リプリー


監督 アンソニー・ミンゲラ 出演 マット・デイモン、ジュード・ロウ、グウィネス・バルトロウ

こばきん(2002年2月12日)
マットの黄色い海パンにびっくりしました
ひろし(2001年1月21日)
この映画を『太陽がいっぱい』と同一線上で単純比較するのはどうかと思う。根本的にテーマが違うからだ。
主人公リプリーは「他人の人生が欲しい」のではない。「自分からの逃避」を願っているのだ。アンソニー・ミンゲラは、いかにも明るく軽薄なジュード・ロウを、卑屈で陰気なマット・デイモンに露呈することで、同時に嫌な自分自身をも彼に見せている。あざといといえばあざとすぎる手法だが、どんな小細工よりも直裁かつ切実に伝わる。
物真似やサインの偽造が得意、という設定は、リプリーの「実存の不確かさ」の象徴だろう。ジュード・ロウを殺したのも、「こいつの人生を手に入れてやる」という積極的なものではない。発作的、という言葉に尽きる。そしてそれこそが「実存の不確かさ」ゆえの行為だ。「ジュード・ロウになりたい」とわけではないのだから、サインの偽造を特訓するシーンなどは無用であり、最初の設定に阿るのがベストであろう。
この映画はクライムサスペンスの形をとってはいるが、根幹をなすものは非常に現代的なテーマだ。ラストシーンの「トムのどこがいい?」と自分を信じ、愛してくれたピーターに訊くシーン、そしてその後の行動――これによってリプリーは完全に自分を否定する。そして混迷の淵に落ちていく。私はこの映画は「一人の人間が自分自身を少しずつ無くしていく様を描いたもの」だと思っている。
余談になるが、『太陽がいっぱい』のラストシーンはやっぱり素晴らしい。あのラストがあるからこそ名作として残っているのだろう。
(2001年1月15日)
コンプレックスの塊の青年は、人まねが唯一の特技だった――。まずこの設定がいい。次々犯す過ちは『罪と罰』の金貸しの老婆殺害の場面を延々引き伸ばしているようなものだ。咄嗟に殺意を抱くボートの場面、きっかけとなる会話があまりに卑近なレベルなので、逆にリアルだった。彼の人生を手に入れるために彼を殺したのではなくて、これはただの痴情沙汰だと思う。これは殺すし、殺されても仕方がないなぁ、と。サスペンスにしては緩慢だし、古い時代とはいえ刑事の捜査も素朴に過ぎる。だが、リプリーが最後に愛する者として辿り着くピーターというホモセクシャル的な青年を殺害するにいたって、リプリーは実存を失い、ただ営利の為だけに人を殺してゆく荒涼とした現代人の象徴と化す。ここは素直にそう受け止めた。どうやって生きていけばいのか未だ分からない者にとっては胸を打つ仕上がりだと思う。クライマックス、「トムのどこがいい?」と聞き、その言葉を羅列される音だけの場面に、その哀しみが漂っている。パンちゃん様につっかかるわけではないけれど、”これはある意味ではホモセクシュアルの男は簡単に他人を殺してしまって、平然と生きている、という映画のようでもあり、問題があるかもしれないなあ”とは普通思わないでしょう(笑)。
もも(2001年1月11日)
http://www.wakwak.net/home/momokae/
あんまり好きじゃないです。 何がしたいんだ? という感じ。 同性愛についてにしても 他人になりかわるにしてももっと掘り下げる必要があるんじゃないかな? ま、なかなか なりかわれなくてスリルは味あわせてもらったけど。 さすがサスペンス(って予告では言ってる)。<★★>
とみい(2000年11月20日)
改めて考えてみると、すげえ豪華なキャスティングですね。
マット・デイモンの卑屈から尊大になっていく表情はなかなかのものだった。
「太陽がいっぱい」とは別の映画にできてるだけでもよしとしたい。
ただ、殺人をおかしてからの流れはやっぱり「犯罪をばらさないため」の 御都合主義になったきらいがあったなあ。
それにしても、この1年で何本でてるんだ、フィリップ・シーモア・ホフマン。
★★★

パンちゃん(★★)(2000年8月6日)
『太陽がいっぱい』のリメイクらしいが……。
主人公が他人の人生をほしがる気持ちが、『太陽がいっぱい』ほど切実に伝わってこない。
マット・デイモンはジュード・ロウの何が欲しかったのだろうか。
金をふんだんに使える人生???
どうも、金を自由に使える喜び、というのも伝わってこないなあ。
ジュード・ロウに侮辱されて、発作的に殺してしまい、取りかえしがつかなくなって次々に嘘を重ねる、犯罪を重ねるというだけの作品に見える。
細部がまったく描写されず、ただただ犯罪を積み重ねるための状況が次々にご都合主義的につらなる。普通は、事件を解決するために「ご都合主義」的なストーリーになるのだが、この映画はそれを逆にしただけ。こんなものを「新しさ」とはいえない。工夫とはいえない。
まあ、おもしろいというか奇妙なところは『太陽がいっぱい』では、かすかに暗示されたホモセクシュアルの問題が、この映画ではくっきりと描かれていることだろうか。
でも、これはある意味ではホモセクシュアルの男は簡単に他人を殺してしまって、平然と生きている、という映画のようでもあり、問題があるかもしれないなあ。
ストーリーを追うのに忙しく、人間描写を怠ったために、こうした印象が生まれるのだと思う。
マット・デイモンがイタリアに惹かれる気持ち、ジュード・ロウになりかわるための苦労(??--たとえば『太陽がいっぱい』のサインの偽造の練習)のようなものが描かれていれば、少しは印象が違ったかもしれない。
ジュード・ロウの金持ちの息子っぽい感覚と、その友人の、名前を思い出せないけれど、七変化役者はおもしろかったけれど、★3つは無理だなあ。
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