フレンチ・カンカン


監督 ジャん・ルノワール 出演 ジャン・ギャバン、フランソワーズ・アルヌール、マリア・フェリックス、エディット・ピアフ、ミシェル・ピコリ

satie(★★★★★)(1999年9月28日)
satie@xa2.so-net.ne.jp
ここに、書き込みして良いのかどうか分かりませんが、パンちゃんのフレンチ.カンカンの感想文を読み、私も嬉しくなったので書き込みさせていただきます。
私はこの作品を小学校時代に観ている筈なのだが、残念ながらあまり記憶に残ってはいなかったのです。おそらく大人の恋の駆け引きやシャンソンの持つ独特のエスプリや風刺を理解するにはあまりにも幼過ぎたのです。
およそ40年以上の歳月を経て再びこの作品を観る幸運を得ましたが、コメディー・フランセーズのピリ辛ギャグとコメディー・デラルテのお祭り気分を同時に楽しめるような作品でもあり、ベル・エポックのシャンソン(それも、超一流の歌手による)もふんだんに聴くこともでき、実に心ときめく1時間40分でした。
勿論ストーリーといえば他愛ないもので、おきまりの恋のさやあてごっこの物語でしたが、カンカン踊りのリズムさながらに全てがトントン拍子に進行するのを観るのは何とも楽しいものでした。
モーツアルトのオペラは“ものみな歌で終わる”といった風情を持つが、この映画も“ものみな踊りで終わる”んですね!。(なんか花田清輝の引用文みたいですみません)
複雑に絡む登場人物の恋愛関係なども踊り飛ばして、メダタシ、メデタシ!
また、ラスト・シーンで延々と繰り広げられるカンカン踊りはなぜかこの監督の父親でもある名匠ルノアールの印象派絵画を思い起こさせてくれました!
制作当時一世を風靡していた歌手やスターの勢揃いという、まさにルノアールならではの快挙に瞠目するばかりでした。
ジャン・ギャバン、フランソワーズ・アルヌール、の他にメキシコ出身のマリア・フェリクス、1995年当時のディスク大賞を得て売出し中のシャンソン歌手フィリップ・クレーやミシエル・ピッコリ、ジャンニ・ニスポジト、ジャン・ロジェ・コーシモン、アンナ・アメンドラなどが出演。
また大ベテランのシャンソン歌手のパタシュウ、アンドレ・クラヴォ、ジャン・レーモン、エディット・ピアフの出演も身震いするほど嬉しかったです。
その頃は未だ新進歌手であったコラ.ヴォケールが声だけの出演をしているし、全編に流れる、名曲(モンマルトルの丘)はいまだに歌い継がれる彼女の名唱の一つですね。
私はパリのボビノで彼女のこの歌を聴いています。(エッヘン)
この作品に観客が酔いしれたのはヌーベル・ヴァーグの旗手達が登場する前夜でもあったことを想うと感慨もひとしおです。
パンちゃん(★★★★★+★★★★★)(1999年9月25日)
好き好き好き好き好き好き。大好き大好き大好き大好き。
もう、あからさまな恋愛劇と歌と踊りがあるだけなんだけれど、むちゃくちゃ好き。
最後のフレンチ・カンカンなんか一緒に踊りたい感じ。「天国と地獄」の曲が帰りの新幹線の中でも家に帰り着いてからでも頭の中で鳴り響いている。
むりやり何かを言うとしたら、何が好きかを言うとしたら……。
ルノワールの映画というのは、まるで映画という感じがしないこと。
出ている役者がみんなその瞬間を楽しんで遊びまくっていること。
映画を見ているんじゃなくて、生きている人間が目の前で遊んでいるのを見ている感じがすること。
どう言えばいいのかなあ、何て言うのかなあ……。
人形劇を見ると、それは現実ではなく「芝居(作り物)」であることがはっきりわかる。これは現実ではないんだ、ということがはっきりわかる。それなのに、そこで展開されるストーリーに引き込まれ、登場人物に自分を重ね合わせる。登場人物に重ね合わせながらも、これは現実ではない、自分ではないという余裕を持って見つめることができる。
ルノワールの映画には、それによく似た感覚がある。
俳優は「迫真の演技」というのではなく、何か、こんな感じの役をやるんだな、というような軽い調子で演じている。演じながら、役を客観的に見ている感じがする。それが「役者たちの遊び」に思える。
でも、それが「遊び」であるからこそ、その「遊び」に入れてもらいたい、その「遊び」の中に入れてもらって一緒に遊びたいという気持ちになる。また一緒に遊んでいるような感じになる。最後のフレンチ・カンカンのシーンでは、幸福感で思わず笑いと涙があふれて来る。
好き好き好き好き好き好き。大好き大好き大好き大好き。何度でも何度でも大好き、大大大好きを繰り返したい。
映画を見てこんなに幸福な感じになるのは何年ぶりだろう。
「人形劇」が「人形ごっこ」という「遊び」であるように、ルノワールの映画は「芝居ごっこ」という「遊び」なんだと思う。
「遊び」だからこそ、プレイボーイはあくまでプレイボーイであり、「女帝」はあくまで「女帝」であり、「初な娘」はあくまで「初な娘」。
そうか、色男というのはこんなふうに微笑み、こんなふうに誘い、こんなふうにタンカを切るのか……。(見ていると、ジャン・ギャバンがフランス人にもてる理由がよくわかりますねえ。男にとっても女にとっても、その微笑みの輝かしさや精神のいい加減さが、一種のお手本なのですねえ。)
「初な娘」はこんなふうに恋をして、振られて、失恋を乗り越えて、そしてまた新しい恋を探すのか。(これもまた、一つの手本ですねえ。)
「遊び」が一種の「人生」の手本というか予行演習のように、ルノワールの映画は、幸福感のなかで人生の予行演習をさせてくれているのかもしれませんねえ。
そしてその予行演習は、本当に楽しい楽しい楽しい「遊び」です。
好き好き好き好き好き好き。大好き大好き大好き大好き。
あ、書き忘れそうになった。ルノワールの映画は色もとてもきれい。黒も白も純粋な輝きに満ちているし、赤にもいろんな表情がある。やはり画家の息子、という感じです。