セレブリティ


監督 ウディ・アレン 主演 ケネス・ブラナー、ジュディ・デイヴィス、ウィノナ・ライダー、レオナルド・ディカプリオ、ジョー・マンテーニャ

司(★★★)(気持ち的にはもう半分★つけたい)(1999年9月23日)
rie3721@air.linkclub.ne.jp
 ウディ・アレンが出演していれば、という意見がいくつもあったようですが、きっと、ウディは冴えない中年男の役をやるには『自分は年をとり過ぎた』と考えたんじゃないかな…。単純にそう思います。(実際は本人ではないので、違うかもしれませんが)さて、前置きは放っといて、と…。
 あまり、宣伝は観ないで劇場に行く方なので話は全然知りませんでした。が、始めのほうで「おおっ! 主人公はみじめ&ジュディデイビスはシアワセという結末だなっ」と察知。映画を見るときって、次に何が起こるのしらん?とわくわくしながら見るものだと思うのですが、始めの方でぴぴっと来てしまったのです。これは、面白くないのでは…。
 ―と思いきや、気がつくと手をたたいて笑っていました。『分かっているのに面白い』ていうのはどうしてなんでしょうか?これは、ウディがベテランだってことなんでしょうか。ジュディが結婚式の当日にそこを飛び出しちゃった時は、思いっきりハラハラしていました。
 あと、隣に座っていたおねえちゃん2人組も、この映画を盛り上げてくれたというべきかも知れません。そのうちの1人はじつは成田離婚したばっかり。上映前、アレンの映画よろしく『男と女の話』で2人は盛り上がっていました。で、映画が終わった時、「あの、ジュディデイビスの再婚相手、完全無欠でむっちゃうさん臭すぎるわ〜。あんな式場飛び出して、本当に何もなかったんやろか?」だって…。ああ、オチつけてくれるわ〜。さすがナニワの女や〜。と感心したことしきり…。
 何が自分に一番大切かを見極めなかったばっかりに、『オンナ』も『成功』も失ってしまったみじめーな主人公(しかも、もう若くない!)の姿は、なんだか身にしみるものがありました。でも、何が一番大切かなんて、なかなか分からないもんだけどなー。
タカキ(★★★★☆)(1999年8月16日)
TakakiMu@ma2.justnet.ne.jp
http://www2.justnet.ne.jp/~takakimu/WELCOME.htm
今回は痛い話でしたね。
ウッディ・アレン自身ではなくケネス・ブラナーに主役を演じさせることで、ここ数年のアレンの映画に特徴的だった自虐性を薄められているようです。ケネス・ブラナーがいくらアレン風の演技をしているとはいえ、ブラナーはアレンからすれば他人であり、そこに幾ばくかの批評性が生まれ、いつもはアレンに感情移入してしまう私のような観客もまた、少し距離を置いた冷ややかな視線を持ってしまいました。もちろんそれは監督の意図したことであったのだろうと思います。久しぶりのモノクロフィルムもまた、そのことに一役買っているようでした。
(以下はいわゆる「ネタバレ」文章です・・・)
主人公は小説家を目指すダメなライター。彼はその志の高さ(?)から妻と別れることを決心するが、セレブリティ達に翻弄されるうちに自らのベクトルを失い、本懐である小説家を目指す努力すらも、うやむやになっていく。一方、それとは対照的に、ジュディ・デイヴィス演ずる主人公の元妻は、セレブリティ達との関わり合いから、自らの生きる道を見つけ出してゆく。ここで呈示された2つの人生を、どうもアレンは「運命」という言葉で決しようとしているようだ。前作『地球は女で回っている』では、ダメ人間のダメ人生を現実逃避的に「脱構築」する事で無理矢理ハッピーエンド(本当はハッピーでもなんでもないのに)に持って行っていたアレンだが、今回は元妻の成功と比較対照させることによって、ダメな主人公をダメなまま徹底的に突き落とす。
アレンに何があったのかは知らないが、今回はめずらしく現実逃避せずに、リアルな結末を目指したわけだ。
そのためにはアレンが演じたのではどうも胡散臭くなってしまう。この映画を作り上げるには、ケネス・ブラナーの抜擢による批評性の導入が必要不可欠だったのだと思う。
ラストで、カネと、女と、さらには小説をも失ってしまった主人公が、セレブリティ達の集う試写会で、スクリーンにベートーベンの「運命」とともに浮かび上がる HELP の文字を見る瞬間。あの瞬間はあまりにも痛切ですが、ああいった瞬間を求めて、私も映画を観続けているのかもしれません・・。
などと神妙な気分に浸って、ふと、我に返ると、ケネス・ブラナーと全く同じ状態で一人、映画を観ている自分に気がつきました。
・・これは痛い・・・・。
パンちゃん(★★)(1999年8月15日)
ウディ・アレン版『甘い生活』という触れ込みですが……。
この映画、ウディ・アレンが出演していれば、まだおもしろかったかもしれないが、ケネス・ブラナーではちょっと重たい。
ディカプーとの4人でセックスしようとするシーンなんか、ケネス・ブラナーだと、見ていておかしくもなんともないうえに、おいおい、本当はそういうことが好きなんじゃないのか、と言いたくなってしまうから困ってしまう。ここは絶対、ウディ・アレン自身が出演し、ディカプーに翻弄されるべきだったなあ。
ケネス・ブラナーのウディ・アレンの物真似は、見事ではあるけれど、それだけ。ウディ・アレンの持っている肉体のひ弱さ、貧弱さのおかしみがない。貧弱な肉体と、神経質ではなるけれどノーテンキな自己主張の組み合わせがおかしいのであって、舞台で鍛えたケネス・ブラナーの肉体は、そうしたものから程遠い。
ウィノナ・ライダーの曲者ブリを引き出している点はおもしろかったけれど、あとは人間描写(というか、俳優の素顔暴きというか)がいささか平板。
ジュディ・デイヴィスなど、最後はつまらない。彼女はやっぱりヒステリーを演じてこそ輝く。ヒステリーが全部顔と体に出てこそ、とても美しい。なんだかキラキラする。
白黒の画面も効果がなかった。灰色の階調が貧弱なのだと思う。
この白黒の貧弱さを見ながら、急に『羅生門』の宮川一夫のカメラを思い出してしまった。森の中から見上げた太陽の美しさ、梢の葉っぱの1枚1枚が違う緑に見えて来るような美しさ……。
まあ、表現しようとしている世界が、それとは違うから比較してはいけないのだが。
しかし、似たところでいえば、フェリーニの『甘い生活』と比較しても、この映画の灰色は数が少なすぎる感じがする。