ミ スティック・リバー




監督 クリント・イーストウッド 出演 ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコン


パンちゃん(★★★★★+★)(2004年1月14日)

映像がどのシーンをとっても非常に抑制が効いている。品があ る。
そして、その抑制の効いた映像の積み重ねによって、悲しみが静かに静かに積もっていく。
俳優人の演技も抑制が効いている。けっして大げさにならない。
クリント・イーストウッドの音楽も、音楽を主張せず、しかも音楽でありつづける。形にならない不安、こころのように、断片的に響き、その断片がずーっとつ ながりつづける。
主役の3人の運命のように、重なり、離れ、また重なることで、深い深い川のように流れる。ゆったり、ぶきみに、哀しく。
(音楽に★1個追加。)

結末の描き方に、イーストウッドの人間観察の深さを強く感じた。
3人の少年の1人はつらい過去によって苦しみ続けた。
そして、残された2人は、これからつらい時間を生き続ける。
遠い昔、2人(ショーン・ペンとケビン・ベーコン)は友達の1人(ティム・ロビンス)を救えなかった。3人のうちの2人(ショーン・ペンとケビン・ベーコ ン)は偶然被害者にならず、1人(ティム・ロビンス)は被害者になった。そして今、その被害者(ティム・ロビンス)はもう一度被害者になり、1人(ショー ン・ペン)は加害者になり、もう1人(ケビン・ベーコン)はその関係を察知しているが「証拠」を見出していない。また、その1人(ケビン・ベーコン)はも し事件の解決がもっと早ければティム・ロビンスが被害者にならずにすんだ、ショーン・ペンが加害者にならずにすんだことも知っている。
偶然が、何かのはずみが、人生を狂わせる。そして、それを人はどのように生きていけばいいのか、誰も知らない。どうすれば人生が狂わないのか、そのことを 知っている人間は誰もいない。
本当の哀しみとは、たぶん、そうしたことなのだろう。

映像――。
抑制が効いていると最初に書いた。抑制と同時に、非常に工夫された映像であるとも思った。
何度が木を、木の葉を、木の葉越しの空の映像が出て来る。たとえば、少年のティム・ロビンスが監禁場所から逃げるシーン。何を見ただろうか。彼が本当に見 たのは、木の葉と空だったのか。誰も自分をささえてくれなという不安、恐怖だったかもしれない。
それとは逆の映像がひとつある。(いくつかあるかもしれないが、私が思い出せるのはひとつだ。)
ショーン・ペンが娘が殺されたと知って取り乱す。警官に取り押さえられながら叫ぶ。天を仰いで叫ぶ。――このシーンだけが天からの視点である。
ショーン・ペンは叫びながら何を見たのか。何を見なかったのか。その叫びを、苦悩を見ていたのは誰なのか。
そして、そのときショーン・ペンに自分の哀しみが他人に理解されているという自覚があったかどうか。
彼には、たぶん、ない。
しかし、彼が天を仰いで絶叫するとき、その哀しみは多くの警官によって支えられている。共有されている――この点が、実は、ティム・ロビンスの場合とまっ たく違う。
そして、そのまったく違うと言うことをショーン・ペンはこのとき知らないのだ。
彼がそれを知らない、けれど多くの人がショーン・ペンが苦しんでいるということを瞬時のうちに理解、共有しているということを天からの視点で完璧に描いて みせる。
(このシーンが、この映画で一番美しい。)
一方、ケビン・ベーコンが見ているのは何か。
天を仰がない。天を見つめない。そして、天もケビン・ベーコンを見下ろしてとらえることはない。
彼が見ているのは、今、彼の目の見えるところにいる妻ではなく、見えない場所にいる妻――そして、その口元だ。ことばだ。
彼は、今、ここにいない人間が実は自分を支えている――そう想像して、その想像を頼りに自分を律している。生きている。ティム・ロビンス、ショーン・ペン の視点が垂直に動くのに対して、ケビン・ベーコンの視点は水平に動いている、といえるかもしれない。

また別の視点から……。
ティム・ロビンスの孤立、絶対的な孤独は、妻が彼の言動を信じないところにも描かれている。つらい過去、こころの苦悩を語っても、理解されない。逆に誤解 される。妻の不信をまねいてしまう。誰も彼を支えない。
監禁場所から逃れながら少年のティム・ロビンスは天を見つめた。木の葉、空を見つめた。絶対的な何かにすがろうとしたのかもしれない。
皮肉なことに(ショーン・ペンのことについて後で書くが、そのとき、「皮肉」の意味を補足できると思う)――彼の孤独、苦悩は、恐怖のためにティム・ロビ ンスを拒絶する妻によっていっそう深まる。
妻は恐怖ゆえにティム・ロビンスを疑う。そして、その疑いがティム・ロビンスを完全な孤独に陥れる。
誰ひとりティム・ロビンスを支えてくれないと感じてしまう。本当に恐怖を感じているのはティム・ロビンスなのに、誰もその恐怖について理解してくれないと いう絶望が彼を孤立させる。
一方、ショーン・ペンには犯罪者の仲間がいる。絶対的にショーン・ペンを支えようと思う妻がいる。
ショーン・ペンは娘が殺されたと知ったとき、天を仰いで絶叫した。その瞬間、彼とは直接関係のない警官が彼の絶叫を支えた。そしてそのあとは仲間が、妻が 彼を支える。彼のしていることが正しいかどうかではなく、彼が必要だから(彼なくしては生きていけないから)、彼を支え、彼を守るために動く。
ティム・ロビンスの妻が不正義に対する恐怖のために動いたのとは逆に、正義に目をそむけた人がショーン・ペンを支えている。ショーン・ペンを支えている人 間は、ショーン・ペンのしていることが正義であるかどうかではなく、自分たちと常に手を取り合っているかどうかなのである。
ショーン・ペン自身の行動規範も「連帯」である。
裏切る奴は許せない。行動するとき支えあわない人間は許せない――というのがショーン・ペンの役どころである。
他方、ケビン・ベーコンを支えているのは何だろうか。「正義」。人が行動するとき何を基準にすればいいか、そういことを少しずつ積み上げてきた結果として の「法律」。そういうものだろうか。
そうしたものを手がかりに、人の行動を調べていく。(犯罪捜査をしていく。)そうすると、そこに「正義」(何が間違っているか、誰が間違っているか)だけ ではとらえきれない人間の苦悩が浮かび上がってくる。哀しみが浮かび上がってくる。
犯罪捜査の結末には人間の苦悩、哀しみなど二次的なものである。しかし、その二次的なものが人間全てを結び付けているものだということが浮かび上がってく る。

また別の視点から……。
この映画では、ケビン・ベーコンが、なぜか私にはクリント・イーストウッドに見えた。
目の表情が似ているかもしれない。演技が似ているかもしれない。――ということとは以上に、たぶん上に書いたことと関係があるかもしれない。
ケビン・べーコンの役どころは、犯罪を捜査するというストーリーを演じながら、実は犯罪そのもの(犯人探し)ではなく、その犯罪が起きたときの人間の引き 起こす苦悩、哀しみの総体を浮かび上がらせることである。
犯人探しなど、どうでもいい。犯人が誰であろうとどうでもいい。
重要なのは、その犯罪が起きたとき、その周囲で起きる人間の感情である。
そういうものを浮かび上がらせるために、脇役に徹し続ける。ティム・ロビンスやショーン・ペンのように、顔で(表情で)演技をしない。目立たない。ティ ム・ロビンス、ショーン・ペン、その妻達の表情(感情)を浮き彫りにするために、あくまで引いた演技を続ける。
最初に音楽のことを書いた。
たぶんイーストウッドは音楽に対する本能的把握が鋭いのだと思う。
いくつかの音が重なり合い、ひとつながりの音楽になり、それぞれの楽器が独特の表情を持つことで、それが豊かになる。
そのとき自己主張するだけではなく、他の音を支えることに徹する音も必要なのだろう。そういうバランス感覚がイーストウッドにはあるのだろう。
思い返せば、あの『ダーティー・ハリー』のときでさえ、イーストウッドは相手役を引き立てるような演技をしていたような気がする。




はせ(2004年9月30日)
  三人の子供が、歩道の塗り立てのセメントにいたずら書きをする。それを見咎めた大人の男が、 車から降り立つ。運転席にも一人いる。三人は彼らを警官だ と思いこむが、そうではなく誘拐犯だった。一人デイブが連れ去られ、暴行されたのち、四日後に命からがら逃げ帰ってくる。
  この滑り出しが鮮やかで、映画全体の底流を形成することをしだいに鑑賞者は知る。被害者のデイブは心的外傷を深く刻み込まれ、のちのちの人生において も容易にその悪夢から逃れられない。のみならず、あとの二人ジミーとショーンにも影響を及ばさずには済まなかったようだ。だがそれらが描かれるのは暫く後 だ。
  映画は間髪を入れずに二五年後に飛ぶ。ジミー(ショーン・ペン)の娘、十九歳のケイティが公園で惨殺死体となって発見される。捜査にあたる刑事が ショーン(ケビン・ベーコン)。ジミーは犯人を独力で見つけだして復讐することを、秘かに誓う。またデイブ(ティム・ロビンス)はケイティが殺害された深 夜の同時刻に、手を血だらけにして帰宅した。果たしてデイブはケイティ殺しの犯人か……。

  事件の発端から解決までの捜査の流れがある。それにくわえて、成人し家庭を持った三人を中心とする人物群の心模様がある。デイブは子供時代の事件後、 凶暴性が自分のなかに根を下ろしたことに悩む。ジミーは逆に事件後みずから意志するように粗暴化した。足を洗ってコンビニを営んでいるものの、前科があ る。ショーンが警察勤めをおそらく志願したのも例の事件と無縁ではないように思える。またジミーとデイブの二人の妻やケイティのボーイフレンドなど、総じ て根底には善意が流れている。目の前の事態を打開したいとの思いは刹那的ではない。そのことについて思い悩む時間があり、悩むことを振り切るように行動に 移す。行動はそれぞれ個性的で、明らかに社会的に間違っていると見えても、映画は個々の善意に基づいていることを忘れずに描く。善意とは人のため、という ことを第一義に考えることだ。人のために人を愛憎する。あるいは人のためにみずからを律しようとする。
  そういう善意がほとんどの登場人物から醸し出されるところは、やはりフィクションらしいフィクション、映画らしい映画、だと思う。普通、私たちは生活 上、他人の善意を直接に知ることはできない。あくまでもみずからに向かう個々の他人の行動の結果を知るのみであり、受け入れるべきは受け入れる。排斥すべ きは排斥するが、後者に善意があったとしてもあえてそれを知る必要もないし、偶然知ったとしても時間差がある。また善意をあとで知ったとしても、私たちが 判断を覆すことはまれである。
  寄り道してしまったが、配役が善意に基づいていること、十分にこらえる時間を持つことを知るからこそ、俳優は思い切った芝居ができる、「誤解による行 動」も「憎しみ」も渾身の力で演じることができる。ショーン・ペンしかり、ティム・ロビンスしかりだ。
  心的外傷という問題を私たちはよくわからないのかもしれない。だが映画でたびたび取り上げられて、その行動パターンくらいはわかったつもりになってい る。ティム・ロビンスはついにそこから逃れられない。行動はその結果としてある。ショーン・ペンは逆にみずからに「心的外傷」の萌しが見えると、ある意味 卓抜した行動力でそれをねじ伏せてきた。そしていつも行動する身構えがあって、ケビン・ベーコンの同僚刑事に言わせれば「肩に力がはいっている」。娘の死 が引き金となる行動は、彼にとっては二回目、あるいは三回目の大仕事だ。そういう彼らの内面をある部分では深く知ったケビン・ベーコンは、遠巻きにしつつ も変わりない同情を寄せる。
  「誤解による渾身の行動」も心的外傷も、映画は何回も取り上げてきた。さらにこの映画はそれを丁寧に練り直し、たいへん洗練されたものに仕上げた。シ ナリオやカメラワーク等、環境を整えて俳優にいい芝居を望み、俳優も見事それに答えた。映画というかぎられた世界の奥で完成度を高めた。そこからは、残虐 な事件を扱っているにもかかわらず、すがすがしさを受け取ることができる。
  逆に言うと、深刻な社会的問題のあらたな切断面を提示したというたぐいの映画ではない。だから、この映画からは、現に起こりつつある類似した残虐な事 件の実相に戻ることはできない。そこが、すがすがしさはあるものの、空気が薄い気もする。採点は辛いが★★★★。