ブラス!

監督 マーク・ハーマン 主演 ピート・ポスルウェイト、ユアン・マクレガー・タラ・フィッツジェラルド

キリヤマ(5月25日)
eigoka@ocjc.ac.jp
パンちゃん、これは映画の感想にはなっていないけれど、できたらアップしてもらって、沖縄の人には読んでもらいたいので、とにかく書かせてください。
ずっと楽しみにしていた「ブラス!」、那覇ではやっと5月23日から公開になって、昨日(24日)の夕方の回を見に行きました。場所は桜坂のキリン館という古くて小さい映画館。入口で切符もぎりのおばちゃんに「(半券は)いらないでしょ? 捨てましょうね」と言われ、今までこんなことは言われたことはないので「え?」と思いながらも、「はぁ別にいいですよ」と答えて中に入りました。
小さい映画館にお客は12、3人。寂しい。座り心地の良くない椅子に、少し前に座っている初老の夫婦の食べているピーナッツ黒糖の袋のパリパリいう音。せっかくのブラスバンドの演奏だけど、音響が良くないなぁ。ふーん、金管楽器だけのバンドっていうのもあるのね。それにしてもピート・ポスルスウェイトはとってもいい。ブラスバンドだけが生きがいのガンコ親父。歴史あるバンドのリーダーとして気張っているけれど、バンドがなくなるかもしれないという不安は拭いようもなくて、時々気弱な老人が顔を見せてしまう。あきらめ顔の男たちと、たくましい女たち、子供たち。無骨な石炭採掘機械と、可愛らしい家並みの続く穏やかな町の風景。病院の中庭で演奏した「ダニー・ボーイ」は感動的でした。でもイギリスなのに「5ドル貸せよ」って字幕はないでしょう。それと「トーリー党」ってみんなすぐにわかるかな?
...などとつらつら考えているうちに、ついにバンドは決勝へ! 町じゅうの人たちが見送る中、バスはロンドンに向けて出発!
と、突如画面が変わり、満員の聴衆に向かって語るダニーが大写しに。ん? 皆楽器を持ってないぞ? もしかして表彰式? あの客席はロイヤル・アルバート・ホール? あの大きな銀のトロフィーは、もしかしたら優勝したの? ということはもう演奏は終わったの? 演奏なんで一秒も聴いてないぞ? え?
やがて、クレジットが全部終わらないうちに音楽が途切れ、照明がつき、スクリーンのカーテンが閉まりました。
おかしい。
ロイヤル・アルバート・ホールでの演奏の場面がごっそり全部ない!!
どういうこと!? 映写室を見上げ、金返せって言ってやると思いながらロビーに出ると、すでに「金返せ!」の抗議は始まっていました。映画館側が言うには、朝の上映の時にその部分のフィルムが切れたので、編集して上映しているとのこと。それじゃあその後ずっと、クライマックスの部分がないのを黙って上映し続けてたってことですか。重要な部分にしろ他愛もない会話だけの部分にしろ、抜けている部分があるならそれは一本の映画ではないでしょう。そんなものをお金を取って上映するなんてどうかしているんじゃないか、これで映画を一本見たとは絶対に言えない、今すぐ全額返して下さい、と皆で詰め寄っても、館側は半分見たということで半額だけ返すとか、今日は責任者が休みだから対応できない、名前と連絡先を書いて今日は帰ってくれとか言うだけ。押し問答の末、最後まで残っていた8名ほどが全額払い戻しをしてもらいましたが、これでは2時間近くも座って何も見ていなかったのと同じじゃないかと思って、未だに腹の虫が収まりません。窓口でお金を受け取りながら、「この後も明日以降もこのまま黙って上映し続けるんですか!?」と聞いてみましたが、返事はありませんでした。
つまらない映画を見た後、「金返せ」と思うことは皆さんもあると思いますが、まさか本当に返してもらうことがあるとは...。
そういうわけで、那覇の桜坂シネコン・キリン館で「ブラス!」を見に行こうと思っている皆さん、新しいフィルムに交換でもされない限りは、沖縄ではこの映画を最初から最後まで見ることはできません。ビデオが出るのを待つしかないみたいです(ビデオレンタル代も出せ、と言いたい....)。
パンちゃん(★★★★★)(1月15日)
炭鉱、閉山、失業----しかし、それを乗り越えてコンクールでの優勝をめざすブラスバンド。
思いもかけないことなど何一つ起きない。はじまったときから結末がくっきり見える映画である。
それなのにスクリーンに釘付けになる。一つ一つの映像から目が離せなくなる。
細部の描写がとてもすばらしい。特にブラスバンド(炭鉱マン)を支える主婦達の生活がリアルだ。「男(亭主)なんて、頼りにならない、だらしない」と不平をもらしながらも、男を許し、愛し、支えている。と、いうか一緒に生きている。(もちろん、「ズレ」はあるのだが……。)明確な意思を持ち、つましく、懸命に生き、なおかつ楽しみというものを知っている。より華やかな生活、というのではなく、今ある生活を必死に守ろうとしている。その一つ一つが笑いを誘い、涙を誘う。「生きる」ということ、そのおかしさと苦しみが、彼女達の体からにじみでてくる。
そして女達にけなされ、ばかにされ、あきられ、愛想をつかされ、また同時に温かく見守られている男達。女の愛を裏切りながらも、叱られればおとなしくなり、ばかにされれば、甘えもする男達。その、ことばにならない不思議な感覚。調和。
どれもこれもリアルではあるが深入りしない。深刻さを強調しない。やさしさも強調しない。ただ淡々と描写する。その淡々とした描写が生活をくっきりと伝える。みんな生きている、という感じをくっきりと伝える。
ここには不思議な「寛大さ」がある。寛容というものがある。生きるときに人が身につけなければならない寛容の温かさがある。それは対立のなかにも、不思議な感じで、にじみでている。
その「寛大さ」にこそ、釘付けになるのかもしれない。
そして、この「寛大さ」というものに触れたとたん、イギリスという国の強さ、イギリス人の強さ、というものを教えられたような気がする。「人間」と「生活」に対する強靱な哲学をつきつけられた感じがする。
それは「余裕」というものかもしれない。
失業、貧しさ----それは「余裕」とはまったく逆のものかもしれないが、そうした苦しい生活のなかで、「悲惨」とか「すさみ」ではなく、人間の「血」「あたたかさ」というものを感じさせる力----人間そのものの「余裕」というものが、そこにはあるのだと思う。
その「余裕」を具体的にしたものが、この映画では「音楽」なのだ。「音楽」など、失業した男達(女達)に何ももたらさない。コンクールで優勝したからといって金が入るわけではない。彼らが獲得するのは、また「名誉」といった世俗的なものでもない。彼らが獲得するのは名付けることのできない「美しさ」なのだ。人間の、あるいは人間にしか獲得できない、美しさなのだ。
それは「趣味(ホビー)」を持つことができる美しさ、余裕の美しさ、といっていいかもしれない。
(日本の今の現状、バブルがはじけ、不況に右往左往している国の有り様を思うと、特にそのことを感じる。)
「趣味」を持つこと----それは、今、ここ、という状況そのものを、別の視点から見つめてみる時間を持つということだ。
音楽の場合、そこには仲間がいる。それぞれ違った環境を生きる人間がいる。そうした人と音を通してこころを通わせてみる。違った生活をしていても通うこころがあることを知り、その共通のこころを育てる喜びががある。
この映画は、しかし、「音楽至上主義」の映画ではない。「音楽が人生を救う」などとは決して言わない。「人生で一番大切なものは音楽である」と、言いそうになるが、その寸前で引き下がる。そんなことを主張しない。それがまた美しい。「音楽」----それはたまたま彼らの「趣味」である。それは彼らにとってかけがえのないものだが、他人にはまた違ったものがあるだろう。その「差異」を彼らは許容している。その寛大さが、彼らの「趣味」を本当にすばらしいものにしている。魅力あるものにしている。
この姿勢には本当に感動する。こころが温かくなる。
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ブラスバンドが主役の話だから、あたりまえといえばあたりまえなのかもしれないが、音楽の使い方もとても自然で美しかった。
特に若い女が練習に飛び入りし、そこで演奏する「アランフェス協奏曲」----エキゾチックな感じといえばいいのだろうか、新鮮なものにふれてこころが自然に躍動する感じが、その場の雰囲気にぴったりだった。女のトランペットに驚きながら、緊張し、音楽がはりつめてゆく。その感じがとてもいい。
コンクールで優勝し、ヨークシャーへ帰る道すがら、バッキンガム宮殿の前を通るときの「威風堂々」も、何といえばいいのだろうか、「王様」の威厳ではなく、「私は生きている、私は人間なんだ」という静かな誇りがにじみでてくるような、つましい主張が全体をつらぬき、思わず涙があふれてくる。それは人間であること、生きていることを励まされたような感じをもたらす。とてもうれしい涙、喜びの涙だ。「いい演奏ができた」という誇りを胸に故郷に帰る彼らに「頑張れ」と呼びかけるとき、それはそのまま、自分自身に「頑張れ」と言い聞かせることばとなっていることを気づく涙だ。