ロザンナのために

監督 ポール・ウェイランド 主演 ジャン・レノ、マーセデス・ルール、ポリー・ウォーカー

パンちゃん(★★★)(1月22日)
墓地に残された空き地は3人分。愛する妻は病弱。彼女の願いは、亡くなった娘の隣に埋葬されること。その願いのために奔走する男の前に、次々にあらわれる死体と事件……。
このブラックな状況、あまりにも人間的すぎる状況がつくり出す笑い--これはアメリカ映画向きではありませんねえ。ヨーロッパ向きです。フランスなんかが最適だと思います。人間のわがままさが、そのまま他人を活性化させ、同時に状況を切り開いて行くというのは。
「愛」がからんでくるなら、なおさらですね。「愛」のだらしなさと寛容さ。この感じは、成熟したヨーロッパならではのもの。アメリカでは太刀打ちできません。何か人間に対する理解の基本が違うとしか思えない。(ウディ・アレンの『世界中がアイ・ラブ・ユー』は「愛」というより「恋」ですねえ。)
そんな事情(自覚?)もあって、舞台をイタリアに移したんでしょうかねえ。しかし、どうにも、心底わがままという感じがしてきませんねえ。わがままが「かわいい」というより、何か人間描写がスピーディーすぎて、本当に笑い転げるというわけにはいかない。非常によくできた作品なのだけれど、そのウエルメイドの部分がひっかかる。
たぶん肉体のもっているあいまいな部分が、どこかでそぎおとされているのだと思う。「どこ」とは指摘できないんだけれども。
へんな言い方になるけれど、アメリカ女優の肉体というのはシェイプアップされすぎていて、何かだらしなさが欠ける分だけ人間らしくない。
そこへゆくと(変な言い方かな?)私の大好きなナスターシャ・キンスキー(『キャット・ピープル』)を初め、ヨーロッパの人間の体というのはどこかだらしない。余裕がある。精神のわがままさが、肉体のわがままさになってあらわれている。「愛」というのは、結局、他人のわがままを許し、受け入れ、その結果自分がどんなふうにかわってもいい、と思うことなんだろうけど、その感じがアメリカ映画では伝わって来ない。「愛」というもの、「自分がかわってもいい」という自覚というのは、ほとんど本人には無自覚で、その無自覚さ加減が美しくて、おかしいところなのだが、アメリカ映画では伝わって来ない。ジャン・レノがいちずに演技していますが、どうも肝心の部分がカットされているような気がしてしょうがない。
スタッフも俳優も全員フランス人でリメイクしてもらいたい作品です。脚本に過不足がなく、おもしろいだけに、切実に、そう思ってしまった。