ゴースト・ドッグ


監督 ジム・ジャームッシュ 出演 フォレスト・ウィテカー

stepp(2000年7月7日)
ジャームッシュの映像の魅力は、現実の世界とは全く異なる異世界を描いているようでいて、実は現実の世界を如実に表していることだと思います。
私は、この映画は「武士道への憧れとその思想の復権」と素直に受け取りました。
人権思想が絶対化している現代においては、それを完全に理解することなど私には不可能だとは思いますが・・。
「葉隠」の精神とはどのようなものであったのか、主人公ゴーストドッグとともに考えながら楽しくみれました。
まるで日本刀のように二丁の拳銃を操り、主君に忠誠を誓う姿のなんとカッコ良いことか(私だけ??)。
このような命の使い方もかつてあったのだということでしょうか。
(危険な考え方であることは承知しております。)
失われた遠い日本の文化が、みかけ上ちょっとアメリカナイズされて帰って来てうれしく思いました。
よって、★★★★!!
パンちゃん(★★★★★)(1999年12月25日)
ジム・ジャームッシュの映像は「絵」にならないところが気に入っている。
テオ・アンゲロプロスなど長まわしの一瞬一瞬さえも「絵」になってしまうので、見ていて窮屈に感じるところがあるが、ジャームッシュの場合は、そうした窮屈な感じがしない。視線がいつも解放されていて、見たいところだけを見ていればいい、という感じがする。
色彩もとても気に入っている。日常見ている世界の色と差がない。とても親しみやすい。
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この映画で一番気に入ったのは、フランス語しか話せない不法入国のアフリカ系(カリブ系?)の男とフォレスト・ウティカーが会話する場面である。
二人は互いのことばを理解しない。そして、同じことを真剣な表情でそれぞれのことばで語る。二人はお互いが理解しているかどうかことばでは確認できない。しかし、なんとなく理解していることを感じあう。
こうした人間の感覚を伝えるには、「絵」になりすぎる映像ではだめだろう。
日常の私たちが抱え込む体温、体臭のようなものをそのまま伝えるような映像、その場に私たちがいるような錯覚に陥るような、「平凡」な映像が必要だろう。
「平凡」というのは、大抵は否定的な意味に使われるが、「平凡」というものにしか伝えられないものがあることを、この映画はとても静かに教えてくれる。
「平凡」というのは、何かことばにならないものをそのまま伝えようとする時に、私たちが必然的に用いる手段かもしれない。
明確なことばにしてしまえば、きっと何かが違ってしまう。だから、それはことばにしない。語らない。語らないことで、ことばにならないことが今、ここになるのだということを伝えたい時、たぶん「平凡」という表現が一番いいのだと思う。
「平凡」が含むあいまいさ、幅の広さが、それぞれに重なり合い、そこからじっくりと感情が浮かび上がってくる。意味ではなく、こころが浮かび上がってくる。
二人の会話は、意味ではなく、こころで会話していることを、とても美しい形で私たちに教えてくれる。
そうした時間の、温かく、気持ちのいい感じが、ジャームッシュの映像にはあふれている。
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マフィアの集団が、みんな年寄り(?)というのもいいなあ。とても暴力抗争などできないような、体の線がゆるんでしまった男たち。年寄りの肥満体。平凡な年寄りにしか見えない男たち。
そこにも「平凡」なものの持つ味わいがある。
マフィアとはいうものの、いつ、どこにでもいるような人間の体温と体臭がある。それが重なり合って、ありふれた日常を作って行く。
ありふれた、といっても、そこはマフィアだから、もちろん私たちの生活そのものとはずれているのだけれど、それが「平凡」であればあるほど、ずれがくっきりと感じられ、とてもおかしい。くすくすと笑わずにはいられない。
これが『ゴッド・ファーザー』や『仁義なき戦い』のようだったら、つまり、私たちの生活と極端にずれてしまっていたら、そこからは「ずれ」は浮かび上がって来なくて、くすくすという感じにはならない。
「ずれ」が見えない方が「ずれ」が見え、「ずれ」が極端の場合は、それを「ずれ」として意識しないということかもしれない。
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途中につかわれるアニメも美しい。
アニメはかつてはシンプルな、想像力をたっぷりふくんだものだった。今のアニメは、余りにも情報が多くて、圧倒されるばかりで、こころが重ならない。
しかし、昔のアニメはシンプルで、描かれている世界も「平凡」である。「平凡」であるからこそ、そこには描き落としている多くの「情報」があり、そのが見ている意識のそこからふわっと浮かんでくるのかもしれない。
それはジャームッシュの映像、映画にずいぶん似ている。
「平凡」であることを選ぶことで、ジャームッシュは観客の想像力を解放している。
それがこの映画の一番美しい点かもしれない。