ブギー・ナイツ

監督:ポール・トーマス・アンダーソン、出演:マーク・ウォールバーグ、バート・レイノルズ、ジュリアン・ムーア

石橋尚平(11月13日)
shohei@m4.people.or.jp
もう一度観てきました。2度目はさすがにそれほど乗れなくなりますけれども、やはり細部の深みがよくわかります。私は感想(私は『批評』とか『評論』とは言わない、そんな大げさなもんじゃないし。『採点』も双葉十三郎じゃあるまいし、ちょっと偉そうだ…)を書く場で、何とか煽りたいから大げさに嘘八百を並べて、わざと挑発的に書きたくなることもありますけれども、この若手監督がすごい才能をもっているってことは、何の誇張もないです。冒頭がそうなんですけれども、なんか虫の子を散らすような、カメラワークが素敵なんですね。しかも当時のディスコ・ナンバーに合わせているわけでしょ。ポルノ撮影の現場のシーンも少なくて、監督の豪邸でのパーティばかりが目につく。あの感覚が素晴らしいですね。キレ悪く留まることなく、リアリティなディティールが目まぐるしく広がっていくでしょ。例えば主人公が豪邸のプールでジャックナイフ式飛び込みをする。次にもう一人の男優が回転式の飛び込みをするわけですけれども、その間にいろんな短い絡みが挿入される。それにプールに飛び込んだ後の水中も映る。子供から電話がかかってくるんだっけ、オーディオ・マニアの黒人が女に赤い服をけなされるんだっけ、ドミニカ人が映画に出たがっているところだっけ…。しかも、その間に主人公を離れた空間から見つめる二つの視線がある。こういったパーティのシーンがふんだんに出てくるのは(というのか、それだけなのは)、R・アルトマンの『ウェディング』ですね。私にとって、思い出すのは。亡くなられた淀川さんなら、もっと古い例をたくさん引かれるでしょうけれども…。最近の『ショート・カッツ』や『プレタポルテ』もそうでしょ。何らかの中心的な挿話に留まることなく、多くの挿話が有機的に流れていく…。誰でもできそうで、これはできない。こんなに生理的な快感を覚えさせるようにはできないものです。この映画冒頭からそうなんですよ。冒頭のディスコ、「ブギー・ナイツ」のシーンですね。あそこでも、主要な登場人物がそれぞれ滑るようなカメラワークに収まっていくでしょ。ローラー・ガールはローラー・スケートで滑っていくし、主人公は監督と初めて目を合わす(この視線の交わし方がいいんですね)。あと、最後に近い監督の豪邸のシーンも好きです。部屋がたくさんあって、監督が室内を歩いていくところ。これは、ジョン・カサベテスの映画を思い出させますね。考えてみると、カサベテスもパーティのシーンが多かった。あの傑作の『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』もこの監督は好きなんだな、ということがよく分かります。カメラだけじゃない、場面と場面のつなぎもいいです。最初の濡れ場の撮影シーンで、撮り損ねがあって、主人公が平然と「もう一回やれる」と言いますけれども、そのシーンは言った瞬間にすぐ次のシーンに飛んじゃうんですよね。その感覚が粋ですね。音楽もいいですね。絶え間なくディスコ・ナンバーを流しているように見えて、けっこう細かく計算しているんですよ。冒頭の自宅のシーンは『時計仕掛けのオレンジ』の引用ですね。私、技術面だけ強調していますけれども、ドラマとしても非常によくできているというか、練られていると思いますよ。裏世界の挫折と栄光という、ありふれた話だけれども、それを感動的な作品に仕上げているのは、人間をとらえるリアリズムがあるからですね。やはり、ディカプリオはこの映画でても良かった気もしますね。この監督のデビュー作は『ハード・エイト』と言って、サミュエル・L・ジャクソンとG・パルトロウが共演していたにも関わらず、興行的には失敗だったそうです。ビデオしかないようですが、今度探してみます。それで待望の新作は現在準備中で、なんと、ジョン・レノンの半生を描いたものになるということです! とにかく、次の作品が楽しみなひとです。
パンちゃん(★★★★)(11月8日)
この映画の特徴は、「非スピルバーグ的」であることだ。
「ストーリー」が拒否されている。
『プライベート・ライアン』には、「ノルマンディ上陸」という「ストーリー」と「ライアン救出」という「ストーリー」があって、その二つは断絶していた。それは「断絶」であって、「ストーリー」の拒否ではない。
この映画にも、「ストーリー」はあるように見える。何のとりえもない少年が巨根を武器にポルノスターになる。そして、栄光と衰退と再出発と……。
しかし、それは「ストーリー」になりきれない。意味を拒否して、一つ一つの映像が剥き出しになる。
どうでもいいようなポルノ監督の家でのパーティーの表情。人と人との出会い。プールではしゃいだり、コカインをすったり、セックスしたり……。
そこには「意味」がない。「過去-現在-未来」といった時間がない。ただ、その一瞬一瞬の充実した生だけがある。それぞれの登場人物が交錯し、交錯の瞬間に輝くだけではなく、それぞれ個人の奥深くでも同時に輝く。
この充実した生は、とても奇妙なことだが、主人公がおちぶれていく過程でも輝いている。いや、落ちぶれていく過程でこそ、強烈に輝く。人間は落ちぶれて生きることができる。その「可能性」が強烈に輝く。
コカインに溺れ、新しい男優の登場に嫉妬し、勃起しなくなった性器にいらだつ瞬間にも、そこには鮮やかに命が描かれている。「ストーリー」を突き破って輝く命が描かれている。
おちぶれ、どうしようもなくなった命が、なお死ぬこともできずのたうち生きているしぶとさというか残酷さというか、やるせなさ、自分自身への怒りとあわれみ、そのどうしようもない輝きというものは、なかなかとらえることができない。
この輝きゆえに、この映画を見て、ある種の人間は胸糞が悪くなると思う。
ここには、ある意味ではくたばって当然ととられかねない命が、しぶとく、死ねずに(死なずにではなく、死ねずに、だ)生きているからである。
人間は「死ねない」--そのことが、なぜか、人間の尊厳のようにも感じられる。尊厳を感じさせるまでに輝かしい映像でとらえられている。
この監督の年齢は、石橋さんの書き込みによれば、26歳である。
26歳で人間をこんなふうに見事に映像化、造形化できるというのは、驚異である。
★が5個ではなく、4個なのは、驚愕ゆえの保留だ。
偶然できたのか、意図して作ったのか、それを確かめてみたい。次の早く作品を見てみたい。
そん(11月6日)
東京でも始まったばかりだったんですね、この映画。もっと前から公開されていると思っていました。
私は10月23日に旅行先の東京で観ました。
感想を投稿しようと思って、「あれ、まだ誰も書いていないのかなあ。」とちょっと不思議に思ったんですよね。
確かに映画雑誌などからこの映画について情報を得てからだいぶ経っているような気がする。それに今回の公開時にも宣伝とかはあまり目にしなかったような・・・。
九州にも来てくれるといいですね、パンちゃん。
前置きが長くなりました。
聞いたことない監督さんだと思ったのですが、26才なんですね!
すご過ぎ。びっくりしました。この映画がメジャー初監督作品なのでしょうか。
全編に70年代から80年代前半にかけてのディスコミュージックがちりばめられていて、懐かしく思われる方も多いのではないでしょうか。私の隣の席の30代とおぼしきOL風の女性同士もそんなことを話していました。
でも、同世代でない私も音楽と映像の疾走に酔わされました。
映画という表現方法でしか味わえない感覚だと思います。
3時間近い上映時間も全く気になりません。座席の座り心地が良かったこともありますが。
アメリカン・ポルノの世界を舞台にはしていますが、うらぶれた感じはなく、むしろ青春ドラマの味わいすら感じました。
なんでR指定なんでしょうね。信じられん。
ラスト・シーンなんてめちゃくちゃ“輝き”を感じました。
この感覚は裏世界(?)の住人だから持ちうるのではなく、誰でも共有できるはず。この映画を観た後、帰ってから頭痛がしたのはパワーをまともに受けたからでしょうね。
石橋 尚平(★★★★★)(11月5日)
shohei@m4.people.or.jp
天賦の才能は突然表れる。この人のとてつもない力量を実感すると、ティム・バートンもタランティーノも単なる映画好きが高じた安っぽい時代の中継ぎにしか思えない。いや、実はもうすでにして彼らの程度の力量では物足りなかったのだけれども、それを認めないではあまりにも不毛なので、我々はそこそこの才能を徒に輝かしく感じていただけの話だ。みんな同じく剽窃の人ではあるが、その剽窃が新しい方向に流れつつあるのがこの映画である。監督のポール・トーマス・アンダーソンがこの映画を撮ったのは二十六歳。オーソン・ウェルズが『市民ケーン』を撮ったのと同じ年齢だ。『エド・ウッド』でティム・バートンが登場させたオーソン・ウェルズは、この映画にそのまま憑依している。『市民ケーン』がパン・フォーカスによってカメラがとらえる光景のほとんどにピントを合わせていたのに対して、この映画は徹底的なステディ・カムの多用で、映像の洪水をみせてくれる。この映画はまさに性的な映画なのだ。性的な快楽と似たような生理的な疼きを感じさせる力強さが画面画面に横溢している。果てることない過剰な流れと、残酷さと叙情とユーモアとエロス。渾然一体とした圧倒的な氾濫に我々は瞠目しなければなりません。スコセッシにも似ているけれども、スコセッシよりも視点が複眼的で奥行きが広い。この映画に遭遇する体験を逃してはなりません。ポルノ映画を舞台にした映画だからと行って、この映画を忌避する人は、すでにして素晴らしい映画と遭遇する資質を決定的に欠いている。それこそ才能の問題かもしれない。そういう人はショービズの映画評でも読んで、『映画に関する話題』を無粋に研究していればよろしい。私は内心その退屈さを哀れんであげるから・・・。その観点なら少しばかりこの映画の若さからくる説明不足の揚げ足をとることができるだろうが。そんなことして何になる? 何を描くのかということも遥に超越して(ほとんどの映画はこのレベルで適当な批評でくくられておしまいなわけだけれども)、どう描くのかということすら、この映画は超越してしまっている。この映画の洪水のような夥しい光景を前にしては、『映画の主題』などを言葉にすることが下らなく極めて野暮なことになってしまう。『既成の社会からずれたアウトローの青春の輝き』云々なんて野暮の極みをこの映画を目の当たりにした後に言えるますか? あなたは。