サイダーハウス・ルール


監督 ラッセ・ハルストレム 出演 トビー・マグワイア、シャリーズ・セロン、マイケル・ケイン

ガーゴイル(2001年2月7日)
 観る前から感動するつもりだったので、かなりの期待でふたを開けたのですが..率直な感想をいうと、いまいちでした。というのも、例えば当時の中絶や孤児院の疑問は、全然構わないんですよ。そういうものは、この映画をきっかけに、独自で学べばいいのですから。それよりも、ホーマーが孤児院を出たあと、キャンディといとも簡単に恋仲になったところが嫌でした。いやしくも自分を外の世界へ出してくれた人の妻ですよ。よく平気で裏切れるなあって思いましたよ。そこにはなんの葛藤も苦悩もなく、ただただ己の性欲に溺れる彼の体たらくに、正直、辟易しました。あれをもって、青春だのルールだのいうのは、ちょっと違うんではないかと僕は思います。おまけにその恩人は身体に障害を持たされるものの、ホーマーは主人公よろしく孤児院に無事帰還。う〜んって感じです。
 また、近親相姦の件もありましたが、これをさらりと流してしまうところにも、ちょっと不満が残りました。というのも、中絶や孤児院などは、すべて故(ゆえ)があってのことで、やはり時代性や法律みたいなものが大きいと思うんですよ。でも、こと近親相姦となると、これはもう普遍的な行動倫理の問題ですよ。それをやれルールがどうのこうのっていったってねえ..
 というわけで、ぼくは★★です。
もも(2001年1月11日)
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途中から母のような気持ちで見守ってしまいました。人生の岐路に立たされた青年(少年?)の迷いが素直に表されていたと思います。 なりゆきまかせではなく自分できめなきゃっていうの、痛いなぁ。つい、なりゆきを待ってしまいますもの。でも、そうですね。大切なところは自分で決めていきたい。 最後のセリフ、もちろん予想はできてたましたけど、胸に響いてきました。 愛です愛! 男女の恋愛よりこういう人間の愛の物語のほうが好きですねぇ。人を慈しむ気持ちがあったと思います。 何事も自分で決めよう! というルールがテーマなんでしょうかね。
とみい(2000年8月4日)
サイダーハウスルールの、s.hayashiさんの 感想についての素朴な疑問。
>ホーマー自身が子供達に、無免許の医師であることを、
>黙っているように暗黙の圧力をかけていることに気が付かない、
>おバカちゃんなのが、受け入れ難いのです。
この視点は、?でした。
共犯者にしようとしているのは、むしろ孤児院の側。
子供たちにしたって、圧力をかけている立場だ。
そこからホーマーは逃れようとしたものの、結局、共犯者になることを 受け入れたわけじゃないですか。
堕胎がタブーで、親公認の仲であったのなら、 子供できたら結婚するのが普通じゃないか、 というのも、短絡的な発想のような気がするなあ。
作品中の世界で、建前的にであっても、 婚前交渉がタブーになってるのかどうかもわかんないんだし。
もっとも、 s.hayashiさんのように、評価しない立場の人が、 この作品を語ろうとすること自体に、 映画としての力を感じるから、感想を述べ合うことは面白いのだと 思います。
(たとえば、私はライフイズビューティフルは、ぜんぜん評価しない。 けどなぜ評価しないかについては、 語りたい。MI2なんかは、語る気がしない。前者はやっぱり、 映画としての力がある、ということでしょう)。
Colles(2000年8月3日)
☆☆☆
正直なところをいってしまうと、なぜこの映画の題名がサイダーハウスルールなのかよくわからなった。
そうだなあ、いろんなルールがあの映画のなかでは交錯しているみたい。社会的なおきてと、それをやぶってしまう人々と。主人公の身の上と、それに安々とのらない彼自身と。
そんなことよりも、私は、主人公の人生に触れられたことがうれしかったかな。主人公は、再び孤児院に戻ってきた時、微笑んでいた。あの微笑みの裏にある様々なできこと、そして彼の人間的な成長が、私を、ほっとさせてくれる。
運命におしつぶされそうだった彼が、運命と握手したような安堵感が私を涙させた。
s.hayashi(2000年7月27日)
言葉遣いに品位がなかったことをお詫びします。
「 1940年代のしかも地方では、未婚の母など許されなかったのだと思います。」
だからこそ、親も公認の仲のようですので、そのまま結婚するのが、両親にとっても若い二人にとっても自然な成り行きのように思えました。
アメリカ人にとって堕胎は日本人以上に宗教的に許されないことなので、そういう場合は、多少の世間の非難は受けても、まず結婚を考えるのではないかと、私は思っていました。
当地の風習が分からないので、考えても仕方ないのかも知れませんが、堕胎を選び、結婚を選ばなかった理由が見えませんでした。
余談ですが、21jump street というアメリカの1980年代のテレビドラマに笑い話的ですが、高校生が同級生と関係を持ちそうになったところを、娘の父親に見られ
「今日からお父さんと呼び給え」
と翌日、結婚式を挙げさせた話がありました。
ケンイチ(2000年7月26日)
つまらなかった映画やわからなかった映画については、どこがつまらなかったのか、どこがわからなかったのかについて考えるのですが、心にまっすぐに入ってきて言葉を介さずに感動してしまった映画については、それだけで満足してしまいどこがよかったのかの分析を怠りがちです。
この映画は後者に当たります。
好きなシーン、印象的なシーンが多すぎて、どこがどうと言えなくなってしまいます。
観ているときに「あ、いいな」と思ってそのまま心に残っているのは、誰かが里親にもらわれていった晩、看護婦が残った子供たちに、もらわれていった子を祝福しましょうと言うときの言葉。「彼(彼女)は家族を見つけた」。もらわれたのではなく、見失っていたものを彼(彼女)は見つけたんだという言葉。そこで「found」という単語を使うのが、あの看護婦だからなのか、英語では一般にそう言うのかは知りませんが、やさしさに満ちた言い方だと思いました。
とても感動したのに考えがまとまらないとき、こういうところで色々な意見を読むことで、改めて自分の考えがまとまってきます。自分の感じたことが形になります。それは同意見からでもあるのですが、反対の意見の方がより刺激になります。
と言うことで今回は、s.hayashiさんの疑問を読んで、自分はそれらをどう感じていたかが形になったので、それらについての私の考え・感じたことを述べさせてもらいます。
それにしても、「ホーマーも、キャンディとやりまくって」とか「H好きのキャンディが」という表現にやや感情的に反応してしまったことで、自分がいかにこの映画を気に入ってるかを再認識しました。
>親も公認の仲なのに、なんで2ヶ月で堕胎しちゃうの。
1940年代のしかも地方では、未婚の母など許されなかったのだと思います。
>ホーマーも、キャンディとやりまくって、もし妊娠したらなんてなにも考えてないのと違う?
望まれない妊娠を防ぐべきという「医師」としての考えと、自分の恋愛感情/性欲を抑えられない現実とのギャップに対する苦悩は少し描かれてもよかったかとも思いますが、初めての外の世界での初めての恋の情熱を示すシーンと受け止めました。
>いつも薄ら笑いを浮かべてるのは演技力が足りないせい?
あのホーマー(トビー・マグアイア)の表情には賛否両論あるようですが、あの張り付いたようなぎこちない笑顔に私は、孤児院育ちの哀しさのようなものをみました。日陰で生まれ、愛されてはいたが日陰で育ってきた者が、社会と折り合ってゆくために自然に身に付いてしまった、笑顔。人に気に入られるためでもあり、こちらの感情を隠すための仮面でもある、笑顔。深読みでしょうか?
>ローズも、娘を傷物にしたくないといいつつ、あのままほっといたら、後ろ指さされる娘になっちゃうんじゃないの。
ローズとしても、どうすればよいのかわからない状態だったのだと思います。ほっておくのがベストだとの考えではなく、罪悪感もあり、自分たちのことについて他人に干渉されたくないという気持ちがとにかく強かったのだろうと思います。
>孤児院とはいえ、とても慈しまれてるのに、なぜ養子になりたがるの。
いくら実の親子のように、あるいは実の親子以上に愛されて育ったのだとしても、そこは仮の場所であり、いつまでもいるべき場所ではないと感じているのではないでしょうか。
>ホーマーの養子失敗談はなんの為に描いたの。
彼が社会から疎外された存在であることを強調するためだと思います。2度までも返されたことで、彼はあそこで育つことに決められたのだと。そのことが結果的に、彼をあの場所では欠かすことの出来ない大きな存在とならしめることにつながるわけで、いわば彼の運命を決定づけた一つの要素として描かれたのではないでしょうか。
>院長と2人の看護婦の関係はなんなの。
看護婦のうちの1人とは「大人の関係」であったようですが、基本的に医師と看護婦であり、一つ屋根の下で暮らす「家族」の父と母であり、それ以外に他意はないと思います。
>毎晩エーテルの力を借りなければ寝られない先生の苦労って何。
猫さんが書かれたように、口では「必要なこと」と行為を正当化していますが、心の中は罪悪感でいっぱいでなのではないでしょうか。子供たちや妊婦たちをこれ以上どうしてやることもできない無力感や、そりのあわない理事会との軋轢もあるのかもしれません。立場上、ストレスは絶えなかったのではないでしょうか。
>ホーマーを結局は、孤児院でしか生きられない人に育てるのが彼の生き甲斐?
ホーマーを出したがらなかったのは、自慢の「息子」を手放したくない、「父」のわがままだったのだと思います。いつかは離れなければならないとはわかっているけれども、いざその時が突然にやってきてとまどう「父」の心境なのだろうと。何とか呼び戻そうとするのは、厳しい労働環境の中に置いておきたくないという「親心」もあるでしょうが、有能な後継者として自分の跡を継いでほしいという願いからではないでしょうか。いくら腕のいい、専門教育を受けた「本物」の医師が派遣されようとも、ここで育ち、十分な腕を持ったホーマーこそが最も適任であるとの信念からだと思います。
>ホーマー自身が子供達に、無免許の医師であることを、黙っているように暗黙の圧力をかけていることに気が付かない、おバカちゃんなのが、受け入れ難いのです。
暗黙の圧力をかけているようには見えませんでした。子供たちにとっては、あそこで働く医師の免許の有無など関心ないと思います。
脇役について。猫さんの「キーラン・カルキンが光っていた」という意見にも賛成ですが、私は孤児院の最年長の気の強い女の子も気に入りました。最初、「医師」であるホーマーに挑発するように舌を出して体調を診てもらうところ(でもどうやらホーマーは彼女の恋心に全く気付いておらず、ただ医師としての診断を下すのみ)。ホーマーが出ていくときの、見送りに出てこられないところ。ホーマーが帰ってきたときの、あわてて鏡で身繕いして小走りに駆けていくところ(その間に他の子供たちにすっかり取り囲まれて近寄れない)。とてもかわいらしかったです。
猫さんの、あれが父子相姦である必要はあったのか、については、ホーマーが堕胎の必要性について見つめ直すきっかけとして、自分の生き方=ルールを決める契機となる事件として、ただの妊娠では弱かった、どうしても堕胎しなければならない状況として必要だった、と思います。ローズ親子の関係については確かに描き込みが物足りない部分もありますが、してはいけないこととわかっていても押しとどめることの出来ない、人の心の弱さを悲痛に描き出していて、秀逸だったと思います。
なんだか書いてるうちにヒートアップしってほめっぱなしになってしまいました。肯定的にしか解釈してないというか…。自分が思ってた以上に、自分はこの映画を気に入っていたようです。★★★★★です。
s.hayashi(2000年7月25日)
ホーマー自身が子供達に、無免許の医師であることを、黙っているように暗黙の圧力をかけていることに気が付かない、おバカちゃんなのが、受け入れ難いのです。
それはトビーマグアイアの貧弱な演技のせいかもしれません。
(彼が医大はおろか、高校も行ってないことは、共に育った子らは知っている筈だし、彼とて違法行為で捕まることがあってもとの覚悟はあると思いますが、今日明日に捕まるとは考えてもないでしょう?)
無免許の医師の行う違法行為を非難しているつもりはありませんでした。
とみい(2000年7月23日)
サイダーハウスルールについてもう一つ思ってるのが、 偽医者という行為を許せるかどうか、というより、 「堕胎を宗教的に許せない」人がこの映画を許せるのかどうか、 その意見を聞いてみたい、ということ。
誰か、いませんかねえ。
パンちゃん(2000年7月18日)
(この下にあるhayashiさんのコメントを先に読んで下さい。)
hayashiさんが疑問として書いている「偽医師」の問題は判断が難しいと思う。
法律的にはもちろんいけないことだ。そして、そうした違法を違法と指摘することはとても大事なことであると思う。
しかし、その一方、それは仕方のないことだったのだ、という思いが私にはある。
青年の違法行為を許容することができる唯一の理由は、子供を産むことができない人がいる、という現実だ。また、生んでも育てることができない人がいるという現実だ。
そういう人たちをどのように救うか。方法はいろいろあるのだろうけれど、誰もが法律的に、あるいは倫理的に「正しい」行いをできるとは限らない。
「孤児院がある」ということが、そうした苦しい現実の証拠でもあると思う。
主人公の青年は体験を通して、その現実を知っている。生まれても、親から引き離されて生きるしかない子供、あるいは産むことができず堕胎するしかない人がいる。
その人たちにとって何ができるか。
違法であることを知っていても、青年には、それしか方法がなかった。方法が別にあればいいけれど、彼には見付けることができなかった。
また、その孤児院は、出産、堕胎の手術をしているだけではなく、子供たちを育てている。
育ててくれる人を必要としている子供たちがいる。そうした子供たちを見捨ててはおけない、ということも強い理由になっていると思う。
青年は、医師や看護婦たちによって育てられて来た。今、自分自身が成長して、今まで愛をそそいでくれた人にどんなお返しができるか。自分が受け取った愛と同じようなものを、子供たちにそそぐことではないのか。
青年はそう判断したのだと思う。
その行為は、無免許の医師という違法行為であっても、彼にはやるだけの価値があると判断したのだと思う。
発覚すればもちろん彼は処罰を受けるだろう。そうしたことを覚悟して、それでもなおかつ、そうすることを決意したのだと思う。
この決意に対して、「それでもあなたは間違っている」と青年に言うだけの気持ちには、私はなれない。
特に、最後の「おやすみ、ニューイングランドの王子たち」というあいさつを聞き、そのことばを子供たちが大事な宝物を隠すように、くすくすと笑いながら受け止めるのを見た後では。
私が思ったのは、以上のようなことです。
s.hayashi(2000年7月18日)
> hayashiさん、こんばんは。パンちゃんです。
> 『サイダーハウス・ルール』の採点ありがとうございました。
> 養子にゆきたがるのは、やはり両親の愛というものを感じたいからではないでしょうか。
そう思います。
ただホーマーが2度養子先から戻される逸話があったので。
これは彼だけの特別な出来事でなく 孤児院では、そういうことがままあって、当然子供達の間では 養子に貰われても、戻ってくる場合もあるのだと、了解されてる のでは、ないかなと思いました。
だから、小さな男の子が「僕がここで一番いい子だから貰って」と 哀願するのは、幼いから無心に家庭に憧れてるともとれるけど 院長や看護婦さんや、子供達の間で、「一番いい子じゃなければ 貰い手が無い」という価値観が、存在するのかなと思い、悲しかったです。
それから、ローズローズが、サイダーハウスルールの「字が読めないから」と 言うせりふだけで、ルールの無意味さは充分伝わっていると思うのです。
わざわざ、ホーマーが読んで剥がして焼いてしまうのは、執拗に思えました。
また、呼吸障害の男の子が亡くなったときの「養子に行った」嘘を共有するのと ホーマーの医師免許が偽物であることを、共有するのは質が違うのでは ないでしょうか。
前者は、慰めだけど、後者は共犯を皆に強要しています。
最後に、H好きのキャンディが、下半身不随のフィアンセと 一生過ごすことになりそうなのが、この映画の 語る最大の悲劇に見えてしまい、私には疑問の多い作品となりました。
映画採点簿は、皆様のそれぞれの見方がわかり、面白いです。
昨日月食を見ました。満月が欠けていき、真っ暗になると思いきや 暗い茶色の球体が、夜空に浮かび、初めて宇宙空間を 身近に意識しました。
また、満ち出すと、光の当たる部分が明るすぎて 月の本当の姿を隠してしまう。
これは、他のことにも当てはまると思いました。
とみい(2000年8月18日)
裕也さんって、たしか高校生ですよね。
この映画、私も10代でみたら、ぴんとこなかったかもしれない。
掲示板でベルイマンが話題になってたけど、中学生ごろ初めてみたときはぜんぜんよさがわかんなくて、25くらいで「秋のソナタ」みて頭殴られた気分になったことがあります。
それを見た歳、置かれた立場によって、見方は変わる。
だから、いろんな人の評を読むことは勉強になる。
なんとなく思ったことを、書いてみました。
裕也(2000年7月17日)
うーん。
一つ一つのエピソードを細かく見ていくと小粒の感動の集合体になってしまう、だが全体を見て何か掴めるものがあるかと言うとどうも見えてこない.前半は幸福が続き、後半は不幸が続く、その状況の中で、主人公たちは自分の態度、人格を崩すことなく生きていく、自分たちで作るルールてこういうこと?
流れが示唆するものがわかんない。全体的に演出が淡白すぎるせいかなあ。僕は全然泣けなかった。
星は2つ
s.hayashi(2000年7月14日)

全然わからない。
マイライフアズアドッグやギルバートグレイプは大好きですが。
親も公認の仲なのに、なんで2ヶ月で堕胎しちゃうの。
ホーマーも、キャンディとやりまくって、もし妊娠したらなんてなにも考えてないのと違う?
いつも薄ら笑いを浮かべてるのは演技力が足りないせい?
ローズも、娘を傷物にしたくないといいつつ、あのままほっといたら、後ろ指さされる娘になっちゃうんじゃないの。
孤児院とはいえ、とても慈しまれてるのに、なぜ養子になりたがるの。
ホーマーの養子失敗談はなんの為に描いたの。
院長と2人の看護婦の関係はなんなの。
毎晩エーテルの力を借りなければ寝られない先生の苦労って何。
ホーマーを結局は、孤児院でしか生きられない人に育てるのが彼の生き甲斐?
私には理解不能の映画でした。
とみい(2000年7月10日)
body: しばらく椅子から、立ちあがれませんでした。
ルールというのは、いろんなことをスムーズにするために、ほんとうは、みんなが幸せになることを目的として、形づくられるものでしょう。
でも、人はいつしかそれに、縛られてしまう。
「ルールなんて手段に過ぎない」と常々思ってる、私だってその鎖から逃れられていない。
果樹園の宿泊所に貼ってあったルールを主人公が最後まで読んだとき、そして、それを火にくべたときから、私は打ちのめされました。
パンちゃんが「言葉が情報しか伝えなくなった」と日記に書いていらっしゃいましたが、単なる情報の伝達ではない「嘘」という言葉のもつ悲しさと強さを、痛感しました。
この映画は苦いけれど、ハッピーエンド。
それでも、しばらく慟哭してしまいました。
★★★★★。
(2000年7月9日)
http://www.d1.dion.ne.jp/~goronyan
思春期・・・青年期から大人へ〜 誰もが通るあの瑞々しいとき〜 これは大人へと脱皮して行く一人の青年の物語である。
映像・音楽ともに良かった・・ あのりんご園の情景は 懐かしく・・とても穏やかな気持ちにさせてくれた。
  ネタばれです。
まず一言。 キーラン・カルキンが光っていた。 先生でもないホーマーでもない・・いわば孤児No.2ともいうべき彼の存在は、出番は少なかったけれど確かに光っていた。
  シャリーズ・セロンも少し控えた演技でキャンディを好演していたと思う。
マイケル・ケインのうまさはいうまでもないけれど、あの ”ちょっぴり彼女” の看護婦さんも良かったな♪
ケインが 麻酔薬(エーテル)をかきながら眠るシーンが何度も出てきた。
あれは・・・・自分では ”堕胎は正当なことだ” といいながらも、命を消してしまう罪悪感がつきまとっていたからだろう・・・
Bestな事など ありはしないし、わからない・・・・だから Betterなことを選択するしかない。
それでも 心は傷ついていく・・・
堕胎について・・もしかしたら それを行わせた男と女よりも・・それを”悪”として手を貸さなかったホーマーよりも ケイン(先生)は傷ついていた・・・・・・
先生の気持ちはわかるよね・・普通の父と子の葛藤に似てる。
そして カゴの中から飛び立とうとするホーマーの気持ちもわかるよね・・
これは何も 特別な話じゃない。
誰にでもある 思春期の話なんだ。 誰にでもある 初恋の話なんだ。
あんな風にしかならなかった キャンディとの初恋もみんな経験あるんじゃないだろうか?
そんな懐かしい気持ちで観ていた。
でもひとつ疑問が・・・・
あの父子相姦の逸話は必要だったの? 妊娠の相手は父親じゃなくても良かったんじゃないの?
困ったことに私は あの父親ローズが憎めないのだ。 彼が言った”娘を愛してるんだ” っていう切なる気持ちも理解できてしまったのだ・・
彼と娘のそういう関係に関しては描ききれていないから、逸話を挿入すべきではなかったと思う。
父親ローズのいった「自分の仕事を知ってるか」というセリフは 心に残った。 メジャーな意味でもマイナーな意味でも。
この「あのりんご園での規則」という題名を 私はとても気に入っている。
映画の中で いろいろな「規則」が破られた。
寝タバコ・堕胎・卒業証書の偽造・オチのレントゲン写真にまつわる話etc・・・規則は誰のタメにあるの? なんのためにあるの? 規則を守る事だけが正しい事? 破ったらいけない事?
自分の人生は 自分で考え自分で選びなさい。 ルールは自分が決めるんだよ。
★★★☆
パンちゃん(★★★★+ハンカチ1枚)(2000年7月8日)
これはとても不思議な映画だ。私が今まで見た中で、もっとも不思議な映画だと思う。どう感想を書いていいのか、よくわからない。書いているうちに何かがわかってくると信じて書くしかない。
何が不思議かといって、この映画のなかで起きている出来事はストーリーとてして、とてもありそうには思えない。ありそうに思えないのに描写がまるでこれ以外のことはあり得ないというふうに、描かれている。そしてその描写のひとつひとつが切なくこころにしみる。
この映画のなかでは、いくつかの嘘が語られる。共有される。
その嘘の瞬間の一つ一つがとても悲しい。優しさに満ちあふれている。
例えばある日、喘息の孤児の一人が死んでしまう。院長とリーダー格の少年とが墓をほって、埋葬する。
「他の子供たちに聞かれたら、あのこは里親にもらわれていったのだ、と答えよう」と誓い合う。
その答えに納得する子供はたぶんいない。わかっていても、そう言おうと誓い合う。聞いた子供たちは、それが嘘であることは、わかっている。嘘だとわかった上で、その嘘を信じる。この切なさ、健気な感じがとても美しい。
もちろん、そうした姿勢を批判することはできる。どんなときにも真実を語り、真実と直面し、生きていくことが必要だと……。
だが、嘘だって真実を語れるのだ。子供たちは、今語られたことが嘘であるということを知っているのだ。真実は今語られたことばの外にあることは知っている。
そして何よりも、その嘘が自分たちを思うやさしさから語られたものであることを知っている。
その嘘を語るしかない人間の悲しみと苦しみと怒りを知っている。真実が悲しく、苦しく、どうしようもないものであることを知っている。
それが根本的な解決にならないとわかっていても、そうやって生きるしかない。
世の中には色々なルールがある。そのルールは、たとえば「サイダーハウス・ルール」のように、他人が決めたもの、今、ここで生きている人間が決めたものではないものもある。それは、自分たちが生きるために作ったルールではない。
それはそれで何らかの意味がある時もあるだろう。
しかし、それよりも自分たちで自分の生き方のルールをつくる。それを守って生きる。そうしたことが人間にとって大切なのだと思う。
喘息の子供が死んだ時、「里親にもらわれていった」と語ることを誓ったが、それも「ルール」のだ。
それは大きな悲しみで子供たちを悲しませないためのルールだったのだ。
主人公の少年を見守る院長(マイケル・ケイン)は、他にも、自分の作った多くのルールで生きている。社会からは認められないルールに従って生きている。
社会が与えるルールが、孤児院で生きている子供たちにとってふさわしくないと思うから。また、そうしなければ生きて行けない人間がいるから。
少年はそのルールに反発を持っているが、ある日、そうしたルールが必要であることに気がつく。
ルールは、今、ここで生きている人間が、もっと生きる可能性を広げるのにふさわしい形であるべきなのだと気がつく。
そして、院長の残したルールを引き継ぐ。
ラストシーンの「おやすみ、ウェールズの王子たち、ニューイングランドの王たち」ということばは涙なしでは聞くことができない。
どんな境遇にあろうと、一人一人が王子であり、王である、というのが、この映画が静かに語りかけている「ルール」だと思った。