ガッジョ・ディーロ


yukari(★★★★★)(1999年10月2日)
iwakura@ss.iij4u.or.jp
以前、映画館の予告を観たとき、なんだか切なくて心に残るこの映画音楽に、絶対観ようと思っていました。
しかし行く時間がなくビデオで鑑賞しました。
字幕の歌詞の意味が心に響きました。
観ている途中でこのサントラを購入しようかな などと軽く思っている自分にラストシーンは強く心に残りました。
この作品が主人公であるステファンとサビーナ役の二人以外は役者でないことを後から知り驚きました。
イジドール役の老人やロマの人々は、どれだけの悲しみを背負ってきたのだろうと言葉が出ません。
また、いつかレンタルするつもりです。
また、『Mondo』も心に残る作品でした。
トト(★★★★★)(3月20日)
grazie39@mb.infoweb.ne.jp
あるフランス人の青年が父親の形見であるテープを手がかりにルーマニアのロマの集落を歌手ノラ・ルカを探すために訪れる。
彼は知り合った老人の家に泊めてもらう。最初は彼を受け入れようとしなかった住民たちは彼に対し、徐々に心を開いていく。
一方彼もロマの風習や音楽に触れ、そして彼らの置かれた現実を理解していく。
  かつて見た映画でこれほど強烈な印象を受けた映画があっただろうか。ストーリーとしては取りたてて強烈なものではありえない。だから、ストーリー自体にその圧倒的な印象の原因があるのではない。ぼくがこの映画から受けたものを表す言葉として、感動ということばはしっくりこない。今までに感じたことの無い物である。なにが原因なのだろう?
まず映画のリズムがいい。非常にテンポよく運んでいく。無駄なシーンがひとつもない。冗長なカットがひとつもない。しかし、こんなことは二次的なものに過ぎない。第一、そんなことを意識するのは見終わった後であって見ながらではない。ぼくは見ている最中もいいない興奮に包まれていたのだ。
最もわかりやすい要素をあげるなら音楽である。主人公ステファンが耳にする音楽の強烈さ。これに尽きる。この作品において音楽は極めて重要な位置を占めている。ロマの演奏する音楽の切ないまでの哀愁がぼくの心に染み渡った。ロマはルーマニアでも差別の対象となっている。主人公を家に泊める老人の息子はロマであるために正当な理由も無しに逮捕される。彼らはこういったことをもう大昔からヨーロッパのいたるところで経験してきた。そんな彼らが人々から尊敬の目で見られている一番のものこそが音楽である。楽士としてロマは超一流である。その音楽によってのみロマの存在が肯定されているといっても過言ではないかもしれない。この映画の中でもおそらくどこかの有力者であろう人々が悪趣味なベンツでロマの集落を訪れる場面がある。娘の結婚式に彼らに演奏してもらうためである。ロマに対する不当な扱いを酒場で訴え嘲笑を浴びた老人イジドールもここでは強気に料金を設定し、けしてその主張を曲げたりはしない。そして有力者もその条件を飲まざるをえない。それほどまでに彼らの音楽は重要視されているのであろう。しかし、その有力者がロマの女性たちからうやうやしく接吻を受ける場面に象徴されるようにロマでない人々はロマを自分たちよりも下の人間と見ていることにかわりはない。
ロマはヨーロッパにおいて常によそ者としてみられている。ちなみに、ガッジョ・ディーロとはよそ者を表す。そんなよそ者の中に更によそ者、つまりフランス人であるステファン、が入り込んでいく。この構図も見逃せない。最初、彼はよそ者だからゆえに許される無邪気さとでもいうもので住民に接していく。その彼の無邪気さが住民の警戒心を解くことになる。印象的なシーンがある。ステファンがロマの伝統音楽を録音するために老女のところを訪れる。兄弟の悲劇に材を取ったその歌を聴きながら連れの彼女は涙を流す。しかし、ステファンは言葉が分からないのであろうが、その歌を聴くのが楽しくて仕方ないといった様子を見せる。このことに関し、彼を責めることは誰にもできないであろう。彼は他でもない、よそ者なのだから。それまでにロマの集落で彼が聴いた歌はどれも楽しいものばかりだったのだから。しかし、そんなよそ者もそれなりの期間ロマと行動を共にすればもう完全によそ者であるわけにはいかなくなる。このあたりの変化が実に丁寧に描かれている。死者の墓に酒を供えその周りでフラメンコ風に踊ることによって哀悼の意を表すロマの習慣を最初に目にした時ステファンは不思議そうに、好奇心を持ってその場にいた。この時点では彼は間違いなくよそ者だった。その後彼が体験したこと、例えば例の彼女、サビーネとの恋、そして何よりもイジドールの息子アドリアーニの非ロマによる惨殺、イジドールの悲しみ、これらのことを体験してはもうよそ者であるわけにはいかなくなってくる。彼はもう知ってしまったのだ。ロマの素晴らしい音楽を、彼らの素朴な生活を、そして彼らの置かれた環境を身を持って知ってしまったのだ。いや、感じてしまった、体験してしまったといったほうがいいかもしれない。彼はここを訪れる以前にもそれらのことを知っていたであろう。しかし、それはあくまで本やテレビを通じてのものだったにちがいない。この映画には生の体験がある。生の驚きや戸惑いや喜びや悲しみがきわめて高い純度で描かれている。
その一つ一つが見ている側にもそのままに伝わってくる。実際に自分の目で見て彼はもう以前のよそ者ではいられなくなったのだ。少なくとも彼個人にとっては。それでは周りの人々はどうなのだろう、ふとそんなことを思わずにはいられない。これについてはぼくのとても気に入ったラストシーンがある。彼がそれまで録音していたロマの音楽のテープを破壊するシーンである。彼はいう、「おれって馬鹿だな」。そしてそれまで大切にしていたテープをすべて石で叩き壊して土に埋めてしまうのである。それらを土に埋め、酒を捧げその周りで踊り始める。ロマ音楽を録音するという行為はよそ者の行為である。そのテープを破壊することで彼はよそ者であることをやめたのだ。それらを埋葬することでそれまでのよそ者としての自分とは決別し、不器用にではあるがロマの踊りを舞うことで、不器用にではあるがロマと生きようと決めたのではないだろうか。そしてそれを見つめるサビーネの表情に優しい微笑みが浮かぶ。この微笑みはとても印象的だ。映画はここで終り、強烈なそれでいて切ない音楽と共にエンドロールが始まる。
見終わった直後の衝撃をこのつたない文章で表現するには限界があるが、そのうちのわずかでも感じていただければ幸いである。ぼくとしては何より、この文章などを読むよりも実際に映画館にいき、ご自分でロマの音楽を味わっていただきたいと思います。
 
panchan world
Movie index(映画採点簿の採録)