風の吹くまま


監督 アッバス・キアロスタミ


パンちゃん(2000年1月4日)
この映画はアッバス・キアロスタミの「ゴドーを待ちながら」である。
ベケットの「ゴドーを待ちながら」はゴドーの正体はわからないが、この映画ではわかっている。老女の死である。
映画スタッフがある村の葬式を取材にくるが、肝心の老女が死なない。
死まで、ただひたすら時間が延長される。その間にすることは何もない。ただ待つだけである。
そして待っている長い長い無為の時間の中で、その村の自然の美しさ、人々の暮らしの美しさが浮かび上がってくる。夫婦喧嘩や、猥談、貧しい暮らしの中にも人間の、人間としての美しさが浮かび上がってくる。
映画を撮りにきた主人公は、なかなかそれに気がつかない。
その、なかなか気づかない感じ、その村の時間とは違った時間を生きている人間(それはたぶん、私たちの姿かもしれない)の、苛立ちの感じが、携帯電話を使って巧みに描かれていて、おもしろい。
その主人公は、生き埋め事故に立会い、一人の医師と出会う。
そこからがこの映画のクライマックスなのだが、私は、そのシーンに不満がある。
クライマックスは非常に美しいし、そこで語られることはそのとおりだと納得できるが、ことばのしめる割合が大きすぎる。
前作の「桜桃の味」と同じように、主人公を説得するもの、観客を説得するものがことばである、という点に疑問が残る。
私たちは結局、ことばを聞かされるために映像を見ていたに過ぎないのか。美しい映像は、ことばの背景に過ぎないのか。
そうではないことを祈りたい。美しい風景のために、風景の美しさ、世界の美しさを引き出す監督の手腕ゆえに、そう願わずにはいられない。

きのう書いた風景の美しさのほかに、私は最後のシーンも非常に美しいと思う。
主人公が骨を川へ投げる。カメラがその流れを追ってゆく。骨の流れを作為で動かすことはできない。ただ流れのままに追ってゆく。そのとき、川に、川の水に、表情が生まれる。その瞬間が美しい。
思い返せば、村の中のシーンも、そのようにして撮られたに違いない。
カフェのシーン、妊婦との会話、それらはやはりその場で、その場の流れにそって撮られたものだと思う。
そこには映画にしか表現できない美しさが満ちている。
だからこそ、医師との会話、クライマックスが気になる。
もっと、ことばに頼らないシーンはできなかったのか。

パンちゃん(★★★★★)(2000年1月3日)
キアロスタミは最近、映像の美しさに重点が偏っているかなあ。
あまりに美しすぎて、ちょっとこまる。
この映画でも、前作の「桜桃の味」でも同様、最後の方に出てくる登場人物のせりふが主人公の考え方に影響を与える点が、あまりに「ことば」にたよりすぎているような気がする。
それでも、ポスターに使われているシーンや、夜から朝にかけての村のシーンなど、びっくりしてしまう。
(この映画も、後日もう一度書きます。)

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