マイ・フレンド・メモリー

監督 ピーター・チェルソム 主演 エルデン・ヘンソン、キーラン・カルキン、シャロン・ストーン

灘かもめ(1月31日)
seagull@d1.dion.ne.jp
あ−−、スティングの「THE MIGHTY」(挿入歌&エンディングテーマ)が 頭から離れない−−。
ここでスティングを持ってくるとは卑怯なり!
しかもスコットランドっぽいアレンジでだなんて・・・。
私はこの手の音楽に弱い。スティングは、大ファンだからよけいに。
マックスがケビンを肩車して、橋を渡るシーンに流れていたあの歌。
もうすでにこの時点で、私は感動してしまっていたのでした。なんて単純。
ケビンとマックス、二人はちょっとだけ、のび太君とドラえもんの関係に似ている。
のび太君は、ぐずでのろまでいじめられっ子。
ドラえもんは、自分の住む世界21世紀(あら、もうすぐドラえもんの世界になるのね)では、奇形(耳がないから)で、しかも誰かにとって特別な存在というわけではない。
二人は、のび太君の世界で、二人一緒にいることで存在し得る関係・・・とでも言うのかなぁ。一見、のび太君が、ドラえもんの力を一方的に利用しているように見えるのだけど、実は違うのです。
ドラえもんは、自分のほんとうの世界では、立派で便利な特別な ロボットというわけではない。他にいくらでもドラえもんと同じ働きをするロボット がいるし、耳が無いことで「かっこわるい」と、ばかにさえされているのです。
のび太くんは、そんなドラえもんを、「特別」でもない「かっこわるい」ドラえもんを 必要としているのです。
のび太君に必要とされているから、ドラえもんも、のび太君を必要としているのです。
「必要」と書くと、なんだか計算めいたかんじに受け取れるかもしれないけれど、 ほかに、いい言葉がみつからない。
ケビンの言っていた、「友情」じゃなく「パートナー・シップ」って言葉にあてはまるかも。お互いに、ハンディを持つもの同志が「友情」「友達」なんて言うと、いかにも「偽善」と受け取られそうで、イヤなんだろうね。「パートナー」として、それぞれの 役割を果たす、と決めておいたほうが、お互い納得できるのだと思う。
(もちろん、「パートナー・シップ」の中身は「友情」や「信頼」だったりするんだけれど。)
  だから、イヤ気のさしたマックスを言い包めることができたんだろうなぁ。
二人が、補い合うことで自分一人ではできない事を成し遂げ、「人を必要とする自分」から「人に必要とされる自分」に変わっていく過程が、すばらしいと思う。
ただ、少し不満が・・・・・。
二人と大人達との関わりが、少し薄いかな・・と感じました。
私は「マイ・フレンド・フォーエバー」が大好きで、どうしても、二つを比べてしまう。設定がほとんど同じせいもあるので・・。
「〜フォーエバー」の難病の少年の母役だったアナベラ・シオラの存在感を越えるものを、シャロン・ストーンから感じることは無かったのです。
シャロンの演技は、すばらしかった。でも、先にアナベラ・シオラの演技を観てしまったがため・・・・・、ごめんなさい。それで、星は★★★★です。
それから、後半、ケビンの言葉は美しい石のように、一つ一つがすばらしかった。
・・・すばらしすぎました。ちょっとだけ、大人(の登場人物)にも、言わせてあげたいなぁと思ってしまった。
これ以上書くと、ただ水を差すだけになるので、やめましょう。
でもとにかく、観てよかった、と素直に言える作品でした。
・・・と、ここで超(笑)蛇足。
「マイ・フレンド・フォーエバー」観てない方、今すぐ借りて観てね。
パンちゃんは「〜フォーエバー」観られましたか?
似た設定の作品を、比べて批評するのは、反則ですよね−。
(二作品、同時に観るのならいいですけど)
でも、どうしても比べてしまう。どうしようもないよぉ〜〜。
自動販売機にやつあたりするグエンと、彼女を慰めるマックス、このシーン。
マックスは「こんど、あいつが早く食べ過ぎたら、ひっぱたいてでも止めます」
と、一生懸命言うのだけど、それは、息子の命の短さを宣告されたグエンにとっては、 なんの慰めの言葉にはなっていない。ズレているのだけど、二人のケビンを思う気持ちは重なり合ってる。すごくいい場面なんだけど・・。
でも、「〜フォーエバー」では、 ストーリーの中で、そのズレと重なりが何度も繰り返される。しかも、さりげなく、とても、やさしく。それと比べると、どうしても、弱い、と感じてしまう。
わ〜〜〜、何言ってるんだろう。自分。
「〜メモリー」は、全く子供たちだけの世界なのだろうか。
う〜〜〜む、ワケがわからなくなってきたので、このへんで・・。
書き逃げですなぁ(笑)
パンちゃんが日記で書いていた「暴力」という言葉。
それは、生命の中にある、「もどろうとするちから」なのかもしれない。
常識にもどるのか、自分にもどるのか、善にもどろうとしているのか・・。
確信の持てない決断をしたり、行動をとったりするとき、 こころは常に揺れ動いている。
「嘘」はイコール「善」ではないけれど、「嘘」を、自分の「真実」だと確信できるなら、こころの揺れや惑いは無いだろうと思う。
でも、「嘘」は、ものすごいストレスなんです。
わわわ、またまたわからない話になってしまった・・。ごめんなさい・・。
パンちゃん
「暴力」「もどろうとするちから」については、1月31日の日記に書きました。考えるヒントを与えてくれてありがとう。
                     しーくん(★★★★★)(1月18日)
kanpoh1@dus.sun-ip.or.jp
少し前までは、このジャンルの作品はいくら秀作だと聞いても(ビデオ化になってからでいいや)と劇場には足を運びませんでした。この作品を観て、いかに自分が馬鹿であるかが解りました。映画として作られた作品はやはり映画館で見るべきなんですね。15日の祝日に見たのですが(客は少ないだろうな)の予想に反して、劇場は7割くらい埋まっていました。若いアベックや若い層の女性が多いのには驚いたのと同時に感激でした。この作品のすばらしさはすでにコメントされた方々の通りです。主人公の二人が”勇者”になる時、映像はスローモーションになります。(他のシーンでもありますが)スローの多用は下手をすると嫌気がさしてくるのですが、そんな事はありませんでした。ただあまりにも美しすぎる(クリスマスに*****のシーン)と思うところもありました。・・・・・すばらしい映画を紹介していただき私の映画の世界がまた1つ広がりました。どうもありがとうございました。
パンちゃん(★★★★★)(1月16日)
信じられないくらい美しい映画だった。
ひとつひとつのシーンに愛情がこもっている。細部までしっかり映像になっている。しかもおしつけがましさがない。淡々としている。
ぐずでのろまと思われていた少年が障害者の少年を肩車する--少年の足になる。二人の少年は二つの視線を生きている。そのとき自由な視線を手に入れるのは障害者の少年だけではない。ぐず、のろまとばかにされていた少年も自由になる。その関係がいいなあ。
二人が表現しているのは、人間の弱さと強さだ。人間は弱いと同時に強い。
この矛盾した関係を、二人の姿を見る人間が、自然に納得する。それが、生徒たちや町の人々の視線の変化でとらえているところがすばらしい。たとえば、酔いつぶれたホームレスさえもが二人の姿を見て、ふっと微笑みをかえす。二人の姿にはなにか不思議な輝きがある。何かを気づかせる力がある。
いろいろ好きなシーンがあるが、私は、二人が食堂でチンピラに抗議をするシーンが好きだ。チンピラが女をいたぶっている。二人がそれを止めに入る。男は二人の少年を一喝したいが、なぜかできない。「弱者」を見るからだ。「弱者」を否定するのは簡単だ。二人の少年を叩き出すことはたぶん簡単だ。だが、そうしてしまえば男は自分が「弱者」を相手に暴力をふるい、暴力で「弱者」を支配しているにすぎないということがわかってしまう。その事実に気づく。気づき、たじろぐ。それは自分の「弱さ」の発見だと思う。
----これ以上、このことを書くと「うるさい批評」になってしまうだろう。
だが、もう少し……。
少年が国語の時間に先生の質問に答え、物語の主人公の行動を「かつて自分が傷つけられたことがあったから、今度は相手を傷つけたいと思ってそうするのだ」と分析する。このシーンと、書き始めた物語をどう終わらせていいかわからず、「アーサー王」の結末をなぞるように、自分の物語を終える。このとき少年は死んでしまった少年のこころそのものをなぞっている。その、他者への頼り方が好き。「弱さ」と「強さ」の発見の仕方、具体化の方法が好き。
石橋尚平(★★★★★)(1月12日)
shohei@m4.people.or.jp
http://www.people.or.jp/~gokko/index.htm
素晴らしかったです。思わず泣いてしまいました。おそらく、このページを読んでい なかったら、この映画を観に行っていなかったかもしれません。マイ・シリーズは初 めてですし…(笑)。パンちゃん、イングマルさん、そんさん、ありがとうございま した。
※                             ※
さて、分析に入ります。野暮の極みですが…。ネタばれになるので、気になる方はと ばし読んで下さい。
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この映画、格子がたくさん出てくるんですね。シンシナティの橋の支柱の格子。マッ クスのベッドの裏側の格子。マックスの部屋の窓の格子。マックスの格子模様のシャ ツ(何種類かあります)。不良少年たちにマックスが投げつけるマンホールの格子。 バスケット・ボールのゴールの網。騎士の甲冑を展示した博物館の欄干の格子。騎士 の上半身を覆う鎖帷子。橋の上で走るマックスの背後にくるトラックのグリル。それ に、マックスが軟禁されるあの暗いアパートは外観も内装も画一的で格子みたいで す。
最初の方のシーンでマックスがベッドの裏側から青空を透けて見る幻想的なシーンが ありますね。あれは、外部の世界を分節しようとすることの比喩なのですね。知能が 鈍いと考えられているマックスですけれども、それは彼が言葉を失っているからで す。彼はトラウマの抑圧から言葉で何かを表現することができないんですね。だから 不良にも言い返さないし、鈍いと思われてしまう。だけれども、感受性は強い。強い 思いが渦巻いている。だけどもそれが表現できない。言葉というのは、世界を分節す る網の目みたいなものですね。その網の眼によって、我々は世界の距離を知り、世界 を認識する。彼にその世界を認識するための、『アーサー王伝説』を通じて言葉を与 えたのは、聡明な少年フリーク(freak=奇形)ことケビンですね。彼はマック スの部屋の格子窓から彼に呼びかけて、マックスを外の世界に連れて行きます。
フリークは骨格という『格子』の成長が止まってしまっているのに、細胞がどんどん 成長していく病気を患っています。一方、マックスの父親であるキラー・ケーンは、 マックス以上に肉体が肥大していますね。マックスは肉体の肥大を恐れる。キラー・ ケーンを悪の肉体の分身と意識下で考える。自分の中に、肥大する肉体が同じくある ことを恐れている。この不安は、彼の失語症と同じで、内部で渦巻く思いが外に発散 しえないで強い抑圧となっているわけですね。これは、内蔵が骨格(格子)を超えて 肥大していこうとする、フリークの病状と同じなわけです。
マックスは鋭い直観から、他の人が窒息する不安にかられて、2度叫びます。1度目 はフリークが食堂でスパゲッティを頬張るシーン、2度目は軟禁されているアパート の部屋で父親がムショ友達の女の首を締めようとするシーン。これは彼の内なる肉体 からの強い圧迫による不安からくるものです。彼は父親、すなわち、もう一つの自分 の内なる不浄な肉体が、女の首を締める姿を想像して(バス・カーテンで遮られてい る)、満身の力を込めて、束縛を解いて立ち上がります。ここで、彼は旧式のスチー ム・ストーブに縛られているのですね。そう、このストーブも格子なのです。
ラストで父親が逮捕される時、干してある洗濯物が父親をつつみます。この洗濯物が 素晴らしい。この洗濯物は、白地に薄いピンクのストライプの布なんですね。柔らか い模様の布がもう一つの肉体の恐怖を覆って、不安を解消させていくわけです。さら に、マックスがフリークの言葉から、人工身体の研究所だと思っていた建物は、病院 のクリーニング場だったんですね。ここでも布が画面を覆います。ここでは白い布。 雪がシンシナティを覆っていたように…。そして、マックスは白い本を言葉で埋めて 行こうとするんですね。
とにかく、この映画感動させるだけでなく、本当に巧いです。言葉で頭にくるだけで なく、感覚で身体にくる。だから泣いてしまうわけですね。そういう素晴らしい映画 でした。
そん(1月11日)
ひどい邦題と「マイ・シリーズ」というふざけた宣伝のせいなのかは知りませんが、福岡のシネ・コンで週末の夕方からだったにも関わらず人の入りはさっぱりでした。
悲しいのう。ほんっとうにいい映画なのに。
友達同士がお互いを補い合って現実を切り開いてゆく、というこの話は人間の一番眩しい部分を丁寧に描き出しています。
“お涙ちょうだい”という表現なんかクソ食らえって感じ。いや、泣くんだけどね。
内容のファンタジックな素晴らしさについてはイングマルさんの感想そのものです。
さらに特筆すべきはケビン役のキーラン・カルキン。彼はすごいです。兄貴のほうが華がある感じですが、弟はその皮肉っぽいユーモア心とマッドスキルな演技力で完璧に勝っています。
“かわいい”といわせる演技ではなくて“やるねえ”て感じ。つまり、ガキだからっていう留保条件を観ている大人に与えない。私はケビンと真剣に友達になりたいっす。
笑えるのは食堂でのマーロン・ブランドと病院でのスポック博士です。
ぜひ、ぜひ観てください。私としてはめずらしく自信を持って万人に勧めます。
イングマル(1月3日)
furukawa@joy.ne.jp
http://www.joy.ne.jp/furukawa/
「マイ・ライフ」「マイ・フレンド・フォーエバー」「マイ・ルーム」に続く“マイ・シリーズ”なんて冗談のようなあざとい宣伝には、内心「ダメだ、こりゃ!」と思いました。
それに、難病に犯された少年が主人公というだけで退いてしまう人もきっと多いでしょう。しかも文部省のお墨付きとくれば尚更です。
確かに、ステレオタイプで底の浅い人物描写と先の読める無難な展開で「泣きなさい」と言わんばかりに安易に感情に訴えかける映画もありますが、シャロン・ストーン、ジーナ・ローランズ、ハリー・ディーン・スタンタンといった名優たちがそんなつまらない映画に出るはずがないと信じて観に行きました。
難病に苦しむ少年の姿を真っ向から捉えた感動作なら、映画館まで行って観たいとは思わないのですが、この作品は紛れもなくファンタジーでした。
難病に犯され明日をも知れない命の少年と、幼児期に受けた心の傷から学習障害に陥った巨体の少年がコンビを結成し、互いの欠けている部分を補い合い、中世の騎士道に倣って勇敢に悪を退治する冒険活劇と言ってもいいでしょう。何せ少年が語る冒険談ですから、多少話に尾ヒレが付いているかもしれませんが、そこはご愛敬、“勇者フリーク”の活躍がユーモアを交えながら痛快に描かれています。
この作品をファンタジーとして楽しめるのは、逆に現実がしっかりと描かれているからです。体と心の障害やイジメ、家庭の問題などにリアリティがあるからこそファンタジックな場面が最大限に生かされていると思います。二人の少年が社会から取り残された疎外感があるからこそ“勇者フリーク”の活躍が痛快なのです。
シャロン・ストーンがゴールデン・グローブ賞の助演女優賞にノミネートされ話題となっていますが、確かに40歳の彼女が年齢相応の役をしっかりと演じています。この映画での彼女は紛れもなく母親の顔をしています。
しかし、僕はむしろ二人の少年に主演男優賞をあげたいというのが本音です。巨体の学習障害児マックスを演じたエルデン・ヘンソンの演技は、演技であることを感じさせないくらいすばらしかったし、一方、難病に犯された少年ケビンを演じたキーラン・カルキンの演技も非の打ち所がないくらい巧いと思いました。
ハリー・ディーン・スタントンとジーナ・ローランズの老夫婦もすごくいい味を出しています。「X−ファイル」(観たことない)のジリアン・アンダーソンの好演も光ります。本当にキャスティングは言うことなしでした。 n残酷な現実とファンタジーが見事に調和した秀作だと思います。誰がどんな批判をしたとしても、僕はこの映画がたまらなく好きです。それだけに、作品の本質を無視した邦題がイメージを歪めているのが残念。ちなみに原題は"THE MIGHTY"(勇者)です。
PANCHAN world