監督:葵明亮、出演:季康生、苗天他


タカキ(★★★★)(3月24日)
TakakiMu@ma2.justnet.ne.jp
去年末頃に、衛星第二で「青春神話」「愛情萬歳」をやっていたので録画したが、未見。
こういった映画は、いったい何を書けばいいのかわからないけれど、とにかく奇妙な感覚におそわれる。
抽象的な感覚が次々と、「どうだ。おまえはどうだ?」と迫ってくる。受け入れがたい不条理な現実の前に立って、理解できない複雑な自分を背負って、主人公は窓を開け、ベランダへ出る。でも・・・・飛び降りない。
自分自身の歪みから逃げてはいけない。
空虚をまとっておきながら、今さら何を怖れるというのか。
単に死ぬ勇気がなかっただけかもしれないが、死ななくて、よかった。死んでいたら救いがない。しかし、「ニンゲン合格」といい、コレといい、この、極東を被う言いようのない絶望感はいったい何なのでしょうね・・・・・・・。
パンちゃん(★★★★★)
映画を見ている間中、私は不思議な感じにとらわれた。映像がとても懐かしいのだ。
私は台湾に行ったことはない。台湾映画をたくさん見ているわけではない。しかし、懐かしく感じる。20-30年前に、いや生まれるよりもはるか前に、こうした映像を見た感じがする。
変な言い方だが、記憶がえぐり出され、記憶を浮かび上がらせられたという感じがする。
たぶん遠近法のせいである。
侯孝賢の映画でも感じたことだが、台湾映画には不思議にきっちりした遠近法がある。どのような映像にも近景・中景・遠景という構造がある。室内の描写にしても必ず奥行きがある。これははっきり言って不思議である。
そして、その遠近法の中で人間が動くとき、その感情にも何か不思議な遠近法が反映する。
登場人物がぴったり自分と重なるのではなく(つまり、登場人物に感情移入してしまうのではなく)、ここに登場する人物は私とは違う人間だ、という思いが常につきまとう。一定の距離感が常に存在する。しかし同時に、私とは違う人間であるけれどやはり生きている人間だという思いが、その遠近法の奥から浮かび上がって来る。
こうした感覚は、アメリカやヨーロッパの映画を見ている時には感じない。
デビット・リーンの遠近法も島国特有の繊細で美しい遠近法であるとは思うけれど、その空間の遠近法が人間関係の遠近法にまではつながってこない。
台湾の映画だけが、なぜか、風景の遠近法と人間の感情の遠近法が融合するようにして迫ってくる。
ラストシーン、主人公がラブホテルの窓を開け、テラスに出てテラスをふらつく。室内に設定されたカメラから主人公の姿が消える。セミの声が聞こえる。あ、主人公は肉体的苦痛が耐えられず、精神的苦悩が耐えられず、自殺するのかなあ、と思っていると、再びあらわれる。どうすることもできなくて、ただテラスに出て、体を外の光と空気にさらしている「時間」が「時間」のまま、「遠く」に見える。
その「遠さ」--そして、それを「近く」と感じさせる不思議な遠近法に引きつけられる。一番手前(近景)に明かりのついたランプ。その向こう(中景)にもぬけの空になったベッド。そして遠景に主人公のどうしようもない肉体。
遠景としての肉体は、私からははるかに遠い。しかし、近景と中景と遠景という構造の不思議な親近感と、近景・中景の存在の不思議な日常感が、遠いはずの(遠景の)主人公の苦悩・生理を非常に身近なものとして引き寄せてしまう。
そうしたことが、あらゆる場面で起きる。
たぶん、強引で、あいまいな言い方になるのだが、こうした映画を見ると、あ、私は東洋人だ、という思いが非常にしてくる。それも島国の東洋人だという気がして来る。
中国映画にも感じない、韓国映画にも感じない何かが台湾映画にはある。
*
ラストシーンに代表される不思議な東洋的遠近感は、たとえば『さすらいのふたり』や『ダメージ』のラストシーンの風景と比較するともっとわかりやすくなるかもしれない。
『さすらいのふたり』や『ダメージ』には「虚無」の暗さと明るさがあるが、『河』のラストシーンを作り出しているのは「虚無」ではなく「無」である。東洋的「無」の感覚である。
「虚無」には何も存在しない。しかし「無」の世界には何も存在しないのではなく、あらゆるものが存在している。「無」のなかにはあらゆるものが形を求めてうごめいている。「形」がないから「無」と呼ぶ。「無」はあらゆる「可能性」の別の名前でもあるのだが、そうしたことを、『河』の映像は、なんともいえない感じで伝えてくる。
主人公の状況は絶望的であるにもかかわらず、そこには不思議な命のあたたかさがある。命のうごめきがある。そのうごめきのために、東洋的遠近法の描き出す「空間」がある。
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映画を見ていない人には、私の書いていることが何のことかさっぱりわからないと思う。見ている人にも何だかよくわからないことを書いているかもしれない。
だが、こんなふうにしか、今の私には書けない。
私はここに描かれている「東洋的遠近感の空間」が嫌いではない。とても懐かしく感じる。その懐かしさゆえに★5個。
石橋 尚平(★★★★)(8月8日)
shohei@m4.people.or.jp
私は台湾ニューウェーブが好き! 「何それ」って? 台湾ニューウェーブですよ。こいつらは本当にニューウェーブ。「芸術映画」でも「アート系」でもない。世界の新しい映画の潮流。ある本を読んでいたら、「世界が均質化する中で独自性を打ち出す台湾の芸術映画」なんて書いていたけど、それは大間違い。私はそういう範疇のくくり方が嫌い。「ハリウッド系映画」対「芸術映画」なんていう図式自体それこそ「世界の均質化」の賜物なんじゃないのかな? 侯孝賢とか楊昌徳なんてすでに巨匠になっていますけど、この映画の監督の葵明亮(ツァイ・ミンリャン)って、ニューウェーブの急先鋒ぶりを表に出しぎるところが確かにある。だから、その図式通りの括弧付きの「芸術映画」にされかねないところがあるんだけど、両巨匠と同様に「地域の独自性(土着性?)」を打ち出しているんではなくて、あくまで世界映画のフロンティアで普遍的な「新しい映画」を実験しています。これまで「青春神話」、「愛情萬歳」が日本で公開されていますが、三部作(話がつながっているわけではないのでどれから観てもいいですよ)の最後になっている今回の「河」は、前二作から一層物語とか説明とかを削ぎ落としている。張りつめたリアリズムあるのみって感じで、淡々とストーリーの起伏のない描写を進めながら(…矛盾してるでしょ)、現実の漠然とした不安感を漂わせている。この映画も、映画が持っている何かを言葉で表現しようとすればするほど、なんか離れてしまい、凡庸になっちゃう…。私はこの作品は誰にも勧めるわけではないです。「なんじゃこれ、金返せ!」って怒る人がいてもいい(いや、誰か怒って欲しい…)。三部作の中では私は「愛情萬歳」が一番好きだな。