鉄道員(ぽっぽや)


non(★★★★★)(2000年5月12日)
はじめて投稿させていただきます。
ヨロシクお願いします。
私がこの作品を観たのは、公開当初の映画館でした。
一人暮らしを初めて久々に実家に戻って来た日母親が行きたいと言うので、一緒に観に行きました。
その時私には、個人的な家族というものに対する感情が増していたのかもしれません。
でも、私はこの作品で「家族」というものを見直す機会を与えてもらいました・・・。
確かに、鉄道員という仕事に徹し、家族のことをかえりみない主人公の姿に疑問を感じる所もありました。
だけど、時代・・・ということを考えると仕事にかじりつくことでしか、家族を支える術がなかった事情も何となく良くわかりました・・・。
私は思います、奥さんは決して乙松を憎んでも怒ってもいなかったと・・・。
彼女のセリフには、愛情とそして一番身近な人にわかっていても求めてしまったもの・・・
それが叶わなかった時のぶつけようのない怒りの矛先・・・
それが、愛する人だった・・・という所を感じました。
そして、広末演じる娘も同じだったと思うのです・・・。
最後に乙松が出会う娘の成長した姿・・・
それこそが、乙松の本当の気持ちだったのではないでしょうか??
不器用にしか生きれない・・・
だけど、奥さんが亡くなったときの乙松の背中には確かに、計りきれない嘆きが浮かび上がっていた・・・
私は高倉 健は、背中でも演技の出来る俳優・・・だと思っています。
あくまでも、ぽっぽやという仕事に徹していたように見える・・・
だけど、そんな自分を諦めるように、慰めるように時には責めるように・・・物語は進んでいった・・・
誰よりも、自分のことを良く知り、誰よりも自分を責めていたのは乙松自身だったのではないのかな・・・と思います。
今の時代のように、誰もが自分の権利や主張をし声高々に自論を唱える・・・
映画の中の時代は、そんな時代ではなかったはず・・・
私はこの作品を観たあと、涙を流しました・・・
思ってもみなかったことです、なぜならあまり邦画は好きじゃないから・・・
だけど、今私がここにいることを幸せに思いました。
少しぐらい自由を盾に勝手なことを言ったとしても、今の時代はそれを認めてくれる・・・
そうしないと、家族や友人、愛する人とも絆が確認できなくなっていることに悲しみは覚えましたが・・・
何かを犠牲にしても、生きる=大切な何かを守る・・・ためには自らが鬼のようにならなければいけなかった時代・・・
今の私たちにはわからない世界ですが、確かにそんな時代があった・・・
そして、そうやって時が流れて今の日本があって・・・
乙松の姿は、在りし日の日本の父親の姿・・・なのだと私は考えさせられました・・・
脇役の俳優人もやはり、素晴らしかった・・・
志村けん、大竹しのぶ、小林稔侍・・・
この作品について感じることは人の心の描写とは、難しい・・・
一人の人間の人生を浮き彫りにするのは難しい・・・
なぜなら、個人の心の中というのはどうやっても、本人にしかわからないものだから・・・
そして、私たち見る側にも自論や先入観、価値観というものが備わってしまっているから・・・
ということ・・・
周りの人たちが、乙松を認め励ます・・・
乙松には、それが心苦しかった・・・
ただぽっぽやに徹し、そういうことでしか家族への愛情を表せなかった・・・
生きるためには、自らの感情さえも犠牲にするしかなかった
たとえ、言い訳だと言われても・・・
不器用にしか生きれなかった男・・・そしてそんな男が沢山いた時代を・・・
私は、男のロマンという形で締めくくることは出来ない・・・
kigc(1999年10月18日)
iguchi@hirai.co.jp
今頃で何ですが、今年の「泣き」映画第2位ということで。★は4つ。
皆さん手厳しいですね。パンちゃんの意見には納得です。確かにこれでは「鉄道員」である必要はないですね。「ぽっぽや」も出過ぎですね。ラストの小林稔侍もクドイです。
でも泣いてしまいました。
いつものように寡黙で不器用な健さんに昔気質の男の職務にかける情熱を勝手に読みとり、心の中に引っかかり続けていたことが最期の瞬間にすべて赦され、肯定されるという、身勝手と言ってしまえばそれまでの甘く美しいファンタジーに酔いました。ああ見えて彼は彼なりに自分を責め、恨み、本当にあれで良かったのかと自問し続けて生きてきたのです。そんな男が死に際に見た一瞬の夢のお話でしょう。
男のエゴを美化した安っぽいメロドラマ。
まさにその通り。
それでもそのある一部分に強く共鳴してしまうことってあるんですよね。
自分はあんな人生まっぴらですが、赦されてこの世を去るというのはあやかりたいもんです。
colles(8月25日)
colles@sam.hi-ho.ne.jp
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/colles/

なんだか、ばらばらな映画だなあ、という印象でした。この映画、私は、予備知識なしで見たかったのですが、TBSラジオを聞いていたら、浜村じゅんに、勝手にストーリ展開を教えられてしまった。もう二度と月曜日のTBSラジオを聴かないぞとおもったが、実際に映画を見てそのとき以上の感激は、あまりあじあわなかった。
高倉建がでるということで、例えば「あ、うん」のような昔ながらの日本映画を、勝手に予想していたが、そうではなかった。タイトルがでるまでの、機関車運転シーンは、おそらくは、主人公の鉄道員人生の履歴を紹介し、「ぽっぽっや」のぽっぽっやたるゆえんが紹介されるべき箇所だったように思う。が、絵的に美しくない意味不明なシーンでおわっていた。このおかしな冒頭部分が誰の責任によるものなのだか、私は、知らないけれども、その人がかかわる映画を、今後私は見たくない。
以後、「ぽっぽっや」だから、という言葉のもとに、主人公は、某若武人な振る舞いをすることになっている。だが、「ぽっぽっや」とは何なのかを全然説明せず、に単に「ぽっぽっや」という言葉一つで済ませているところがおもしろくない。本当だったら映画全体をとおして説明すべき重要な事柄ではないだろうか。それを言葉一つですますなんて、ちょっと考えられない軽さである。
俳優の演技も軽いかんじだった。これは監督が、こういう撮り方をわざわざしたのか、こうならざるをえなかったのか・・・。後半の三人娘はいったいなんなのだろう。いくらなんでも、やすっぽすぎる。こういう撮り方もあるのかなあ。まああったとしても、こんどは大竹しのぶだけは、普通にやっていて、建さんは、全体の中間くらいで、役者によって演技の質感がばらんばらんで、どういう映画にしたかったのか。
現代のシーンがメインストーりで、時折はいる回想シーンによって、すこしずつ過去が紹介されていくという具合になっていたよう・・。だが、過去のシーンがあまり適切な形で撮られてなかったというのが、印象だ。肝心なところが、省略されたりとか。思うに、現代シーンと、過去シーンのばらんすがとりずらかったのか。メインストーリの現代シーンに内容がなさすぎだから、過去シーンを軽くあつかわざるをえなかったということだろうか。
個人的には、例えば、最初に現代シーンを短く「ゆつこか?」までやって(そこでは、主人公の偏屈ぶりがどこからくるかまだ不明)、ぱんと、過去にかえって、ぽっぽっやを、おもう存分に説明してもらって、大竹しのぶにも建さんにも大活躍してもらって、。そうして「ゆっこか」に戻るみたいのが、よかったかなあ。
本当にこんな映画つくっちゃうのって、だれがいけないんだろう。俳優のスケジュールとか、もうぐちゃぐちゃで、でも商業的に作ることになっているから、作ったということだろうか。
すー・ぴったー(★)(1999年8月11日)
fwkf9153@mb.infoweb.ne.jp
いつもは拝見してるだけですが 今回は一言いいたい。
感想は “それはないっしょ!”
★は大竹しのぶに2つ。広末にマイナス1つ。
ヒロスエはあの短い原作も読まずに 出演を決め製作発表にのぞむくらいだから全然期待してなかったけどヒドスギル。
あの寒さの中育ったら あんなにボーっとした顔にならないし喉の奥がひらいたままの甘ったれた声は出さない。
(あれじゃ 内地から飛行機できたスキー客のままだ)

日本の男は仕事に対する責任だけ全うすればそれでいいのか?
家族に対する責任はないの? 極寒の地では 家族で近所で地域で助け合って生きてきたはずなのに 家族すら守らなくって何が仕事だ駅長だ 男のロマンだ。
主人公は 妻が子供が死にかけてる時に何ら努力をしない(様に見える)
原作は淡々と描かれていて意見を押しつけないが映画は こんな陳腐な男のロマンを肯定しきってる。
*
台詞が安っぽすぎる。
健さん出して、雪景色映して、汽車走らしたら一丁あがり?
あまりに安易。説得力が無い。ただ一人抵抗してるのが大竹しのぶ。
こんな男の妻である悲しみが真に迫った。

なぜ鉄道か? 鉄道はほんの数代前に入植し極寒の地を 死ぬ思いで開拓していった象徴なのに....
今回ばかりは健さんの演技からその悲しみが充分伝わらない(私には)
“廃線"が 職場がなくなるぐらいにしか感じられない。
小林稔侍も上すべり。(学校Vはよかったのに....)
大好きな原作をこんなに安っぽく仕上げてくれて悲しくて泣けました。
リストラされて自殺する中高年男性が増えてるって時にみんな本当に感動できるの? これで?
ごめんなさい。ながい一言で。
まるこっち(1999年7月26日)
maruko@mx6.mesh.ne.jp
http://www2s.biglobe.ne.jp/~marchen/
初めての投稿です。よろしくお願いします。
パンちゃんの感想を読んで、とても共感出来ました。
私は、究極の男のエゴイズムを描いた作品だと思いました。
確かに高倉健はシブいですし、寡黙で誠実な乙松の役どころに非常にぴったりと来ていました。
映画としての出来は悪くないと思います。
でも、私はこの作品を好きにはなれませんでした。
泣かせ方があざとすぎます。
きっと乙松の生き方は、男性のロマンの象徴であり、世の男性たちの憧れなのでしょうね。
でも女の立場から観ると、自分の理想を追求し、どんなにワガママ勝手に生きてきても、 周りの全ての人に許してもらえるなんて、都合が良すぎです。
それは、乙松が自分の仕事を全うするために、子供の死や妻の死に立ち会えなかったことが悪いと言っているのではありません。
彼がその死に遭遇したとき、「ぽっぽや」である自分を恨まなかったことが許せないのです。
「自分はぽっぽやだから」と開き直ってしまうことが許せないのです。
彼は、家族と仕事を天秤にかけたとき、もっと心の葛藤がなければいけないと思うし、それで仕事を取ってしまったことに、もっと苦悩しなければいけないと思うのです。
彼女たちを幸せに出来なかったことに、もっと自分を責め、もっとみっともなく許しを乞わなければいけないと思うのです。
仕事に自分の全てをかけてしまう、乙松の人生って何なんでしょう。
それに付き合わされた妻・静枝の人生って何だったんでしょう。
そして、雪子が生まれてきた理由は?
人生には、もっと楽しいことがたくさんあるはずなのに、そんなことを知ろうともせず、閉鎖的な世界に自分と家族を閉じ込めて、自分に酔っているだけのような気がします。
私には、このお話は日本男児を気取った男の悲劇としか受け取れませんでした。
確かに泣ける映画でした。
でも、私が泣いたのは、乙松の行き方に感動したからではありません。
あまりにも可哀相な人生を送ってしまった乙松・静枝・雪子の3人が気の毒で泣き、そんな乙松を許してしまえる、静枝と雪子がけなげで泣けました。
評価・・・★★
パンちゃん(★)(1999年7月1日)
この映画の一番の欠点は、主役の高倉健が汽車(鉄道)がどれくらい好きなのか全然伝わって来ないところだ。
娘(17年目に授かった貴重な娘)の死に目にも妻の死に目にも会わず、ひたすら駅長の職務を全うしようとした一人の男----その男の鉄道にかける情熱が全然伝わって来ない。
これでは主役が駅長(鉄道員)である必要が全くない。パン屋でも旋盤工でもいい。炭鉱員でもいい。なぜ「鉄道員」に視点をおく必要があったのだろう。
鉄道をこんなに愛している、鉄道を愛している人間から見れば古い列車がこんなふうに見える、ということを映像できちんと表現しないことには、健さんの人生と観客の人生が重ならない。(出だしの蒸気機関車のシーンなども平凡でしたねえ。単なる絵はがきでした。現場で働く人の見た機関車という感じが全然しない。)
作っている側もそうしたことは感じていたんだろうなあ。しきりに「ぽっぽや」ということばを語らせている。
こんなキーワードは一回こっきり出て来てこそ説得力がある。ひっきりなしに「ぽっぽや」といわれたのでは、あんた馬鹿じゃないのか、といいたくなる。
娘や妻の死に目に立ち会うことよりも駅長の務めを果たすことが大切と思う男の心情が、ことばひとつで説明されるのでは、彼の情熱に感動するかわりに、国鉄(JR)のむちゃくちゃさと、そんなむちゃくちゃに対して怒ることを知らない男のあほらしさが浮かび上がるだけだ。
*
原作はどうなのか知らないが、これは基本的に脚本が決定的にまずい。
すべてのことを映像ではなくことばで説明している。
その最悪のシーンがラストだ。
健さんの遺体を載せた列車が動いて行く。
小林稔侍が「出発進行」(?)というシーンで終わればまだ余韻が残るだろうが、そのあとで「ぽっぽや」と「汽笛」「列車」のことをぐだぐたことばで語ったのでは、映画ではなく小説を読んで感動して下さい、と映画の責任を放棄しているようなものではないか。
映画が映像の力を信じなくて、誰がいったい映像の力を信じるのだ。
映画の可能性を自ら否定するような映画は私は大嫌いだ。
ダグラス・タガ(1999年6月7日)
健さんの5年ぶりの映画です。
健さんの、健さんによる、健さんファンのための映画です。
舞台は、冬の北海道幌舞(架空。ホントは南富良野の幾寅)。
雪降るなか、SLが走るところから始まります。
やっぱり、キャメラは木村大作です!!雪の情景をしっかりとらえてます。
駅STATION以来の監督、撮影、主演、場所がそろった最高の設定 の再来です。
私が、小学校1、2年までは、本当にああいう光景でした。
残してほしいです。あのセットのなんま。幾寅駅に。
始まったとたん、皆さん、見事にたどたどしい北海道弁を使っていて、私は、 爆笑していました。良い意味で。
原作で北海道人の大顰蹙をかった北海道弁ですが、作っている 人たちが北海道なれしているせいか、ずーっと、まともです。
健さんの「そったら事、言ったって。。。しょーがねーべさー」は、 健さんの得意な北海道弁です。「駅」でも使用ずみ。
それにしても、冬の北海道が絵になりますねぇ。北海道人より冬の似合う 九州人ですから。不思議です。あと、志村けんが、結構重要な役で出ていまし た。
この話しは、鉄道だけではなく、石炭産業(炭坑)の繁栄と没落が絡まった 横軸がなければ、話しに厚みがでません。
そこで、筑豊からやってきたシムケンの役は、意味があるのです。
私は、このモデルとなった地、三笠市幌内(本当にある)で生まれたものです。
両親からは、炭坑の活気があったころの町の話しを聞き、叔父は、炭坑と共に、 職を失いました。シムケンは、炭鉱事故(落盤)で死にますが、幌内では、 実際に叔父の同僚が何人もあの時の落盤で死にんだそうです。
(叔父が上にあがった直後に、事故が起きたと聞きました。)
炭坑が衰退すると同時に、町の人口も減少して、必然的にドル箱路線が、 赤字路線に早変わりです。事実、幌内線は、とっくに廃線で、今は駅が残って くらいです。と、映画から外れてごめんなさい。
で、映画はというと、なんか、健さんも「ふつうのおじさん」役できるんだ。
という感じです。確かに、ストイックなんですが、というより、ただの、 ガンコジジイで、実はとっても家族思いのひとだった。こんな、人間味の ある役もやるようになったのかぁ。と、ちょっとびっくりしました。
あと、「テネシーワルツ」ですよねぇ。よくも健さん、あんなプライベートな 曲をつかったと驚きました。かわりましたねぇ。本当に。
それにしても、健さんが死ぬ映画ははじめてみました。(ネタばれでは ないですよね。これは。)。あんまりないというか、主演ではじめてでは。
(新幹線大爆破も、捕まったはずだよなぁ。)
気になったのは、大竹しのぶも田中スーちゃん(念侍の嫁)も、ちょっと 相手には若くないかなぁ。ということ。でも、大竹しのぶは、本当にうまい。
まあ、後は脇で、演技達者の俳優さんが多数。坂東英二の新聞配達には、 笑いました。(それもタイアップのASA。あんなところで朝日を読む人は いません。みんな北海道新聞です。)
今回は、あき竹城がでていません。さみしいです。
久々に北海道&健さん映画を堪能しました。横浜で見ていましたが、 ほぼ満席、何故かおばちゃんは、泣いていました。映画が終わるところで、 おばちゃんの鼻かむ音が、うるせー。
後、出てから、いろいろな関連商品売り場で、1万円も健さんグッズを 購入していた、ヤーさんみたいな人には、笑ってしまいましたが。
北海道が好きな人、健さんが好きな人、楽しめます。
あと、私と同じように炭坑町で育った人は、ジーンと来るでしょう。
あの立て坑に。個人的には、懐かしさが込み上げてきた、思い入れの強い ものになりました。
えっ?ヒロスエ?どうでもいいんでナイカイ。