ベント


監督 ショーン・マサイアス 主演 ロテール・ブリュトー、イアン・マッケラン、ミック・ジャガー
パンちゃん(★★★★)(11月30日)
ナチス・ドイツによって迫害された同性愛者描いた作品。
原作が戯曲のせいだろうか、映画が「芝居」っぽい。「舞台」を見ているような感じだ。それが残念だ。
「舞台」を見ていないので想像で書くしかないのだが、「舞台」でなら緊張感のある部分、二人の男が相手に触れることなくセックスをするシーンも、映画では間延びしてしまう。
これは、この映画は大失敗というしかない。なぜなら、相手に触れずにセックスをするシーンは、たぶん、この「戯曲」(原作)の核心を構成する要素だからである。
相手に触れずにセックスをする----そこで問われているのは、ことばの力だ。ことばを信じる力だ。
これは問題のセックスシーンのほかに、たとえば恋人のダンサーがナチスに虐待されるのを壁越しに聞く主進行の姿でも象徴的に描かれる。彼はその現実を「悪夢だ」と自分に言い聞かせる--悪夢という「ことば」を信じることで乗り切ろうとするシーンにもうかがうことができる。
「ことば」の力を信じることは、「舞台」の基本的なことである。「舞台」は何よりも「ことば」でできている。どのようなことも「ことば」で描写する。「ことば」で描写する力をもった人間が舞台の役者の基本であり、また、舞台を見る人間の基本である。
ところが、映画は「ことば」が主役ではない。「映像」が主役なのだ。その切り替えが、この映画ではうまくいっていない。「舞台」では感動的であっただろう「ことば」が映画では感動にならない。
うーん、これが例のシーンか、と思って見るだけで、ほかにどんな感想も浮かばない。
「舞台」と「映画」の大きな差に、もう一つ、肉体の問題がある。「舞台」では、舞台の上の生の肉体、生の声が観客に届く。その距離の密接な感じが、二人の「ことば」と「想像力」の密接な感じと重なり、観客を引き込むと思う。特に「ことば」でおこなうセックスシーンではかなりの緊張感で観客を引き込むと思う。
しかし映画は違う。観客が見るのはスクリーンに投射された映像にすぎない。そこで見る肉体は「舞台」とは全く違った肉体である。近づけば手に触れることのできる肉体ではない。どんなに近づいても手に触れることのできない肉体である。それは「夢」を託すには非常に便利な肉体であるが、「夢」を引き裂き、「現実」を剥き出しにするには不向きな肉体である。
映画では、したがって、どんなにあがいても、本当は触れれる距離にいるのに触れず、「ことば」で互いの体に触れるという、舞台特有の緊張感が完全に欠落してしまう。
肝心の「愛」が、セックスシーンからは伝わって来ない。何か変なものを「のぞき見」してしまったような感じになる。これでは「大失敗」というしかないと思う。
この映画で唯一美しいのは(舞台でも美しいシーンの一つだろうが、たぶん舞台を上回って美しいだろうシーンは)、銃殺された仲間、「ことば」だけでセックスしてきた男を抱いて立ち尽くすシーンだ。生きて触れることのできなかった肉体に触れ、その瞬間に変わっていく男の表情(これは舞台では、はっきり見ることはできないだろう)----それがアップで映し出されるとき、その顔から、本当の悲しみ、人間そのものの悲しみ、愛する人間を失った悲しみが噴き出してくる。
そして絶望のなかから、人間の誇りが復活してくる。「同性愛」のために虐待されることを恐れていた男が、虐待も死も恐れず、つまり「同性愛者」としてではなく、「人間」として復活してくる。それは、かなり矛盾した言い方になるが「同性愛者」である印を身につけることで、つまり「同性愛者」であることを宣言することで「人間」として復活する。
ここでは(この映画では)、その「宣言」が「ことば」ではなく、囚人服の「ピンクの三角形」で伝えられる。映像として伝えられる。
このシーンだけは確かに映画だったと思う。ことばでは伝えられないもの、ことばで伝えるには矛盾した形でしか伝えられないもの(「同性愛」を乗り越え、「人間」として復活することが「同性愛」を宣言すること----というふうに矛盾でしか伝えられない事柄)が、映像として一気に表現され、それが説得力を持っている。



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