セントラル・ステーション

監督:ヴァルテル・サレス、出演:フェルナンダ・モンテネグロ、ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ

みさきたまゑ(★★★★)(1999年7月4日)
misaki@ceres.dti.ne.jp
http://www.ceres.dti.ne.jp/~misaki
  
南米の乾いた風土をバスに揺られて旅をするというだけで見てよかったなあ、と思え る映画でした。
猫(4月5日)
goronyan@d1.dion.ne.jp
★★★★です。
パンちゃんのすてきな感想の後にかくのは 少し気恥ずかしいです。
このHPだけでなく、ほかでもいろんな方の感想を読むと、「ヤな奴」おばさんが、少年と旅することによって 「真人間」になっていく。
みたいに書かれている事が多いんですが、私は、最初から このおばさん そんなに嫌いじゃありませんでした。
すごく生きることへのたくましさを持っていて、そりゃあ ヒトに頼まれた手紙を読み返し、話のネタにし、しかもやぶってしまう。ってこと、いいことじゃあないんだけど、こ憎たらしいけど、なんとなく嫌いになれない。
それはどうしてかというと、人間そんなに善人ばかりじゃない、イイヒトばかりが生きてるわけじゃない、こんなおばさんの方が とても人間らしくて、しかもあのブラジルで 自分の足でしっかり生きてるんです。から。
で 真人間になったということではなく、少年と出会って、少年とすごすうちに 自分の中の父親に対する気持ちの殻が割れたんだと・・・
はじめは少年の 父親に対する信頼・憧れがドーラにとって、眩しいものであると同時に、許せなかったんだと思います。そんな風に 自分を捨てた父親に思いを抱ける、ということが。
でも だんだんその許せなかった気持ちが とけていく・・・・
それは、やっぱり少年のひたむきな気持ちがドーラの気持ちを動かしたんだけど。それは 真人間になっていくということじゃなくって、自分のなかの 父親に対するわだかまりが、とけていったということなんです。自分も少年のように素直に 父親を思いたかった。 もう父親を憎まなくてもいいんだ。そしてそういう風に思えるようにしてくれた少年に感謝すると同時に、人を愛する心を取り戻した・・・・
わたしはドーラをこんな風に解釈しました。
それにも増して、代筆を頼みに来る一人一人の人生・顔が、すごくそれぞれ光っていて、良かったです。
わたしもあんな手紙を書けるような人生を過ごしたいと思いました。
パンちゃん(★★★★)(3月21日)
セントラルステーションの雑踏を歩く主人公(おばさん)をとらえる映像が美しい。雑踏に汚れずに、また雑踏になじむこともなくさっさと歩く。ほう、とため息が出る。人がひしめく都会で生き抜くとはこういうことか、と納得せざるを得ない。「生き馬の目を射抜く」ということばがあるが、たぶんこうした感じのことをさすのだと思う。他人の手紙を代筆しながら、その手紙を平気で捨ててしまう。その非情さの感じが、雑踏を歩くおばさんの映像そのものにくっきりと浮かび上がる。
このおばさんが、少年と父親探しの旅に出てから変わって行く。雑踏に汚れず、なじまず、一人孤立を守っていた人間が、一人の少年と同じ時間を生きるにしたがって、人を拒絶して自分を守るという力を失って行く。カメラも人込みのなかで焦点を当てた雑踏での撮り方と違って、風景まるごととらえてしまう。常に風景にも焦点が当てられる。おばさんが風景・荒野のなかに埋没してしまう。
そのうちに「生き馬の目を射抜く」ようなおばさんが、人恋しくなって、行きずりのトラックの運転手にモーションをかけ、振られるというようなことも起きる。雑踏から荒野のなかに迷い込み、おばさんは自分自身を失ってしまったのだ。カメラの焦点は目標を失ってふらふらする。そのふらふらのまま、荒野をかけてゆく。雑踏を歩くとき、おばさんは目的地(自分の帰る家)がくっきり見えていたのに、今は自分がどこにいるのかわからない。目的地の地名は知っているが、その目的地と自分の距離がわからずただ疾走する。
そこからどうやって再び明確な焦点を取り戻すか。
その力になるのが、孤児という不安定な少年というところがおもしろい。おばさんは少年の行動(万引き、口紅についての言及、代筆屋の再開)を通して、自分の欲望を知り始める。だんだん自分を取り戻すからこそ、自分の望みをかなえられず落ち込んで行く少年の心がわかるようになる。人の心(少年の心)がわかりはじめてから、おばさんの姿形がくっきりしてくる。風景にふりまわされることがなくなる。スクリーンの焦点になって、きりっと全体を引き締める。表情から目が離せなくなってしまう。だんだん好きになってしまう。
カメラと表情が緊密にからみあっていて、とてもすばらしい。女優の演技もいいが、カメラもとてもいいのだと思う。
*
この映画では、カメラと女優の表情の一体感と同時に、ことばというものにも色々考えさせられた。
人はことばで生きているのだとあらためて思った。代筆屋のおばさんを相手に語ることばもそうだが、ラスト近くの父親の手紙もいい。
おばさんは、少年や彼の兄たちが字を読めないことを知っていて、書いてあることも書いてないことも読み上げる。少年は書いてないことが読まれていることを知る。それが嘘だということがわかる。わかるけれども、それを信じる。そこには、少年を愛しているというおばさんの思いがこめられている。その愛情に嘘はない。その愛情は少年が求めている父親の愛情と同じもの、あるいはそれ以上のものであることがわかるからだ。
泣かせますねえ……。少年はおばさんに、「あれは嘘だろう。書いてなかっただろう」と問い詰める。それは単純な問い詰めではない。「おばさんが僕のために嘘を言ってくれたんだね、ありがとう」というかわりの詰問なのだ。
嘘とそれに対する詰問--この瞬間、二人は互いに少しずつ傷つき、その心は血を流す。けれど、血が流れることによって一層深く心が結びつく。血の温かさ、あふれる血のなかに残る鼓動の力づよさによって。
思いは、ことばにしなければ形にならないのだと、あらためて思った。ことばとともに血は流れるけれど、血がながれてこそことばなのだと思った。
ダグラス・タガミ(3月10日)
書き忘れていたので、追加します。
それは、売店から物を盗んで、逃げる少年がいたのですが、 警備員にあっさり射殺されるところです。これは、結構、衝撃でした。
映画の中では、日常風景の一つとして描かれている感じがしました。
ハリウッド映画では絶対にないでしょう。
その国の情勢で日本では起りえない多くのことが多々あると思いますが、 向こうは、生きるために多分数百円のものを盗んで殺されたり、孤児を 臓器売買の品物として扱う国。
こちらは、少年というだけで、人を殺してもまともに罰せられない、 少年が大手を振って無法を行える国。
映画の本題からは、離れていますが私にとっては重要な場面でした。
ダグラス・タガミ(3月8日)
セントラル・ステーションを見ました。
少年とおばさんのロードムービーです。どことなく、旧「グロリア」を 思い出させます。(新「グロリア」は、シャローン・ストーン)
このおばさん、ひねくれ者というか、性格が悪い。でも、小心で、 悪い人ではないらしい。代書の仕事をしていて、お客さんだった 少年の母親が事故死して、ひょんな事から、面倒をみます。
そして、少年の最後の肉親の父親をさがすはめに。
しかし、どうも最後まで、感情移入できなかった。
最後には、いい人になるのだけれど。予定調和が過ぎる感じがして。
泣きませんでした。素直に感動できない私の方が性格悪いのですかねぇ。
その方が情けなくて涙が出てきます。
イングマル(2月20日)
furukawa@joy.ne.jp
http://www.joy.ne.jp/furukawa/
Eメールを使った恋愛映画が公開される一方で、手紙という昔ながらのコミュニケーション手段をうまく生かした映画が、単館上映ながら人気を集めているのは実に興味深いことです。正に手紙に始まり手紙に終わる映画でした。しかも、余り馴染みのないブラジル映画というところがまた面白い。
映画の冒頭で、主人公ドーラに手紙の代筆を託す人々の表情の豊かさにまず魅了されます。歯切れのよい編集も実に効果的でした。
日本人にとっては、ちょうど地球の裏側にあたるブラジルは、我々の常識は到底通じない異質な社会であることが映画の前半で浮き彫りにされます。代筆屋という商売が成り立ってしまうほど文盲率が高く、人間の命が信じられないほど軽々しく扱われている非情な社会が、この映画の舞台となっているのです。
僕にとって、この映画の魅力の一つは全篇を貫く乾いた感覚です。前半で描かれるリオのセントラル・ステーションが、病めるブラジルを象徴する空間としての役割を果たし、後半の舞台となる広大な大地が登場人物の心の渇きを視覚的に描写しています。
血のつながりのないオバサンと少年が成り行きで共に旅をするという設定とスクリーンに流れる乾いた空気は、カサヴェテスの名作「グロリア」を彷彿とさせますね。しかも、少年が肉親を失った悲しみを瞳に湛えていることも共通しています。このシュチュエーションだけでも大いに惹かれてしまいます。
代筆屋のドーラは、客からお金を取っておきながら、内容の気に入らないものは投函せずに捨ててしまうなど、かなりデタラメな商売をしていました。しかも「手紙が届いてない」と苦情が来れば、ブラジルの劣悪な郵便事情を言い訳にしてしまうという子悪人ぶりを発揮します。この性悪女と小生意気なガキが一緒に旅をするわけですから、反目し合うことは言うまでもありません。まあ、反目というのはロード・ムービーには不可欠な要素ですね。でも、旅が進むにつれて、次第に二人が愛すべき人物に思えてくるあたりが、この映画が高い評価を得ている所以だと思います。
僕がこの映画で特に好きなのは、教会の祭でドーラが巡礼者たちの手紙を代筆する場面です。デタラメな商売をしてきたドーラが巡礼者たちの美しい心に触れることで良心に目覚め、またジョズエ少年との絆を深める場面でもあります。この場面があるからこそラスト・シーンが生きてくるのです。
それまで手紙を粗末に扱い人々の心を踏みにじってきたドーラが、手紙に込められた誠意に触れ、少年との別れを惜しんで自分の言葉で便箋を埋めるラスト・シーンでは、乾いた空気の中で閉じていた涙腺が一気に緩んでしまったのでした・・・。二人はもう会う必然性がないし、会うこともないだろう。しかも時が経てば、少年はドーラを忘れるかもしれない。そう思うと余計切なさが込み上げます。
絵に描いたようなハッピーエンドじゃないけど、ラスト・シーンの先のドラマが観たい、そんな深い余韻の残る作品でした。
石橋 尚平(★★★☆)(2月6日)
shohei@m4.people.or.jp
http://www.people.or.jp/~gokko/index.htm
所謂、ロード・ムービー。ブラジルの辺鄙な地方を舞台にしているのがいい。監督はドキュメンタリーの人らしいのだけれども、確かにそういうタッチだなと、後で思った。
私が子供の頃観たアニメでは、同じシリーズ物でも『ハイジ』や『フランダースの犬』よりも、個人的に『母を訪ねて三千里』が好きだったのだが、それは主人公の少年が旅する、南米の地理や風景が詳細に調べられた上に丹念に描かれていたからだ。その劇場映画版が春休みに公開されるが、あれはよくできた南米ロード・ムービーだと思うのだけれども…。
それはさておき、この作品、主人公の音羽信子に似た主人公の中年女性ドーラがいい。元教師のドーラはリオデジャネイロ中央駅で手紙の代筆屋で生計を立てているのだけれども、ひょんなことから、母親を交通事故で失った少年ジョズエの面倒を見る破目になる。別居していた少年の父の元へ、連れていく旅にでるわけだけれども、この少年がどうも可愛くない。いや、本当は可愛いのだけれども可愛くないという物語の常套ではなくて、私は本当に可愛くないガキだと思ってしまった。だから、どうも感情移入できない。私ならこのガキを途中で放っておくね、間違いなく。ドーラだって、最初はこの子をフォスター・ペアレンツ斡旋業者に託そうとするし(実は臓器の売人)、バスの運転手に金をやって男の子の家に連れていくように頼む。なんでこんなことに自分が振り回されなければならないのかと思っているのだ。このガキ、時にませたことを言ったりするのだけれども、変に意地を張って言うこと聞かないし、いろいろと大人のように物事を分かっているくせに、自分に都合のいい時に突然子供に戻ったりもする。拗ね方も相手の本当の気持ちをわざと確かめるように嫌らしく拗ねてみたりもするから、私は嫌いなのだ。登場人物の性格設定がちょっと悪いんではないかな? 自然な設定とは私は思えない。靴磨きをしていて、1500人のオーディションで選ばれたこの子役は悪くないと思うのだけれども。 途中でこの2人は、トラックの運転手で巡回牧師をしている、いかにもいい人タイプである男のトラックに同乗する。ここで流行りの疑似家族してみせても良かったのだけれども、途中でドーラがこの敬虔な男を誘惑しようとして、置き去りにされてしまう。この当たりの一筋縄でいかないところがこの作品の面白さ。ジョズエは将来トラックの運転手になりたいという。会いたいと願う実の父親は何でも自分で作る器用な大工だ。疑似家族ははまっていたのだけれども…。
ドーラが元教師で代筆屋を営んでいるという職業の設定も面白い。彼女も臓器斡旋業者と同じで媒介業者なのだ。セントラル・ステーション構内でお客が来るのをずっと待っている。お客は手紙の内容を喜怒哀楽の感情を露に彼女に告げる。それを彼女は便箋に速記するのだが、彼女は後でその手紙を検閲して、出したり出さなかったり…インチキな商売なのだ。その媒介業者が、実際に子供のデリバリーを行い、その子供はトラック運転手に憧れているというのは、なかなかよくできた設定だ。実はドーラの亡き父も運転手だったのだ。運転手は物や人を運ぶ。少年はそれに憧れる。
その映画の背景にあるのは識字率の低い社会。その貧しさが悪いというのではなく、その社会が映画のいい味になっている。都会のリオデジャネイロでさえ、野蛮で(万引きした男を自警団?(警察?)が追いかけて銃殺したり、臓器売人が暗躍したり、到着する電車に席を確保したい若者が窓から飛び乗ったりする)、地方では土着的なキリスト教聖フランシスコ会の祭礼が異教の儀式のように拝火と祈りの声が人込みに混じり合い、バスのチケット売り場の男が自嘲気味に言うような地の果てに、画一的な一階建ての建物がズラっと並んでいたりする。この異化作用が効いているんだな、この映画。ありふれたごく普通の映画なんだけれども、ちょっとしたところに、そういう一筋縄でいかないところがいっぱいあって、単なるお涙頂戴的な普通の話とは一線を画している。


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