パーフェクト・サークル


イングマル(★★★★★)(8月5日)
furukawa@tokyo.xaxon-net.or.jp
はじめまして。今まで、このホームページを楽しく拝見していましたが、今回初めて感想を書き込ませていただきます。長い文章を書くのは得意じゃないけど、最後まで読んでいただければ幸いです。
さて、初めて取り上げる作品はボスニア映画「パーフェクト・サークル」です。この作品、東京での上映は既に終わっているので「何よ、今更」と思うかもしれませんが、このページの主であるPANCHAN様がいたく衝撃を受けたご様子なので、及ばずながら私もこの映画について一言述べさせていただくことにしました。
私が「パーフェクト・サークル」を初めて観たのは、昨年の東京国際映画祭で上映されたときのことです。開映前に、この作品の脚本・監督を担当した、サラエボ出身のアデミル・ケノビッチの舞台挨拶がありました。
ケノヴィッチ監督は、映画の主人公ハムザと同じように敢えて戦火のサラエボに留まり、常に死と背中合わせの生活を送りました。終始作品を貫く徹底したリアリズムは、この時の監督自身の体験により生み出されたんですね。
特に「狙撃兵は、先頭を見て、二番目で狙いを定め、三番を撃つ、だから三番目は走るな」という台詞の持つリアリティには圧倒されました。
私も映画を観終えた後は、激しく打ちのめされて、しばらく放心状態が続きました。そして、後で少し冷静になってから、何でこんなに衝撃を受けたのか、自分なりにいろいろ考えてみました。一人の登場人物が映画の中で死ぬということが、何故にこれほど観客に重くのしかかってくるのか…?
疑問に対する答えにはなっていないですが、一つ強く感じたことは、やっぱりこの映画、サラエボの悲惨な状況以前に、そこに生きる人間が、そしてその日常が実に丁寧に描かれているんですよ。戦争の無惨さを殊更強調した映画は数あれど、まず人間の“生”がしっかり描かれていなければ命の重さなんて伝わらないのです。
現在公開中の「ウェルカム・トゥ・サラエボ」も確かに衝撃的でしたが、この作品の場合、どちらかと言えば映像が衝撃的だったと言う方が適切だと思います。まあ、外国人ジャーナリストの目からサラエボを描いた映画だから根本的に視点が違うのは当然なのですが、所詮「対岸の火事」という冷めた空気が映画全体に流れているように思えました。
話を「パーフェクト・サークル」に戻します。全然まとまらないのですが、登場人物がみんな血の通った魅了ある人物です。詩人のハムザも孤児の兄弟も、その他の隣人たちも…。だからこそ一つ一つのシーンがとても重くて、痛いんですよ。些細なエピソードでさえ、とても愛しく思えてくるんですよ。コンビーフを見付けたハムザが牛の鳴き声を真似るシーンとか、旅立つ子供たちのリュックに新聞紙で包んだ茹で卵をつめてあげるシーンとか好きだな…。大して重要な場面でもないんだけど、こうした些細なシーンが丁寧に描かれているってことにとても好感を覚えます。
結局、テクニックに固執するより、人間をしっかり描くことが大事なんだという当り前の結論にたどり着きました。どんなに血ノリをたくさん使った映画より大きな衝撃を受けたし、お涙モノの映画より強く心を動かされました。いや、心というより魂に訴える映画と言うべきでしょうか。おそらく一生忘れられない映画の一本になると思います。
映画の上映後、監督に称賛の気持ちを伝えたかったのですが、悲しいかな、私の英語力は中学2年生程度(ケノヴィッチ監督は日本の映画ファンと英語で会話していました)、サインをもらい、握手してもらうのがやっとでした。
全然感想になってないなぁ…。やっぱり敢えて言葉で説明しようとすると、どうしても陳腐になってしまいますね。取り敢えず評価は★★★★★です。おわりっ!
パンちゃん(★★★★★)(8月1日+2日)
この映画への感想は、感想にならない。
ほんとうの感想になるまでには、時間が必要だ。
*
サラエボの悲劇のことを、私はよく知らない。
なぜ、ついさっきまで一緒に生活していた人間が突然殺し合うのか、その理由はわからない。
映画を見ていても、さっぱりわからない。
戦争のさなかにもおろかしい日常、わいざつで、たくましい日常がある。
水の配給に、消防士が愛人の娼婦を優先しようとしたり、その娼婦が、「私がいるから水の配給があるのだ」と毒づいたり。
「ここの通りは敵から狙われやすいから走れ」と言ったり、実際に武器も何も持たない老人がただそこを通ったというだけで銃撃の犠牲者になったり、間違って撃たれた犬を車椅子までつくって飼ったり……。
敵(???)の犬に弾が当たって、「撃った人間は、うれしかったかなあ」という子供の素朴な質問があったりする。
そうした日常がリアルであるだけに、なんとも不思議な気がするのである。ますます、わけがわからなくなる。
戦う力もなければ、戦う意志もない老人や、魚を取っている子供を銃撃して、いったい何の意味があるのだ? なぜ、彼らは戦う必要があるのか。
国連の車は何もできずに、ただおもちゃのように走っている。あるいは、クリスマスには普通の人々が腹をすかしてさまよっているのに、何事もないかのようにパーティーを開いていたりする。
そのひとつひとつがおもしろく、おかしく、悲しい。だが、それが感想というものかどうか、私にはわからない。
そこから、この不気味な戦争の何がわかるわけでもない。
どこに本当の原因があるのだろう。なぜ、彼らは戦うのか。
その根っこは、この映画ではラストで唐突に表現されている。
親類のところへ避難しようと逃げる2人の少年。そのうちの弟が射殺される。耳が聞こえず、口も聞けなかった兄は、敵の兵士から銃を奪い、敵を射殺する。突然、兵士に変身してしまう。
長い歴史のなかで、その少年が体験したようなことが、本当は起きてはいけないこと、事故としかいいようのない何かが起きた。しかし、それが事故であったからといって、悲しみが悲しみでなくなるわけがない。憎しみが憎しみでなくなるわけがない。
すべてのことが日常と地続きであるからこそ、深く入り組み、入り組んだぶんだけ、他人には唐突に見える形で浮かび上がって来るのだろう。
*
こうした状況に対して、他者に何ができるか--さっぱりわからない。
困難な状況のなかで、それでもなおかつ、日常を記録し、映画にする意欲を持っている人間がいるということに、ただ驚くことしかできない。
この監督は、日常をていねいに描き、そこに人間の命の形を与えることで、「日常」のささいな笑いや工夫や悲しみこそが、人間のかえるべき場所だと言おうとしているのかもしれない。
しかし、感想にはならない。
感想になるまでには時間がかかる。
「映画」ではなく、「現実」を直に見たような、不思議な気持ちだけが残る。それが、つらい。いつか、この文を書き直したい。
* (2日の追加書き込み)
この映画の描いている日常の不思議さは、その登場人物たちが、なぜ戦争をしなければならないかを知らないことにある。
彼らはもちろんこの戦争の背景に宗教問題、民族問題があることを知っている。しかし、だからといってなぜ戦争をしなければならないのか。そのことについては、おそらく何も知らない。
だから、今まで生活していた街を離れることができない。そこで生活していたいと思いつづける。
彼らが知っていることは、ある通りは敵に支配されていること、ある通りはいつ銃撃されるかわからないということ。そして、危険なときは地下に隠れなければならないということ。危ない通りを通る時は身をかがめ、走らなければならないということ。
また、銃で撃たれれば、兵士であろうとなかろうと死ぬということ。
そして、決定的に知らないことが一つある。憎むこと、戦うこと。ただ逃げるだけなのである。襲って来る「敵」と戦い、「敵」を倒すことを知らず、ただ逃げることだけを知っている。
これはかなり理不尽な状況である。しかし、そうした理不尽さが日常というものだと思う。
彼らは、助け合うことを知っている。何の得にもならないが、ただ助け合うことを知っている。
小さないざこざがあるかもしれないが、(たとえば、二人の少年が二段ベッドの上と下とどちらに寝るかといったいざこざ)、そうしたことを大きな争い(戦争)にせずに、ちいさないざこざのまま、解消する工夫を知っている。
つまり、愛することを知っている。生活を、日常を、食べて、飲んで、遊んで、眠る喜びを知っている。
そうした日常がていねいに描かれれば描かれるほど、戦争がわからなくなる。
今、ここにこうして、つましいけれど、生きていることを実感できる生活がある--それを犠牲にして、戦争しなければならないのはなぜだろうか。
*
だれもわからないのかもしれない。
「戦争」という状況が起きてしまったから、「戦争」するしかないのかもしれない。
*
何もわからない。
わからないが、ことばを重ねていくしかない。
「人間はことばで考える」と言ったのは誰であったか思い出すことができないが、ことばにしなければならない。
見たことを、ことばにして、語らなければならない。
解くことのできない重い宿題が残されたままの状態がつづく。