政府高官を犠牲にし、国家としての体裁を守るということか。
もし、そういうことを告発しようとした映画だったのなら、これはちょっとすごいなあ。
パンちゃん(★)(2000年8月13日)
これ何?
映画?
台詞ばっかりで、つまらない小説かと思った。
ベトナムのシーンはどこでとったのかなあ。いつものアメリカ映画のベトナムとは緑の感じが違っていたなあ、という記憶しかない。
*
まあ、なんというか、「証拠」のビデオテープの処理がちょっとおもしろかったかなあ。
もし群衆が非武装であるなら、その証拠のテープを出せばサミュエル・L・ジャクソンが確実に有罪になるのにそれを出せない。
ということは、逆に言えば、そこにはサミュエル・L・ジャクソンが無実であるという証拠が映っていることだね。
それを陪審員が理解し、またガイ・ピアースが気づく瞬間がよかった。
でも、これは映画的、というよりは所説的(言語的、論理的)な面白さだね。
私は「脅迫状」を受け取った時、あるサイトのある人が出したのではないかと疑問をもったことがあった。
そして、もし私の疑問が本当に間違いであるなら、私が書いた書き込みをちゃんとアップすれば、それがはっきりするのに……、と、その人の主催する掲示板に書いた。
でも、その人は結局、それを削除してしまった、ということがあった。
あれに似ているね。
ある人を有罪にしたい、と思いながら、その決定的証拠能力のあるものを出せない、ということは、そこには有罪の証拠はなく、逆に無罪の証拠があるからこそ、それを抹殺したいと思うんだろうねえ。
人間の思考回路を点検する、という興味深さはあったけれど、でも、映画的ではない、と思う。
*
こんなことを書くのは、私は、ある掲示板で「掲示板あらし」の常連のように書かれたことがあったから。
で、私は、いつ、どこで、どんなテーマで掲示板あらしをしたのか、具体的に指摘して下さい、と私を非難した人に質問したのだけれど、その人は答えられなかった。
そのことも実は思い出したから。
具体的な事実を、しかも相手が「有罪」であるという具体的な事実を差し出す事ができないとき、しかも「有罪」であるかもしれない人が、「有罪」の証拠を出してくれ、と言っている時にそれを差し出せないということは、その人が嘘をついている証拠だね。
嘘の見破り方という点では、いろいろ参考になったというか、私の論法の有効性を確認できたというか……。
あ、これは、ビジターのみなさんにはあまり関係ないことですが……。