The Prince of Egypt


jean(7月31日)
jean@pop21.odn.ne.jp
何に一番感動したかと言うと、それは音楽です。マライア&ホイットニーが歌う主題歌ももちろんよかったけど、何より効果的なのが、この映画の要になっている『デリヴァー・アス』でしょう。
「約束の地へ…」と神に語りかける部分と、子守唄の部分との二つの旋律で成り立っているのだけど、この二つが不思議に呼応しているんです。お互いにぶつかり合い、響き合い、時には交ざり合って、もう絶妙の掛け合い。
正確なことは分からないけど、この二つの旋律はもとは(作曲者の頭の中で)同じだったんじゃないかと思えます。
まるで二卵性の双生児のよう。とにかく、震えがくるほど、力強さと優しさにあふれています。
神のことを語るには、映像や言葉よりも、音楽の方がよほど効果的なのでは、と思ったくらいです。
それで映画の内容の方はというと、あまり語る言葉が見つからない・・・
決して悪くはありませんでした。題名からして、十戒よりもモーセの人間的側面を強調しようとしたのも分かるし。声の出演も、イメージ的にぴったりなレイフ・ファインズと対照的に、ヴァル・キルマーは意外性があってよかった。
(日本語版は、椎名桔平と寺脇康文。これもうまい)
それで何がいけなかったのかというと、簡単に言うと、モーセがかっこよすぎるということでしょうか。
これは見る前から思ってたのだけど、やっぱり神に選ばれた人だから、そう簡単に共感はできないなあ、というか。
アニメの限界についてのパンちゃんの意見はよく分かります。
人物の表情にしても、現実に似せれば似せるほど、空々しく感じられるのは皮肉なことだなあ、と思います。
ただ、アニメ好きとしては、今は発達段階にあるんだと思いたいです。
ただリアルさを追求するだけでなく、モーセの夢の場面のように、見る側の想像力を刺激するようなやり方を、もっともっと工夫して見せてほしい。
評価は、まず音楽の素晴らしさに。それとアニメの将来に期待を込めて、星5つ!あげちゃいましょう。(★★★★★)
最後に言い忘れたことをいくつか・・・
エジプトの神々の名前が次々と出てくる、司祭のコンビの歌もあやしくていい。
それから、日本語版のひどさは何とかして!
すごく荒削りな、やっつけ仕事という感じがする。もっと日本語を大事にしなきゃ。
パンちゃん(★+★)(1999年7月29日)
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にうとい私には今ひとつぴんとこなかった。あまりにも淡々としていて登場人物の「人格」というものを感じることができない。「宗教」というもの、「神」とういものの存在も全くといっていいくらい感じることができなかった。これは本当に「宗教」に関係した映画なのか?
なぜ「神」あるいは「宗教」を感じることができないかと言えば、そこで描かれる人間が余りにも抽象的だからだ。人間の苦悩が感じられないからだ。「神」にしろ「宗教」にしろ、それは人間の苦悩と一体にあるものだ。人間の苦悩の向こう側に「神」や「宗教」というものが見えて来る、あらわれるものだと思う。
ところが、この映画では、その苦悩がよく伝わって来ない。モーセが普通の人間ではなく、選ばれた人間であるから、そこに人間の苦悩の描写を加えることが出来ないのだろうか。(まあ、苦悩のシーンは出てくるには出てくるのだが、どうにも親身に感じられない。
実際の肉体をもつ俳優が演じれば、そのひとつひとつの表情に苦悩の感じがあらわれ共感できるのだろうが、アニメの苦悩では表情を通しての共感は生まれない。ストーリーとしてしか伝わって来ない。抽象的な苦悩としてしか伝わって来ない。
人間の苦悩を観客に共感できる形で表現しにくいというアニメの限界がくっきりと出た映画かも知れない。
特に「神」や「宗教」という人間の内面に深くかかわる問題、その苦悩と喜びを伝えるのは、アニメには無理があるかもしれない。
*
おもしろいと思ったのはモーセの夢の部分。(麗奈さんとしーくんがすでに指摘しています。この部分があるから★一つ追加しました。)そこだけアニメが壁画タッチになり、モーセが壁画を読み直すシーンにつながるのはとても自然でよかった。モーセ自身の行動、表情ではなく、この夢のシーンのみが苦悩を伝えているのは、考えてみればとても不思議だ。しかし、このシーン、リアルな人間描写ではなく、漫画タッチの部分に、深い苦悩が表現されていた、というのは本当に不思議だ。
前半に出てくる河の水のシーンのなめらかな表情と、最後の海割れのシーンの水のダイナミックな表情の差もびっくりした。しかし、感動する、とまではいかなかった。
『十戒』もそれほどおもしろい映画というわけではなかったが、アニメよりは感動したと思う。(頭の中では、チャールトン・ヘストンが主演だったせいもあって、どこかで『ベン・ハー』が入り交じっているのだけれど……)たぶん、人間がやっていたからだろうなあ。人間の顔が持つ表情、苦悩の表現が、その肉体性で共感を迫って来る。その苦悩に共感してしまう。俳優の力というのはすごいものだと思う。
と、ここまで書いて急に思うのだけれど、やはり『となりの山田くん』がやっていることは新しいぞ。ストーリーを超えて「人間」というもの、登場人物一人一人の「個性」が浮かび上がって来る。その個性はストーリーを超えてしまっている。『山田くん』を見たとき、私はストーリーに共鳴しているのではなく、登場人物のひとりひとりの行動・人間性に共感し、笑っていたのだと思う。『プリンス・オブ・エジプト』ではストーリーは理解してもその登場人物に共感するということはなかった。
夏の日米アニメ対決は日本の勝ち、と言う感じかな。どちらも小倉では客の入りは悪かったが……。
しーくん(★★★+☆[おまけ])(1999年7月26日)
kanpoh1@dus.sun-ip.or.jp
良くも悪くもドリームワークス映画でした。どうしてもドリームワークス映画が好きになれません。馴染めないというか、見終わった後の印象が薄いというか・・・個人的にはアンブリンの方が好きです。映画が終わったとき、後ろの女性二人が「よくわからなかったね」と言ってました。私は『十戒』を見ているのでそれほどではありませんでしたが、確かに全く初めての人にとっては意味が解らないかもしれません。長くダラダラした映画はいやですが、この作品は100分足らず、見ていてそんなに時間を感じませんでしたので、もう少し上映時間を長くしてでも、丁寧に作ってほしかったです。特にラストはね・・・あれでは十戒を刻んだ石版をモーセが抱えていても意味が解りません。まあしかし、噂のシーンは言葉では表現できないほど素晴らしいものでした。当然『エピソード1』のSFXよりも興奮しました。ちょっとブルってきてしまったほどです。モーセの夢のシーンも趣向があって面白かったです。血の河のシーンも・・・それにミュージカル的なところもあり結構楽しめました。映画とは全く関係ないのですが、大阪でこの映画をご覧になられる方はキタかシネコンをお勧めします。私は本当に久しぶりにミナミで見たのですが、客のマナーが超最悪!もうちょっとで爆発するところした。もう2度とミナミでは映画は見ません!
アレックスのパパ(1月15日)
dimsum@eclipse.net
◆パンちゃん:
貴兄の指摘はとても重要なポイントです。
「教会」も「偶像」となりうる危険の問題、ユダヤ教やイスラム教の「ことば」の独立性の問題、どちらも人生を掛けて取り組むような大問題だと思います。
◆麗奈さん:
いつも、小生のコメントに「僅かに角度を変えて」フォローして下さり、ありがとうございます。考え方の間違いが直され、それだけでなく立体的な広がりが出てくるのは大きな喜びです。
「モーセの思想」という言い方。そして、旧約を源流とすることをもって、三大宗教の類似ばかりを書いたのは、お察しの通り、全て確信犯です。
麗奈さんの補足は全て正当です。けれども、小生は、この映画の神格化を抑えたモーセ像や、Burning Bush (火炎樹)の奇跡以外は、神の言葉を控えた表現を受けて、こうした説明をしてしまいました。
その理由は二つです。
第一の理由は、世界宗教から完全に捨て去られた日本の人に、この映画に関心を持って貰いたかったからです。
日本のキリスト教徒の比率は3%程度と言われています。近代文明の受容に成功した歴史と比べると、そして誠実で勤勉な文化背景を考えると、これは実に奇異な印象を受けます。
理由は単純です。日本のキリスト教、特に新教は、都市のインテリ男性の孤独な知的興味の対象に歪められて久しいからなのです。つまり、富裕であること、性欲のあること、インテリであることへの湿った罪悪感を解消する道具に貶められ、家族愛や社会参加を基本とした本来の姿が失われてしまったのです。戦後は、これに戦争責任懺悔という「教会」建設が加わって益々閉鎖的になりました。その結果、戦前から六〇年代には社会主義に、七〇年代以降は拝金主義の魅力に競り負けて無力化してしまったのです。
今、新たな世紀を前にして、原理原則への回帰は、日本の人々の関心に登りはじめています。けれども、三大宗教同士の荒々しい相克をばかりを説明していては、やはり日本の人々には距離感があるでしょう。そこで、マイルドなコメントにしてみたと言うわけです。
第二の理由は、やはり、世界宗教同士の和解というテーマを映画から感じたからなのです。麗奈さんの言われる、三つの宗教同士の「譲れない相違点」は、確かに真実でありますが、それは純粋な信仰の問題でしょう。その相違点を政治的に利用して自身の政権の延命に走るのは、醜悪であることを歴史が証明しています。けれども、人間の愚かさはなかなか克服できませんね。今でも、「文明の衝突」などという幼稚園もどきの言説をまき散らすセンセイがいる位なのですから。とにかく厳密さを欠くかもしれませんが「和解」や、源流の共有ということに重点を置いてモーセのことや映画のことを語ってしまったのです。
◆ところで麗奈さん:
そうです。この映画を語るときには、映像の効果の話は落とせませんね。
貴女の書かれていた、モーセの夢のシーンをはじめ、3DのCG、そして映像のつながり具合なども本当に素晴らしいです。
偶々、上映館では、この春から夏のアニメ大作の予告編をやっていましたが、WBの『王様と私』は完全に二次元の伝統アニメで、内容とともに古臭く、又、ネズミ印の本家からの『ターザン』は、CGが荒々しく、まるでゲーム機の画面のようで、予告だけで疲れてしまいました。
この"The Prince of Egypt"の技術面での素晴らしさを改めて実感しました。
音楽は、大ブームとまでは至ってませんが、サントラを買って何度か聞き返すと、感動が深まりこそすれ、飽きることはありません。主題歌である"When You Believe"は、マライアとホイトニーのデュオも良いですが、本編で「出エジプト」の際に流れるミッシェル・ファイファーとサリー・ドゥオスキ(サンドラ・ブロックの代役)の二重唱もスピリチュアルな力がありますね
。 とにかく、日本で早期に公開されること。マーケティングにも手間を掛けて、ちゃんと拡大公開がされるよう切に願わざるを得ません。
麗奈(1月13日)
reina@osula.com
アレックスのパパさん宛に手紙を書けばいいかとも思ったのですが、他にこの採点簿を読む人の為に一言書かせてください。まず、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は皆同じ神を信じています。これはアレックスのパパさんも言ってますが、念のため。ユダヤ教は「神の教え」を信じているのであって、モーゼの思想とは関係ありません。旧約聖書をモーゼが書いたものであり、それはモーゼの思想であると言われてしまえばそれまでですが、ユダヤ教徒の多くは聖書は神の御言葉であり、人間はそれを神に伝えられるまま書いたと信じています。次にキリスト教ですが、キリスト教徒はイェスの事を予言者だなんて思ってません。イェスは神がお遣わせになった神の御子であり、それが故にマリアは処女懐妊したと信じられてます。カトリックではマリアの事を神に選ばれた聖女として崇められてますが、プロテスタントではマリアを崇拝するのは偶像礼拝と一緒であると考えられています。キリスト教では神は父(神)、御子(イェス)、御霊の三つでありながら1つの神であると説かれてます。これは少々ややこしい考えですが、大ざっぱに考えると、水にも液体、蒸気、氷の3種類がありながらすべてが水であるというのと同じような感じです。ユダヤ教徒との違いですがユダヤ人にして見れば、彼等の一人である「ナザレのイェス」が神の子であるなんて神への冒涜以外の何物でもないわけです。ユダヤ教では神の名を紙に書くことすら許されていないのに(未だに英語でもG*dと書きます)その神の子であるなんてとんでもない!ということですね。イスラム教ですが彼等はイェスの事を予言者だと信じてます。(ユダヤ教ではイェスはただのユダヤ人だと思われているはず。奇蹟を起こしたのはやはり予言者だからと思われているのか?その奇蹟を完全に否定しているわけではないはず)イスラム教はモハメッドと言う予言者が説いた教えですが、回教徒によると新訳聖書に「イェスの後に本物の予言者が来る」と書いてあり、それがモハメッドだと信じられてます。(私はそのような箇所を新訳聖書で読んだことがありません。)回教徒の信心では5つの約束を守れば救われるといわれてます。ここでは省略しますね。さて、回教徒の友達の話では「ユダヤ人は神に選ばれたにもかかわらず、間違えばかり起こし、神の言いつけを守らなかったため皆地獄にいく」と信じているそうです(ユダヤ教に地獄ってあったっけ?)。決してユダヤ人を尊敬しているような口ぶりではありませんでした。
簡単に書くとこんな感じだと思います。アレックスのパパさんの言ってる事とまるっきり同じことだったらごめんなさい。私の読解力の無さだと思ってください。私はこの3っつの宗教にとても興味があり、真面目に大学院で神学の博士号を取ろうかと考えているもので、ついつい書いてしまいました。
麗奈(1月5日)
きのうはプリンスオブエジプトをみてきました。私は良かったとおもうけ ど、確かにディズニー映画のようなおもしろいキャラやかわいいキャラは出てき ません。でも、リアルでした。モーゼの夢シーンが特によかったな。モーゼの奥 さんも気が強そうでかっこ良かった。曲もなかなか。でも、神の声がバルキル マーだったのは、ちょっと深みがなさすぎました。何で彼にしたんだろう?せっ かくだから、ジェームスアールジョーンズ(ダースベーダー)とかもっと重みの ある人に(体重がじゃないよ)やってほしかったな〜。
でも、アニメ自体はディズニーに負けないと思います。私はその道のプロじゃな いけど。紅海が分かれるシーンの迫力もすごいものでした。きれいだった。
あと、ナイル河が血に変わるシーンもきれいだったと思います。
時間があったらぜひ見てね。
アレックスのパパ(12月25日)
mailto:dimsum@eclipse.net
"The Prince of Egypt"、オープンしました。
好意的なレビュー記事にも支えられて、最初のウィークエンドの出足は期待通りの 滑り出しでした。
旧約聖書の有名な『出エジプト記』に題材を取った、堂々たる楷書の傑作だと思い ます。烈しく心を打ちのめし、胸倉を鷲掴みにする威力はないのですが、それはや はり聖書という言葉に戻るべきでしょう。映画としては、こうした形でモーセ像の 輪郭を体験できれば十分と思います。
有名なセシル・B・デ・ミルの『十戒』に比べますと、怒りや憎しみが緩和されて いるということ。そしてモーセが若く、カリスマ性が弱められていることが眼につ きます。何よりも肝心の『十戒』は読み上げられることもなく、従ってモーセの思 想の峻厳な部分はほとんど語られません。 それはどういうことなのでしょう。
ユダヤ人のエジプトでの捕囚と、それに対するエジプト人への天罰(これは反乱と いう史実の喩と考えるべきでしょう)、そしてモーセに率いられて、紅海を渡って の約束の地への脱出。これのお話の激しさをもって、ユダヤ人の「選民思想」など と揶揄され、迫害の根拠にもなった物語。そして、取りも直さず、ユダヤ人自身の 団結とアイデンティティ形成の根拠となった物語です。けれども、この作品では、 その攻撃性は弱められ、信(faith)の持つ力と、偶像崇拝を排した一神教の潔さ が単純に描かれているように思いました。
その意図は明確だと思います。
エンド・クレジットの最後に、モーセに関する三つの聖典の引用がさりげなく表示 されます。『旧約聖書』、『新約聖書』そして『コーラン』です。モーセは、古代 ユダヤ人の指導者であり、ユダヤ教の思想の原型を作った人物です。繰り返しにな りますが、偶像を排した一神教と、単純な戒律によって自らを律する思想がその根 幹なのでしょう。そして、彼の子孫ならびに後継者達によってユダヤの信仰が確乎 たるものになってゆきました。その集大成が『旧約聖書』に他なりません。
その『旧約』に予言された神との約束を果たす預言者として、古代ローマの圧制下 で、その走狗と成り下がった律法主義者に反抗して、宗教改革というか新興宗教を 興したイエスという男がいました。彼を『旧約』で神が約束した預言者と認める人 達は、彼と彼の弟子の言行録を、やや未整理ながらまとめ、迫害に耐えながら伝え てゆきました。これが『新約聖書』と呼ばれるものであります。ですから、『旧約』 があっての『新約』であり、キリスト教とユダヤ教とは似ているどころか、父なる 神そのものは全くの同一であると考えるべきでしょう。キリスト教は、それに子と してのイエスの神性と、両者をつなぐ聖霊の神性の三位一体説を唱えますから、教 義は異なりますが、成り立ちを考えると反目の原因はナンセンスに等しいものがあ るのです。
では、イスラムはどうでしょう。"The Prince of Egypt"の最後に何故、コーランが 引用されているのでしょう。
イスラムの創始者、ムハンマド(マホメット)は、砂漠の脅威に晒され、ともすれば 怪しげな宗教や迷信に走りがちな民を救うために、新たな一神教、それも戒律を守り 偶像崇拝を排した潔癖な宗教を興しました。モーセの思想の新たな具現に他なりませ ん。事実、彼は聖典『コーラン』でモーセを賞賛しただけでなく、ユダヤ人を『経典 の民』と呼んで尊敬するよう書き残しているのです。
何世紀にも渡って、流血を含む対立を続けてきたかに見える、三つの大きな世界宗教 の源流が、モーセという一人の人物の思想であること。人類に取って極めて重要であ りながら、多くの人間が忘れがちなこの事実を訴えること。これが、この映画の真意 にように思えてなりません。
こちらのレビューでは、映画として微温的だとの批判も散見されます。けれども、三 つの宗教の指導者に詳細な意見を求め「どちらからの非難もされない」ように製作し たという、プロデューサーのジェフリー・カッツェンバークのコメントには大切な意 味があるのです。「誰にも非難されない」ように作るなどというのは、通常、芸術に あってはならないのですが、ここではこれが必要だったということでしょう。
二十世紀が暮れようとしています。
アイルランドの和平も何とか道筋が出来つつあります。
アラブとユダヤの対立も、バクダットの軍部とエルサレムの野党は依然として強硬で すが、大きな流れとしては、地域全体として「宗教」そのものによる流血の愚かさに 気づきつつあるように思います。
こうした意味で、タイミングを得た好企画と言えるでしょう。
CGとセル画の結合の見事さは、劇場用アニメの金字塔と言って良く、カッツェン バーグの古巣、ディズニーのお株を完全に奪いました。バル・キルマーのモーセ、ラ ルフ・ファインズのエジプト王ラムセスを始め、声優陣も見事です。
マライヤ・キャリーとホイットニー・ヒューストンのデュオによる主題歌などの音楽 も十分な力感と品格を実現しています。
退潮著しかった、日本のキリスト教も、ここへ来て聖書物語ブームなど変化の兆しが 見られます。日本での封切りは何時か分かりませんが、この"The Prince of Egypt" が、そんな前向きの情熱と共に受け入れられることを念じています。
ここで、故手塚治虫氏のことを思い出しました。カッツェンバーグと言えば、手塚作 品の換骨奪胎では前科一犯ですね。『ライオン・キング』は『ジャングル大帝』なく してあり得なかった作品であることは否定できません。小生は、この件に関して、手 塚氏のご子息である真氏以下の著作権者がディズニーに対して微温的な態度を取って 来たことを苦々しく思っておりました。今度も、聖書のアニメ化という手塚氏が晩年 に果たせなかった夢との関連を想起させます。個人的な確信なのですが、手塚氏がイ タリアの放送局などと組んで進めていたアニメをカッツェンバークは参考にしている のではないでしょうか。けれども、今回は不愉快な思いはありません。手塚氏の精神 を継承し、それを最新の技術で具現化したのであれば、それはそれで立派なことでは ないか。そんな風に思えるのです。
更に想像を逞しくしてみれば、あの人間的で穏やかなモーセ像は、手塚氏の思想にも 通ずるものがあるような気がします。確か、手塚版は旧約の相当な部分が残っていて 本にはなっていたようです。これは確かめてみなければなりますまい。
常識を大切に、流血ではなく和の尊さを信じる日本人の思想が、回り回って世界宗教 同士の和解を促す作品作りに寄与したとしたならば、想像するだけで痛快なことでは ありませんか。

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