サイモン・バーチ


猫(1999年8月12日)
goronyan@d1.dion.ne.jp
あることに こだわらなければ それなりに「いい映画」なんでしょう。
でも私は 映画の中の設定に ずいぶんとひっかかってしまった。
ここからは ネタばれになります。
かなり期待して観に行きました。
知り合いの方の中に 号泣した・・という方がみえたので・・・
でも猫は途中では全然泣けませんでした。
さすがに 最後近くでは 胸がどきどき
小さな子の為に バスに乗り込むところで グッときてベッドのシーンで泣き声がでそうになりましたが。
でも あまりにもつくられすぎた 不自然さを感じました。
たまたまうった ボールでお母さんが亡くなったりサイモンの両親が息子に対して あんな無関心な態度をとったり
猫もいちおう 親してるのであんな親がいるのは 逆に信じられません。
全く無関心だった牧師がジョーの「私生児といわれていてつらかった」告白を聞き 急に父親だと名乗ったり・・・
ジョーのつらさなんて ちょっと想像すればわかることだろうに。
設定にかなり無理がありつくられた感動を 感じたました。
そして何よりも サイモンを殺してしまう!「八日目」とおんなじ。
身障者を 特別な「天使」的存在にしたてあげてしまう逆差別を感じてしまいました。
身障者だって「普通」なんです。祭り上げないで欲しい。
猫が「八日目」や「サイモンバーチ」について こだわっているのはこれらの映画の中で身障者が「特別な存在」であるべき・・・という風に描かれているからです。
人間は それぞれ意味をもって 生まれてきている
それは 身障者じゃなくても そういう風に感じます。
とりたてて 身障者だけ「神の使い」とか「神が八日目につくった」とか・・・
まるで身障者は そういう 特別=有能な人間でいなければいけない=でないと うけいれられないかのように・・・・・・・
身障者を 「特別」な存在にしてしまう=そうでなければ 受け入れない社会を おかしいと感じるからです。
普通なんです。身障者も
だって 人間だれだって パーフェクトじゃないでしょ?というか そもそも何をもって 「フツウ」なのか・・・・
猫の周りにも サイモンを演じた子と 同じ病気をもっている 子達がいます。 彼らはあんな風に みんなから からかわれたり親から疎外されていない。
 だって みんなといっしょ。仲間だから。 「神の使い」というテーマが描きたかったなら「彼」を起用しなくても よかったと思います。
山田洋次監督の「学校V」にでてきた 黒田君演ずる 自閉症の子はありのままでした。
ありのままで 怒鳴られたり ほめられたり みんなに迷惑かけたり
でも ありのままの姿を受け入れる 地域ができていく・・・・
もちろん すべての人が彼を 受け入れるわけではないけれど少なくても サイモンのような立派な行動をとらなくても 「生きて」いくのです。
フツウの人々と同じように。
だって そうでしょ? みんな おんなじだもん。
だから ★★・・・
長文になり申し訳ありません。ぜひ パンちゃんも観て下さい。
まるこっち(1999年7月27日)
maruko@mx6.mesh.ne.jp
http://www2s.biglobe.ne.jp/~marchen/
『ガープの世界』の作者ジョン・アーヴィングの小説を映画化。
「人は必ず何かの役に立つように生まれてついている」をキーワードにした、ふたりの少年の友情の物語です。
サイモンの親友ジョーには、『マイ・フレンド・フォーエバー』で、 エイズの少年を演じたジョゼフ・マッゼロが演じ、ジム・キャリーがジョーが成長した姿でカメオ出演しています。
難病の少年といじめられっこの少年の友情を描いた『マイ・フレンド・メモリー』に似た作品という印象も受けますが、コンセプトは全く違います。
12歳にして96センチしか身長がない少年サイモン・バーチ。
まずこの作品の特徴は、彼を“病気”だと言わずに“奇跡”だと言っていること。
そして、彼の身体の小ささを最大限にプラス方向に捉え“小さいから出来ない”ではなく、“小さいからこそ出来る”あるいは“小さくなければ出来ない”というエピソードを盛り込んだ作品なのです。
人々から奇異の目で見られ、日曜学校の教師からも理不尽なイジメに遭いながらも、サイモン・バーチはめげません。
自分は“特別な人間”であり、自分はいつか神様から特別なプランを与えられると信じているからです。
人には誰にでも欠点はあります。
でも、それをプラスに変えられるかどうかはその人の考え方次第。
そんなことを教えてくれる作品です。
登場人物たちのユーモアセンスに溢れる会話や、心に響くセリフが印象的でした。
思いきり笑えて、泣ける作品。
観終わった時には、爽やかな感動が残ります。評価・・・・★★★★★