ルル・オン・ザ・ブリッジ


石橋 尚平(★☆)(1月3日)
shohei@m4.people.or.jp
しめしめ、これでP・オースターが馬脚を表した…これが私の正直な感想です。99年最初の劇場鑑賞映画が、もうワースト作品の大本命だなんて、もう嬉しく嬉しくて涙が出る。もうこれ以上、悪い作品なんてそうないでしょうから。 そもそも、私はP・オースターが嫌いでした。一度、作品を途中まで読んで放り出したことがあります。この人が原作で映画化された『スモーク』だって、評判が高い中、どこがいいのかよく分かりません。例えば、『スモーク』では煙草屋の主人のH・カイテルは毎日毎日ブルックリンの町並みを写真に撮っていて、妻に先立たれたスランプの作家(W・ハート)にアルバムを見せますよね。そして、W・ハートは妻が映っている写真をみつけてさめざめと泣く。こういう逸話がどうも好きではない。湿っぽいだけだし、あまりに見え透いているからですが。
私は昨年たまたまG・W・バプストの『パンドラの箱』という無声映画を衛星放送で観ました。戦前のドイツ映画なんですけれども、所謂Femme Fatale物なんですね。悪女が男の運命を翻弄させてしまう話。ルルはルイズ・ブルックスという女優のあだ名のことで、ちょっと昔のユマ・サーマンみたいなボブ・カット風の髪形で、妖艶な魅力をたたえています。タランティーノのトロフィー・ガールフレンドで、ハーバード大学出の才媛M・ソルビーノって、M・モンローの役もやっているでしょ。その映画が素晴らしかったので、『ルル・オン・ザ・ブリッジ』を今回とりあえず観に行ったんですね。
P・オースターが嫌だなと思う第一点は、この世間が変わっていく中、不易の価値観がある何かを浅薄な記号として使って、そちらの側に自分をつけて、安っぽい郷愁をかき立てる点ですね。『スモーク』ではブルックリンという街だったり、クリスマスの美談だったり。この映画では『パンドラの箱』(『雨に唄えば』も使われる)をはじめとする古い映画なんですね。肺を撃ち抜かれるジャズ演奏者なんて、ボリス・ヴィアン(『うたかたの日々』)の引用だし。 でも、戦前のドイツ映画である『パンドラの箱』なんて、もうある年齢以上の人のインテリがまとう一つの記号でしかいないわけでしょ。観たひとなんて、ほとんど数限られるし。観たとしても、『ルル』と言うのがその女優の呼び名だということに気づく人はそういないのに、それを映画のタイトルに用いる。ここからすでにちょっと見栄を張りたい読者と、作家の自己満足の密かな卑しい共謀が始まるわけですね。本当に虫酸が走る…。
次に嫌いな点は、安っぽいサイコ・セラピー的な知識を本当に浅薄に表出させようとしている点です。主人公の男女の行為の後のピロートークで、ソルビーノはカイテルに『あなたは、海? それとも河?』、『あなたはふくろう? それともハミング・バード?』というような、小さいころによくしたという言葉遊びを仕掛けます。世界的な大衆作家にあれこれ言うのも不遜だろうけれども、断言すると、この人自身、このお遊びが下手な下手な作家ゆえに面白くないのにも関わらず…。また、悪役たちがH・カイテルを軟禁し、秘石の在り処を吐かせようと、『羊たちの沈黙』のレクター博士よろしく、悪の教授は彼のトラウマを攻めます。これには蛍狩りの逸話が出てくるんですね。このあたりがもう見え透いていて、本当に鳥肌が立つ。もう、情けなくて情けなくて。
この映画を観たインテリ的な体裁だけをまとった人が、NYの付加価値をつけた、実は単なる湿っぽいだけの作家である、オースターの作品を、またその記号的な流儀にまとったやり方で、『あの暗闇の中で浮遊する秘石は、撃ち抜かれたH・カイテルの肺の隠喩だ』とか、『M・ソルビーノの役名セレアは、フランス語のS‘ily a(もしあるとすれば)とのひっかけだ』とか解釈しはじめるんでしょうね。それこそ、P・オースターの思いの壺。
馬鹿じゃねぇの?
しかも、この映画、映画としても下らないんですね。『パンドラの箱』のく引用もうまくできていないし(そうそう、やはりあれは単なるインテリの表層的な記号でしかなかったわけね…)。別に私はプロットがどうの、とか脚本がどうとか浅薄な指摘はしない。ゴダールだったら、プロットなんてその程度の話をもっと旨く膨らませて、もっと知的な引用を夥しく用いたりして、映画らしい映画を見せてくれるだろうけれども。大体、オースター程度の浅薄さじゃ、ゴダールにはなれないんだから、大衆作家らしく、謙虚に『クリスマスの美談』でも撮っていればいい。NYの『一杯のかけそば』あたりをね。ああ、映画もなめられたものですね。こんな浅薄さが、普遍的な映画の価値(『パンドラの箱』に加え、『雨に唄えば』、『大いなる幻影』、『縮みゆく男』の古いポスターが貼っていた)の側にすり寄ろうとするのだから。こういう浅薄さは、そもそも荒唐無稽さが魅力的なハリウッド映画を、しかめ面して『人間の尊厳』が描かれているなどと言わずにはいられない人たちの浅薄さに通底しているんですけれども。本人や信奉者はマス・マーケットを狙った作品にはない、深く知的なドラマだと思い込んでいるんだろうけれども、実はこの作品は、そういう映画のうちの最も下らない部類の映画と表裏一体なんですね。
同じNYの記号が付いているW・アレンにもこういうちょっと鼻につくところがあります。だけれども、彼はそんな湿っぽさに陥らない輝かしい才気も備えているし、第一そういうインテリの硬直さを笑い飛ばしてやろうという面があるでしょ。
例えば米国の南部の田舎に、共和党支持で、レーガンが大好きで、A・シュワルツネッガーの映画は欠かさず観ていて、B・スプリングスティーンのコンサートには昔よく行ったというような、絵に描いた典型的な大衆的な保守派層の人がいたとして、そういう人たちが好んで読んでいるようなS・キングの方が私は遥に知的だし、尊敬すべき作家なのだと思う。
イングマル(12月27日)
furukawa@joy.ne.jp
http://www.joy.ne.jp/furukawa/
「スモーク」の原作、脚本で映画ファンにもお馴染みの小説家ポール・オースターが脚本、監督を務め、しかもハーヴェイ・カイテル、ミラ・ソルヴィーノ、ウィレム・デフォー、ジーナ・ガーション、ヴァネッサ・レッドグレイヴ・・・と魅力的な役者たちが名を連ねているので大いに期待していたのですが、結論から言えば、映画としての面白さがまったく感じられない作品でした。もっと率直に言うと、救いようのない駄作だと僕は思いました。採点は迷わず「金返せ!」です。
嫌いな作品でも、普通は好きな場面が一つくらいはあるものだけど、この映画にはそれが一つもない。この作品からはオースターの監督としての才能のかけらも感じられません。
不慮の事故によって演奏ができなくなったサックス奏者と売れない女優のラブ・ストーリーなんですけど、この二人が出会うまでの経緯が余りにも強引すぎて、この時点で既に僕はドラマとしての興味をまったく失ってしまいました。ハーヴェイ・カイテル扮するミュージシャンが偶然、路上で発見した死体の傍らにあった鞄を持ち帰り、これが事の発端になるんですけど、まず、死体から鞄を持ち去るという行為自体がまったく理解できません。こんな脚本を書く人間の気が知れませんよ。
まあ、この映画は本格的なラブ・ストーリーと言うより、紛れもなくファンタジーですから、不思議な力に導かれて二人が出会うというコンセプトになっているのでしょうが、それにしても御都合主義もいいところです。二人が出会ってから恋に落ちるあたりの展開もまったく説得力がありません。魅力ある役者が演じているから、それで観客が納得するというものではないんですけどね・・・。
更に、二人が交わす愛の言葉が余りにも白々しくて、思わず「好きにしてよ!」と言いたくなります。もっと言わせてもらえば「イチャイチャするのがラブ・ストーリーじゃないんだよ!」
僕は、ファンタジーとリアリズムは表裏一体だと思っています。現実の部分がしっかりと描かれているからこそ幻想的な場面が生きてくるのです。映画で夢を見るのも悪くないけど、夢というのは現実の延長線上にあるものであって、この映画のように完全に宙に浮いたファンタジーなんてまったく魅力が感じられません。
話の全体像の輪郭がボヤけたまま、謎が謎のままで、しかもあんな陳腐なラストで強引に片付けてしまうなんて、ポール・オースターは映画というメディアをどう考えているのか疑いたくなります。
僕は「ルル・オン・ザ・ブリッジ」の良いところを一つも見付けられなかったけど、この作品を好きな方がいらっしゃいましたら、ぜひご意見を伺ってみたいものです。

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