HANA-BI

監督 北野武 主演 びーとたけし、岸本加世子

石橋尚平(6月6日)
shohei@m4.people.or.jp
FACE/OFF」でも思ったのですけど、この作品の前に同じ監督の他の作品を観ていて、けっこう監督を気に入っている人と、この作品が初めてな人では感想が違ってくるのではないでしょうか。どちらの作品にも共通しているのは、それまでは感覚的なズレの面白さがちょっと自己模倣に入りかけて、誰にも分かりやすく総合しようとしているところです。だから、周りがみんな絶賛する中、「ちょっと今回は・・・」というのがなかなか言いづらい。私は「ソナチネ」が大好きだし、「ブロークン・アロー」や「狼」もけっこう好きなんですけど、でも「HANA-BI」や「FACE/OFF」を初めて観ていいと思った人が遡及してそれらを観たとしても、「ちゃんと分かってくれるのかな・・・」と不安を感じちゃうんです。どの批評家もこぞって絶賛する中、淀川長治さんがたけしに直接「今回はちょっと考え過ぎたね・・・」と言っていたのには、さすがだなと思いました。89歳にして王様を裸という子供の炯眼をお持ちなんですね。淀川さんは。でも、総体的にさすがたけしと思わせるいい映画です。なかなかこんなに思うように(考え過ぎているのかもしれないけど)撮るわがままな人はいないんでは? お寺の鐘をつくシーンで、野良猫まで演技してくれてたりして・・・。 ★★★★
Colles(★)(5月20日)
colles@sam.hi-ho.ne.jp
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/colles/
映画の最初に、配給元が表示され、タイトルがでて、音楽がながれる。
映画中で使われる絵画を背景に、キャストが表示される。
その過程を、どことなく、へんに感じた。
例えば、一つ一つの絵が表示される時間が、中途半端なのである。
映画の特に前半では、音楽がしっくりしなかった。
そして言葉に、いちいち迫力がなかった。
最後のセリフなど、すこしも私は感じることができなかった。
美しい「絵」を美しいと思うことがあつても、それを物語のなかで消化することができなかった。
いちいち現実離れした出来事を説明するものを私はみつけることができなかつたので、どんなにショッキングなことがおこったとしても、それを衝撃的に感じることがなかったし、「なんでこんなに」と思ってしまうくらい、何ものこらなかった。
こんなに、何も、受け止めることができなかったのは、私がいけないのだろうか?
haruhiko(4月21日)
ishii@binah.cc.brandeis.edu
現在、アメリカの一部で北野武監督の「HANA−BI」を上映しているので、見に行きました。
僕も北野監督の映画を見るのは初めてでしたが、その力量に圧倒されました。この映画は派手な暴力の場面と、時が止まったような静かな場面の両極端を揺れ動きますが、そのどちらの演出も少しの迷いも感じられません。これだけ緊張感を保ちながら、笑いも忘れていないのは見事です。また、映像的にも音楽的にもとても美しい映画に仕上がっています。残念なことですが、日本映画で絵として美しい映画はあまり多くないように思います。
この映画が言葉を削ぎ落としている点も僕はむしろ評価します。説明過剰な映画が多い中で新鮮に感じました。安易に言葉で説明してしまうことで抜け落ちてしまうものは多いと思います。
個人的には、この映画の暴力と死の美学には少し違和感があります。最後の方に出てくる、赤い文字で自決と書かれた絵には古くさくて、危ないものを感じます。他の部分では説明を控えているだけに、ここで変に図式化しているのには抵抗を感じました。ラストもあまり僕の好みではないです。自分の運命はともかく、他人の運命まで決める権利は主人公にも無いと思うし、相手の理解を期待するのは少し虫がよすぎると思います。
とはいえ、僕が映画監督・北野武に100%同意しないにしても、それはこの作品の出来とは少しずれた問題です。北野監督は自分の表現したいことを鮮やかに表現しています。ラストについても、好みでないと書きましたが、この映画はこれ以外の終わり方はできないという強い説得力があります。何よりも映画として面白かったですし。
先週末から「ソナチネ」も始まったので、それも見に行きたいです。
パンちゃん(★★★★)(2月26日)
北野武の映画を見るのは初めてである。
暗い色彩に驚いた。墨の色が隠れている。黒、という華やかな色ではなく、墨の色。暴れまわる色をぐっと内部へ引き寄せる、不思議な力。空にも海にも桜にも。
その墨によって統一された色彩が全体を内部へ内部へと引き込んで行く。
暴力とは、本来、内部からあふれ、外部を破壊するものなのだろうが、この映画では、まったく様子が違う。突発的に荒れ狂う暴力が出現するたびに、視点は内部へ内部へと誘われて行く。
そして均衡が(何の均衡なのか、私にもよくわからないが、例えば映像の均衡、主人公の精神の均衡、愛の均衡、様々な均衡が)しだいしだいに息苦しくなる。
主人公(ビートたけし)はほとんどしゃべらないが、彼がしゃべらないのは、たぶん、そうした均衡に耐えているためなのだろう。
しかし、こんなふうに生きて、寂しくないのか、苦しくないのか、と思ったそのとき、
岸本加世子が「ありがとう」と言い、突然、映画は終わる。絶対的な破滅によって。
そして、そのとき、一つだけ墨の色によって支配されていない色があったことに気づく。血の色。赤く、暗く、乱暴な色。血には墨ではなく、黒が混じっている。華やかに自己主張する色が混じっている。ビートたけしが、同僚の刑事を撃たれたあと、犯人を射殺するシーン。撃ち抜かれた頭をごろりと横に倒すときにあふれてくる、その血の色。あるいは、借金を取り立てに来るチンピラの目を箸で突き刺すときの飛び散る血の色……。
その色の魔力的な力を知っているために、その色に対抗するために、あらゆる色に墨を混ぜて、均衡を保とうとしているかのようにも見える。
大変、強烈だった。
*
★が4つなのは、今の世相と関係がある。今、でなかったなら、5つつけたと思う。
色彩の強烈な「劇」には大変驚いたが、私は、ことばの「劇」には不満を持っている。
主人公はほとんど語らない。彼の内部で何が起きているのか語らない。語らなくてもわかるが、わかっても語る必要があると思う。
主人公は、まるで今の中学生のように「キレる」のだが、その怒りをことばにすることをしない。
これは非常に危険なことだと思う。ことばにすることができて、あえてことばにしないということと、ことばにできなくてことばにしないことは違う。
北野武は、あらゆる感情をことばにすることができる人間だと思う。ここでは、あえてことばにしないことを選んでいるのだが、そうした方向が、ある瞬間、ことばにしなくてもいいんだという方向に転化してしまわないだろうか。
北野武の内部において、というのではない。たとえば、映画を見た高校生、中学生の内部において。
私は、それが不安である。
私たちのことば、日本語は、最近、怒りを語ることができなくなっている。そして、どうしようもない「あきらめ」のようなものが、思考全体を覆っている。無気力のようなものが思考を覆っている。
「毒舌」で売ったびーとたけしと北野武の落差、というか距離に、私はとまどっているだけなのかもしれないが……。


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