ロゼッタ



(panchan猫嫌いなんですってね・・ゴメン)(2000年5月23日)
http://www.d1.dion.ne.jp/~goronyan
★★★★
公開最終日にやっと観に行けた。 本当はもっと早く押さえたかったのだが、先に観に行った友人達から「あ・・みなくていいよ」とか 「自分は倫理的に許せなかった」などと聞いてしまったので、少し足がひるんでいた。
ところが「映画の空」というMLから流れてくる感想は 「ロゼッタ」ばっかり・・・
「あのあとロゼッタは・・・?」とか「あのお母さんは・・・?」とかなんだかくすぐられるような内容の感想ばかりなのである。
悪いなら悪いで どこがどうなのか自分の目で確かめてこよう!
と劇場に駆けつけた。
ネタばれ少しあります
私はロゼッタの気持ちがすごくよくわかった。
どんなに生活が苦しくても、生活保護を受けたりなんかしない。 仕事さえあれば ちゃんとした生活ができる。ちゃんとした生活ができればお母さんをアル中から救うことだってできる・・
好き・嫌いはあるかもしれないけれど、彼女のそういう生き様が胸に突き刺さる。
同じ生活者として、同等の一人の人間として私はロゼッタが理解できた。
カメラは何度も何度も ロゼッタが長靴をひっぱりだすシーンを映す。トレーラーの中の何気ない生活場面。 管理人とのやりとり。
生活して行くということは、生きていくということは、綺麗ごとだけではすまされない。
彼女は 自分の力で(母親のように崩れることなく)生きていきたい・・ただそれだけなのだ。
倫理的に許せない・・とされている部分について、彼女がした行為は 確かにとんでもない行為かもしれないが逃げ出さず 社長と一緒に その現場に向き合っている。
許せないかもしれないけれど、彼のあの生活・・バンドを組んでいたりダンスをしたり ・・は、とんでもない贅沢な、彼女にとっては考えられない生活だったのだ・・・だからこそ 彼女は意思を持ってそれを実行した。自分の生活を築くために・・・・・・・
けれど すぐにわかる。 自分のした行為が 他の人の犠牲の上に成り立っているということを。
私は彼女のたくましいほどの生活力に 魅了された。
そして どこかで彼女に出会ったら 友達になれるよう、彼女の生き方にまけないような そんな生き方をしたいと思った。
Kaeru(2000年5月19日)
Panちゃんごぶさたしています。
99年度のカンヌの審査委員長のクローネンバーグは、今のフランス映画界やマスメディアに何か文句がいいたかったのでしょうねえ。
フランス人は同じフランス語圏でもベルギー人、カナダ人、スイス人を「洗練されていない」と馬鹿にしているところがあるので、「洗練」とは対極の作品にグランプリをあげたのだろうと思います。
ただブーイングする気持ちも良くわかります。
音楽のない手ぶれした映像はドキュメンタリー風です。
しかし、失業中でろくろく食事もとっていないはずのロゼッタはコロコロとはちきれんばかりにいい体格で、現実の失業者を見なれたフランス人にとっては「作り物」らしく思えたのでしょう。
少し時間がたった今は、ロゼッタの自分らしく生きようとする姿勢が心に残っています。
とみい(2000年4月20日)
tominco@pop11.odn.ne.jp
★★
カンヌでグランプリをとったとき、ブーイングが飛んだというが、私もそちらに回る。
まず、手持ちカメラがきちんと被写体を捕らえられてない。
同様に、あれほど気高い精神をもったロゼッタが、友を売るという罪を犯すに至る流れに、説得力をもつリズムが構築されていない。
売られる友達のほうの、売られた後の心理も、思わせぶりなのだが、結局、見えてこない。
よって、最後のカットは、彼が彼女を救ったということなのか、さらなる地獄を見せようとしているのか、そのどっちにもとれてしまう。
言葉を発すればいいというものではないが、シチュエーションに頼るあまりに、語らなさすぎて、失敗している作品。
タカキ改めキネ夫(★★★★★)(2000年4月13日)
kinetica@anet.ne.jp
http://www2.justnet.ne.jp/~takakimu
去年のカンヌでグランプリをさらった映画です。早速観てみました。全編が主人公に密着した手持ちカメラ一本で撮影されているので、結構カメラ酔いで吐きそうになるんですけど、こうやって帰宅してから反芻すればするほどに「うーん、いい映画だった」としみじみ思えるいい映画です。
あらゆる現実的な運動の反復が記録されていくこの映画にあって、唯一その力に抗おうとする場面があります。ヘタクソなバンドのテープに合わせて二人で踊ろうとする場面がそれです。この場面だけが唯一ロマンチックな少しだけ暖かい空気を生んでいて、とても印象に残ります。
不幸な家庭環境から来る切実な経済的欲求が唐突に出会う「それ以外のナニカ」。生きていく上では現実的にはその前者が常に優先されるのは当然のことで、後者の「ナニカ」は永遠にその付加価値であることからは逃れ得ないのかもしれません。しかし、一般的には「愛」などと呼ばれたりもするその「ナニカ」が、絶望の底にいる人間に手をさしのべて少しだけ上に這い上がることを助けることも、きっと、あるのです。そう、底なし沼に溺れかかっている青年に差し出されるあの一本の木の枝のように。
死すら決意してしまうラストのあの少女の強いまなざしは、はたして差し出された手を受けいれたのでしょうか?