レ・ミゼラブル

監督 ビレ・アウグスト 主演 リーアム・ニーソン、ジェフリー・ラッシュ、ユマ・サーマン、クレア・デーンズ

そん(3月3日)
クレア・デーンズはコスチューム・プレイに出ることが多いけど、私にはミスマッチに思えます。ああいうシンプルな童顔は“アメリカの女子高生”を演じるのに不向きなのだろうか? 「ワイルド・シングス」の女子高生2人組を思い出して深く納得してしまった。 話自体はどってことないけど(イングマルさんの感想が全てです。手抜きでごめん。)、長い顔のジェフリー・ラッシュ(警官の制服が怖いくらい似合う!)の“ストーキング”は流石に迫力がありました。 冷酷、と評される役ですが、いやいやどうして、アツイ男じゃないですか!あれこそ歪んだ愛でしょう。あわれよのう・・・。 リーアム・ニースンがせいせいした!て感じの表情で去っていくラストシーンはジェフリー・ラッシュのことを思うと悲しいですね。
灘かもめ(2月21日)
seagull@d1.dion.ne.jp
パンちゃんのリメイクネタのおかげで、作品一部始終、ナナメから観てしまった(笑)。でも、「ジャベール・ストーカー説」は正しい!ということがわかりました!!
そう、彼はほんとうにストーカーなのです。
ジャベールは、しつこく、ほんっとうにしつっこくジャン・バルジャンを追っ掛けます。逃げれば追い、隠れれば手がかりを探り出し、寝ても覚めてもジャン命。
ラスト、「どうして、つまらない私なんかを追うのか」と聞くジャンに、
「おまえは、囚人だ」
「おまえがおれを出し抜いたからだ」
と、初めての愛の告白(?)をするのです。
彼が最後、自らを手錠にかけ自殺するのは、ジャンの言った
「おまえのことは憎んでいない、恨んでもいないし、
な ん の 感 情 も な い 」(←これがポイント!)
という、言葉に絶望したからなのです。
ジャベールの半生はジャンに捧げたようなもの(?)なのに、当のジャンにとっては ジャベール自身のことはどうでもいいのですから。
嗚呼、無情・・。
彼は、自分のムダに終わった人生を嘆きつつ、この世に別れを告げたのでした・・。
ははは、苦情は私に直接メールください(笑)。
しかし、「自由」について、ちょっとだけ考えさせられました。
傍目から見ると、ジャン・バルジャンの方がどう見ても「不自由」な境遇。
でも、本当はジャベールのように、「憎しみ」だけに捉われている生き方の方が、 はるかに「不自由」なのではないか、と。
(そう思うと、現代人は不幸のどん底なのかもしれませんね。欲しいものに振り回されてる日常のくりかえしですもんね。・・ハイ、自分のことです・笑)
パンちゃんが、コゼットの恋人がつまらない、と書かれてましたね。
たしかに。
でも、あれはあれでいいのです(笑)。
何故かというと、コゼット役がクレア・デインズだからなのです。
クレアは、今にもはじけて飛んでいきそうな眼差しで、世間を見ている。
パリという町を、革命の空気を、人々の生活を。
「思うままに生きたい」気持ちの方が、恋人に対する思いよりも 強く伝わってくるのです。
だからこのさい、オトコは目鼻さえついていれば(笑)いいのです。
これが、もしもナタリー・ポートマンだったり、キルスティン・ダンストだったり、 アンナ・パキン(若すぎる?)だったりするとそうはいかない。
情熱&フェロモンを備えた、若き革命家でなくてはならないのです。
コゼットが、ジャンの手から飛び立つわけを、クレアの眼差しだけで 納得させられてしまうのです。(彼が全然魅力的でなかった、とまでは思わないけど)
というわけで、とても採点などできません(笑)。
あまりにも、失礼な観方をしてしまいました。気を悪くなさった方、ごめんなさいです。
河井哲也(★★★★)(2月21日)
te-kawai@zc4.so-net.ne.jp
このストーリーは日本人にとっても非常になじみ深いものだったのだ、と人の話を聞いて思いました。ミュージカルでやっていたし、昔アニメにもなっていたそうで。
一般的に小説を読んでから映画を観ると失望するものなので、私はとにかく先に映画を観ようと思いました。幸いなことに昔小説で読んだストーリーは忘れていたので、そのドラマ性をも楽しむことができました。しかし、このお話にある一定の思い入れがある人には納得の行かない映画かもしれません。
最後まで違和感が解消しなかったのは、登場人物がフランス語でなく英語をしゃべっていたこと。しかしながら日本で上演される本作のミュージカルは日本語なわけだし、シェークスピアのように世界共通となったドラマは、その生まれた固有文化から遊離していかざるを得ないのでしょうか。
よかったのはこの長いドラマを2時間13分にコンパクトにまとめてかつ緊張感を持続させていること、そして何より、ジェフリー・ラッシュの偏執を宿した瞳でしょう。▲轡礇ぅ鵤で陽性の狂気の演技が記憶にあったのですが、今回もよかった。
パンちゃん(★★★)
アウグスト監督の『ペレ』にとても美しいシーンがあった。麦刈りをしている。その畑の上を雲がわたってゆく。雲の影がわたってゆく。それは偶然にそうなっただけのことなのかもしれないが、その偶然をしっかりと映像に定着させていることに、ほーっと溜め息をついたことを覚えている。
今度の映画では、そうした偶然の美しさ、というものがなかった。
あくまで真っ正面からストーリーを追って行く。てきぱきと細部を描いて行く。その映像はゆるぎなく、安心して見ることができる。
こうした大河小説風の映画の場合、一番大切なのは、主役ではなく脇役である。
この映画では、その脇役のキャストに失敗していると思う。コゼットの恋人になる青年のことである。迫力が足りない。燃えるような情熱が足りない。
そのためクライマックスが生きて来ない。恋愛が平穏な日常を壊して行くというスリルが、ふっと消えてしまう。ストーリーはそのように進むけれど、なぜか納得できない。
ストーリーがうねり、うねりのなかで人間の命が輝くというのが大河小説の魅力なのだけれど、そのかんじんのうねりがうねりにならずに、ストレートに展開してしまう。
このうねりというのは、『ペレ』の麦畑の雲の影のように偶然あらわれるものを取り入れることでしか表現できないものだと思う。
そうしたうねりを作り出す魅力をコゼットの恋人の青年は欠いていた。
猫(1月24日)
goronyan@d1.dion.ne.jp
イングマルさんの感想を読み、ホーっとため息をついてしまいました。確かに 1つ1つの批評についてなるほど・・・と思う点もありました。
が・・・スミマセン 私はもっと単純なので、ラストシーンにこだわりたいと思います。
この作品は試写会で観たのですが、タイトルバックが流れている最中に、後ろに座ってみえた、OLさんらしき2人組が、「なんでぇーなんであそこで助けないんだ!」とペチャペチャ・・・
別の日に観た私の知り合いも、ラストに納得が行かないということだったので、私なりの解釈を一つ。
ジェフリーラッシュが川に飛び込む前に言った、ひとことをジャンバルジャンは尊重したのだと思うのですが。
でもジェフリーラッシュはよかったです。
私は、彼の映画はシャインしか知らないのですが、シャインがもう1度観たくなりました。星3つかな?
イングマル(1月23日)
furukawa@joy.ne.jp
http://www.joy.ne.jp/furukawa/
「レ・ミゼラブル」が映画化されるという情報を得たとき、真っ先に「なぜ、今更?」という当然の疑問が頭を過ぎりました。しかしながら、この作品に対して密かな期待も持っていました。なぜなら監督が他ならぬビレ・アウグストだからです。彼は僕にとって特に思い入れの強い映画作家の一人なのです。
作品自体が素晴らしければ、上記のような疑問などたちどころに消えてしまうものです。アウグスト監督が疑問符をきれいに払拭していくれることを祈りつつ、昨年の東京国際映画祭で一足早くこの作品を鑑賞しました。
しかし、結果から言えば、作品を観終えて「なぜ?」という疑問が払拭されるどころかむしろ大きくなったというのが本音です。
まったく観る価値のないつまらぬ映画とは言いませんが、作品の製作意図がまったく見えてきませんでした。例えば、ケネス・ブラナーが古典中の古典「ハムレット」を敢えて6時間の大作として映画化することには意義が感じられるし、同じくシェークスピアの「ロミオとジュリエット」やディケンズの「大いなる遺産」を、舞台を現代に置き換えて新しい感覚で映像化することも、作品の良し悪しは別として、発想自体はユニークだと思います。
しかし、今なぜ「レ・ミゼラブル」をアメリカ資本で、2時間13分という中途半端な時間で、しかもビレ・アウグストを起用して、何ら目新しさのない作品として映画化したのか理解に苦しみます。
10年ほど前にアウグスト監督の「ペレ」を観たときは、徹底したリアリズムに大きな衝撃を受けました。「子供たちの城」とその続編にあたる「ツイスト&シャウト」も瑞々しい魅力あふれる作品でした。更にベルイマンの脚本を映像化した「愛の風景」では、繊細な人物描写と陰影に富んだ詩情あふれる映像にすっかり魅了されました。
アウグスト監督の演出にはあざとさが微塵も感じられません。奇をてらわずに1カット1カットを丁寧に撮る、そんな北欧の大地に根差した真摯な演出スタイルは、僕の映画の観方に大きな影響を与えました。
しかし南米を舞台にした「愛と精霊の家」には大いに落胆しました。ジェレミー・アイアンズ、メリル・ストリープ、グレン・クロース、ウィノナ・ライダー、アントニオ・バンデラスという超豪華キャストによる壮大な大河ドラマでしたが、アウグスト監督は敢えてストーリーテラーになろうとするあまり従来の持ち味が生かされていませんでした。ストーリー自体は確かによく練られていると思いますが、端正な映像へのこだわりが感じられず、また描き方が急ぎ足になりすぎて、あたかもズタズタにカットされたテレビの洋画劇場を観ているかのようでした。
「レ・ミゼラブル」もまた「愛と精霊の家」の二の舞を踏んだというのが率直な感想です。しかも原作が余りにも有名なだけに、余計に違和感を覚えました。
あれだけの長編小説を2時間13分で描くわけですから、当然のことながら展開がかなり急ぎ足になります。まず、ジャン・バルジャンが一切れのパンを盗んで投獄され19年間の獄中生活を終えるまでがすべて省略され、彼の仮釈放の場面から映画はスタートします。
冒頭で慈悲深い司教の心に触れた彼が次の場面では市長になっているという具合に、いかにもハリウッド映画という感じのかなりスピィーディーな展開になっています。パンを盗んだだけで19年も投獄されてしまうような不条理な社会背景が描かれていないし、司教の心に触れたことで人間性を取り戻したはずのジャン・バルジャンが、なぜ仮釈放のまま逃亡したのか、映画を観る限りではよく分かりません。冒頭から既にドラマのお膳立てが不十分なのです。
逃亡犯としての過去を封印し、市長を務めてきたジャン・バルジャンが自らの正体を明かす場面は、ドラマとして大きな見せ場であるはずですが、その行為に至るまでの彼の葛藤が十分に描かれていないので、甚だ唐突に感じられました。
そもそもジャン・バルジャンの獄中生活を描かなかったことが間違いだと思います(正確には、ほんの数秒間回想の場面があります)。彼の人格形成に大きな影響を与え、強靭な肉体を育てた強制労働の場面が省略されているために、彼のトラウマが伝わってこないし、馬車の事故現場で怪力を発揮する場面や、幼いコゼットを背負って城壁を越える場面に説得力がありません。
また、コゼットを酷使し虐待する宿屋の夫婦とその娘がほとんど描かれていないことにも物足りなさを感じました。
キャスティングに関しても、いかにもハリウッドのコマーシャリズムが反映していて胡散臭さを感じます。リーアム・ニーソンは、僕が描いていたジャン・バルジャンのイメージとはかけ離れていて違和感を拭えませんでした。薄幸の女性フォンテーヌを演じたユマ・サーマンも、その娘コゼットを演じたクレア・デーンズもどんなに熱演しても、正直言って場違いですよ。少なくても僕は、この二人には典型的なヤンキー娘というイメージを持っているので、彼女たちが演じたことで原作の香気が失われたと感じています。唯一、ジャン・バルジャン逮捕に執念を燃やす冷酷なジャベール警部を演じたジェフリー・ラッシュはなかなかハマリ役だったと思いますが・・・。
「ペレ」「愛の風景」でのアウグストとのコラボレーションで知られる名手イェルゲン・ペーションのカメラによる美しい映像も、ドラマの浅さによって魅力が半減しています。
今だからこそ、この「レ・ミゼラブル」という題材を、ビレ・アウグスト監督がフランスの役者を使い、もちろんフランス語で、それこそ5時間でも6時間でもかけて、完璧に映像化してほしかったというのが、作品を観終えた後の僕の率直な気持ちです。どうせハリウッドの論理で映画化するのなら、いっそのことミュージカルにした方がよかったんじゃないかな・・・?
ヨーロッパの才能あふれる監督がハリウッドでダメになるのを見るのは忍びないものです。心の中で「アウグスト、お前もか?」とスクリーンに向かって空しく問いかけていました。
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