イン・ザ・カット





はせ(2004年11月5日)
 メグ・ライアンは大学講師。身近で女性バラバラ殺人事件が起こる。まもなく刑事のマーク・ラファロが聞き込みにやってくるが、何度か逢ううちに、互いに好感をえて性的関係ができてしまう。しかし刑事には犯人と同一の特徴があった。彼女は見た。犯行直前の時間に、気まぐれに降りて行った酒場の地下室で、被害者と犯人らしき人物とのセックスの最中を盗み見してしまった。顔こそ暗闇で見えなかったが、男の左手首にスペードの入れ墨があることが視認できた。そして、まったく同じ入れ墨が刑事の左手首にも刻まれていたのだ。刑事で恋人でもある男ははたして真犯人か……。
  
  こう書くとミステリー的展開を思わせ、あらすじとしては確かにそうなのだが、そこに力点はない。この映画の関心の払い所は、主演のメグ・ライアンの心理的世界である。
  性風俗が街に氾濫する。彼女に言い寄る男も数多い。彼女は容易になびかないが、行き来のある妹ともども性には強い関心がある。また、恋愛遍歴の派手だった死んだ父の残像がたびたびあらわれては、男性不信と追慕の情をともに呼び起こす。父を思い起こすことが、目の前の刑事を意識することとかさなる。彼は信頼と愛を寄せるにたる人物なのか……。性的関係があっさりできあがってしまって、そのあとから愛を探るという順番は寺島しのぶ主演の『ヴァイヴレーター』と同じだ。たぶん、現代の現実においても、こういうことはさほど珍しくはないのだろう。
 
  メグ・ライアンの近写がやたら多いから、彼女はカメラの視線を度胸よく引き込んで自分の世界を見せねばならない。ヌードも披露している。私の個人的嗜好もふくめて言わせてもらうと、あまりエロチックではないようだ。そのかわり、複数の男性に対する恐怖や嫌悪や執着の情がよく表現されているのが美質で、惹きつけられる。それらの感情にもおのずから段差があって、社会常識的なものによって自制がはたらいたり、堰を切って男性に露骨にぶつけられる場合もある。その表現にメリハリが効いている。またメグ・ライアンの涙目はさすがにうつくしい。ひきずられて考えたが、美しい女性は男性に対して、私たち男性が考える以上に心の武装をして、社会生活を営まなければならないのではないか。そこのところの繊細さは、誰よりも当の女性がいちばんよく知っているだろう。
  
  メグ・ライアンの近写が多いのとともに、彼女自身が注目する先も「近距離」がほとんどだ。他者に対する関心がもっぱらだが、大学講師であるとともにライター志望でもあるようで、たとえば地下鉄車内に掲示された詩を覗き、ノートする。カメラもそういうライアンに対応するように、ドアのなにげない落書きを、鑑賞者に注視させたりする。思い当たるが、私たちの都会生活も必要最小限度でしか、あるいは余裕のある場合でしか「とおく」を見ないのかもしれない。ほんとうの「とおく」は心の中にしかない、ということだろうか。
  このように、メグ・ライアンを近距離で撮り、彼女の視線を代行するカメラもまた近距離を追うという全体の特徴も見逃せない。女性の心理的世界を描いて繊細だが、いささか息苦しさがともなう。★★★