りんご

監督:サミラ・マフマルバフ 出演:マスメ・ナデリー、ザーラ・ナデリー(双子の姉妹)、ゴルバナリ・ナデリー(父)

関口 裕介(1999年9月17日)
fb951117@mita.cc.keio.ac.jp
http://www.mita.keio.ac.jp/~fb951117
この映画、とってもよかったですよ。中身についてはすでにみなさんが書かれているのでここで改めて言うまでもありませんが、その設定を聞いたとき想像したのからは程遠い、美しくてほのぼのした素晴らしい作品でした。一緒に遊んでいる女の子をたたいて、怒られてはりんごをあげるのを繰り返しているところなんかは思わず笑っちゃいました。でもこうやって人間関係ってものを学んでいくんだ、ってのがわかって、「なるほど」って感じでしたね。趣味・年齢を問わずすすめられる映画だと思います。星5つです。
パンちゃん(★★★★★)(4月18日)
この映画で私が一番驚いたのは、主人公の少女二人が靴墨(?)を使って壁に花を描いて遊ぶシーン。
一人が掌を白い壁にぺたりと押しつける。右側に広がった5本の指。(あーあ、壁を汚してしまって……、叱られるぞ、思ってしまう。)その掌の跡に別の一人が掌の向きを反対にして重ね合わせる。左側にも5本の指が広がる。その瞬間10本の指の形が、少女たちが水をやって育てていた小さな花の形にぱっと開く。
うわーっ、花だ、花が開いた、と叫んでしまいそうになる。
うーん、すごい。開いた掌と掌を逆向きに重ね合わせて花びらを描くというような独創的な試みはピカソだって思いつかない。(ピカソはそんな花を描いていない。)
しかも、この花を描く少女たちというのが、12年間もかたくなな父親のために家に幽閉され、外の世界を知らない少女なのだ。ことばもほとんど話せず、感情も十分に表現できるとはいえず、歩くことさえぎこちない少女たちなのだ。
すごい、本当にすごい。貧弱な現実・限られた素材(靴墨)から幻想の華麗な花を作り出してしまう想像力のダイナミックな力。これが『アラビアンナイト』を生んだ国の精神の底力なのかと思わずにはいられなかった。
*
この映画は12年間も家に幽閉された双子の少女が初めて外の世界、外の世界の人々と触れ合う過程を描いたドキュメンタリーともドラマともつかない不思議な作品だが、このスタイルにも、少女たちの「花描き遊び」のような力がみなぎっている。
登場人物はみな素人である。彼らは演じるということを訓練して知っているわけではない。しかし、どのような人間も現実を超えて何物かを見る力を持っている。現実の姿の奥に、また別の世界を見ている人間である。監督は、その現実を超えた何かを見ている力を鮮やかに解放する。そこからみずみずしい物語が始まる。
母親が盲目である、少女たちを十分に見てやることができないという不安から、少女たちを家に幽閉することしかできなかった父親からさえも、「少女は花、太陽(男)にさらされると枯れてしまう」というようなメルヘンを引き出してしまう。
父親がその幻想を語った瞬間、不思議なこともわかる。メルヘン、芸術の力、美を生み出す力が、現実の生活を整えるということが。もし父親が「少女は花、太陽にさらされると枯れてしまう」という幻想を知らなかったら、少女たちの悲劇は始まらなかったのだ。すべての悲劇はそこから始まっているといえるのだ。
幻想と現実は交互に作用しあい、生活を複雑にし、また豊かな感情を育てて行く。
この映画は、現実と幻想の相互の交流、相互の侵入こそが、イランというものであるということを語っているのかもしれない。
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幻の花を描くシーンのほかにもびっくりするシーンはいくつもある。
鏡の上に水を流し、そこに映る自分の姿を見る少女たち--それは、まるで水を浴びた少女自身の姿を見ているような感じがする。実際、少女たちは鏡を見ながら、水を浴びている幻の自分を見ているのかもしれない。
少女に石けり遊びを教えてくれる別の少女--彼女に対して一人の少女はぶつことでしか感情を表現できない。しかし、ぶたれた少女が不愉快な顔をするとすぐ謝り自分の持っているりんごを与えようとする。心の交流の方法をなんとか探し出そうとする。そのけなげな人間性の温かさ。
ラストの盲目の母親が、いたずら少年のりんごに手を伸ばし、りんごをつかむ瞬間。この映像も、母親が新しい世界に触れた瞬間を感じさせ、とても好ましい。ほほえましい。うれしくなる終わり方だった。
タカキ(★★★★)(2月25日)
TakakiMu@ma2.justnet.ne.jp
子供たちが圧倒的に美しい。私は非常に屈折した子供だったので、何か自分が恥ずかしくなって画面を正視できませんでした。そして、18歳の監督サミラ・マフマルバフの視線のなんと暖かいかいこと。器が大きい。最近は妙にひねくれた映画ばっかり観ていましたが、ここまで純粋な映画を見たのは久しぶり、いや、はじめてかも。どこまでがドキュメンタリ−で、どこまでがヤラセなのかちょっと判別がつかないけれど、そんなことはこの際どうでもいいのかもしれない。とにかく、この映画はきわめて映画的な始まり方から入ってきわめて映画的な終わり方をする。そこには何のヒネリもないのですが、それがまた、良い。「ここには、映画が生まれた頃の輝きがある!」とか(笑)、いい加減なことを書きたくなってしまうが、これはきっと、撮ってる人間の器の大きさなんだろうなぁ。ラストシ−ンのお母さんは今頃、ブツブツ文句言いつつも、娘たちと買い物にでも行っているのでしょうね。イラン映画はまだまだ目が離せません。この映画はみんなに観てほしいのだけれど、私の隣で観ていた高校生のグループが、途中で席を立ってしまったのは、残念。
河井 哲也(★★★★)(2月15日)
te-kawai@zc4.ne.jp
この映画は、父親によって家に閉じ込められたイスラムの少女の自由を求める戦いのストーリーではありません。偏執的ではあるが強い家族愛の物語です。
貧しく周囲の施しで生計を立てている父親は外出する時玄関に鍵をかけ家族を閉じ込めていますが、それは盲目の妻(最後まで顔を見せないところが徹底している)と何も知らない(11歳で言葉も話せない)いたいけな娘を周囲から守るためです。そんなことする必要ない、近所の人たちと福祉事務所の人たちは言いますが、彼と妻は真剣に家の外には外敵が満ちていると思っているのです。
しかしながら人間はやはり社会的動物、彼が如何に娘達を愛していようと現実に彼女らは言葉も話せない。周囲の介入で娘達は外に出され、アイスクリームをお金を出して買うことや、友達とコミュニケートする喜びを知ります。その感激を素直に表現しつつ、やはり父親への愛情を忘れないところがよかったですね。
ドキュメンタリーとしてカメラを回しているのか、映画を撮っているのか良く分からないのがイラン映画の特徴です。リアリティーの捉え方が違う、と思います。
さらに監督が18歳の女性というのも驚き。少女達の気持ちだけでなく、いろんな人たちの個性や立場や感情を描き分けているところが素晴らしい。
惜しむらくは、日本語字幕が英語字幕の翻訳そのままであったこと。言語から約していたらもっと違った表現が生まれていたかも。
それにしてもイスラムの人々はよくしゃべりますね。単におしゃべりでなく、彼らは真剣に主張しているわけですが。
石橋 尚平(2月4日)
shohei@m4.people.or.jp
http://www.people.or.jp/~gokko/index.htm
★★★★★
2/3付HPの日記『イランのりんご』(↑をクリック)にも書いたのですけれども(と宣伝しておきます)、この作品はまさにカンヌ映画祭で『ある視点』部門出品にふさわしい、未知の輝きに満ちた作品です。イラン映画の特徴は、1.素人の市井の人々や子供たちが素朴に出演し、自然な感情を露にする(予算の制約や当局の規制のせいもある)、2.ドキュメンタリーとドラマの境界線が曖昧である、との認識はすでに、映画好きを自認する人は誰でも持っていることから、また例のパターンかと思う人もいるかもしれません。この作品はどちらの特徴にも該当しています。最近、ジャルリ監督の『かさぶた』も東京で公開されていたし、イラン映画にちょっと飽きたという人もいるかも知れませんが、この作品は目を凝らして見ると、何か体験したことのない別種の力に揺れ動かされて作られた作品であることが分かるはずです。
驚くべきことに、監督は18歳の女性です。アッバース・キアロスタミ監督の『クローズ・アップ』はイラン映画界のもう一方の雄であるモフセン・マフマルバフ監督を騙る青年の話でしたが、そのマフマルバフ監督の実の娘である、サミラ・マフマルバフがこの作品で長編作品の監督としてデビューしたわけです。そしていきなり、カンヌを始め国際映画祭に招かれるほどの賞賛を受けたわけです。
この映画は、サミラがテレビのニュースで知った一つの事件に衝撃を受け、事件の当事者達に出演を依頼して、撮影したものです(例によって…)。何でも、父が準備を進めていた作品(当局の認可が下りるまで時間がかかる国なので…)のための機材を内緒で借りて撮影に入った。撮り始めの頃は、ドキュメンタリーになっていくのか、フィクションになっていくのか分かっていなかったそうです。脚本自体最初からなく、撮影しては毎晩ポイントを整理して父親のモフセンが大まかなアウトラインを立てていったということです。撮影期間はわずか11日間。最後にモフセンが編集を行い、このようなフィクションと現実が魅力的に交差するような作品ができあがったのです。
ストーリーは、12歳の娘を愛しく思う余り、学校にも行かせず、家から一歩も外に出さないで育てている両親を、隣人達が福祉事務所に告発した後の一騒動といったものなのですが、ここまでストーリーを要約すると、まだ観ていない人は、これは「女性を抑圧するイスラム社会を告発する映画だとか」、「人権問題に訴えた話だ」などと考えてしまう人もいるかもしれません。しかし、それはあまりにも思い込みが卑しく先走っています。この作品の娘の父親はガリガリのイスラム原理主義者ではないし、むしろ素朴ないい人であることは映像から伝わってきます。娘たちを強く愛しているし、その素朴な人間性は、顔だちや表情ばかりではなく、この人が歌うコーランにも表れている気さえします。一方、眼が不自由な母親はトルコ語で慢罵のつぶやきを続ける不気味さを漂わせていますが、閉じ込められていた二人の娘は実に屈託なく、無邪気なんですね。なんか人間というより、猿みたいな気もするんですけれども…。その屈託のなさがこの映画のすべてを語っている気がします。
つまらないハリウッド映画なら、善玉と悪玉が明示的に対峙して、『フェミニズム』やら『人権問題』やらに訴えて、我々に問題を提議してみせてしまうことでしょう。しかし、そのような下らない作品の退屈さの限界性を我々に悟らせてしまうかのような輝きに満ちているのがこの映画の素晴らしさなのです。私が観た日比谷シャンテの観客は90%がた女性客でしたけれども、皆さんは、この映画の素朴な深遠さを感覚で掴めたのではないでしょうか。
繰り返します。二人の娘は屈託がありません。家の中に閉じ込められていても、格子の門扉の隙間から手を伸ばして、花に水をやり、靴墨で壁に花の絵を描いていくことを楽しんでいます。『フェミニズム』や『人権問題』などというような観念的で狭い了見とは遠く隔たったところにこの映画の素晴らしさがあるのです。
娘たちと年の離れた父親は、かつて読んだ本の『女は花であり、男は太陽である』という言葉を金科玉条としているんですね。庭に入った球を取りに塀を乗り越えてやって来る少年たちを彼は恐れます。定職を持たず、周りの人から施しを受けているが、代りに神に祈っているのだとうそぶくのです。いい人ではあるのですが、彼は外部との本当の意味での接触を欠いています。その接触とは、実は『心のふれあい』というものでもなく、純粋で素朴な意味での経済活動であり、交易なのです。ソーシャル・ワーカーの干渉後、初めて外に出た二人の娘はアイスクリームと、りんごと、時計(この場面の結末は省略されていますが)を買います。交易活動が外部の世界との接触に欠かせないということを、11年間閉じ込められていたはずの彼女たちは、無邪気に理解しているのです。ここに人間の本性が屈託なく見事に描かれていることに我々は驚かされます。
『心のふれあい』という内部の閉鎖したところに留まる抽象的なものでなく、外部で他者と交易するという具体的な活動によって、この少女達が得たものの意味が素朴に描かれているのです。
毎度のことながら、事件の当事者が、そのままこの映画に出演し、フィクションとも現実ともつかない独特の世界を作るという、人を食ったような構成でいて、しかしながら、鋭い眼差しで現実の様相を切り取っているこの映画の素晴らしさを目の当たりにすると、改めてイラン映画の水準の高さを実感します。
監督のサミラ・マフマルバフはこう言っています。『「イランでは12歳にもなる少女たちが家から外に出て外の世界を見られないのか」とよく聞かれますし、「イランでは、たった18歳の娘がそういう人たちについての映画を撮れてしまうのか」ともよく聞かれます。私は、そのどちらあり得るのがイランなのだと思います』と。


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