この櫂に手をそえて


監督 呉天明 主演 朱旭、チョウ・レンイン、猿
パンちゃん(★★★★)(9月14日)
ファーストシーンに雨にけむる中国の風景画が出てくる。その遠近感が、なんともいえないくらい「東洋」である。ヨーロッパやアメリカの映画では存在しない遠近感である。
雨、濡れた道、濡れた道に映る空の色、空気の色が「東洋」である。
そして、その空気になじむ派手な色(正月か、祭りか)が、また「東洋」である。
これは何でもないようなことだが、たぶん大事なことだ。
映画は大道芸をやっている老人と少女のこころの交流を描いている。老人は自分の芸を引き継いでくれる少年を探していた。少女は「少年」と偽り、老人に接近する。
そこから始まるこころのドラマ、悲しい愛--それが、「東洋」の伝統、老人の芸を引き継ぐべきものは、「男」であるべきだという伝統を変えていく。それがこの映画のテーマだからだ。
純粋な愛、無償の愛が、人のこころを開き、人のこころに深く潜む「伝統」を変えていく。
--だが、本当だろうか。
私にはどうもよくわからない。ファーストシーンの山水画のような遠近法、空気の湿り具合、独特の赤--それは、今も、私たちの感性のなかに生きている。
その風景は、少女の無償の愛によって老人がかわってもかわらない。船を浮かべる川の水の色が変わらない。川の水の匂いが変わらない。
うーん、困ってしまった。
劇場のあちこちで聞こえるすすり泣きを聞きながら、私は、なぜか、そのすすり泣きに納得できなかったのだ。
これは「西洋」に向けられた映画にすぎないのではないのか。そんな思いがしてしまった。
老人のこころが「東洋」の伝統を離れ、純粋に「人間」そのもののこころにかわったのなら、そこに、そのこころとともにある風景もかわらなければならない。ところが、そうではない。それにひっかかってしまった。
とはいうものの、★は4個。朱旭の演技にただただ感心した。少女の張り詰めた目もよかった。
ただし、猿にはまいった。老人がふさいでいるとき、少女と老人が写った写真を引き出しから取り出して、老人に見せるのだが、おいおい、猿なんだから、そんなことするなよ。人のこころなんか察するなよ。みんながしんみりしているところで、私は馬鹿笑いをしてしまった。このシーンで、この監督がひたすら観客にこびていることがわかってげんなりしてしまった。「東洋」の風景が気になるのも、もしかすると、そうした監督の姿勢が、どことなくちらついているからかもしれない。


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